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セリア・デ・ヒメネス=アストゥーリア

 セリアがイグナシオと婚約したのは10歳の時だ。伯爵家と侯爵家とはいえ、どちらも『大顕位(エルグランデ)』を与えられた特別な貴顕の家門で、家の権勢も当人同士の年齢も釣り合うとあって、周囲全てから祝福されたのを彼女はよく憶えている。

 そして彼の新緑の艷やかな髪と深い黒茶の瞳に見惚れた彼女は、こんなに見目麗しい殿方と婚約できて幸せだ、とその時は素直に思えたものだった。


 だが、それ以来彼と彼女の仲は全く進展しなかった。義務だと言わんばかりにただ回数を重ねるだけのお茶会に、当たり障りのないメッセージとともに送られてくる、ただ流行を踏まえただけの心無いプレゼント。デートに誘われることもほとんどなく、それどころかタルシュ侯爵家に輿入れすることになるセリアには侯爵夫人としての教育が施されるようになって、少女の自由になる時間はほとんど与えられなくなった。

 そうして一年が過ぎ、二年が過ぎて、彼女はそれが両家の政略のための婚約であってそこに愛などないのだと、嫌でも理解させられたのだ。


 セリアは自分の容姿に自信がない。見栄えのしないアッシュブラウンの髪は嫌いだったし、珍しい菫色の瞳は多くの人の目を引き付けたが、褒められることはほとんどなかった。

 そして長じても背が伸びるばかりで一向に女性としての魅力を備えない細身の身体。他家のお茶会などで豊満な身体つきのご令嬢を見かけるたびに穴を掘って隠れたくなったものだ。


「気にすることないわ。貴女には素晴らしい知性があるもの」


 親友と呼べるほど親しく付き合ってくれていたカタロニア伯爵家のモニカ嬢は、いつもそう言って慰めてくれたが、だからといって胸が育つわけでも、髪が輝くようなブロンドになることもない。


「それに貴女はあのイグナシオ様の婚約者なのよ?もっと胸を張って、堂々としていればいいのよ」


 まさにその婚約こそがセリアの劣等感をいや増しているのだが。そして侯爵家や伯爵家以外で催されるお茶会に出るたびに、陰でそのことでやっかまれるのだ。

 それは若いセリアには苦痛以外の何物でもなかった。せめてイグナシオから人並みの愛情でも向けられていれば、まだしも耐えられたのだろうが。


 イグナシオの両親、タルシュ侯爵とその夫人はセリアにはとても優しかった。優しかったが、侯爵夫人教育は手を抜いてもらえなかった。それはそれ、これはこれというわけだ。

 もっとも、その教育をきちんと修めておかなければ後々困るのはセリア自身なので、いくら辛くとも泣き言は言えなかった。唯一聞いてやれるはずの婚約者は、相変わらずそっけないままだ。



 そうして13歳になり、王立貴族学院を受験してセリアも無事に合格した。イヴェリアス(この国)では貴族の子弟は学院への入学が原則義務付けられているため、セリアにそれ以外の選択肢はない。

 それがまた、彼女には憂鬱だった。何しろ一学年上には婚約者(イグナシオ)が在籍しているのだ。これからは彼とプライベートだけでなく学院でも顔を合わせなければならない。それを思うだけでため息が出る。

 しかも学院に通ううちは専用の寮に入らなければならない。男子寮と女子寮に分かれているとはいえ、同じ敷地内に昼夜問わず二人ともいるのだと意識してしまえば、それさえもストレスだった。


 だがそれでも、彼女は彼にとって“良き婚約者”であろうとした。だってこの先の長い人生をともに歩まなければならないのだ。それだけでなく、彼は侯爵家の一人息子で唯一の跡取りなのだから、その妻となるセリアは彼の子を産まねばならない。

 ならばせめて、肌を触れ合わせても不快にならない程度には仲良くなりたいではないか。お互いに義務感だけで嫌々ながら致す(・・)よりも、どうせなら行為の最中くらいは睦み合いたい。せめてそれくらいは求めたって許されるはずだろう。



 だというのに、セリアが2年に上がりイグナシオが3年になってから、事件は起こった。

 彼と急速に親密になった、ひとりの令嬢の存在が明らかになったのだ。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 最初、セリアは人をやってそれとなく確認させた。

 まずはイグナシオの浮気が事実かどうか。彼との間に愛がないことくらい明白だったが、それでも彼とてセリアとの婚姻が必要なものだということくらい分かっているはずだ。であれば浮気は事実ではなく、彼の家門の権勢に擦り寄りたい誰かが自分のために流した虚偽か、あるいはタルシュ侯爵家とモンテローサ伯爵家との結び付きを阻止したい他の家門からの妨害の恐れもある。

