イグナシオ・デ・グスマン=アブスブルコ
セリアを初めて見たのは11歳の時だった。お前の婚約者になる、と紹介されて、両親立ち会いのもと顔合わせを済ませたのだ。
大人しそうでパッとしない、あんまり可愛くない子だ。
それが第一印象だった。ぼくはあんな子じゃなくてもっと可愛らしい子がいい、と母に文句を言ったら、あの子もきっと成長すればお母上のように美しくなりますよ、と言われて、それでウヤムヤになった。
確かにあの子のお母様はお綺麗な方だと思ったけど、あの子とは髪色も瞳の色も違う。そっくりになるとは思わなかった。
それから彼女とは定期的に会うことになったが、年を経るにつれて彼女はどんどん活力を無くしていって、それとともに魅力もより下がっていったように思う。ぼくをバカにしてるのか?そうでなければ、少しくらい美しくあろうと努力するはずじゃないか。
成長しても髪色はそのままで、顔色は悪くなるばかりで、微笑みも最初の頃はまあまあだったのにどんどん愛想笑いが増えていって。瞳の色は珍しかったから綺麗だとは思ったけれど、見慣れてしまえばそれ以上どうということもなかった。
おまけに背が伸びるばかりで体型も育たない。あんなのを連れて社交界に出るのは、正直苦痛でしかなかった。だってお茶会に出ればもっと可愛らしいご令嬢はたくさんいるのだ。それも侯爵家や公爵家に何人も。
13歳になって王立貴族学院に入学すれば、その思いはより顕著になった。国内の貴族子弟のためだけの学び舎で、王族に同年代がいないせいもあって在籍している貴族子女はさほど多くはなかったが、それでもセリアより美しいご令嬢は何人もいたのだ。
そういうご令嬢がたが私をタルシュ侯爵家の跡取りと知ってか自然と取り巻くようになっていて、チヤホヤされるものだからセリアが入学するまでの一年間は本当に楽しかった。
だからセリアが入学してもなるべく関わらないように避けた。もちろん露骨に避けると角が立つから、あくまでもさり気なく、それでいて周到に。下級生の棟にはやむを得ない場合を除いて極力近寄らなかった。
そんな中、最上級生になった私に運命の出会いが訪れようとは。
セリアのひとつ下の学年に、ベリンダが入学してきたのだ。
初めて見た時、天使がそこにいるのではないかと目を疑った。ストロベリーブロンドの柔らかそうな髪、くりくりとよく動く好奇心旺盛な灰銀の瞳。その瞳と連動してころころとよく変わる表情は貴族社会ではまず見られないもので、最初はただ物珍しさから目を引いたのかと思ったが、いつしか彼女の姿を目で探すようになっている自分に気付いた。
だから人をやって呼び出して、昼食休みに席を設けた。最初はかなり恐縮してオドオドしていたが、少し話をするだけですぐに打ち解けた。彼女のほうも上位貴族に難癖をつけられるわけではないと理解してからは、私にも笑顔を向けるようになった。
ベリンダはメルカド男爵家の令嬢だ。特に家勢があるわけでもなく、顕位も持たないごく普通の男爵家だから、最初は彼女も粗相があってはいけないと縮こまっていた。だから、簡単な礼儀作法をレクチャーするところから始めた。
そこから親密になるのに時間はかからなかった。
彼女はとにかく人に好かれる娘だった。その周りには男女問わず常に誰かが一緒にいて、彼女が誰からも愛されているのは明らかだった。だがそれでいて、彼女は私を見つけると最優先でこちらに来る。それが優越感をくすぐって、気付けば休憩時間や放課後の大半を彼女と過ごすようになっていた。
これだけ睦まじくなった娘がいて、それでもセリアの元に戻るなんて、それだけは嫌だ。
そう、思ったのはいつのことだったろうか。ひとたびそう意識してしまえば、後はもう止まらなかった。それからは、どうすればセリアとの婚約を解消できるか、そればかり考えていた。
セリアとの婚約はタルシュ侯爵家とモンテローサ伯爵家の繋がりを強化し、両家門が手を結ぶことで得られる利益は計り知れない。それでなくとも大顕位持ちの伯爵家とただの男爵家で、どちらを取るべきか考えるまでもない。
だから常識的に考えれば、予定通りセリアと結婚し、ベリンダを愛妾として囲ってしまうのが無難、というか当然の選択肢だった。
だが、それではベリンダを社交の場に出してやることが叶わない。正妻でなければ社交界を連れ歩けないのだ。名目上だけでも家門のいずれかの子爵夫人ということにしても良かったが、それは名前だけとはいえベリンダが私以外の誰かの妻になることを意味する。
それでは意味がなかった。
どうせ妻とするなら、『サンルーカル子爵夫人』にしてやりたい。
要は、モンテローサ伯爵家の力を借りずともタルシュ侯爵家をより盛強にしてしまえばいい。私がより一層努力して、それを成し遂げれば周囲の批判など蹴散らしてしまえるだろう。
