01 転生者は寝坊する
――見慣れた染みだらけの木の天井が視界に入って、目が覚めたことに気付いた。
「あー………」
またか。思わず声が漏れる。ベッドから重い体を起こせば、夜着が汗でじっとり湿って、身体に張り付いていた。何度も繰り返し見て、もう夢だと分かっていても、衝撃がなかなか収まらない。
自分が死ぬ、瞬間なんて。
唸りながら、膝を抱えてベッドの上でうずくまる。そのまま顔だけを横に向ければ、小窓から、青空と、さんさんと光を放つ太陽が見えた。
…太陽が、見 え た ?
「―――っヤバい、寝坊だ!!!!痛っ!」
叫びながら思わず跳ね起きた拍子に、ベッドの柱に足の小指をしたたかにぶつけて、今度は痛みにうずくまる。なんだって今日という日は、精神的にも物理的にも踏んだり蹴ったりな出だしだ。
だが、痛みで静止している場合でも、感傷に浸っている場合でもない。部屋の窓から太陽が見えるということは、陽が昇ってからかなり時間が経っている証拠だ。
――ああもう何でこんな日に限ってラッセルも起こしに来ないのよ、毎日勝手に人の部屋に入ってくるくらい、超無神経なのにあの役立たずっ!
と、恐らく数刻早く出勤してこの場にいない同僚兼同居人兼幼馴染を脳内で罵倒しつつ、ベッドから降りて素早く着替える。ついさっきまで見ていた夢の中の服とは違って、簡素なつくりのワンピースは下着をつけて上から被るだけで事足りるので、忙しい朝にはとてもありがたい。
ぼさぼさの髪に櫛を入れながら空いた片手でベッドを整えて、鞄に荷物を詰め込んでいく。そのまま洗面台まで進んで、適当に梳った髪の毛を適当に結い上げて、髪飾りで纏めた。化粧をしている暇なんてないので、顔だけ洗って終わらせる。
食事を摂っている暇もないが、最悪な夢見のおかげで食欲も湧かないのがせめてもの救いと言えようか。そのまま靴下を履いて外履きを突っ掛け、勢いよくドアを閉める――作りが古いので、強く閉めないと閉まらないだけであって、断じてイヴが粗忽な訳ではない、断じて。
鍵を閉めるのもそこそこに、アパルトマンの階段を駆け下りて大通りに飛び出す。
毎朝、一階の八百屋から食材を預かって、職場である食堂兼宿屋の『白い小鹿亭』に持参するのがイヴの仕事の一つだった。食堂のオープンは昼食時からなので、持っていくのが遅くなればなるほど、ただでさえ毎日戦場な厨房の修羅場度が増す。
過去3回ほど目撃した、スー・シェフのディールのひきつった笑顔を思い出すだけで、顔から血の気が引く思いがした。
「あら、イヴ、おはよう。今さっき、すごい音がしたけれど。大丈夫?」
階段を下りたすぐ左側から、焦った自分に不釣りあいな柔らかい声がかかった。おっとりした声音に、急ぐ気持ちが少しそがれて振り返れば、隣人のセレサと目があって、にっこりと笑いかけられる。ちょうど開店の準備をしていた所だったらしい。ほっそりした腕が抱えるには似合わない大きな袋から、棚に並べられている途中らしいオランジュの果実が覗いていた。
アパルトマンの一階は店舗になっていて、一昨年の夏に大家さんが経営していたパン屋を閉めてからは、その遠縁にあたるセレサとダリオの兄妹が移り住んで、八百屋を営んでいる。人懐こい妹のセレサは、愛らしい見た目や雰囲気とは裏腹に、三つも年下とは思えないくらいしっかりしているためか、イヴとも話が合った。
「おはよう、セレサ。驚かせてごめんなさい。ベッドに足をぶつけただけなの。こんな日に限って、ラッセルが早く出てしまうから。寝坊して、慌てたの」
「ふふっ。イヴが寝坊なんてね。そのラッセルなら、さっきここに寄ってくれて、今日の野菜を持って行ったわ。
…昨日はイヴに遅くまで無理をさせてしまったから、ギリギリまで寝かせてあげたい、って。」
「………ああ、そう」
なんだ、野菜はラッセルが持って行ったのか。
ホッとしつつも、その後に続いた笑いを含んだセレサの言葉に、イヴは表情を作ることを忘れて、目の前の少女を凝視した。思いがけず低い声になったイヴの返答など全く気にした風もなく、愛されてるのねぇ、と、年頃の娘らしくほんのり頬を染めて吐息交じりに言うセレサは、イヴとラッセルの関係を完全に誤解している。
