【5】オオカミさんとハンター
「へぇ、俺以外の狼族とは珍しい」
ある日のこと、オオカミさんは初めて自分以外の同族に出会いました。
彼はこの近くの森に住んでいたのですが、最近人間に追い掛け回されて、一時的にここにいさせて欲しいと頼んできました。
クランツという彼は、オオカミさんよりも青みがかった銀のたてがみをしていて、人間の姿になると逞しく引き締まった体をした二十代後半くらいの男でした。
「ここで会ったのも何かの縁だ。俺の嫁になれ!」
出会ってすぐの求婚に、オオカミさんは眉を寄せました。
「そんな顔するなって。狼族はただでさえ少ないんだ。しかもメスはさらに少ない。異性の同族に出会ったら、求婚するのが普通だろ?」
「知るか。私はお前と結婚する気はない」
オオカミさんは跳ね除けましたが、クランツは諦めがつかないようでした。
「別の獣人や人との間にだって子はつくれるけど、どうせなら自分と同じ種族で、強いメスがいいんだよ」
クランツはお前もわかるだろと言うように口にします。
しかしオオカミさんは知ったことではありません。
すげなく断ると、クランツに戦いを挑まれました。
「強い者が弱い者を支配する。わかるよな?」
無理やりにでもオオカミさんを妻にするつもりのようでした。
面倒でしたがオオカミさんはクランツの相手をしてやりました。
クランツは弱くはありませんでした。けれどオオカミさんの方が上手で、首筋に噛み付くと、クランツは負けを認めました。
「俺より強いなんて、余計に燃える!」
クランツは余計にオオカミさんに纏わりつくようになりました。
しかしオオカミさんの方が序列が上なので、その辺はわきまえているようでした。
贈り物をしたり、毛づくろいを申し出たり。
面倒でうっとおしいクランツでしたが、悪い奴ではありませんでした。
「なぁなぁ、俺と結婚してくれよシスカ。俺尽くすからさ」
オオカミさんが上位でもかまわないと、クランツは囁いてきます。
「いやだ」
「何でだよ。お前結婚適齢期だろ。もしかして、好きな奴が他にいるのか?」
尋ねれて、一瞬思い浮かんだのはアウルの顔でした。
「……いない」
「ふーん? まぁどっちだっていいけどさ。狼族は狼族同士が一番いいんだって」
獣姿のオオカミさんに、クランツが寄り添ってきました。
アウルにそうやってすり寄られれば幸せな気持ちになったのに、クランツにやられるとぞくりと毛が逆立ちました。
クランツがアウルと同じ事をしてくれても、以前のようにオオカミさんの心が満たされることはなくて。
アウルの変わりなんていないんだなと、オオカミさんはそんな事を思いました。
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昔よりもオオカミさんはお酒を飲むようになっていました。酒が切れたので、人間の姿になって近くの街に降り立ちます。
「銀の髪は隠した方がいいぜ。最近狼族を狙ったハンターがいるみたいだからな」
俺もそいつにやられて、ここまで逃げてきたんだと言って、クランツが帽子を被せてくれました。
どうやら勝手についてくるつもりのようです。
「黒いずきんを被った凄腕のハンターなんだけどさ、特定の狼族を探してるらしい。メスの狼族で、目のあたりに傷があるやつを探してるんだと。それってあんたの事じゃないのか」
クランツの話に、とくんとオオカミさんの胸が鳴ります。
黒いずきんは、オオカミさんにアウルを思い起こさせました。
それにその話の狼族は、オオカミさんと特徴が一致していました。オオカミさんの右目には、以前アウルを庇ったときにできた傷がそのままあったからです。
でもまさかと思います。
あれからもう三年の月日が経っていて。
アウルはきっと、人間と幸せに暮らしているはずです。
「ここもそろそろ危ないんだって。シスカ、俺と一緒になって別の森で暮らそうぜ」
戸惑うオオカミさんの肩を引き寄せようとクランツが手を乗せた時、銃声が響き、弾が二人の間の狭い空間を通過しました。
とっさに反応して、二手にわかれて振り返ります。
「オオカミさんみーつけた」
そこには黒いずきんをした青年が立っていて。
街中だというのに、手にはライフル銃を持ってました。
ばさりと青年が黒いずきんを取ると、目を引く赤の髪が姿を現しました。
「アウル」
アウルの体つきもその顔も、すっかり大人の男のものになっていました。
黒ずきんを被ったところで女の子にも見えません。
「あぁ、オオカミさん。会いたかった」
耳にこびりつくような甘い声。
その微笑はあのころとそんなに変わらないように見えるのに、まるで別人のように思えました。
オオカミさんを見つめる目は熱を帯びていて。
蜜色の瞳の中に、ほの暗い光を感じて、オオカミさんはぞくりとしました。
会いたかった。
そうオオカミさんの心も叫んでいるのに、本能がアウルを危険だと告げていました。
隣にいるクランツも、肌でそれを感じ取っているようで、アウルに警戒するような目を向けています。
「探したよ。駄目じゃないかオオカミさん。ぼくを置いていっちゃ。さぁ、一緒に家に帰ろう?」
オオカミさんに向かってアウルが歩み寄り、手を差し出してきます。
そこにいるクランツなんて、見えていないようでした。
「逃げろ、シスカ。こいつが俺が言ったハンターだ」
クランツが狼の姿になって、アウルの前に立ちふさがりました。
