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婚約破棄と冤罪

「モンテローサ伯爵家令嬢セリア!」


 壇上から聞き慣れた声に呼ばれ、セリア・デ・ヒメネス=アストゥーリアは声の方に顔を向けた。そこに見知った顔があるのを確認して、誰にも気付かれないほど小さくため息をこぼす。

 そこにいたのはイグナシオ・デ・グスマン=アブスブルコ。タルシュ侯爵家の一人息子で次期タルシュ侯爵。今はまだ家督を継ぐ前なのでサンルーカル子爵と名乗っている、セリアの婚約者だ。


 ここ、イヴェリアス王国では伯爵家以上の貴族の後継者およびその候補は、成人後に継爵するまでの期間は家門の保持する子爵位を名乗るのが慣例だ。

 継爵できずに一生子爵を名乗ったままで終わることもあるが、目の前の彼、イグナシオに関してはその心配は薄い。『サンルーカル子爵』はタルシュ侯爵家の後継者と認められなければ名乗れない爵位であるし、セリアが今日、王立貴族学院を卒業すれば正式に婚姻の手続きに入る。そして婚姻が成立し次第継爵の準備も始まることになっている。


 そう。今日は王立貴族学院の卒業式典があったばかりで、3年生のセリアはつい先ほど式典で卒業の証印を受け取ってきたところだ。そしてこれからの時間は学院主催の卒業記念パーティーが開かれるため、卒業生をはじめその父兄や教師陣、在校生などが学院の大広間に集まっていた。

 そこに現れたのがイグナシオだ。彼は去年の卒業生で、タルシュ侯爵家一族には今年卒業する子弟はおろか在校生もいないから彼は招待客ではあり得ない。もちろん彼は今回卒業するセリアの婚約者だから、彼女をエスコートする名目では参加資格があったが、今日彼は彼女のエスコートには立たなかった。

 ではなぜ、彼はここにいてセリアを呼びつけるのか。


「セリア、いないのか?呼ばれたらすぐに返事をいたせ!」

「はい、こちらにおりますわイグナシオ様」


 目の前のセリアをしっかりと見据えておきながら「いないのか」などと言う婚約者を無視することもできず、彼女は返事をして彼の立つ壇上に上がる。大広間は舞踏パーティーや披露宴でも用いられるため、その中央にファースト・ダンス用に円形の壇が設けられている。さほど広くはなく高さもないが、この壇から足を踏み外さないように上手く踊るのも貴族の嗜みである。


 自然、壇上のイグナシオとセリアに視線が集まる。今はまだ正式にパーティーの開始を告げられる前で、入場した人々は思い思いに談笑していた。そんな中で大声で名を呼ばれたものだから、どうしてもセリアは耳目を集めることとなった。


「本日はどうなさいましたの?イグナシオ様はわたくしの卒業パーティーにはお出にならないものとばかり思っておりましたのに」


 努めて冷静に、セリアは婚約者に声をかける。

 もっとも、何故彼が現れたのかは想像がついている。そして彼がこれから何を言い出すのかも。

 ああ、なんて莫迦(ばか)な人。こんな衆目の面前で言うことでもないでしょうに。


「えっ?イグナシオ先輩?」

「本当だ、サンルーカル子爵がいらっしゃるぞ」

「でもセリア様って今日おひとりでいらしたわよね?」

「というか、何故子爵の横にベリンダ嬢が立っているんだ?」


 周囲から密やかに聞こえてくる、訝しむ声。

 そう、イグナシオは目の前に婚約者を呼びつけておきながら、傍らに別の女性、2年生でメルカド男爵家令嬢のベリンダ・デ・エレロ=サステレを従えていたのだ。

 その三者の立ち位置と、それぞれの表情を伺えば、これから壇上で何が始まるのかなど言うまでもなく明らかだ。ここ最近、この西方世界の大半の国でも数多と事例の上がっている、アレ(・・)だ。


「セリア!そなたはもはや我が妻として、タルシュ侯爵家の侯爵夫人として相応しくない!よって今日この場をもってそなたとの婚約を破棄するっ!」


 一息に言いきって、言ってやったぞと満足げなイグナシオと、彼に肩を抱き寄せられつつ不安げに目線を泳がすベリンダ。

 対するセリアの表情は硬く、ベリンダを睨みつけているようにも見える。


「お待ち下さい、一体何をお考えになってそのような━━」

「知れたこと!そなたがこのベリンダを長年虐げ、悪辣な企みを繰り返していたこと、私が知らぬとでも思っているのか!」


(悪辣な企み?)

(セリア様が?ベリンダ嬢に?)

