魂の家
雨が降っていた。
こういうのを、バケツの水を引っ繰り返したような、と表現するのだろうか。ザー、と途切れることなく一連なりになった音は、いつかどこかの密林で遭遇したスコールを想わせた。
――びちゃり、
足を踏み出せば、泥濘が足を絡め取ってきて、イルスは舌打ちをした。この程度の悪天候ならいくらでも遭遇したことがあるが、やはり気分のいいものではない。
イルス・サイードは軍人だった。今も汚れて困る服装などしていないが、同時に雨天に最適な装備というわけでもない。
褪せた青のバンダナに暗青の軍服、使い慣れたごついブーツ。今はその上を、古びたマントのようなもので覆っている。
特徴的な銀髪は、今は雨に濡れてくすんだ色を晒していた。滴り落ちる水滴を鬱陶しく思いつつ、猛禽類に似た鋭い緑石の瞳が薄闇の向こうを見通そうとする。
(――ここは、どこだ?)
何とか方角を確認しようとしばらく立ち止まっていたイルスは、再び歩き出しながら胸中で呟いた。
己が率いる部隊はここにはいない。腐れ縁の同僚も。
山の中だろうか、辺りには様々な種類の木々が生えている。少なくとも、自分には見覚えのない景色だった。
(部下たちもいねぇ、アイツらもいねぇ。いつはぐれちまったのか……いや、今はそれより、とにかく雨を凌げる場所を探さねーと)
木の下に入ったくらいで避けられる雨ではない。とうにずぶ濡れになった全身から熱が失われ切る前に丁度いい洞窟でも見つからないかと、再び目を凝らした時だった。
「…………?」
軽く眇めたイルスの目が、ちらりと揺れる光を認めた。薄闇の中で瞬く、黄色い光。今にも雨幕の向こうに隠れて消えてしまいそうなそれは、しかし確かに人工の灯りだった。
(人家か)
だとすれば好運だ。雨が止むまで場所を貸してもらえるだろうか。人がいるなら、道を聞くこともできる。
イルスは重いブーツを持ち上げ、小さな灯りに向かって歩きはじめた。
ざくざく歩いているうちに、ほどなくして木々が途切れる。やがて行き着いたのは広い場所だった。
森に囲まれた、円形状の空間だ。見上げれば、梢に遮られることのない真っ暗な空が見えた。
「こりゃまた……予想外だなオイ」
広い空間の真ん中に鎮座しているのは、大きな館だった。
外から見る限り二階建て。屋敷を守る大きな鉄の門には、最近貴族の間で流行っているインターフォンなどというものは付いていない。やけに古風なその館は、まるで百年以上前から時が止まっているかのような、奇妙な風格と威圧感を持ってそこに立っていた。
厳然と聳え立つ洋館に、常人ならば少なからず気圧されるだろう。だがイルスは最初の驚きだけで、躊躇う様子もなく歩み寄った。
軍学校を卒業し、仕官してから早数年。まだ二十を過ぎて然程も経っていないイルスだが、経験値なら人並以上のものがある。この程度で動じるような柔な神経はしていなかった。
「それはともかく、どうやって入りゃいいんだ、これ……?」
内部に声を届ける方法が分からずに、イルスは首を傾げた。ここから叫ぶのも馬鹿らしいし、非常手段だが門を乗り越えて直接ドアを叩くべきかと考えたイルスが何気なく押した門が錆びた悲鳴を上げた。
「…………、」
軋みながらもあっさりと開いた門は、イルスが入れるくらいの隙間を作って止まる。
鍵が掛かっていなかったらしい。
(……いいのかこれ)
いくら山の中でも不用心なんじゃないかとツッコミつつ、まあ助かったので良しとして、イルスは門の中に身を滑り込ませた。
通り抜けた門を再び閉めておく。そうして気付いたことだが、この門には本来あるべき鍵も閂もついていなかった。ますます何のために存在するのか分からない。
門からは真っ直ぐに道が続いていた。道の左右には庭のようなものがあるが、装飾や東屋などといったオプションがないせいか、どこか殺風景に見える。
館の住人がそういうことを気に掛けない性格なのだろうか。広さを別にすれば、一般家庭のごく普通の庭に近いような気がした。
正面玄関に続く石畳は、まだ辛うじて泥濘には沈んでいない。水を散らしながら早足でそこを通過し、イルスはようやく屋根の下に辿り着いた。
突き出た庇が雨を防ぐ下で、無駄に大きいとしか思えない木製の扉を見上げる。獅子を模ったノッカーは避けて、強く扉を叩いた。
「すまない! 誰かいないか!」
あまり礼儀正しいとは言えない呼びかけだったが、イルスは別に気にしない。
同僚にやたらとマナーにうるさい奴がいて、端正な容貌に似合わず言動の粗野なイルスはしばしば馬鹿にされるが、彼はそういうことは苦手だった。自分は前線で戦う軍人だ、お上品なのはもっと上の連中に任せておけばいい。
どんどんどん、と激しく扉を鳴らす。室内では相当響いているはずなのに、しばらく待っても応答は一向になかった。
空き家なのだろうか、と思う。けれどそれなら灯りがついてるのはおかしいし、庭だってある程度人の手が入ってるようだ。
しばし躊躇った後、イルスはノッカーに手を伸ばした。ぐっと力を入れると、がたん、と音を立てて扉が動いた。
まさかと思ったがここにも鍵が掛かっていなかったらしい。流石に戸惑ったが、いつまでもここで立っていても仕方がないと、警戒しながら中に踏み込んでいく。背中で分厚い扉を閉めると、途端に雨の音が遠くなった。
――ふぅっ、と我知らず肩の力を抜いて、イルスはぽたぽた垂れる滴もそのままに辺りを見回した。
