想念とペンの話
「今日は何も入ってないですよね」
学校帰りに寄った、時が止まったような店「宮古堂」の中。素朴な陶器のカップに注がれた、琥珀色の珈琲を睨みつけ、俺は店主に念を押した。
「はい。安心して召し上がってください」
店主は少し面白そうにそう言う。店主は背の高い、金色の目をした長毛種の黒猫だ。俺はこの間、この店主の前で結構な失態を演じてしまった……というよりは、この店主のせいであの事態は起こったのであり、俺が警戒するのも無理はない話だと思う。思ってほしい。
すう、と珈琲の香気を味わう。ゆっくりと一口。苦いと美味いって両立するんだって、俺はここの珈琲を飲んで初めて知った。
「うん、美味しいです」
店主は目を細める。なんだかとても嬉しそうだ。俺は、もうちょっと気の利いた褒め方をすれば良かったかな、などと思った。
「それは良かった。そう言っていただけると、こちらも大変気分が明るくなります」
「そういうもの?」
「なかなかね、最初の珈琲をゆっくりと味わってくださるお客様というのも、少ないのですよ」
あっ、これは知っている。そうやって特別扱いをして、図に乗らせて財布の紐を軽くしようという魂胆なのだ。騙されまいぞ、と俺は口を閉じた。金色の目は見透かすようにこちらを見つめる。
「本当でございますよ?」
なにせ……と、店主が何やら言いかけたその時だった。ばん!と大きな音を立てて扉が開いた。
俺は、なんだかひどく吃驚していた。ここを訪れるのは二度目だが、どういうわけか、この店には結界のようなものが張られていて、それで俺がいる間には外からの干渉はひとつも受けない、そんな思い込みがあったのだ。それくらい静かで、ゆったりとした店だった。
だから、その痩せた男がずかずかと中に入ってきた時、俺は、ああ、この店は現実なのだな、などとよくわからないことを考えていた。
「いらっしゃいませ。初めてのお客様でございますね」
店主は動じずにそう言った。
「当店では、お客様にお勧めの物品を、ゆっくりとご覧になって……」
「ああ、いい。珈琲だろ。そういうのはいいんだ」
男はせかせかと早口で口上を遮る。四十ほどだろうか、ちらほらと白髪の目立つ頭をしていた。
「目当ての品は決まってるものでね。先週、来た客に、変わった万年筆を売りつけたろう」
「そういったこともございましたね」
「あれが私も欲しい。買った客とは同業でね、話を聞いて、こりゃぜひとも持ってなきゃいかんと思った」
店主はにこりと笑う。
「お探しの品でしたら、想念筆でしょうか」
「名前は知らんよ。深い青の軸に、銀の飾りがついたやつだ。あいつ、書けない書けないぬかしてたのが久々にスッキリとした顔して、なんだって聞いたら、その万年筆のお陰で無事に長編をものしたと言うじゃないか。そりゃ私だって欲しくもなるさ」
男はまくし立てる。俺は珈琲のカップを持ったまま、呆気に取られてそれを見ていた。
「ありがとうございます。ですが、まずこちらのお客様がお先に」
「なあに、物を見せてもらって金を払って、それで終わりだろう。この店はなんだかのんびりと探し物をする客が多いらしいが、それなら五分、いや三分待つくらいどれほどのこともなかろうに」
俺は「あの」と手を挙げた。二人の視線が俺に向く。
「いいですよ。俺、ゆっくり珈琲飲んでますし。その万年筆もちょっと気になるし」
店主がまず俺を(相変わらず冷やかしで、何を買うとも決めていない俺を)優先してくれようとしたのが少し嬉しかった。だから、困らせてはいけないな、と思いながらそう言ったのだが、男を余計に勢い込ませることになったようだ。
「ほら、なかなか見所のある少年だ。そういうわけだから、そいつを見せてもらえないかね!」
店主は、ふう、と息を吐いてから言った。
「お客様がそうおっしゃるのであれば、お先にこちらの方にお持ちいたしましょう」
くるりと棚に振り向いた時、長い尻尾がゆら、と揺れるのが目に入った。心なしか、少し毛が逆立っているようにも見える。ああ、もしかして機嫌を損ねたのかな、と俺は少し新鮮に思った。
「在庫がございました。こちら、想念筆でございます」
紺色の天鵞絨張りの箱を、黒い手が丁寧にカウンターへと置く。中を開くと、そこには確かに夜空の青と銀の色をした、いかにも上等そうで、俺など首を竦めたくなるような万年筆があった。
「おお、これだよこれだ! これがあればスラスラと書けると言っていた」
「失礼ですが、文筆業の方でいらっしゃいますか」
「そうだよ。これでも作家だ。が、ここのところどうにも調子が悪くてね」
「左様でしたか。ではご説明を。この想念筆は、頭の中にある強い想いや創意を……」
男は遮る。なんというか、そこまで急がなくても良かろうに、と思いたくなるほどの勢いだった。
「いやいや、もうわかっておるよ。物書き垂涎の道具だろう」