確かに昨日はラッセルのせいで夜が遅かったが、別段セレサが考えているような桃色の事情ではない。新しいメニューの試食につき合わされただけだ。年頃の乙女を深夜に試食に付き合わせるなんて確かに鬼畜の所業には違いないし、寝不足と胃もたれで翌朝が辛いから遅くまで寝ていたかったのも確かだが、どうして分かっていてわざわざ誤解されるような言い方をするのか、あの男は。というか、夢見が悪かったのも元をただせば、深夜の飲食による胃もたれのせいなんじゃあるまいか。
何だか色々思い返して、ふつふつと怒りが沸いてきたイヴは半眼になった。
もっとも、二人の関係を誤解しているのはセレサに限ったことではない。イヴが都度きっぱり否定していても、面白がった噂の片割れが思わせぶりな言動を繰り返すせいで、今やすっかり近所でも評判の仲、ということになってしまった。
…まあ、姉弟でもない年頃の男女が(片方は成人前とはいえ)、2年も一緒に住んでいる時点で波風が立たない訳もなく、いちいち事情を説明するのも煩わしいので、イヴも最近では諦めているのだけれど。イヴが嫌がることを良く知りながら、ラッセルはむしろ面白がって積極的に周囲の誤解を増長させてくれやがるので、こうして面と向かって人様から言われると、イヴも半眼になろうというものだ。イヴの表情を照れ隠しと受け取ったのか、『いいなぁ、イヴ』と甘く呟くセレサの言葉が、無自覚に追い打ちをかける。本当に、何て日だ。
イヴはがっくりと地面にへたり込んだ。ただし、心の中で。
野菜をラッセルが持って行ってくれたなら、慌てふためいて出勤する必要はなくなった。化粧をしに部屋に戻ることも出来なくないが、それをすると本当にギリギリだ。どうしようかと悩みながら、ぞんざいに纏めたせいで崩れかけた髪を留め直していると、ふと、店の奥からこちらを見つめるダリオと目があった。
「おはよう、ダリオ」
いつの間にか頬を伝っていた汗を手巾で拭いながら、慌てふためいていた気恥ずかしさを誤魔化すように、へらりと笑って声をかけると、彼は眉を上げて無言で首肯した。最初の頃は戸惑ったこの反応も、寡黙な彼なりの挨拶らしいと実感できてきたのは、妹のセレサの説明と相まって、つい最近のことだ。
一緒に居てもあまり会話は成り立たないが、別段彼が気にする様子もないし、不思議と気まずい感じもしないので、割といい関係が築けているのではないかと、イヴは勝手に思っている。
「今朝はとても新鮮なカロットとレーシャスをダリオが仕入れてくれたのよ。いつもの野菜と合わせて、ラッセルに渡してあるわ。豚肉のレーシャス煮にするって言っていたから、楽しみね。
もし後で手が空いたら、私も食べに行こうかしら」
にこにこ笑いながら、セレサが横から説明してくれる。無口で商売にはとても向かなそうなダリオだが、何やらいい伝手があるらしく、毎朝素晴らしく新鮮な野菜を仕入れてくる。愛想のいい妹の接客と合わせて、「アーベル兄妹の八百屋」と言えば、今や、この町でも評判の店だ。
二人の店には、同じアパルトマンに住んでいるよしみで、イヴとラッセルの勤め先にも毎日野菜を提供して貰っている。月単位の契約だが、野菜の質を考えると破格の待遇だ。ただし、兄妹二人で切り盛りする店なので配達までは人手が割けず、毎朝イヴかラッセルのどちらかがが八百屋から引き取って持っていくことになっていた。
…「どちらかが」とはいえ、ラッセルは厨房担当で肉や魚の仕込みがあるため、イヴよりも朝が早い。話し合いの結果、「自分が持っていく」と主張するラッセルを説き伏せて、一緒に寝起きしつつ少し遅く出るイヴが、同居人を見送った後で、野菜を抱えてゆっくり出勤することになった。
…今日はたまたま、本当にたまたま、寝坊してしまった訳だが。
「ぜひ、食べに来て頂戴!二人ならいつでも大歓迎よ。…じゃあ、そろそろ私も行くわね」
「行ってらっしゃい。
…本当に、お店が空いたら行けるのになぁ。お客さんが多いのは、嬉しい悲鳴なんだけど」
ぜひ食べに来て、と言いつつ、繁盛する八百屋を空けて二人が来ることは難しいだろう。毎日お決まりになった口約束を紡いで、イヴは二人に手を振った。少し口をとがらせた後、すぐににこやかに手を振ったセレサの横で、ダリオが小さく黙礼する。正反対の二人だが、整った顔も相まって、双方に信望者が多いのもまた事実だった。
うらやましい限りだ、と思いながら、イヴも仕事に向かうべく、少し早足で大通りを歩きだした。