正面の大階段を囲む玄関ホールには、蝋燭が幾つも立ち並んでいた。黄色い光を投げかけるそれらが、広いホールを控え目に照らし出している。窓に雨戸は掛かっておらず、ガラスの向こうで真っ黒な森が揺れているのが見えた。
「いよいよ空き家ってことは無さそうだな……。まずは住人を探さねぇと」
がしがしと頭を掻いて独りごちたイルスの耳に、その時、かつん、という音が聞こえた。ばっと振り仰いだイルスの目に入ったのは、燭台を片手にゆっくりと大階段を下りてくる小柄な人影。
――それは、まだ幼さを残した少年だった。
薄手の白いシャツに黒いズボンを穿いたその少年は、イルスより幾らも年下だろう。こんな所に住んでいるにしては意外なことに東方の血が入っているらしい少年は、さらりと揺れる淡色の髪に、幼さを残した端正な面差しをしている。
咄嗟に言葉に迷ったイルスに、彼は柔らかく微笑んでみせた。
「ようこそ我が館へ、お客人」
零れ落ちそうに大きなココア色の瞳が、蝋燭の明かりを受けてゆらりと輝いた。
「――……あ、」
一瞬の驚きから覚めると、イルスは自分が不法侵入者であることを思い出した。あー、と決まり悪そうに唸って謝罪する。
「悪ィな、お邪魔してる。返事がなかったもんだから勝手に入っちまった」
「ああ、いえいえ、いいんですよ、そんなこと」
イルスの言葉に、少年は笑って首を振った。
「ここに来る人は、須らくこの館に入ってくる権利があるんです。鍵だって掛かってなかったでしょう?」
「……? ってそうだ、鍵だ! お前、あれはちょっと無防備すぎるぞ。閂くらいつけとけよな!」
少年の言葉に不可解なものを覚えたイルスは、それよりも先に穴だらけの警備のことを思い出して顔を顰める。実際こうして侵入者が入り込んでいるのだし――鍵が掛かっていたとしても入り込んだだろうが――流石にもうちょっと警戒した方がいいのではないだろうか。
しかし少年は笑うだけで、イルスの言葉を否定する。
「大丈夫ですよ。ここにはそんなもの必要ありませんから」
「必要ないってお前……」
「銀色さんだって、お陰で普通に入って来られたでしょう?」
「まあそうだけど。つーか銀色さん……すげぇ安直な綽名だな」
肩を落として呻くイルスだが、どうやら相手に聞く気がないらしいことだけは分かって諦めた。本人がここまで言うものを、単なる通りすがりに過ぎない自分が口出しする権利はない。
「まあいい。とりあえず、悪ィが雨が止むまで置いてもらえねーか。道に迷っちまってな」
イルスの言葉に、少年は当たり前のようにあっさりと頷いた。
「ええ、もちろん。居たいと思うだけ居てください。
申し遅れました、僕はこの館の主人です。管理人と呼んでください。よろしくお願いしますね、銀色さん」
「俺はイルスだ。……あと、敬語はやめろ」
相手が部下ならともかく、イルスはこちらが世話になる立場で。ぼそりと「そういうの、なんか落ち着かねーし」と付け加えれば、管理人と名乗った少年はぱちくりと目を瞬き、それからほわりと笑った。
「うん。分かったよ、銀色さん」
どこか子供っぽいものを感じさせる人懐っこい温かな笑顔に、イルスは一瞬目を奪われたことに気が付いて、そして慌てて首を横に振った。
※※※
とりあえず道に迷ったと事情を話し、館に泊まる許可を得たイルスは、渡されたタオルで大雑把に水気を取った後、少年に先導されて廊下を歩いていた。
燭台の灯りはゆらゆらと揺れて心もとないが、基本的に夜目の利くイルスには大した問題はない。
どうやらこの館の住人は少年一人のようだった。だから空き部屋は沢山あるんだよ、と彼は朗らかに笑った。
「はい、ここが銀色さんの部屋ね。シーツとか、必要なものは大体揃ってると思うよ」
そう告げた少年にイルスが案内されたのは、二階の中ほどにある一室だった。
「この部屋にあるものは自由に使って。図書室とかもあるし、退屈だったら館の中を見て回ればいいから。あと、部屋にいる時は極力鍵を掛けること、これは忘れないで。シャワーくらいなら部屋にも備え付けてあるけど、大きいお風呂に入りたかったら一階にもある。大分冷えただろうから、ゆっくり温まってね」
つらつらと説明しながら部屋の鍵を手渡して、少年は思い出したように廊下の奥を指差した。
「あと銀色さん、二階の一番奥のドアだけは開けないように。これは絶対だよ。夕食が出来たら呼ぶから、それまで休んでて」
「了解。……感謝する」
イルスの言葉に、少年はにこりと笑みを返して廊下を戻って行った。それを見送って、イルスは受け取った鍵でドアを開ける。
(しかし、玄関にも施錠してないのに客室には鍵があるってのも妙な話だな)
そんなことを思いながら入った部屋は、随分と簡素な造りをしていた。
ベッドと小さなクローゼットと、やや色の褪せた青いカーテンが掛かった窓。灯りはやっぱり蝋燭で、いつ点けたのか、既に黄色い火が灯されていた。
部屋の左には小さなドアがある。シャワーは備え付けだと言っていたから、恐らくあれがそうだろう。余計なものは何一つない部屋だったが、イルスとしてはそちらの方が有り難かった。軍隊生活の長い自分からすれば、下手に豪華な調度がごちゃごちゃ置いてあるのは鬱陶しくてならないのだ。
(住んでんのはあいつ一人だって言ってたな。こんな古くて広い館じゃ、維持にも手間がかかりそうだ)
