人魚の涙の話
重たそうな木の看板に、唐草模様に囲まれた装飾文字で店の名が書いてある。「宮古堂」というのがその名前らしい。いつも帰る道からちょっと奥まった通りにあったので、今まで気づかずにいたのだろう。
店内は小さな窓から覗くことができて、橙色の灯りがほんのりと中を照らしている。そこには喫茶店かバーのような大きなカウンターと幾つかの椅子が置かれているが、俺はこの店が飲食店ではないことを知っている。二個手前の電信柱に貼ってあった、深い青のインキで印刷されたビラには、確かに「道具屋 宮古堂」とあったのだ。
古道具屋、ではないのだな、と少し不思議に思った。店の構えや内装はどうにも懐古的で、しっとりと時が止まったような印象を受ける。日用の雑貨を商う店とは明らかに趣を異にしていた。
表通りを見る。茜空に、電気自動車のぱちぱちと鳴らす火花が喧しい。店の扉を見る。年季の入った風な扉はなんだか……俺に、どうぞ、と囁いているように見えた。
特に要り用なものがあったわけではない。純然たる好奇心である。何せ、今日は一人の帰り道で暇な時間を過ごしていた。だから俺は、思い切ってドアノブに手をかけ、引き開けた。
扉は、案外と軽かった。
時代がかったセピアの空気に包まれた店内は、窓から見えた様子と大して変りなく、ただカウンター上に大小様々な箱の類が積まれていた。カウンターの向こうには店主がおり、こちらを見て、いらっしゃいませ、と丁寧に頭を下げる。
店主は年齢のよくわからない、艶やかな長い毛並みの黒猫だった。背は俺よりも高い。金色の目はぴかぴかと、こちらを見つめて何かを待っているかのようだった。俺はそんな猫の目にはどうも中身を見透かされているような気がしてしまい、苦手だ。ついと視線を外して、お上りさんのようにきょろきょろと店内を見回すのに努めた。
とはいえ、道具屋の看板のわりにカウンターのこちら側には物は少ない。代わりに、店主の背後に天井まで届く高さの頑丈そうな木棚があり、そこに商品と思しきあれやこれがぎゅうと詰まっているらしいことがわかった。
「お客様、初めての方でいらっしゃいますね」
店主は、穏やかな声で言う。
「当店ではお客様それぞれにお勧めの品を、ゆっくりと見ていただく形を取らせていただいております。まずはおかけになって、珈琲でもどうぞ」
黒い手が椅子を指差す。俺は少し焦って頭を掻いた。
「あの、俺、ちょっと気になって冷やかしに入っただけなんですよ」
「左様でしょうね」
金色の目が細まる。
「学生さんとお見受けいたします」
「はあ、そうです」
まあ、見てわかろうというものだ。半袖の白い開襟シャツ、黒のズボン、手提げの革鞄。同じ高等学校の制服姿の学生は、この辺では珍しくもない。
「なあに、ガラクタの押し売りなどはしませんよ。見ていくだけでも構やしないのです。珈琲は私の趣味で、サービスいたしております」
さあ、と再び示された席に、俺は緊張しながら腰掛けた。いざとなればすぐ逃げて帰れるように、鞄を膝の上に抱え、キイキイと音の鳴る椅子に身を預ける。
店主がゆっくりと奥に入っていった隙に、俺はもう一度棚を見上げた。何がなんだかわからない道具が沢山ある。望遠鏡とか、マッチとか、まあ使い途のわかるようなものの合間に、謎の筒だとか、試験官に封じられた粉だとか、見たこともない香辛料か何かの瓶だとか、よりどりみどりといった風情だ。錬金術士の工房とか、そういった趣すらある。
やがて、しゅんしゅんと湯気の音が立ち、ふわ、と香ばしい香りが漂ってきた。珈琲は湯を注いで、紙で濾して飲むのだっけ。そう何度も飲んだことはないし、そのままでは苦くてとても口に合わず、砂糖と牛乳に逃げていたのだが、今日に限ってはその香りにふっと心が軽くなったような心地がした。
「お待たせいたしました」
にこにことした顔で、黒猫の店主は素朴な陶器のカップを差し出す。
「いただきます……」
口にした瞬間、耳のあたりでぱちんと泡が弾けたような気がした。
「美味しい」
つるつると温かい珈琲が喉に吸い込まれていくようだった。砂糖も何もいらない、俺はこの軽やかでほろ苦い香りを飲んでいるのだ。カップを下ろすが、まだ半分も飲み終わっていない。不思議な気分で顔を上げる。
「美味しいですね、これ」
「ありがとうございます。趣味が高じましてね」
店主が丁寧に頭を下げる。
「そのうち自家焙煎などやってみたいとも思っているのですよ」
「こんな美味しい珈琲、今まで」
あれ。
「今まで、飲んだこと」
あれ、おかしいな。どうして声が掠れるのか。どうして喉が震えるのか。
「飲んだ、こと、なく、て」
どうして鼻がつんとするのか、どうして音が遠いのか、どうして、どうして目元が熱いのか。
「俺」
はたはたと、透明な滴がカウンターに落ちる。俺の目から頬を伝って落ちたものだ。
「すい、すいません、俺、俺、なんでこんな、急に」
そう、俺は馬鹿みたいにぼろぼろと、涙を流して俯いていた。時折嗚咽すら喉を震わせる。どういうことだろう。人前で泣くようなこと、今まで一度もなかったのに。何があってもずっと、我慢していたのに。
店主は、妙に落ち着いた顔で、もはや音に表すのも難しくなってきた俺の泣き声をじっと聞いているようだった。それから、さっと白いハンカチを取り出し、俺に手渡した。何かの花の香りがする。俺は顔を拭き、ほんの少し落ち着いた気持ちになって、それから顔を上げた。
