ベリンダ・デ・エレロ=サステレ
天真爛漫、という表現がよく似合う娘だった。
ベリンダ・デ・エレロ=サステレはメルカド男爵家の末娘である。
だが彼女の前半生は波乱に満ちていた。
彼女は4歳の時、母親ともども出先の街で行方不明になった。父の男爵がなけなしの資産を投入して人を雇い、必死で捜索したが、その行方は杳として知れなかった。
誰もが彼女とその母親は死んだものと考え、諦めきれない男爵さえ泣く泣くそれを受け入れようとしていたその時、彼女が見つかったとの一報がもたらされた。隣国、ガリオン王国南部の港町で、非合法の奴隷を扱う商人が摘発された際、そこに“商品”として売られていたのだ。
行方不明から8年、彼女はすでに12歳になっていた。
身元が判明したのは彼女が自分の本来の名前を憶えていたこと、母が持っていた男爵家の家紋入りハンカチを持っていたこと、それに南部ラティン語のイヴェリアス訛で話していたこと、などによる。
母の姿はとうになく、おそらくどこかのタイミングで亡くなったのだろうと推測された。推測、というのは、彼女自身が母がどうなったのか記憶していなかったためである。
ガリオン王国から連絡を受けて、男爵が藁にも縋る思いで迎えに行った際、彼女ははっきりと「おとうさま」と言った。父親の顔を憶えていたのだ。
こうしてメルカド男爵家に戻ってきたベリンダは、だがそこからが大変だった。なにしろイヴェリアスでは貴族の子女は全員が原則として王立貴族学院に入学せねばならない。だのに彼女は6歳で入学する初等教育学校も、9歳から始まる中等教育学校も一切通っておらず、読み書きすら出来なかったのだから。
だが彼女は父の男爵、それに3人の兄とふたりの姉に付きっきりで愛情を注がれ世話を焼かれ、読み書きをはじめ基礎的な教育と貴族としての教養を詰め込まれ、わずか1年で目覚ましい結果を残して、見事に貴族学院の入試をクリアした。さすがに付け焼き刃の感は拭えなかったが、それでも何とか形になる所まで、彼女はやり遂げたのだ。
彼女は奴隷として長年虐げられていたとは思えないほど真っ直ぐな性根をしていた。それは生来の性格によるものか、それとも実家に戻ってから家族の愛を浴びるほど受けたためか、誰にも分からない。なにしろ失われた8年間のことは彼女はほとんど語ろうとはしなかったから。
学院の入学式典で在校生代表としてスピーチに立った先輩の姿に彼女は目を奪われた。
タルシュ侯爵家の後継者、サンルーカル子爵イグナシオがそこにいた。新緑の艶のある髪と理知的な黒茶の瞳を持った、絵に描いたような貴公子が。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ベリンダには誰にも話していない秘密がある。
彼女は、“前世の記憶”を持っている。
『彼女』は“日本”でアイドル活動をしていた。幼い頃からどうすれば人に好かれるかを感覚的に分かっていた彼女は、それを活かせる仕事をしていたのだ。
母親ともども人攫いに拉致されたことでそれを思い出した彼女は今世でもそれを遺憾なく発揮し、結果として奴隷として売られた先々で可愛がられた。愛玩奴隷というやつだ。
とはいえ、まだ幼い身だったから純潔を散らされるようなことはなかった。ぼちぼち貞操の危機が迫る年齢になって発見され救助されたのは、彼女にとって僥倖というほかはなかった。
そして、生家に戻ってきてからもそれは遺憾なく発揮された。父も、父が再婚していた義理の母も、兄姉も使用人たちも、彼女をこれ以上なく可愛がった。その結果として彼女は数奇な人生に性格を歪められることなく、真っ直ぐ天真爛漫であり続けた。
誰もが、それに安堵して喜んでいた。
実際は、彼女がそうなるように仕向けただけだが。
そして前世で語学が得意だった彼女は言語の、つまり読み書きの習得も早かった。貴族学院入試に向けた受験勉強が間に合ったのはそれも大きかった。
だが、貴族令嬢としての礼儀作法や社交界の複雑怪奇なルールまでは覚えられなかった。そんなものには前世でも縁がなかったし、直感的なことは得意でも思慮分別の必要なことは彼女は苦手だった。