 だが取り巻きの令嬢たちの話によれば、彼には確かに最近側に侍らしている女性がいるらしい。それも入学したばかりの男爵家令嬢、『顕位(グランデ)』さえ得ていない家門の娘だという。



 イヴェリアス王国には王から与えられる特別な恩寵がある。それが『顕位(グランデ)』で、家門の歴史、勢力、王国への貢献度などを鑑みて親授されるものだ。『顕位』を得た家門は爵位を飛び越えて貴族社会で一目置かれるのが慣例で、だから例えば伯爵家で『顕位』を得れば、それを得ていない侯爵家よりも家勢が強くなる。

 そしてその『顕位』のさらに上位に当たるのが『大顕位(エルグランデ)』だ。これは本当に限られた家門、建国から変わらず国に貢献してきたごく一部の家門にだけ与えられたもので、数あるイヴェリアス貴族の中でも公爵家で三家門、侯爵家で五家門、伯爵家では二家門しか賜っていない。『顕位』が貴族全体のおよそ三割に与えられていることを鑑みても極端に少ない。

 そして、タルシュ侯爵家とモンテローサ伯爵家はともにその『大顕位』持ちなのだ。


 だから他の大顕位持ちの家門からの妨害なのかと思いきや、顕位さえ得ていない男爵家とは。もっとも男爵家で顕位を得ているのはわずか二家門だけなので、男爵家なら顕位なしが普通なのだが。

 しかも、どうやらイグナシオの方が男爵家令嬢を手放さないらしい。そういう事なら、令嬢本人は大顕位持ちの家門の御曹司に逆らうこともできずに針布に座らされている心地なのではなかろうか。


 そう心配になって、セリアは自ら男爵家令嬢を確認に向かった。もしも苦慮しているようであれば、彼の婚約者として助けてやらねばならない。大顕位持ちの侯爵家の御曹司を正せるものなど、その婚約者以外にはいないのだから。


 なのに遠目の物陰から確認したイグナシオと男爵家令嬢は、さも楽しそうに談笑していた。貴族学院にいくつかある棟のひとつの中庭で、他に人目が無いことを幸いとばかりに身を寄せ合って肩を合わせ、腰を抱いて、ふたりは顔が触れんばかりの近さで笑い合っていたのだ。

 しかも彼女はセリアの目から見ても非常に魅力的だった。ふわふわのストロベリーブロンド、くりくりとよく動く輝きに満ちた灰銀の瞳とよく笑う表情豊かな(かんばせ)、そして何より女性らしいふくよかな、いかにも触り心地の良さそうな柔らかそうな身体つき。

 どれもセリアにはないもので、イグナシオの好みであるとひと目で知れた。


 それを見た瞬間のセリアの心情はいかばかりだっただろうか。

 だって彼女はそれまでイグナシオからそんな顔を向けられた事などなかったのだ。社交辞令的に微笑まれることはもちろんあったが、たった今男爵家令嬢に向けているその笑顔は、見たこともないのに本心から楽しそうに喜びに満ちていると解ってしまった。

 そんな顔が彼にもできるのだと、そして自分にはそれを向けるつもりなど絶対にないのだと、その残酷な現実をこれ以上ないほど理解させられて、セリアは顔面蒼白のままその場を逃げ出すことしかできなかった。



 嫉妬心は沸かなかった。

 だって彼からの愛がない事くらい分かっていたのだから。

 でも、それでも悔しかった。

 だってセリアにはあんな風に笑い合える相手なんていないのだ。


 ただでさえ貞淑を求められる貴族子女は異性との付き合いひとつにも気を使う。この世界には女性だけが習得できる妊娠をコントロールする魔術が存在するとはいえ、子を生むのは女性だけなのだ。

 どの男の子を産むかは(・・・・・・・・・・)女性側が決められる(・・・・・・・・・)だけに尚更、貴族女性はそうした不貞の疑いをかけられるのは致命傷になる。

 だから大顕位持ちの伯爵家令嬢として、セリアも身辺には特に気を使っている。同じ家門の従兄弟たちやおじたち、親族の男性ですらふたりきりで会ったことはない。密室で男女ふたりきりで居たというだけでそういう疑いをかけられても言い逃れなどできないのだ。


 なのに男性貴族は違う。仮に決められた婚約者ないし妻以外の女と関係を持ったとしても、愛妾ということにして囲ってしまえる。外聞的に決して褒められたことではないが、それでも他の男にさえ触れさせなければどの(・・)女に産ませても(・・・・・・・)自分の子だと(・・・・・・)認め(・・)られる(・・・)のだから、気楽なものだ。

 その残酷なまでの待遇の差だけは許せなかった。自分には自由になる時間さえもほとんど与えられないのに、なぜ彼だけがあんなにも自由が許されるのか。その不条理が彼女を動かした。