(まあ確かに、イグナシオ先輩とベリンダ嬢は親密だったからなあ…)


「そんな、わたくしは何も━━」

「言い逃れなどあさましいぞ!証拠は上がっているんだ、大人しく罪を認め詫びることさえできないのか!」


 罪を認めろと言われても、セリアにはどうすることもできない。だって悪いのは婚約者のいる男に(・・・・・・・・)擦り寄る(・・・・)ベリンダだ。セリアはイグナシオの婚約者として、身分や立場を弁えないベリンダに指導して(・・・・)やった(・・・)に過ぎないのだ。


「確かに彼女には再三注意を与えましたが━━」


 それでも従わなかったのは彼女の方だ。だから悪いのは彼女であってセリアではない。

 まあ確かにセリアの、モンテローサ伯爵家の権勢に阿る取り巻きの令嬢たちが率先してベリンダに色々当たっていたのは知っている。だがそれも彼女(・・)が弁えないから(・・・・・・・)であり、彼女がきちんと身を律していさえすれば何事も起こらなかったはずなのだ。

 なのに何故、自分が糾弾されなければならないのか。それも、味方のはずの婚約者に。


「注意だと?背後から階段下に突き飛ばすような暴力行為のどこが“注意”だというんだ!」

「そ、それはわたくしの取り巻きのご令嬢が勝手にしでかしたことで、その件ではベリンダ嬢にきちんと謝罪を申し上げております!」


 少々痛い目を見せて差し上げましたわ、とドヤ顔で報告されて血の気が引いて、さすがに怪我をさせるのはやり過ぎだと強く叱責したのは事実だ。その足で医務室で治療を受けているベリンダの元へ向かい、貴顕の伯爵家令嬢の立場など脇において頭を下げ恐縮させたことも憶えている。

 それだけでなく見舞金をメルカド男爵家に届け、実際に突き飛ばした令嬢の伯爵家にも男爵家に詫びに出向かせている。


「ベリンダ、彼女はああ言っているが?」

「はい、そのことでセリア様は私ごときに頭をお下げになられて、却って申し訳なく思ったものですけど…」

「えっ、じゃあ許したのか?」


 ちょっと予想外のベリンダの返答に、少しだけイグナシオが動揺した。おそらく彼はこの傷害事件をやり玉に上げて婚約破棄の理由としたかったのだろう。

 だがすぐに気を取り直して、彼は次の“罪状”を言い募る。


「そっ、それだけではない!そなたは去年の私の卒業パーティーの際、よろけたフリをして彼女のドレスに飲み物をかけてドレスを台無しにしたではないか!」

「あれは、足がもつれただけで…!」


 それは婚約者である自分を差し置いてイグナシオに卒業祝いを述べに行き、そのまま彼の横から離れようとしなかった彼女が悪い。だから離れざるを得ないようにドレスを汚した。

 だがそれの何が悪いのか。悪いのは婚約者(セリア)の立ち位置にいつまでも居座る彼女ではないか。


「まだあるぞ!彼女の使うノートへの誹謗中傷の落書き、教科書を盗んで破り捨てる、貴族学院内で彼女の私物を隠す、全てそなたが命じてやらせたことだろう!」

「ち、違います!」


 それは取り巻きの令嬢たちが勝手に忖度して(・・・・・・・)しでかしたことだ。セリアは何も命じていないし、命じていないから特に詫びも入れてはいない。

 まあ、それを知っても彼女は取り巻きたちに止めろとも命じなかったのだが、それはそれというものだ。


「貴族学院内で彼女のあらぬ噂を流して貶めたのもそなただろうが!」

「それは良からぬ噂を流されるような隙を見せる彼女が悪いのです!」


 ベリンダはイグナシオだけでなく、日頃から先輩も後輩も同級生も教師陣まで含めて、多くの男女と親しく付き合っている。その中にはイグナシオのように婚約者のある貴族子弟も何人も含まれていて、それなのに彼女はそうした男性たちとふたりきりで会うことも少なくなかった。

 だから、ちょっと疑念を呈するだけ(・・・・・・・・)で様々な噂が飛び交ったものだ。複数の男性と関係を持っているだとか、その男性たちの権勢に阿って他の令嬢たちを小馬鹿にしているとか、教師に擦り寄って試験の不正をしているとか、少し疑いをかけただけで面白いように噂が広まった。

 だがセリアはあくまでも疑念を呈しただけだ。別に噂なんて流していないし、そんな噂が流れたのは他の目にもベリンダがそう映っていたということに他ならない。


「しかもあろうことか、そなたは街で暴漢に彼女を襲わせただろう!?」

「えっ!?」


 それは初耳だ。さすがにそんな貴族令嬢として一生の傷になるような酷い仕打ちなどできるわけがない。仮にそんな事を本当にしたとして、それがもし明るみに出ればセリア自身のみならずモンテローサ伯爵家の家門にまで傷を付けかねないし、それほどのリスクを背負ってまでベリンダを貶める価値もない。

 そんな危険を犯すくらいなら、イグナシオを彼女に譲って婚約を解消したほうがまだ傷は浅い。そんなこと、イグナシオ(あなた)にだって分かるでしょう?