そう思った時、イルスはふと気づいて眉根を寄せた。見渡せば、きちんと磨かれた調度は日頃使う者がいないとは思えないほど汚れておらず、一ミリの埃も積もっていない。ベッドにかかっている白いシーツには皺一つなく、まるで洗いたてのようにぴしりとした糊が利いていた。
「……偶然か?」
――まるで、今日誰かがここを使うことが分かっていたかのようだ。
そんなことはあり得ないと反論する声を頭の隅で聞きながら、イルスは声に出さずに呟いた。
――偶然だろう。急な来客に備えて一つ二つ掃除をしてあった部屋を、たまたまやって来た自分が宛がわれただけだ。
益体もない思考を否定しながら、イルスは小さな手荷物を乱暴に下ろした。
それから一時間ほど経ってから少年に呼ばれて行ってみると、一階の食堂に食事が用意されていた。
部屋でシャワーを浴びたイルスは、クローゼットに入っていたシャツを借りている。呼びに来た少年に、濡れた服をどうすればいいかと尋ねると、預けてくれれば洗っておくとの返事が返ってきた。
二十人は収容できそうな食堂の真ん中には、白いクロスのかかった縦長のテーブルが置いてあった。上座の主人席ではなく側面の席の一つに座った少年の向かいに、イルスも腰を下ろす。
給仕がいないので最初から全て出されているメニューは前菜からメインまでどれもイルスの故郷の家庭料理だった。トマトとチーズと香草のサラダ、キノコのシチュー、鶏肉の煮込み、エリシュ魚のオーブン焼き、その他細々した料理やソースが何皿も。
「冷蔵庫にデザートもあるからねー」
浮き浮きと楽しげな少年に、イルスはテーブルを見渡して呆れた顔をした。食い切れるのかこれ。
「……すげぇなおい。これ全部一人で作ったのか」
「うん。久し振りのお客さんだから張り切っちゃったよ」
やっぱご飯は人と一緒の方が美味しいよねー、と笑う少年に促されて、イルスはとりあえず料理を一口。
「…………美味い」
「そう、良かった」
思わず唸ると、少年の顔が嬉しげに緩んだ。物凄く手間のかかった料理というわけではなさそうだが、どこか懐かしい味が舌に馴染む。次々と皿を空けていくイルスを、自分も食事に取りかかりながら少年は楽しそうに見ていた。
並べられた皿が半分以上空になった頃、イルスは本来の目的を思い出した。イルスと似たようなペースでフォークを進めている向かいの少年を見る。
「なぁ管理人、最初にも言ったと思うが、俺は今道に迷っててな。ここが何処なのかと、あと人里に出る方法を教えて欲しいんだが……」
ちょうどパンを口に入れたところだった少年は、ごくんとそれを飲み込んでから困ったように首を傾げた。
「ごめんね銀色さん、それは僕には分からないんだ」
奇妙な台詞。真面目なその顔は冗談を言っているようには見えなくて、イルスの眉間にも皺が寄る。
「分からないって、どういうことだよ。お前はここに住んでるんじゃないのか?」
「それはそうだけどね。でも、銀色さんの質問に答えることは僕には出来ない。行くべき場所は、その時が来たら自然に分かるよ」
「自然に……?」
「うん、そういうものなんだ。分からないっていうなら、多分君はまだ進むべきじゃないんだね」
どこか諭すような静かな眼差しでそう言った後、少年は空気を切り替えるようにまた頬を緩めた。
「焦らなくていいんだよ、銀色さん。君は君の行きたい所に行けばいい。よく考えて、それから選んで。僕はいつまでここにいてもらっても構わないからさ」
「……、」
納得できたわけではなかった。
それでも少年の纏う空気は、これ以上の問いかけを求めていないような気がして。
その雰囲気に圧されるように、イルスはこくんと頷いていた。
「――野ヂシャのサラダは食べる? 採りたてなんだけど」
「……貰う」
にこりと笑う少年に皿を預けて、イルスはそっと息を吐いた。
※※※
与えられた部屋に泊まって一夜明けた翌日、まだ雨は降り止まなかった。
どうやら今日も館を出ることは出来ないらしい。部屋の中で暇を潰すのが苦手なイルスは、少年の言葉に甘えて館の中を歩き回ってみることにした。
この館は高さで言えば二階建てだが、一階一階が結構広い。部屋数も多く、そのうちほとんどが客室か物置だった。
鍵の掛かっている部屋がいくつかあったが、それ以外の客室は大体イルスの部屋と似たような様相をしている。時折ベッドではなく布団と押入れがあったり、カーテンの色が違ったりという違いはあったものの、使う者がいないにしてはどこも奇妙なほど清潔に保たれていた。……急な来客に備えて少数の部屋を掃除してある、という仮定は、これで否定されたことになる。
探索を続けているうちにイルスは、この館に外に繋がるものが何一つないことに気付いた。
ラジオもないし電話もない。せめて無線機の一つでも置いていないかと探したが、それも見つからない。
知れば知るほどおかしな館だった。
昨日使ったシャワー室はちゃんと電気が通っていて、見慣れた電球が白い光を輝かせていた。台所には冷蔵庫もあるらしいし、ガスも水道も使える。
なのに、廊下や室内は全て蝋燭。一々点けたり消したりする手間を考えれば電気に切り替えた方が良いに決まっているし、火事の危険もあるのにだ。
使用人もいないこの館からは、貧困の匂いはしなかった。贅沢をしているようには見えないが、だからと金に困っているようにも見えない。今時、少し裕福な家なら備えているはずの流行りの設備を、あの少年が避ける理由が見えなかった。
(いや、そもそもあいつはいつ蝋燭を換えてるんだ……?)
