ターナーとアイヴァゾフスキーに学ぶ創作術 〜 メインをひきたてるサブ 〜
ジェセフ・マロード・ウィリアム・ターナー(英・1775-1851)とイヴァン・コンスタンチノヴィチ・アイヴァゾフスキー(露・1817-1900)はともに風景画家であり、海洋画家でございます。
ターナーのほうは割と有名でございますねえ。イギリスのロマン派画家でございます。代表作というとなにになるのかしら……、『雨、蒸気、スピード:グレート・ウェスタン鉄道』(1884/ロンドン、ナショナルギャラリー)でしょうか。あの、ほら、橋のうえ、遠くから汽車ぽっぽが走ってくる絵です。のちのフランスの印象派とはまた違いますが、構図、画面の使い方の大胆さでいえば近いかもしれません。あと、「そのまま写実ではなくて、画家の主観で描いている」という点も。
アイヴァゾフスキーのほうはどうでしょう。ロシアの画家というと、日本じゃレーピンが有名? 彼の絵であれば世界史の資料集に載ってたけどって? ……まあいいや。アイヴァゾフスキーは、『第九の怒涛』(1850/サンクトペテルブルク、国立ロシア美術館)が有名ですね。私がはじめて彼の名を知ったのは、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の登場人物の台詞で、でしたけど。
じゃ、いきなりこのふたりの共通点、いくよ。
えっと、まず、風景画家であり海洋画家っていうのは言いましたね。海洋画家ってのはあれです。海と漁船、嵐。……ざっくりすぎる? ちゃんと知りたい人は自分で調べてね。
まあこれは、外面から見た共通点なんだけど、こっから内側に攻めてくよ。
風景画家ということは、風景がメインになるわけだ。ゴッホは風景も人物も描いたよね、ゴーギャンも。ルノワールだって人物だけじゃないんだぞ、風景画だってすごいんだぞ。でもとにかく、今回取り上げたこのおふたりさんは、概して風景なのです。
メインってことは、サブで人物が入ることがあるということ。で、同じく風景メイン(というかほぼ風景?)の徳川慶喜とかモーリス・ユトリロとか、のちに史上最悪の独裁者になってしまうあの人とか……と違って、このふたりの描く風景画には人物が配されているわりとちゃんとした意味があって、それってわりと重要……なような気がするのですよ。私には、ね。
ターナーの絵、じっさいに美術館で実物を見てみるとわかるのだけど、風景のなかに小さく描かれた人物のお顔がね、ヒョットコの仮面つけたみたいな感じなの。ある意味笑いたくなっちゃうような感じ。独創的なんだけど、それぞれに個性がなくて……、モディリアーニの人物画を思い出したね。
モディさんは、だれを描いてもモディさんの型にはまる。いや、それぞれ違った表情だったりってのはちゃんとあるのだけど……、アーモンド型の目だったり、くにゃーとした首だったり、彫刻のような彫りだったり(彼は彫刻もやってたからさ)。つまり彼は、個々の人物を描きながらも、どんな人物にもつねに「人間」としての普遍性を見出していたことになるんだよね。もちろん、彼の主観を通した独特の型にはめて。
普遍性……、ここでターナーに戻る。普遍性という点で、ターナーの風景の中に描かれた人物は、モディさんのそれと同じなんです。でも、モディさんは人物を描く。そして、「人間」を描く。対してターナーは、風景画家なのでありまする。
じゃあなにが違うかって、要はメインかサブかなのよ。
よし、いったん絵画から離れるよ。解放っ。
ってことで映画の話します。
『ローマの休日』(1953、アメリカ)って映画があるでしょう。有名だよね、名作だよね。あれってほら、どんな映画かっていうと、きゃあローマって素敵! って映画でしょう。で、ローマを魅せるにはやっぱり美男美女、そしてロマンティックコメディなわけだから、オードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペック演ずるアベックが街中でハチャメチャデートをすることによって、ローマの魅力をひきたてるんです。
