ハロウィンは夢見心地に
「あなた、プールの授業を全部欠席するだなんて生意気じゃない?」
「そうよ。ちょっとくらい体調が悪くても頑張って授業に出てる子もいるの。悪いとは思わない?」
「……別に」
嫌な場面を目撃してしまった。放課後、廊下の曲がり角先。クラスの女子が複数人で、一人の女子生徒へ悪態をついているではないか。来週からは夏休みだというのに、何とも幸先の悪いことだ。
低くドスを効かせたり、きいきいと高い声で捲し立てたり。多種多様な罵詈雑言を滝のように浴びせている。しかし、それらは正に暖簾に腕押し柳に風。ターゲットの心には到底届いているようには見えなかった。
──進藤薫子。先月僕の中学に転校してきた、何処かの国とのハーフ少女である。国名を知らないのは僕の落ち度ではない。進藤から積極的に人へ話しかけることもないし、クラスの女子が話しかけても迷惑そうな顔ばかり。だから彼女が何処の国とのハーフかという基礎知識すら僕たちは知らないのである。
知っていることといえばその名前、そして大変に薄い色素をしていることくらいだ。白銀に輝く繊細な髪、紅みがかった瞳、夏服から覗くシミひとつない柔肌は病弱さを窺わせる。そのせいだろうか、こまめにたんねんに日焼け止めを塗る彼女が目撃されることは毎日のことであった。
色素が薄いということは日光に弱いことは想像に難くない。プールを休むことも仕方がないだろうと彼女たちもきっとわかっている、わかった上で因縁をつけているのだろう。進藤本人は気にした素振りも見せてはいないが、この光景を見ている自分にはどうも面白くない。
それならば。僕は一歩下がって身を隠し、大きく息を吸い込み流行りの歌を歌い始めた。近づいてくる人がいると気付けば彼女たちもこの場は撤退するだろうと図ってのことだ。あやふやな歌詞だし廊下で歌を歌うなど少々恥ずかしいことではなるが致し方がないだろう。
どうやらこの計画はうまくいったようで、女子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、ポツネンと進藤が一人残されていた。
「〜……。あれ、進藤? 一人で何してんの?」
「……」
わざとらしかったであろうか、ばつ悪く、下手くそな歌を聞かれたこともあって顔が熱を持つことを感じる。他人に興味も無さそうな進藤だ、僕の名前すら知らないかもしれない。まあいい、僕はそそくさと彼女の前から立ち去ろうとする。
「伴。伴、智」
思わず振り返る。知ってたのか、僕の名前。まさかフルネームまで。
「何か用?」
「あ……」
言い淀み、黙る。進藤はその後も言葉が続かず、呼び止めた時におずおずと差し出した右手を所在なげに揺らしている。かと思えば、その手を下ろして僕の前から立ち去ってしまった。ゆっくりと、歩いて。
場を納めたのは見ていて僕の気分が悪かったからだ。礼を言われるほどのこともしていない。むしろ下手くその歌を聞かせて僕が謝った方が良いくらいなものだ。彼女にならって僕も家に帰ることとした。
──
夏休み中、僕の心を支配していたのは進藤薫子であった。ちゃんとした会話を始めて交わした時の、会話と言えるのかは正直怪しいが、あの日の放課後に見た彼女の姿が忘れられないでいたのだ。
「綺麗、だったなあ」
オレンジ色の夕陽に照らされた彼女の生白い肌は艶っぽく、流れる汗すら愛おしく見えた。頬から流れた滴は首筋を伝わり、学校指定のシャツに吸い込まれる。そして僕を呼び止めた細い声。言い淀み開いたままだったその口。
まともに彼女と口を聞いたこともなかったため、口に注視したのもあれが初めてだった。肌同様に白い歯と妙に色っぽい口内の肉のコントラストには目を見張るものがあった。そして何よりも、チラリと覗いた左右の犬歯、八重歯というのだろうか、それが僕の心を掴んで離さないでいた。
その歯に触れたい、あまつさえはその鋭い歯を自分の身体に突き立てて欲しいと思うまでに。夏休みが明ける一月半、僕はそのような妄想に取り憑かれて眠れない夜を過ごした。熱帯夜という言い訳はとても通用しないほどだった。