そこに考えが至った時、ふとイルスは目の前が行き止まりになっていることに気付いた。
二階廊下の一番奥。白い壁に張り付くように立っているのは、周囲の内装に不釣り合いな真っ黒いドアだった。
「……ああ。これがあいつの言ってたドアか……」
無意識に組んでいた腕を解き、イルスはドアに歩み寄る。
少年が開けるなと言ったドアは、ノブも鍵穴もない平坦な板のような形状をしていた。
奇妙な形のドアに興味はあったが、開けてみたいとは思わなかった。この向こうを見てはならないと、本能に近い部分が囁いてくる。
(マジで一体何なんだ、この館は……)
――そして、ここに住んでいるという、管理人と名乗った少年は。
真っ黒いドアに背を向けながら、イルスは溜息を噛み殺した。
※※※
「なあ管理人、ここ本当に俺たち以外いないのか?」
この館に訪れて三日が経った頃。ある日のお茶の時間、降り続ける雨の音を背景に、イルスは少年にそう聞いてみた。
ほとんどやることのない館の中で、食事とお茶は貴重な楽しみの一つである。加えて色々と仕事があるらしい少年は姿を見ることが滅多になく、イルスは彼に話しかけることもできないでいた。
一度手伝おうかと申し出た時は、やんわりと断られてしまっている。
なので、一緒にお茶を飲まないかと誘われた時、イルスは一も二もなく了承した。少年の淹れるお茶はとても口に合ったし、何より少年と話をしたかったからだ。
頬杖をついて砂糖を入れた紅茶をぐるぐると掻き混ぜながら、少年はイルスの質問に、考えるように眉を下げた。
「うーん、居るような居ないような……」
「どっちなんだよ……」
はっきりしない回答に、イルスも眉尻を下げて肩を落とす。
――時折辺りから人の気配がすることに、イルスは気付いていた。
自分の部屋にいる時はないが、廊下などに出ると特に何かの気配を感じる。けれど見回しても姿は見えず、気配を追ってみても正体を確かめる前に消えてしまう。
いつの間にか撒かれていることもあったが、それよりもあの黒いドアのあたりでふつりと消えてしまうことが多かった。そんなことが今日だけで何回も。不審に思わない方が変である。
(でも、当のこいつは何も答えねぇしな……)
少年は本当に謎だらけだった。自分の疑問の答えを明らかに知っているようなのに、それを教えてくれようとはしない。姿が見えない時、彼が実際にどこで何をしているのかも、イルスには分からないのだし。
――そもそもこんな所に引っ込んでいて、彼はどうやって生活しているのだろう?
外部と連絡をとる手段もなく、万が一病気にでもなったらどうするのか。電気やガスを引いているなら、その料金を払う金はどこから出ているのか。
食糧だってそうだ。食卓にはいつも肉や川魚の他に、確か海魚や貝のような海産物も使われていた。野菜にしても庭で育てているようには見えないし、ああいったものをどこから手に入れているのか、イルスには見当がつかない。
それでも、こういう問いに少年は笑うだけで、決して答えてはくれないと分かるから、イルスは聞こうとしない。少年が何かを隠していることは分かっていても、それを聞き質すことはイルスには出来ない。
「――淋しくねぇのか? 一人で」
だからその代わりのように疑問を口にしてみると、少年はまたあの、困ったような微笑を見せた。
「……ちょっと淋しいけどね。でも、時々銀色さんみたいな人が来て、話をしてってくれるからさ」
こういう時の少年の微笑はひどく儚くて、イルスは今にも消えてしまいそうだと思ってしまう。
(淋しいなら、どうしてこんな所にいるんだ)
自分こそ、好きな所に行けばいいのに。
そんな顔で笑うくらいなら、いっそこんな、広いだけの古びた館など捨ててしまって。
ここを離れられない理由があるのなら教えて欲しいと思う。隠していることを曝け出して、どうしたいのか言ってくれれば。
――それでもイルスには、それを告げることは出来ない。
(それを言う権利を、俺は持ってない)
そう思って、何故か胸の奥がちくりと痛んだ。
※※※
昼となく夜となく降り続いた雨は、翌日になってようやく止んだ。
館に籠もっているだけでは、どの道何も分からない。現在地を絞り込む手掛かりになりそうなものでも見つからないかと考えたイルスは、暇を持て余していたこともあって館を出てみることにした。
玄関を潜ると、少年が庭仕事をしている。扉の開く音を聞きつけた少年が振り返った。
「あれ、銀色さん。どこ行くの?」
麦藁帽子を被った少年は、雨でぬかるんだ地面をせっせと掘り返しているところだった。傍にはしなりと垂れた花々の姿がある。少年が植えたものだったのだろうか。
「おう。雨が止んだから、ちょっとその辺を見て回りに。まずここがどこだか分からないと始まんねぇからな。お前は花の世話か?」