だが、困ったことに時間が足りなかった。私とセリアはひとつ違いで、セリアの学院卒業を待ってから正式に婚姻の手続きが動き出すことになっている。つまり私に許された時間は、私が卒業してからセリアが卒業するまでの一年間だけだ。
わずか一年では些細な実績さえも挙げられるわけがない。出仕を始めたばかりの青二才に与えられる仕事などたかが知れているのだ。
だからやむを得ず、セリアの卒業前に婚約破棄を実行することにした。しかしそうなると、セリアの方に問題があっての破棄だということにせざるを得ない。だから断罪の証拠を集めた。
幸か不幸か、ベリンダは学院で実際に陰湿な虐めを受けていて、少し調べればそれの多くがセリアの取り巻きたちの仕業だと判明した。それらをセリアの主導ということにして、それに二、三の事例を加えれば、誰からも文句の付けようのない“罪状”の出来上がりだ。
ベリンダは積極的にセリアを貶めることに懸念を持っていたようだが、なに心配するな。私が責任を持ってそなたを守ってやる。
だというのに。
そこまで準備して乗り込んで、セリアの卒業パーティーで彼女に瑕疵を負わせればそれで全部済んだはずなのに。
振り払った私の手でバランスを崩したセリアは、倒れたまま立ち上がって来なかった。
違う、違うんだ!私は決してセリアを害する意図などなかった!あれはたまたま手が当たった、そう、単なる事故だ!私は何も悪くない!
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「だから何度も言っているだろう!私は突き飛ばしてなどいない!」
「そうは仰いましてもねサンルーカル子爵。目撃証言が多数上がっているのですよ」
憲兵騎士に冷めた目でそう告げられ、イグナシオは喘いだ。
確かに少々大袈裟に手を振って追い払おうとしたのは間違いなく、それにセリアが驚いていたのにも気付いていたのだから、違うと強弁するのも無理がある、と自分自身が解ってしまっている。
「しかし、私は決して…!」
「事実など、この際どうでもいいのですよ」
なおも言い逃れようとしたその言葉は、憲兵騎士の被せた言葉に塗り潰された。
「なに………?」
「そう見えた、それだけで充分なのです」
その時の憲兵騎士の、表情をなくした仮面のような顔。それはイグナシオにとって、死刑宣告とも言える絶望の具現化だった。
「あれだけの衆目の面前でセリア嬢は倒され、気絶してしまわれた。それが貴方の振り払った手で起きたことであるのは間違いないのです。
であるならば、貴方の意図がどうであれそれは貴方が引き起こしたことなのですよ。
その罪からは逃れられない。貴方は一生、彼女を害した乱暴者として我が国の社交界で語り継がれることでしょうな」
「そ、そんな…」
イグナシオはそれ以上抵抗の気力を無くして項垂れた。
確かに、憲兵騎士の言う通りだ。あれだけの数の貴族子女に見られた以上、次代の社交界でイグナシオの汚名が消えることなどないと、自分でも納得できてしまったのだ。
セリアへの断罪を揉み消されないために選んだ卒業記念パーティーの会場、それがまさか自身の消えない傷を刻みつけるとは。
「我が国では、貴族に対する暴行行為は厳しい罰則がございます。それは貴族同士の暗殺行為や私闘も含めて防止して、治安を維持するための法ではありますが、今回の件にも適用されます」
イグナシオはもはや、黙って聞いているしかなかった。
「子爵に対しては良くて罰金刑、下手をすると禁錮処分かあるいは懲役となるでしょう」
「量刑は………」
「はい?」
「量刑は、どうやって決まる………?」
「基本的には司法官が捜査ののち裁判を開いて決定しますが、被害者感情のいかんによっても左右されますな」
それはつまり、セリアとモンテローサ伯爵家が量刑に不服を申し立てられるということだ。
あれほど嫌っていたセリアに、自分の命運を決められる立場にイグナシオは堕ちたのだ。
「それまでは、こちらの貴族牢にて過ごして頂きます。裁判の場には出頭を求められますので、その際には憲兵騎士の護衛のもと出頭して頂きます」
淡々と、決定事項のみを告げられる。
もはや文句を言い返す気力もなかった。
だがもうひとつ、確認しておかなければならない事がある。
「ベリンダは、ベリンダはどうなる?」
「それは貴方が関与なさることではありませんよ」
しかし、にべもなく拒絶された。
あたかもあの時セリアを拒絶した自分と同じように、憲兵騎士には取り付く島もなかった。
話を終えて、憲兵騎士たちが貴族牢を出て行き、イグナシオは独り取り残される。
「どうして、こうなったんだ………」
彼のその呟きは、もはや聞いてやる者さえいなかった。