 だからセリアは取り巻きの令嬢たちを使って男爵家令嬢、つまりベリンダ・デ・エレロ=サステレに対してキツく当たるようになったのだ。彼女のノートに『イグナシオに付きまとうな』と書かせたし、従わないから教科書を盗ませ破り捨てた。学院で勉強に使う道具類を隠して困らせたし、時には彼女の前に立ちはだかって自ら注意も与えた。これ以上睨まれたくなければ大人しく身を引け、と。

 だが逆に言えば、その程度しかできなかった。物理的に害してしまえば自分の方が悪者になってしまうし、あまりに露骨だとイグナシオの機嫌を損ねてしまう。だから階段から突き落としたと聞いて血の気が引いたし、彼女が必要以上に害されることのないよう密かに護衛を付けさせさえした。


 それなのに彼女は一向に彼の元を去ろうとはしない。大顕位持ちの伯爵家に睨まれてまで愛を貫きたいわけでもなかろうに。そんなものを貫き通す前に自身の家門が破滅する事くらい分かるだろうに。

 あるいは彼のほうがわざわざ探し出して連れ回しているのかとも思ったが、調べさせた限りでは毎回彼女が彼の元を訪れているのだ。だから、分からないのならば解らせてやるしかなかった。


 そしてベリンダが入学してから一年後、イグナシオの卒業パーティーの開始直前に彼女を騙し呼び出して学院の倉庫に閉じ込めた。なのにどうやってか彼女はそれを脱して彼の前に現れた。だからよろめいたフリをしてワインを零し、ドレスを台無しにして物理的に遠ざけた。

 そこまでが限界だった。それ以上は父の伯爵に報告しての男爵家への仕置き(・・・・・・・・)になってしまう。



 イグナシオは卒業し、ベリンダと会うことは表向きにはなくなった。彼はサンルーカル子爵として宮仕えを始めたし、さすがにふたりとも学院の外で会うのは外聞もあって控えたようで、だからこの一年はセリアも心穏やかに過ごせていたのに。


 だのに、自身の卒業パーティーにふたりして現れて、あろうことか身に覚えのない傷害事件の疑いをかけてくるとは。婚約破棄を言い出すであろうことは察しがついていたが、まさか冤罪まででっち上げて、それを理由にした婚約破棄などあってはならない事だった。

 愛はない、それはお互いに解っている。けれどもここでふたりが我慢すれば、それだけで両家の子孫のさらなる繁栄が約束されるのだ。だからと思えばこそセリアは耐えきる覚悟を固めているというのに、イグナシオときたらそんな彼女の思いなど知りもしないで、とうとうやらかして(・・・・・)くれたのだ。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 学院の医務室でセリアが目覚めた時、枕元にはすでに彼女の両親と、おそらくずっと付き添ってくれていたのだろうモニカと、養護の教師とが控えていた。


「お気づきになりましたかセリアさん」


 養護の教師が確認するように声をかける。


「ここは…」

「学院の医務室です。貴女は突き飛ばされ頭を打って意識を失っていたのです。そのあたりのこと、憶えておいでですか?」


 セリアはぼんやりとした頭のまま、周りの人々を見渡す。泣きそうな顔で、それでも叫び出したいのを必死で堪えるかのような父の顔を見て、ようやく彼女は自分の状況を把握した。


「申し訳ありませんお父様。イグナシオ様に………婚約破棄を告げられてしまいました………」


 詰まりそうになりながらも、ようやっとそれだけ絞り出して彼女は身を起こして頭を下げた。


「何を言うんだセリア!お前は悪くない、悪いのはあの愚か者の方だろう!お前は被害者だ、加害者のタルシュ侯爵家にはそれ相応の賠償を呑ませてやる!だから心配するな!」


 セリアの父、モンテローサ伯爵エミディオ・デ・ヒメネス=ワレンティアは一息にそう言って娘を抱きしめた。頭を撫で、背中をさすり、大丈夫だと繰り返す。母もそばに寄って手を握ってくれた。

 だが、それに水を差した者がいる。


「それがですね、どうもそうはいかんのですよ」


 そう言って医務室に入ってきたのはひとりの騎士だった。騎士服の紋章からすれば王宮警護の憲兵騎士だろう。


「そうはいかん、とはどういう事だ?」


 許しもなく入室してきたことを咎めようとして、エミディオがわずかに躊躇したあと、口にしたのは叱責ではなく質問だった。

 憲兵騎士がわざわざなんの用だ。娘の状況なら目撃者が大勢いるのだから、本人には確認するまでもなかろうに。


「失礼、モンテローサ伯爵。大変遺憾ながら、お嬢様にはメルカド男爵家令嬢ベリンダ様に対する、傷害と脅迫、それに拉致監禁の容疑がかかっております。暴行事件の被害者でもあるため大変恐縮なのですが、セリア様にはこのまま憲兵屯所までどうかご同行願いたい」


 そして憲兵騎士は、とんでもないことを言い出したのであった。

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