イルスがそう返事を返すと、少年はふにゃりと笑った。
「あー、うん。雨が続いたから、流石に元気がなくなっちゃってさ。見てやらないといけないかなと思って」
「花が好きなのか?」
「うん、ぶきっちょだけどね。基本的に植物を育てるのは好きなんだ。僕、あんまりここを離れられないから、種類がなくて残念だけど。
銀色さん、森に入るなら気を付けてね。崖や土砂崩れなんかはないと思うけど、すごく広いから道に迷わないように」
「分かった。夕方までには帰るからな」
「行ってらっしゃい」
ここ数年間めっきり聞いていなかった挨拶に、少しむず痒い気持ちになる。言葉を返さず、頷いて歩き去るイルスの背中を、少年はそのまま手を止めて見送った。
一昨日潜ったばかりの門を出て、イルスは三百六十度ぐるりと館を囲む森の中へと入っていく。
太陽は出ていたが、葉が幾重にも生い茂った木々に防がれて、森の中は薄暗かった。湿った草木が水滴を落とし、ひんやりとした空気が剥き出しの腕に纏わりつく。
一度辺りを見回して、イルスは適当な方向に歩き出した。
(……やっぱり何も分からねぇな……)
館の方角を見失わないよう注意しながら数時間ほど根気良く歩き続けた結果、イルスの出した結論はやはりそれだった。
これだけ歩いたのに動物一匹見当たらないというのは、最早異常と言っていい。
鳥の声も、虫の姿も。およそ生き物の気配というものがない森だった。動いているものと言えばイルスだけで、立ち止まれば辺りはたちまち静寂に包まれる。
「風さえ吹かないってのは、いくらなんでもおかしいだろ……」
そよとも動かない空気は葉擦れを起こすこともなく、まるで額縁に入れられた精巧な絵のようにも感じられて気味が悪かった。この辺りだけ時が止まっているかのようだ。こんな場所をイルスは、見たことも聞いたこともない。
途中、水音を聞きつけて向かってみると小さな川が見つかった。大人の膝くらいまでしかない、浅い川だ。そのまま飲み水にできるほど澄んだ川ではあったが、魚は一匹もいなかった。少年が料理用の魚を川で釣っているという仮定も却下。
「参った……」
これでは本格的に打つ手がない。月の光を集めたような銀髪をがりがりと乱暴に掻き毟りながらも、しかしイルスは思ったほど落胆していない自分に気付いていた。
現在地も帰り道も分からないなど、常の自分であればもっと焦ってしかるべきだ。それがないのは多分、あの少年の存在があるためだろう。いつまで居ても構わないと言ってくれた彼は、多分今もあの館で、イルスの帰りを待っている。
(……帰るか)
溜息一つ、胸中でぼそりと呟いて、イルスは踵を返した。
タダ飯食らいは正直気が引ける。散々歩き回っている最中に、キノコの一つでも見つからないかと視線を巡らせ探してみたが、やっぱり何一つ発見できなかった。
「…………、」
代わりに別のものが目に入って、ぴたりと足を止める。
それをじいっと見つめながら、イルスはしばし沈黙して考えた。採取したそれを他人に贈る自分を想像してなんだか一瞬鳥肌が立ったものの、無視して立ち去る踏ん切りもつかない。ムカつく同僚の爆笑面の代わりに、管理人と呼ぶ少年の顔がちらちらと脳裏に瞬いた。
かなり迷って葛藤して、五分ほど微動だにせず立ち竦んだ後。
――結局、イルスはそれに手を伸ばした。
館に着く頃には、すっかり日も落ちていた。
戻ると予告した時間よりも遅れてしまったせいでやきもきしていたらしい少年が、扉を開けるなり飛び出してきた。
「ああ、銀色さん! 無事で良かった、心配したんだよ!」
イルスと顔を合わせ、へにゃりと安心したように苦笑いを作る少年に、イルスは体裁悪そうに眉を寄せて笑う。
「悪かったな。思ったより遠くまで行っちまったみたいで……」
「ちゃんと帰ってきてくれたんだからいいよ。無事で良かった」
そう言った少年は、イルスの手に何かが握られているのに気付いたらしい。きょとんとイルスを見上げてくる双眸に、こちらも気付かれたことを察して、イルスの顔が紅潮した。
「銀色さん、それどうしたの?」
無邪気に聞かれて、イルスは答えようとして答えられず、数秒沈黙を挟んだのちずいっと拳を突き出した。
――正確には、その手に握られた一束の花を。
「お前、花が好きだって言ってただろうが。たまたま見かけたから」
名前も知らないその花々は、摘まれたのではなくしっかり根がついていた。枯れても萎れてもおらず、庭に植えればまた根付くだろうとすぐ予想できる。
「銀色さん……」
渡された花と、それを握っていた泥だらけの手と、そっぽを向いたイルスの顔と。
それらを順番に見比べて、少年は破顔した。小さな唇が緩み、うっすらと微笑が昇る。視界の端でそれを確認したイルスは、咄嗟に呼吸が止まりかけた。
