02 転生者と「白い小鹿亭」
「まあ、イヴ。遅かったじゃない。
…ラッセルったら、昨日は離してくれなかったのねぇ」
大通りをしばらく進んで、南門のすぐ近くを右に入ったそのすぐ角の、白い鹿の形の看板がかかった店。遅刻ではないものの、いつもよりだいぶ遅い時間に足を踏み入れた瞬間、同僚のローレンがにっこり笑って声をかけてくる。
来て早々、先ほどセレサから言われまくった桃色な理由の寝不足説を、直球でぶん投げられてイヴの精神力がガリガリ削られた。
だが、ローレンはセレサと違って、イヴとラッセルの間柄を誤解している訳ではない、と、イヴが知っているのをローレンは知っている。
「…ローレン、分かっていて言うのは、止めて」
「あらぁ、嘘は言っていないでしょう?」
毎度毎度、使いどころを間違えずに、的確にイヴを撃沈できるネタを全力投球してくるあたり、ローレンは本当に非常に素晴らしくいい根性をしているとイヴは心底思っている。げんなりした顔を隠そうともしないイヴを見てくすくす笑う彼女は、そんな仕草すらも厭味なく人を引き付ける、正真正銘の美女だ。
イヴより少なくとも13は年上で(正確な年齢は教えてもらえていない)、ついでに既婚17歳の子持ちのローレンは、そうとは見えない抜群のプロポーションと美貌を持ち合わせていた。
今日は、緩やかに波打つ鮮やかな赤毛を片耳の後ろで結わえて、背中に流している。まろやかなカーブを描く、背中から腰のラインに赤毛が躍っていた。少し垂れ目がちな目元と右側にある泣きボクロが、同性であるイヴの眼から見ても、彼女を扇情的に見せる。
勤務歴でもイヴの遥か上の先輩であるローレンは、「白い小鹿亭」に欠かせない看板従業員のひとりである。
思わず見比べるように自分の体を見下ろして、イヴはちょっと落ち込んだ。人生経験だけでいうのなら、前世の30年分も含めれば恐らくイヴの方が遥かに年上な筈なのだが、残念ながら今に至るまで、肉体的にも精神的にも、彼女には勝てる気がしない。
そんなイヴの気持ちが手に取るようにわかるのか、ラッセルが、ニヤニヤ笑いながら厨房から視線を送ってくるが、腹が立ったので、無理やり視界から外してやった。
「白い小鹿亭」は1階が昼は食堂兼酒場になっている。2階は一応宿屋になっているが、半年前に通りを挟んだ向かいに安価な宿屋が出来て以降、日々閑古鳥が鳴いていた。
半面、向かいの宿には食堂がないため、1階がこれまで以上に流行るようになったのが、せめてもの救いと言えなくもない。
ちなみに、宿屋によっては、別料金で部屋に従業員を呼べるところもあるが、「白い小鹿亭」の2階は至って健全な宿屋である(ただし、部屋は埋まらない)。
昼は大体、ローレンとイヴの二人で食堂の接客を担当する。一応王都の南門付近、騎士団の駐屯地や自警団の拠点からも近い立地に店を構えているので、王都にたどり着いた旅人や、休憩中の騎士団員、自警団員などで店はかなり賑わうのだ。
特に、アーベル兄弟の野菜を使った日替わり定食は大変な人気で、時には外にまで人が並ぶ程だ。
夜は、一日外に出ていた出稼ぎの鉱夫や冒険者が街に戻ってきて、酒を囲んで一日の疲れを癒すのが常なので、もう二人ほど人手が増える。彼女も、ラッセル曰く『イヴとは大違いの艶やかな美女』だ。
イヴとて夜も店に出るが、酒場で酒を飲むのは大半が男達であり、酒を飲む男たちの大多数は哀しいかな、ローレンのような美女が大好きだ。故に、夜の「白い小鹿亭」においては、イヴはひたすら料理を運ぶ係に徹する。…否、イヴだって需要はあるはずだ、多分、一部には。
しかし、世間一般には夜は戦力外のイヴが役に立つのは、昼食時。つまり、今から半刻後からの混雑時である。そんな昼日中の「白い小鹿亭」においては、明るい声とテキパキしたイヴの接客は、それなりに好評だった。
客層としては昼も男性客の方が多いが、大概イヴよりも年上の常連客は「イヴちゃん」と呼んで、可愛がってくれる。時としてお菓子やお小遣いまでくれるその扱いは、まるで娘や妹に対するようではあるが、居心地は良かった。
「それにしてもイヴ、ちゃんと飯食ったのか?顔色が良くねーぞ」
くすくす笑いの止まないローレンの後ろから声がかかる。目を向ければ、店主のエドガーが腕組みしながらイヴを見ていた。総じて彼の声は粗っぽく聞こえるが、言葉は優しい。厨房の出入口に掛けられた彼の腕は、丸太のように太く、筋肉質だ。20年前の魔王討伐軍の生き残り、というのはローレンから聞いた真偽不明の話だが、あながち嘘ではない気がしている。
「確かに朝は食べそびれたけど。でも、大丈夫ですよ。昨日の夜中に、誰かさんに沢山食べさせられたから、そんなにお腹が減っていないの。ねえ、ラッセル?」
後半の言葉は、エドガーの後ろからこちらを見ている少年に向けたものだ。昨夜から今までの胃もたれや夢見の悪さに対する怒りを思い出して少し声が低くなってしまったが、ラッセルはどこ吹く風である。こちらに向けていたにやにや顔もそのままに、手に抱えたままのボウルから、危なげない手つきで皿に野菜を盛っていく。イヴが後ろへ向けた目線を追って、ラッセルに気付いたエドガーが渋い顔をした。
「おい、ラッセル。お前、あんまりイヴを無茶に付きあわせるんじゃねーぞ。ご両親に申し訳が立たなくなっちまうだろうが」
「別にイヴだって嫌がってなかっただろ。凄く嬉しそうな顔してキッシュとタルトそれぞれ3個も食べたくせに。
それより、ほら」
したり顔のラッセルのセリフに、返す言葉がない。思わず無言になったイヴを見て、笑みを深くしながら、ラッセルがこちらに右手を伸ばしてきた。何かを握っているらしい。
受け取ろうと差し出した掌に、コロン、と丸い包みが二つ落ちてきた。乾燥させたハーブを糖衣でくるんだ、この国ではよく食べられる砂糖菓子だ。
「食欲なくても、そのくらいは食べられるだろ。
ほら、そろそろ開店の時間になるんだから、頑張りなよ」
「…ありがと」
見上げたイヴに、そっけなくそれだけ言うと、ラッセルは踵を返して奥に戻っていく。少し出遅れた、ぶっきらぼうなイヴのお礼の言葉はたぶん届いたのだろうが、反応はなかった。
一部始終をニヤニヤ笑いながらローレンとエドガーが眺めていたことに気付いたのは、貰った砂糖菓子を口に含んだ瞬間だった。新たなからかいのネタを提供してしまったような気がするが、開店まで時間がないので、考えるのは後回しにすることにした。流石にローレンも時間がないことが分かっているらしく、何も言わずに準備に戻っていく。
イヴの好きなミンティの葉が練り込まれた菓子は、すっきりと甘く、優しい味がした。
前回投稿時、恐れ多くもブックマークしていただき、ありがとうございました。
書きたいことが多いのですが、筆が進まず申し訳ないです。