「ここに来て知らぬふりをしようとしても無駄だ!暴漢は捕縛され、依頼を受けてやったとすでに吐いている!」

「そんな、知りません!何かの間違いです!」


 ベリンダが学院の休校日に街に遊びに出た際、暴漢に襲われたのは事実だ。ひとりで歩いているところを声をかけられ、路地裏に連れ込まれて危うく暴行されそうになったのだ。

 甘くふわふわなストロベリーブロンドの髪と、くりくりとよく動き人懐っこい輝きを見せる灰銀の瞳は彼女の可愛らしさを存分に引き出し、着痩せしながらも出るところはしっかり出ている彼女の体型も含めて、市井の男にはさぞかし魅力的に映ったに違いない。

 ただでさえ美形に見慣れている貴族子女たちさえ虜にする彼女である。そんな彼女がひとりで街中を歩けば、それはもはや襲ってくれと言っているようなものだ。まあその無防備さもまた、彼女の魅力のひとつなのだろうが。


 襲われたベリンダは咄嗟に叫び声を上げ、それを付近でたまたま聞きつけた冒険者のパーティが駆け付けてくれて事なきを得たのだが、その時捕らえられた暴漢が苦し紛れに「お貴族様に依頼されてやった」などと嘘の供述をしたものだから、今この王都エル・マジュリートで内密に貴族たちの間に捜査の手が入っている。

 嘘の供述だから犯人が分かるはずもないが、イグナシオはそれをセリアの仕業だと確信していた。なおイグナシオがこの件を知っているのは、ベリンダから聞き出したからである。


「そ、そんな、本当にわたくしは何も…!」

「まだ言うか!」

「本当です、信じて下さいませ!」


 本当に身に覚えのない罪の疑いをかけられ、それまでどこか余裕を見せていたセリアが初めて動揺した。動揺して、婚約者に取り縋ろうと思わず彼の方に手を伸ばした。

 伸びてきた手に、思わず身を竦めたベリンダが彼の腕にすがりつく。


「触るな、汚らわしい!」


 セリアの伸ばしてきた手を、イグナシオはにべもなく拒絶した。彼女の手をはたき、大きく振り払って、それで弾かれた彼女はバランスを崩した。


「あっ!?」


 セリアはよろめいて二、三歩後ずさった。三歩目に下げたヒールの踵が壇の端から出てしまい、彼女は足を踏み外した。


「…っ!?」


 イグナシオが、ベリンダが、周りで見ている全ての人々が注視する中、セリアは壇上から仰向けに落ちた。

 壇の段差は人の足首程度しかなく、そのため転落したというほどのものでもなかったが、ただでさえ冤罪をかけられて混乱していた彼女は足を踏み外したことでさらに動揺し、結果として受け身も取れずに後頭部から硬い床に落ちていった。


 ゴン、という硬い音とともにセリアが倒れ、そして動かなくなる。

 その硬質な音を最後に、一瞬にして大広間はシーンと静まり返った。


「おい、見たか?」

「ああ、突き飛ばしたよな?」

「間違いない。彼がセリア嬢に手を上げた」

「おい誰か、衛兵を呼べ!医師もしくは青の術師もだ!」


 事態を認識し把握して、一気に場が騒然となる。その声の全てが自分に非難を向けていることに気づいて、イグナシオは初めて狼狽した。

 その横ではベリンダが真ん丸な目をさらに大きく見開いて、たった今見たものを信じられないといった様子で、倒れたまま動かないセリアと狼狽するイグナシオを交互に見回している。


「ち、違う、私は彼女に手を上げるつもりなど…!」


 そう、彼はセリアを突き飛ばしたつもりはない。触れられるのが嫌で振り払っただけだ。拒絶の意思を明確に分からせるために、少々大きく手を振って派手な動きを見せたが、それだけだ。

 彼女が勝手によろめいて、勝手に踏み外して倒れただけで、私は何も悪くない(・・・・・・・・)


 だがあっという間に会場警護の騎士たちに取り囲まれ、有無を言わさぬ態度でイグナシオは別室へと促される。もちろんベリンダも一緒だ。

 促されるとは言うものの、暴行事件の現行犯であるため騎士たちからは厳しいプレッシャーがかけられ、今までそんなものを受けたこともない貴族のお坊ちゃん(イグナシオ)は喘いだ。


「ち、違う!違うんだ!聞いてくれ!」

「話なら別室で伺いますとも」


 そして彼は広間から連れ出され、倒れたままのセリアも貴族学院に勤める使用人や侍女たちがすぐさま集まってきて医務室へと運び出された。

 すでにパーティーの開始時間になっていたが、騒然とした雰囲気のまま、結局パーティーは始まることはなかった。




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