「ありがとう、すっごい嬉しいよ! 僕、本当に花が欲しかったんだ」
ほっそりとした手に、きゅう、と手を握られて、イルスの息がまた止まる。花を潰さないように注意しながら、少年はイルスの手を引いて庭に出た。窓から洩れ出す明かりを頼りに、花を植えている一隅に蹲る。
「おい、手が汚れるぞ」
「いいんだ、僕がやりたい」
俺がやる、と言いかけたイルスを遮って弾んだ声でそう答え、月明かりの下で銀色がかって見える髪の毛をふわふわ泳がせながら花を植えていく少年の背中を、イルスは不思議な気分で眺めていた。
優しい淡色の少年がいる、穏やかな場所。訪れてからまだ三日も経っていないこの館で流れる時間はとても静かで、幸福だ。
ずっとここにいられたら、とイルスは思った。
そんなこと、できるわけがないのだけれど。
※※※
その夜、台所で夕食の片付けを手伝って自室に戻ってきたイルスは、いつになく考え事に囚われていた。少年はまだ用事があるとかで庭に出ている。傍には居ない少年に、しかし脳裏に浮かぶのは彼のことばかりだ。
(分かんねー……)
ベッドに仰向けになったまま、イルスは眉間に皺を寄せる。
今まで見てきた少年の笑顔が頭から離れない。積み重なってきた、この館に対するいくつもの疑問も。この館は何なのか――否、それはもうこの際どうでもいい。
――どうして少年はここにいるのか。
――時折見せる彼の微笑が、意味することは何なのか。
自分はいつかここを去らなければならない。ただの異邦人に過ぎない自分にとって、それは確実な未来だ。
けれどそれでも、少年と別れたくないと思う自分が確かにいる。
それと同時に、少年と別れてはいけない、と訴える自分がいた。
消えてしまいそうなほど儚い笑顔を見せる少年から、自分は離れてはいけない。
名前すら名乗ってくれなかった少年は、すぐ傍にいて尚恐ろしいほど希薄だ。自分が目を離せば、きっと彼は消えてしまう。
「なあ少年、何がお前をここに縛り付けるんだ……?」
ぽつりとイルスが呟いた、その時だった。
――――ごぅんっ――――
重い地響きのようなものを感じて、イルスは飛び起きた。地震ではない。館のどこかで、巨大な何かが壁に思い切り体当たりでもしたような感覚だった。
びりびりと空気が震えている。数瞬前まではなかった息苦しいような圧迫感が、部屋の中に満ちていた。
――――ドゴゥンッ――――!!
躊躇っている暇はなかった。二度目の地響きが部屋を襲うと同時に、イルスはドアを蹴破るようにして飛び出していた。
「何事だっ!?」
じわじわと肌を刺してくるような気配を追うと、それは廊下の奥から滲み出ているようだった。
(あっちにあるのは確か――)
考える暇もなく、断続的に続く震動の中を全速力で駆け出す。間もなく見えてきた黒いドアは、地響きに合わせてぎしぎしと激しく軋んでいた。
「一体――」
異様な光景にイルスが顔を顰めた瞬間、爆発するような音を立ててドアが開いた。
ドアの向こうから溢れ出るように現れたのは、真っ黒い靄のようなものだった。光を吸い込む闇の色をしたそれは、一直線にイルス目掛けて突進してくる。
「――っ!!」
寸でのところで床を蹴って跳躍し、突進を躱す。実体がないように見えても相手がこちらに攻撃を加える力があるらしいことは、引き千切られた数本の髪が教えてくれた。
イルスを通り過ぎたところで停止した黒い靄が、再びゆらりとこちらを向く。目も口もない大きな黒い靄が、しかし確かに自分を見たことをイルスは感じ取った。
舌打ちしたイルスは、とにかく応戦しようと愛用のライフルに手を伸ばし――そして手に触れるものが何もないことに気付いて凍り付く。
いつでも体から離さなかったそれがいつからないのか、イルスには咄嗟に思い出せなかった。与えられた部屋に置いて来た? 違う。部屋にいる時、この館に来る前、森を彷徨っている時、自分はライフルを持っていたか?
(――くそっ、今はそんなこと考えてる場合じゃねぇだろっ!)
ブーツに手を伸ばすと、そこに仕込んでいたナイフはちゃんとあった。引き抜いて構える。
余所事を考えるのは後だ、今は同じ館に管理人がいる。コイツが何者かは知らないが、あの少年を襲う前に何とか倒さなければならない。
舌打ちして、ぐん、と伸びてきた黒い靄をナイフで薙ぎ払う。
手応えはなかった。するりとナイフを突き抜けた靄はそのままイルスに襲いかかる。姿勢を低くして避け、反撃しようとして――思い止まる。直接攻撃が利かないなら、接近したところで対処のしようがない。
半拍動きが止まった瞬間イルスは黒い靄に打ち据えられた。叩き付けられた壁に罅が入る。嫌な音を立てて骨が軋んだ。
(チッ……!)