「申し訳ございませんね、お客様。少々『効きすぎた』ようで」
「き、効きすぎた」
俺は鼻を啜った。
「人魚の涙の結晶、というものがございまして。あれで人魚というものは、波の音や塩辛さに紛らせてぽろぽろとよく泣くようなのですね。それを特別な方法で精製し、結晶にしたものを当店では取り扱っております」
何を言っているのだろう、と思った。目からはまだ止めどなく涙が溢れていた。
「あなたの珈琲、すこうしだけ、塩辛くはありませんでしたか」
俺は口を軽く開け、そして気づいた。
「それ、入れたんですか」
「ええ」
「そのせいで、俺、今こんな」
再びぽろぽろと滴が溢れる。えっえっ、と嗚咽がこみ上げた。つまり、この店主は客のカップに勝手に混ぜ物をして、人の神経を勝手にかき乱して、そういうことなのか。
「ひ、酷くないですか」
「人魚の涙には、流せなかった涙を誘う効力がございます」
店主が厳かに言う。
「お客様のその涙は、本来、別の時に流れているはずだったものなのではございませんか」
お勧めの品を、ゆっくり見ていただく。そういうことかと突然合点がいった。いった途端に、止まらなくなった。今度は、涙ではなく、言葉が。
「お」
喉が引き攣る。
「一昨日です。俺、渡り廊下、歩いてました。同級の女子が三人、向こうから歩いてきて、俺、別に大して話したことなんてないから向こうもこっちも、何にも言わなくて」
晴れた日だった。窓の外に飛行機雲がゆっくりと伸びていくのを、なんとなく見ていた。
「よかったね、って誰かが言ったんです。そしたら、一人が凄く嬉しそうにきらきら笑いました。俺は、何があったか知ってました。俺の友達が、ずっとその子のこと好きで、それ伝えたら、その子もそいつのこと好きだってわかって、それで、それで全部が上手くいって、よかったって話なんです。俺、みんな友達から聞きました。そいつ、本当に嬉しそうで、ああ、よかったなって思いました。思ってたんです。渡り廊下で、その子の顔を見るまでは」
肺の中に空気を吸い込み、また続ける。間に合わなかった恋の話を。
「もう遅いんです。なんでこんなに苦しいのかもよくわからない。何が出来るわけもない。いっそ何もしちゃいけないでしょ。俺はずっと幸せそうな二人を見てなきゃなんないんです。気づくのが遅かったから、だから」
俺が口を閉ざすと、店内は時計の針の音だけが響く、ひどく静かな空間になった。店主は何も言わない。
「だから、ずっと黙ってました。今日も、一人で帰りました」
ぽつん、と一粒の滴が膝に落ち、それを最後に俺の涙は止まった。
「……心の澱は、少しは晴れましたでしょうか?」
店主が、ゆっくりとそう尋ねてきた。俺は腫れぼったくなった瞼を上げ、金色の目を見返す。
「これ、全部見抜いて、混ぜ物したんですか」
「見抜いて、というほどのことはございませんよ。お客様ほどの年頃の方は皆多かれ少なかれ、心に涙を溜めてらっしゃる。もし仮にそうでなければ効き目はありませんから、他の物をお見せするまでです」
なんというか、しゃあしゃあとよく言うものだと思った。俺は、ようやく少しだけ笑った。
「とはいえ、お客様の場合は先ほども申しました通り、効き過ぎでございますね。心ばかりのお茶菓子などサービスさせてくださいな」
翡翠色の丸皿に乗せられた、ころんと丸い狐色のクッキーが差し出される。
「これには、何も入ってないですよね」
「ええもう、目抜き通りの洋菓子屋で買い求めた物でございますから」
口に入れると、バターの香り。さくり、ほろりとほどける。俺の舌も、一緒に、ゆっくりとほどけていく。
「……でも。ちょっと、楽になったような、そんな気がします」
「左様でしょう」
「ここに来られて、良かったのかも」
「ほほう、では」
かたん、と小さな透明の瓶がカウンターに置かれる。中には、目を凝らさないと見えないほど透き通った、丸い粒が幾つか閉じ込められている。
「如何です、苦しい時に人魚印のティアドロップ。お買い求めしやすいお値段で用意してございます」
俺は小さな瓶に貼られた小さな値札をじっと見た。それから、鞄から取り出した財布の中身と見比べ、黙考し、唸り声を上げ……。
「ありがとうございます。またのお越しをお待ちいたしております」
ドアが閉まる音は、意外と軽かった。俺の財布の中身も。それから、泣きに泣いた俺の心も。小走りで行くこのステップも。
藍色に染まり始めた黄昏の街に、路面電車が近付いてくる音がする。街灯が青白い点滅を繰り返す。
俺は、石畳の道に歩を進めた。透明な人魚の涙は、鞄の中に仕舞われてある。次にいつ使う時が来るのかはわからない。いつまでも使わぬままかもしれない。それでもいいのですよ、とあの店主は言った。言うなれば、これはお守りでございますから、と。
踏切が甲高い音で歩みを遮る。俺は足を止めた。空を見上げると、街の灯に負けないほどの、酔いそうなくらいの大星空。
列車はカタンカタンと音を上げて進んでいく。俺は湿った夏の空気を吸い込む。人魚は、しばらくは涙を流さず泳いでいくだろう。
踏切が開くと同時に、俺は歩き出した。また、いつかあの店に行こう。美味い珈琲を飲みに。店主はそうしたら、一体どんな不思議な道具を見せてくれるだろうか?