「そこ、どけよ。何でぼくのオオカミさんを呼び捨てにしてる」
怒りを孕んだ冷たい声。
オオカミさんの知っているアウルは、そんな声を出したりしないし、こんな喋り方をしません。
これは誰なのかと思いました。
「……大丈夫だクランツ。知り合いだ。少しふたりっきりにしてほしい」
「でも、シスカ」
オオカミさんの言葉に、クランツは食い下がりました。
「クランツ、行け」
かちゃりと音をたててアウルが銃口をクランツに向けようとしたので、オオカミさんは再度促します。
クランツは渋々と言った様子で、走り去っていきました。
オオカミさんは街の喫茶店に行く事にしました。
逃げることも考えましたが、それをしてもアウルは追ってきそうな気がしたのです。
席に着くと水が運ばれてきました。
それをぐいっと飲み干して、オオカミさんは自分の喉がからからに渇いていたことに始めて気づきました。
「てっきり薬師になったと思っていた。ハンターになったんだな」
オオカミさんが以前怪我をして以来、アウルは銃の扱い方も覚えました。
もしもオオカミさんが怪我をした時に、獲物をぼくがとってきてあげたい。
そう言って、的を自分でつくってアウルは練習していましたが、その腕前はなかなかのものだったとオオカミさんは知っていました。
「うん。だってオオカミさんが逃げるから。捕まえるためにハンターになったんだ」
自分を追ってアウルは来てくれたのだと思うと、嬉しいと思う気落ちがこみ上げてきます。
けれど、アウルには好きな人がいるのです。
そうやって自分に縛り付けるのは、アウルにとってよくない事だ。そうオオカミさんは考えました。
「オオカミさんはミルクでいいよね。後は適当に頼んでいい?」
「あぁまかせた」
アウルはメニュー表を読んでオオカミさんの分まで注文してくれます。
オオカミさんはあまり字が読めなかったので、時々街に下りるときはいつもアウルがそうやってくれました。
出てきたホットミルクを、熱いものが苦手なオオカミさんのためにアウルがかき混ぜて冷まし始めます。
手でコップのふちを囲って、息をふきかけるアウルの姿は、昔まで慣れ親しんだ光景でした。
「はい、オオカミさんどうぞ」
「あぁありがとう」
ミルクをアウルから受け取って飲みます。
こうやって喫茶店に入るのは、アウルがいる時だけだったので、ものすごく久々でした。
「……何故私を追ってきた。私を忘れて、人間と幸せになれと伝言を残したはずだが、聞かなかったのか」
変わった味付けだと思いながらミルクを飲んで、オオカミさんは少し怒った口調でアウルに対して問いかけました。
「聞いたよ。でも意味がわからなかった。だってぼくがオオカミさんを忘れられるわけもないし、人間と幸せになれるはずがない。オオカミさんは何もわかってない」
アウルは静かに怒っているようで、オオカミさんにはその原因がよくわかりませんでした。
「勝手に姿を消したのは悪いと思っている。だが、ああするのがお前のためにいいと思った。人間は人間と暮らすのが一番だ」
「狼族が狼族と一緒がいいように?」
オオカミさんの言葉に、アウルが皮肉めいた口調でそんな事を呟きました。
「そうだ」
きっとアウルはクランツの事を言っているのでしょう。
クランツとは何でもありませんでしたが、オオカミさんはアウルを諦めさせるためにそんな事を呟きました。
「ぼくが狼族じゃなくて、人間だから駄目なの?」
「そうだ。狼族と人間は違う生き物だからな。生き方も寿命も違う。今まで一緒にいた事が不自然なんだ」
アウルの問いに平然と答えながら、オオカミさんは自分の言葉に胸が苦しくなります。
それは最初から分かっていたことなのに、オオカミさんが見ないふりをしてきたことでした。
「……ぼくはオオカミさんのものなのに、捨てるんだ?」
潤んだ目でアウルがオオカミさんを見つめてきます。
オオカミさんの情に訴えるいつもの仕草でした。
「……そもそもお前は私のものじゃない。最初からお前は自由だ」
けれどオオカミさんは心を鬼にしてそう口にします。
「本当オオカミさん酷いなぁ! どんなに誘っても食べてくれないし、その上拾った覚えもないなんて」
ははっと、いきなりアウルは笑い出しました。
明るくてどこか狂ったようなその調子に、オオカミさんはぎょっとします。
ぴたりと笑うのをやめて、アウルがオオカミさんを底の見えない瞳で見つめました。
「自由にしていいなら、もう可愛い子ぶる必要も我慢する意味もないか。オオカミさんをぼくのものにして……食べる側にまわってあげる」
オオカミさんといる時の可愛らしい甘えたような口調を捨てて、低い声でアウルは囁きます。
すっと目に宿った光は、残虐な色をしていて。
まるで、オオカミさんをとらえるようでした。
ぞくりと背筋が泡立ちました。
いつも狩る側のオオカミさんは、初めて見つめられる獲物側の気持ちを味わいました。
アウルのことを、怖いと思う日がくるなんて思っても見ませんでした。
とっさに逃げなきゃと腰を浮かしたオオカミさんでしたが。
「……んぁ?」
体の自由がきかなくて、くらりと眩暈がして。
オオカミさんの体が傾きました。
それをアウルが受け止めます。
「ごめんね、オオカミさん。さっきのミルクに薬を入れたんだ。大丈夫だよ。少し眠くなるだけだから」
柔らかくアウルの声が降ってきます。
それが遠くなるのを感じながら、オオカミさんは意識を手放しました。