後頭部が痛む。受け身を取り損ねて軽く頭を打ったようだった。構わず跳ね起きようとして、イルスはぎょっとした。
化け物を斬った――擦り抜けた――ナイフに、化け物の欠片のような黒い靄が纏わり付いていた。靄はずるりっ、とナイフを這い昇り、一瞬でイルスの手まで到達する。
「なっ……!」
途端に襲ってきた、氷水に手を突っ込んだような寒気に、イルスは思わず目を見開いた。靄に侵蝕された手が指先から見る見るうちに黒くなり、それはどんどん範囲を広げている。
内側から喰われているような感覚に体が動かない。化け物の本体が手を伸ばしてくる。
やばいと思ったその瞬間、猛烈な炎が迸った。
「――――!!」
化け物とイルスの間を裂くように過った純白の炎に、感情の見えない化け物が怯えたように後退した。驚愕を含んで見上げたイルスの目に、白いシャツの背中と、ふわりと靡く淡色の頭髪が飛び込んできた。
「管理に……っ!?」
驚愕に声を上げるイルスの前に立ち塞がるように現れた少年は、肩越しに振り向いて、黒に覆われた腕を認めるとくしゃりと苦しげに眉を下げて笑った。
「――ごめんね、銀色さん。遅れた」
告げる少年の瞳は朱金に染まって鮮やかに輝き、炎を映して燃えていた。茫然と見るイルスの前で、少年は膝をつき、イルスへと手を伸ばす。触れた指から移った白い炎はまったく熱くはなく、柔らかな温もりで包まれた腕から溶けるように黒が消えていった。
「管理人、お前……」
「ごめんね、話は後。ちょっとだけ待ってて」
治癒を終えたことを確認し、少年は微笑んで立ち上がった。背後の化け物を見据えた瞳が、炎を映して刹那、揺れる。
軽く振った右腕に応え、炎が一層勢いを増した。じり、と後ずさった化け物がとうとう威圧感に耐えかねて、爆発するように体を膨張させた。
――とん、
と。
生じた仕草はひどく軽く、無造作に。
襲ってくる黒い靄を、彼はふわりと優雅に擦り抜けて。
「――ごめんね。
ここはもう、お前の居場所じゃないんだ」
優しく触れた細い手に、一瞬にして化け物の全身を炎が包み込んだ。
声無き悲鳴を上げてのたうつ化け物の体から色が薄れ、同時に空気が抜けるように小さくなっていく。
やがて炎が消えた時、化け物は小さな白い霧のようなものになっていた。それを少年は伸ばした両手でそっと掬い、黒いドアの向こうに流した。
「迷わず歩いて、進んで。そうしたらいつかまたおいで。その時はまた、僕が導いてあげるから」
静かな声でそう告げて、そして少年はドアを閉じた。
閉ざされた黒いドアは再び沈黙し、何事もなかったかのように辺りを静寂が包み込んだ。
壁に手をつき、イルスはゆっくりと立ち上がった。こちらに背を向けて佇む少年に歩み寄り、努めて穏やかな声色で問いかける。
「……管理人。今のは何だったんだ?」
「向こう側に渡ったはずだった魂。『死んでいない者』の気配に惹かれて、戻ってきちゃったんだね」
イルスの問いに振り向いて、少年はゆるりと微かに笑ってみせた。
痛みを堪えるようなその表情にイルスが眉を寄せるより早く、少年がイルスの顔に両手を伸ばしてきた。頬を押し包むしっとりと濡れた素肌の感触に、イルスは息を呑んだ。
真っ直ぐにイルスと視線を合わせながら、少年は告げた。
「――そろそろ帰りなよ、イルス・サイード。もう道は思い出せるはずだ」
「……っ、管理人……?」
イルスの眉間に皺が刻まれる。名乗っていない自分のフルネームを呼ばれた驚きよりも、自分をここから追い出そうとするような台詞に、すぐには返事ができなかった。
そんなイルスを見据えたまま、少年は言葉を続ける。
「思い出して、イルス。ここに来る前、君はどこにいた? 君はどうしてここに来た? 君は一体、『どうやってここに来たの』?」
「…………っ!」
耳に染み渡るような澄んだその声を聞いた途端、イルスの頭を激しい頭痛が襲った。
この館に辿り着く前、自分は森を彷徨っていた。仲間はいなかった。自分一人だった。では、仲間とはぐれたのはどこだ? そもそも自分はなぜそんな所にいた? そこに来る前の自分は何をしていた? ライフルはどこに? 一緒にいたはずの同僚は?
