ツリガネソウの時間
もう朝か。男は病床の傍に置かれたデジタル時計に目をやった。時刻は23:30と光っている。どうやら時間を見誤るほど弱っているらしい。数秒に一度の咳がそれを暗に示していた。
「あぁエリさん。最後にあんたに会いたかったよ。出来ればあの時間に戻って…。」
真っ暗な病室に虚弱な声が響く。もう男の先は短そうだ。その声に反応したのか、男が横たわっているベットの側のカーテンがヒラリと舞い上がり、窓際に黒い装束で身を固めた背の高い人間が現れた。手に鎌などは持っていないがどうやら死神らしい。その死神は腕に付けた時計を見ながらこう言った。
「あの時間とは?最後にあんたの戻りたい時間に戻らせてやろう。さぁ、何年前だ?」
声を聞き、存在に気づいた男は驚いたが、やがて落ち着き、幻だと解釈した。が、話し相手が欲しかったのかその幻の質問に順応して応えた。
「大学時代、今から50年前の11月の1日だ。忘れもしないよ。エリさんと初めてデートに行った日だからな。」
「分かった。時計を合わせ、別の世界線を作るから暫し時間をくれ。その間、良ければその日の話をしてくれないか?」
死神は妙に人間らしさがあった。それは外見ではなく内面の方に顕著に現れた。男は身を起こして喉を潤し、時々咳の混じった年季のある落ち着いた声で話し始めた。
「エリさんとは大学で出会ってね。まさに一目惚れだったよ。どうにか仲を深めて初めてのデートまで漕ぎ着けたんだ。そこで告白もしようと思った。ただ時間が許さなかった。気付けば私は寮のベットで泣いていたよ。それから今まで彼女の事を忘れた日はないし、あの日を後悔しなかった日もないんだ。」
話を聞き終えた死神は腕時計を操作した。準備は既に出来ているようだった。
「では、その日に向かおう。あなたのその後悔を無くしてもらわなければ霊になってしまう。その後悔が現世に残り、悪霊となってエリさんに害を及ぼすかもしれない。バタフライ効果などは気にするな。あなたが向かうのは全くの別世界で、そこにあるのはあなたが望んだ時間とそこから生じる未来だけだ。」
死神が話し終わると男は目を瞑った。恐らく死期を悟ったのだろう。が、心臓は止まる事なくむしろ加速していった。そして病床から姿を消した。
50年前の11月1日。男は慣れないシャツを羽織り、駅のホームで彼女を待った。
2人は歩き始める。まるで全世界の全てのものが彼らのためにあるかのように華やかな街は2人を彩った。ある喫茶店のソファに2人は腰掛け時間を共にした。窓から見える公園に植えられたツリガネソウは風のせいでゆらゆらと揺れている。男はただ時間の許す限り彼女の目を、声を、表情を感じ取った。そしてただ時だけが過ぎていった。
男は病床にいる。
隣にいた死神が尋ねた。なぜ告白しなかった?なんのために戻ったんだ?
男は応えた。会うためさ。もし彼女に告白して一生を共にするようになるとする。僕は彼女に今の病弱な姿を見て欲しくないんだ。きっと泣いてくれる。元気付けようとしてくれる。けれど残された彼女はきっと後悔するんだ。なぜもっと僕と時を過ごさなかったのかって。僕はそれを望まない。だから何もしなかったんだ。
次第に力が無くなってくる。声がかすれその声は音では無くなってくる。深く深く深呼吸をし、死神はしなやかに男の魂を刈り取っった。月の見えるカーテンは揺れている。いつかのツリガネソウみたいに。
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