「はあ……では、試し書きを。こればかりはどなたにもお願いをしておりますので」
店主は少し軸を点検した後、クリーム色の上質紙を取り出した。男は万年筆を受け取り、意気揚々と紙に向き合い、筆先をつけ。
「む」
筆は、じっと動かなかった。やがて空中をふらふらと彷徨い、また紙の上に戻る。男の顔はみるみるうちに険しくなっていく。
「なんだこれは。少しも書けんぞ」
「そういったこともございます」
店主は落ち着いたものだ。
「不良品なんじゃないのかね?」
「その可能性も……ああ、そうだ」
店主の光る目が不意に俺の方を見た。
「お客様、大変不躾ですが、少しこちらの商品の試し書きをしていただけないでしょうか?」
「え、いいですけど、俺?」
俺は目をぱちくりとした。文章が溢れ出てくる万年筆なんて、他人が使う分には興味こそあれ、俺には特に縁がないものだと思っていたのだが。
万年筆が不機嫌そうな男から俺に手渡される。俺は少し唾を飲み、それから筆先を紙に……。
「うわっ、うわ、うわ!?」
思わず声を上げていた。万年筆は勝手に、俺の手を引っ張るようにするすると動いていく。後には、青黒の軌跡が残る。確かに俺の、それほど上手くもない筆跡だ。筆は紙の半分ほどを文字で埋め尽くし、そして止まった。
「珈琲賛歌、と。詩でございますね」
「俺、そんなの書いたの?」
自分でも全く何を書いたのかわからないので、見せてもらった。どこか歌詞のような、上手いのか下手なのかどうかもよくわからない内容だったが、ふたつ確かなことがあった。不思議なことだが、これは確かに俺の頭の中から出てきたものだということ。それから、この詩は珈琲の味を讃えるものだということ。どうやら、俺は相当ここの珈琲に心惹かれていたらしい。なんだか面映ゆかった。
「これ、俺のです……。なんだか、頭の中にあったことを引っ張り出されたみたいな、そんな感じがする」
ふん、と男が鼻を鳴らした。先ほどまでの機嫌の良さはとうにどこかに消えたようだった。
「左様ですね。想念筆は正常に働いたようです。先ほどは、残念ながらこちらのお客様とは相性がよろしくなかったと、そういうことに……」
「もういい!」
怒鳴り声。
「何が想念筆だ。動かなきゃ何の役にも立たんじゃないか! 時間を無駄にした。帰らせてもらう」
男はぷい、と顔を逸らすと、扉を乱暴に開け、どたどたと出ていった。来た時と同じく、唐突に。
「…………」
「…………」
俺は店主と顔を見合わせる。
「あの、それ、本当に不良品とかじゃないんですか」
「先ほどは動きましたしねえ。正常のようですよ。お客様の詩もほら、『珈琲を飲む時 僕の心は静かに』」
「やめて! 読まないで!」
俺は慌てて紙を奪い取った。顔が熱い。何てことをするのだ、この猫は。
「じゃあ、なんでさっきの人は書けなかったんですかね」
「それですが……。恐らく、先のお客様のいらっしゃる時にはやや言いづらい理由で」
店主は声を落とした。誰が聞いていることもないだろうが、まあ、気分だろう。
「想念筆は、頭の中にある強い想いや創意を、外に引き出す手伝いをするものです。言わば、想念がインク代わりということになります。先の方のお友達は、創意はあれど表現に苦しんでおられたのでしょうね。そういった方は大いに助かる、そんな道具です」
俺は頷いた。
「ただし、使用者の中に外に湧き出るほどの強い想いがない時は……」
「結局書けないってことですか!」
「インクのない万年筆は、書けませんでしょう?」
なんだか、肝が冷えた気持ちだ。俺は文は書かないけれど、作家になれるほどの創意に満ちた頭が、やがて全て使い果たし、もはや枯れ果てていたとしたら。
「もちろん、永遠に、というわけではありませんでしょうね。あの方に必要なのは、便利な道具ではなく、頭を休め、ゆっくり何かに感性をときめかせる、そんな時間だったのでしょうが……」
ため息。俺は、なんだか会ったばかりのはずの人を思って悲しくなってきた。せっかちで焦り屋の作家先生。スランプから抜け出せるのはいつになるだろうか。
「さて、とはいえ私の縄張りはこの店の中だけですからね。外の人のことまで心配してもいられない」
尻尾がぴんと立つ。
「珈琲のお代わりを用意いたしましょう。気に入っていただけたようですからね」
再び、俺は顔が熱くなるのを感じた。
「お客様は、想念筆はお使いになられませんか? 先ほどの詩はなかなか」
「使いません!」
店主は笑った。俺は少し不貞腐れて足を揺らした。
でも。何か書いてみるって、ちょっといいかもしれないな。想念筆に頭の中を引っ張り出された時の感覚を思い出す。
まずは、自分の言葉で。自分の力で。意外と、いいかもしれない。
火にかけられた薬缶から、蒸気の吹き出す音が柔らかに響いた。俺は、珈琲賛歌の二番をぼんやり考えながら、店主の戻りをゆっくりと待つことにした。