しかし、それがまた貴族社会で生きてきた学院生たちには新鮮に映ったらしい。おかげで取り巻きには苦労しなかったし、イグナシオもそれを気に入ってくれたのだから何も間違ってはいない。
彼女は、そう信じていた。
入学式典で「あの方に気に入られたら学院生活はバラ色ですわよ」と教えてくれた、同期生の伯爵家令嬢には感謝してもしきれない。
ただひとりそうでなかったのは、イグナシオの婚約者のセリアだ。
彼女はベリンダがイグナシオと楽しい時間を過ごしている時に限って現れて、細々と小言を言ってきた。どうやら力のある家のお嬢様らしく、周囲の取り巻きたちも怒らせてはまずいと忠告してはくれたが、彼女はイグナシオとやましい関係になっているつもりもなかったし、イグナシオ自身が気にするなと言ってくれたから特に従わなかった。
セリアの婚約者である彼がそう言うのなら、彼に従えばいい。
だが程なくして、授業で使うノートに落書きをされた。殴り書きで大きく『イグナシオ様にこれ以上付きまとうな』と何ページにも書き殴られて、やむなくそのノートは廃棄した。
次いで、教科書を盗まれた。それはビリビリに破かれて学院の裏のゴミ捨て場にばら撒かれていた。さらには筆記用具や魔術の授業で使う魔道具、体術の授業で着るための作業用ローブなどを次々と隠された。無事に見つかることもあれば、廃棄するしかないほど壊されていることもあった。
元々裕福ではない男爵家の財政事情的にはかなりのダメージだった。実家に正直に言えば心配されるのが分かりきっていたから、取り巻きに頼ったり教師たちに相談したりして、少しずつ助けてもらった。そのたびに「セリア様をあまり怒らせないように」と言われたが、「セリア様とイグナシオ様と、どちらのお言葉を聞くべきですか?」と聞き返したら誰も何も言わなくなった。
セリアは彼女がイグナシオと会っていない時でもやって来るようになった。そのたびに取り巻きのご令嬢がたを引き連れて、上から目線で物を言う。
感じの悪い方だなとしか思わなかった。あんな方が婚約者だなんて、イグナシオ様が可哀想だ。
そう思いつつも怒らせてはいけないと言われているので表向きは反論もせずいつも黙って聞いていた。だがそんなある日、学院二階の廊下から階段を降りようとしたところで後ろから誰かに突き飛ばされた。
瞬間的に恐怖で身体が硬直し、頭から落下して階下まで転げ落ちる羽目になった。受け身も取れずに頭を打ち、全身を痛みと恐怖に鷲掴みにされながら意識を手放した。
そして気付いたら医務室に寝かされていた。意識を取り戻し、思考が働かないまま養護の教諭から状況の説明と問診を受けていたところへセリアがやってきて、本当に申し訳なさそうな様子で深々と頭を下げられた。
なんでも、階段から突き落としたのはセリアの取り巻きのひとりが勝手にしでかしたことなのだそうだ。大変申し訳ない、このようなことが二度と起こらないよう配慮する、と言われてもあまりピンとこず、今後怪我させられるような事がないならそれでいいです、と返事して追い返した。
その後で、セリアのモンテローサ伯爵家がこの国でどれほど高い地位にあるのかを教諭に聞かされて、セリアがどれほど自分とかけ離れた雲の上の存在なのかをようやく理解した。そんなお方が男爵家令嬢の自分ごときに詫びるなど本来あり得ないことだとも聞かされて、なんだ、セリア様も案外いい人じゃん、と思ったものだった。
それからはさすがにセリアに遠慮すべきかと思ったのだが、イグナシオがそれを押しとどめた。「ベリンダといるととても楽しい。だから私のために側にいてくれ」と言われて、勿論悪い気はしなかったがセリアにも何だか申し訳ない気持ちになった。だからセリアに事情を話して許可を得たいと言ったのに、「彼女には近づかないでほしい」と言われて釈明には行けなかった。
楽しかった時間はあっという間に過ぎ去り、イグナシオが卒業を迎えた。精一杯お送りしたいのにパーティーに着ていくドレスがない、と嘆いたらイグナシオがわざわざドレスを仕立てて贈ってくれた。