日本映画でもありますよね。たとえば、田舎の風景を魅せる映画とか。ああいうのは、よし田舎といえば郷愁だ、人情だ、父の背中だ、っていうんで、里帰りの兄ちゃんだとか旅のお人だとかが主人公となり、人情劇が繰り広げられる……。ああいうのって、ある意味では風景こそが「主役」であって、キャストやストーリー、そこに連なるテーマ性っていうのは脇役だったりするものなんだ……ともとらえることができる。テレビCMの主役がタレントさんじゃなくてあくまでも商品や企業だっていうのと近いかな。……微妙に遠いかな。
あ、ヒッチコックはあれですよ。サスペンスがメイン。だから……、ちょっと不謹慎な言い方だけど、美女は怖がる役であって、鳥にいじめられたり殺されたりする役であって……。ストーリーも同様に、すべてはサスペンスシーンを盛り上げる脇役にすぎない(いや、それこそが重要なんだけど)。
よし、絵画に戻るよっ。
ターナーの主題は風景……なんだけど、まあ、面倒くさいから海洋風景にしぼりますね。さっき言ったように、海洋風景に描かれるのは、漁船と嵐。嵐が入ってくると、海難ってことになるよね。その場合……、ほら、ヒッチコックなんかと同じじゃん。海難……つまり、自然の偉大さや脅威を描くための引き立て役になるわけなんですよ、描きこまれた人物が。……おお、だからあんなに小さくて無力で、ひとりひとりの表情が淡々と描かれているわけか……って、なるわけです。(もちろん、「難」だけじゃないですよ、自然の偉大さを表すものって。でもほら、悲劇大好き人間さんには、たとえとして「難」のほうがわかりやすいかと思って。)
もちろん、「自然に立ち向かう人間たち」ってとらえようとすれば人が主役だけど、ほら、モディさんを思い出して。これは集団としての人間であって……、つまり、「人間」という概念であって、ひとりひとりのキャラクターじゃないんだって。
これね、アイヴァゾフスキーを見てよくわかった。はじめは、どうしてターナーはヒョットコ顔(※ 主観的形容です。)なんて描くんだろうって思ってました。だけど、アイヴァゾフスキーを見て……彼の絵を見たのはロシア絵画の美術展だったから、とうぜん他のロシア人画家の絵画も一緒に見るわけですよ。ロシア人画家の人物画ってほんとうに丁寧で、表情豊かなのね、で、そのなかに、壮大な自然のなかに駒のような人物が小さく描かれたアイヴァゾフスキーの風景画、海洋画があるわけですよ。この対比っ。そして、数ヶ月前に見たターナー展の記憶……、もうね、ぴこーんですよっ。
そういや、ふたりとも同じ画題で描いていたのがあったなあ。なにかともうしますと、それは海難ではないけれど、水難でありまして、旧約聖書は創世記の「ノアの大洪水」のモティーフでございます。ターナーのは、1805年製作・ロンドン、テートブリテン所蔵。アイヴァゾフスキーのは、1864年製作・サンクトペテルブルク、国立ロシア美術館所蔵。まあ、検索してみてくださいな。他の画家のものと比べてみるとおもしろいかもね。
で、なにが学べるかっていうとね。
……まあ、「なにを魅せたいか」なんですね。ここは小説投稿サイトですから、小説に当てはめて考えるのもよし、さっき例に挙げた映画に当てはめてもよし。もちろん、絵を描く人は絵でも。
たとえば、「こーこーこーゆー『風景』を魅せたい。それじゃ、こーゆーストーリーとこーゆーキャラクターを使ってこーゆー雰囲気の作品に仕上げれば、この風景はひきたつよね」とか、あるいは、「こーゆーキャラクターを思いついたんだけど、こいつが活躍できるとすれば学園もので、ラブストーリーで、お相手はこんなやつで……」とか……。「風景」「人物」「ストーリー」「テーマ性」……なにをメインにするかが決まったら、こうやっていちいち、サブの要素を演繹していくわけですよ。だってほら、ローマの街を魅力的に見せるのに、血みどろの怪獣映画やったってしょうがないでしょ。スペイン広場ぶっ壊れますがな、って話になりますでしょ。
あとは、小説家さんで「風景の描写が苦手っ」って人は、あえてそれをメインに持ってきてもいいんじゃないかな、って。
たとえば、上野公園の休日を描写する……ことを目的として、それに効果的なキャラクターやストーリー、盛り込めるテーマを考えていく……そうすると、またなにか新しく見えてくるトッパコーがあるかもよ、ってことですの。……いや、わからないけどね、やってみなくっちゃ。
ってなわけで、みなさん、よき創作活動を。と、なるわけでございます。
今日はこのへんで終わりにしたいと思います。