僕が眠れなくとも日は昇るしまた沈む。休みも明けるし進藤ともまた出会う。出会うといっても僕の方から話しかけることもできないし、彼女が僕に話しかけることもない。夏休み前、進藤に絡んでいた女子たちも興味が失せたようで、彼女に突っかかることも無くなっていたようであった。
──
『見てくださいこの人数! さすが日曜日のハロウィンです。今年も渋谷は大盛況で……』
僕はリビングのソファに寝転んでぼうっと興味のないニュースを流し見る。ハロウィンなど実に縁がない。仮装? ナンパ? カボチャ? 実に縁がない。カボチャは単に嫌いだ。ご飯のおかずとして煮付けを出されると絶望すら覚える。そんな絶望は冬至の日だけで十分、世の流行に流されてハロウィンでまでそんな悲劇が起こらないことを僕は母親へ切に願っている。
などと考えていると、インターホンがなる。家には僕以外誰もいなかったため、僕が応対に玄関へ向かう。
「とりっくおあとりーと!」
急な来訪者の正体は、黒い外套に身を染めた進藤薫子その人であった。いや、本当に進藤……だよな? 今日の彼女の様子は普段の学校とは真逆に近かった。表情も語気も明るい。昔の僕であれば別人のと勘違いしてもおかしくはなかった。『ししし』と笑う彼女の口から覗く八重歯が僕に進藤を感じさせていた。
「あー……進藤? とりあえず、上がる?」
「お邪魔しまっす!」
僕は自分の部屋で、適当な菓子と茶を進藤に進める。彼女は目を輝かせながらそれらに手を出した。実に幸せそうな顔でお菓子を頬張る彼女は年相応で大変に可愛らしかった。
「それで。進藤はどうして僕の家に?」
「お礼」
「え?」
「お礼を言いにきた」
何のことかと僕が記憶を遡らせていると、その答えは彼女の口から語られた。
「夏休み前、伴智は私を助けてくれた。ありがとう。直ぐにお礼を言えなくて、ごめん」
ああ、そのことかと合点する。しかしそんな前のことでわざわざお礼を言いにくるなんて義理堅いというかなんというか。
「別にいいよそんな前のこと。しかし今日はどうしたんだ? 学校とは違う人みたいだ」
「今日はね、私は元気で機嫌がいいの。霊的な力が高まる日だから」
進藤が何を言っているのかがよく分からない。分からないが、確かハロウィンとは日本でいうお盆だったか? だから霊的な力がどうとか言っているのか? 確かに今日の黒い外套は魔女っぽいというかコスプレっぽい。
「ああ、だから魔女のコスプレでもしているのか」
「魔女でもコスプレでもない。私はヴァンパイアハーフ。そしてこれは吸血鬼の正装である」
僕は彼女のなりきりっぷりに言葉を失う。しかし立ち上がって外套を翻しながら高々と笑う彼女は実に自信に溢れて、まるで一枚の名画を切り取ったかのような有様であった。たぶん、嘘偽りのない言葉なのだろう。
「して、伴智。貴様に問う」
襟首を正して彼女は言葉を続ける。
「先日の礼だ。貴様には私の眷属となる権利を与える。今日に因んだ問いだ。私の僕となるか、辞退するか──その場合は菓子でも頂くか。さあ、トリックオアトリートだ」
吸血鬼。眷属。漫画やゲームで聞いたことはあるが、まさか自分の身に降りかかるとは思いもよらない。眷属になるということは、あの鋭い歯で僕の首筋を──。僕の身体は、自然と彼女に膝まづいていた。
「結構」
彼女は僕を背後から抱き抱え、その牙で──。
「……え?」
「残念だが、先に菓子を貰ってしまったからな」
進藤は僕の首筋に歯を突き立てることなどなく、頬に優しく口づけを残していった。
「次の機会は逃すなよ? 私の眷属になる栄誉などそうそう無いのだからな」
再度翻した彼女の黒い外套は小さな蝙蝠となり、部屋中を埋め尽くして消え去った。跡形もなく、木霊する笑い声を残した進藤薫子までも消してしまった。
残された僕は、彼女にキスされた頬から高熱が広がるような気がしてそのままベッドに倒れ込んでしまった。
──ああ、僕はあの時から進藤に魅了されていたんだ。眷属になれなくても、いつか彼女と共に学校で過ごせることを夢見て僕は久しぶりに眠りこけるのであった。