それは新緑の胸元から裾に向かって濃くなってゆく、膝下の辺りから黒茶に変わるシックなエンパイアラインのドレスで、胸元に金糸のレース、足元には銀糸での刺繍があしらわれて、いくつもの宝石が散りばめられていた。とても豪奢で男爵家令嬢が着るような仕立てではなかったから着るのがとても恐ろしかったが、これを着てパーティーに出なければ彼が悲しむだろうと思って頑張って袖を通した。
着付けは、取り巻きのご令嬢たちに頼んで侍女を借り、その侍女たちに着付けてもらった。
会場へ向かう途中、イグナシオ様がお呼びです、とひとりのご令嬢に声をかけられた。何だろう、と思ったが、彼が呼んでいると言われればついて行く他はない。言われるままについて行って、こちらでお待ちですと開かれたドアから中を覗くと、そこはどう見ても物置だった。もちろん、イグナシオなどどこにも居ない。
ここお部屋じゃありませんよね、と言おうとして、振り返る前に突き飛ばされた。あっと思う間もなく中に倒れ込んだら扉を閉められた。鍵は中から開けられるはずなのに、ドアはビクともしなかった。閉じ込められたのだ。
「パーティーが終わったら出して差し上げますわ。それまで大人しく反省していることね」
ここまで先導してきた令嬢の冷たい声がドアの外から聞こえてきて、すぐに足音が去っていった。足音は複数だった。
そして、足音が聞こえなくなるとともになんの音もしなくなった。そこで初めて、学院内でも人気のない場所におびき出されたのだと理解した。
ベリンダは途方に暮れたが、パーティーに出ない選択肢はなかった。せっかくイグナシオがドレスを贈ってくれたのだから、せめてこのドレスを着た姿くらいは見せなくては。
そう思って、ハッとして自分の姿を確認する。薄暗い倉庫の中で確信は持てなかったが、どうやら汚したり破いたりはしていないようで安堵する。
だが、どうやって脱出しようか。
しばし考えて、取り巻きの中でも親友と呼べる程度には仲良くなっていた子爵家令嬢を魔術の[念話]で呼び出した。イグナシオの遠縁だと言っていた子で、今にして思えば彼女はイグナシオが密かに付けていてくれた護衛だったのだろう。
彼女に[念話]で状況を伝え、入ったこともないエリアだったから上手く説明できなかったが、何とか場所を特定してもらってベリンダは助け出された。魔術の[施錠]などではなく物理的に扉が塞がれていただけだったので、救出そのものは容易だったそうだ。
だがパーティーはもう始まる時刻になっている。大慌てで会場へ向かったが、イグナシオにエスコートしてもらうことは叶わなかった。それでも、彼にドレスがよく似合うと褒めてもらって、閉じ込められたことなどすっかり忘れるほど幸せな気分でいられたのだ。
だというのに。
セリアからそのドレスにワインをこぼされた時の悲しみといったら。
天国から地獄へと真っ逆さまとはまさにこの事か。
イグナシオには申し訳なく、無惨に汚されたドレスには悲しみしか浮かんでこない。学院主催のパーティーに替えのドレスなど用意があるはずもなく、ベリンダは泣く泣くそのまま寮へ帰らざるを得なかったのだ。
イグナシオが卒業し、ベリンダは彼と会えなくなった。彼がさすがに外聞を気にして、卒業後には会わないようにしようと言ったのを彼女は律儀に守っていた。そのうちにきっと迎えにくるから、と言った彼の言葉を素直に信じたのだ。
そして1年が経とうかというある日、人づてに呼び出されて彼女は彼と再会した。そして彼から婚約破棄の計画を知らされたのだった。
てっきり彼がセリアと結婚したあとで愛人として囲われるのだろうと思っていたベリンダは、彼が正妻にしてくれると聞いて喜んだが、同時に不安にもなった。けれど学院で受けていた虐めがセリアの仕業だったと聞かされて、だからセリアの有責で婚約を破棄できると、全て任せておけと言われればそれ以上何も言えなかった。
彼がまさか冤罪まででっち上げてセリアを断罪するなどとは思ってもみなかった。あまつさえ、取り縋ろうとしたセリアに手を上げるなど考えもしなかった。あまりのことにオロオロしているうちに、会場警護の騎士たちに囲まれて、彼女は彼と引き離され別室に連行されてしまった。
何もできず、何も言えずに、彼とはそれっきりになった。