考えれば考えるほど曖昧なことが多すぎて愕然とする。今の今までそれらを疑問に思うこともしなかった自分が信じられなかった。
――頭が割れそうに痛む。
「俺……俺は……っ、」
まるで尖った鉄の棒で容赦なく脳味噌を引っ掻き回されているような気分だった。いっそ頭を叩き割ってしまえば楽になるだろうか。
「落ち着いて、イルス。大丈夫、君はちゃんと思い出している」
とうとう耐えられなくなって蹲りかけたその時、穏やかな声が掛けられた。
アルトとテノールの中間のような柔らかな声がすっと耳に入り込み、途端にイルスの頭痛が和らぐ。不安定に揺れる緑の瞳で見上げた少年は、小さな子供を宥めるような、慈しみの滲む眼差しをしていた。
「少年……ここは、何なんだ……?」
未だショックから抜け切れていないようだったが、それでも一応の落ち着きを取り戻したイルスの問いかけに少年は微笑んだ。
「ここは魂の通り道だよ。迷っている魂を然るべき道へと導く場所」
「お前は……?」
「僕は番人、管理人。標を守る者にして標そのもの。やって来る魂を導き、見送るために在る存在」
「じゃあ、さっきの靄みたいな化け物は……」
少年が苦笑いする。
「うん、時々戻って来ちゃうんだ。だから、そういうのは『浄化』して返さなくちゃいけない。一度越えてしまった境界線を戻ることは決して許されないから……」
「……俺は……死んだのか?」
その言葉に悲壮感はなかった。ただ戸惑ったように、道に迷った子供のような顔で眉根を下げて聞いてくるイルスに、少年は首を横に振った。
「まだだよ、まだイルスは死んでない。だから君はここに居たんだ。どこにも行けずに、ずっとこの館に留まっていた」
――進むことも戻ることもできず。ただ、自分の行くべき場所すら分からないまま。
「雨は止んだのに、君は帰り道を見付けられなかった。僕に想いを残したから、この館を離れられなくなったんだ。
でも、もういけないよ。いい加減帰らないと、本当に戻れなくなってしまう」
だから行かなきゃ、と諭す少年に、イルスはまだ躊躇っているようだった。自分を見据える少年の宝石のような瞳を見つめ、拳を握り締める。
「――じゃあ、」
イルスは、頬に当てられた少年の手に自分の手のひらを重ねた。すっぽりと覆い隠された一回り小さな手は、自分のそれよりもずっと温かかった。
「じゃあ、お前も一緒に帰ろうぜ。淋しいんだろ? お前だけがこんな所で一人で我慢してることねぇぞ」
しがみ付くように手に力を込めてくるイルスに、少年は苦笑した。もう一度、首を横に振る。
「僕はダメ」
「なんでだ。死んでるのか?」
「ううん、死んではいない――多分、だけどね。でも、ずっとここにいるんだ。もう十年以上。戻り方を未だに思い出せないまま――」
目を閉じ、ぽつぽつと語る少年の声を聞きながら、イルスは自分の視界がだんだん白くなってきていることに気付いた。無意識に力を強めた手のひらの感触も鈍くなっていて、イルスの胸を絶望感が過る。
「なら……! 俺が引き戻してやる!」
頑是無い子供のように眉を寄せて。腹の底から、イルスは叫ぶ。
このまま別れて二度と会えないなどというのはごめんだった。
このまま何年、何十年も。こんな所に少年を独りにしておくのは絶対に嫌だった。
彼が名乗らなかった理由が今なら分かる。今の今までイルスの名を呼ばなかった理由も。
「呼びたくなかったんだろう? 呼ばれたくなかったんだろう? 名前を呼んで呼ばれてしまえば、離れたくなくなっちまうから!」
――名前を呼べば情が移る。確実に別れなければならない『番人』と『訪問者』の間に、それは邪魔にしかならないから。
「ずっとこの場所で他人を導き続けて来たんだろう。だったら今度は俺が導いてやる! お前が俺にしてくれたように、俺がお前の手を引いてやる! こんな淋しい場所じゃねぇ、もっとうるさくて騒がしくて明るい世界で、絶対にお前とまた会ってやるっ!」
指先から静かに消えてゆく己の体に、怒りと悔しさを感じながら。
感情を剥き出しにして。吼えるように。
まるで都合の悪いことを認めたくない子供がみっともなく駄々を捏ねているみたいだと思ったが、それでもここで引くわけにはいかなかった。
少年に出逢えたのは奇跡。たった一度の奇跡。ここで諦めたら最後、二度と奇跡は起こらないのだと、イルスは知っていた。
一瞬驚いたように目を見開いた少年の顔が、ふわりと嬉しそうに綻んだ。声を出さずに、唇が言葉を紡ぐ。
―― 待 っ て る ――
最後に見えたその笑顔と、僅かに感じる頬の温もりと。
その二つに縋りつくように、イルスはぐっと唇を噛み締めた。
※※※
白い壁と白い床と、白いシーツとカーテンと。ぱっと見で目につく全てを白で覆い尽くされた広い病室は、今もベッドで眠り続けている一人のためだけに用意されたものである。
一般の軍人からすれば破格の扱いだが仕方がない。それが与えられて然るべき地位と功績、周囲の期待を、この病室の患者は背負っている。
とは言え椅子もテーブルも冷蔵庫も、使用するのは患者ではなく訪れる来客だけである以上、結局のところどれほど余計な設備を整えたところで患者にとって大した意味はあるまいと、自分なんかは思うのだが。
「まったく、いつまで寝てるつもりなんッスかねぇ……。頑丈さだけが取り柄なんだから、早いとこ回復してくれないことには本気でいいとこねぇんだけどぉ」
ド派手なオレンジ色に染めたツンツン頭に、いくつも連ねた金色のピアス。痩身の体躯に改造軍服を着崩したエリオーシュは、この病室の主の同僚だ。
お陰で今日も各方面から押し付けられた大量の見舞い品を運搬してくる羽目になり、どさりと荷物を降ろすと溜息をついてベッドで眠る青年――イルスを見やる。
ことあるごとに拳や足が出てきて鬱陶しい相手だが、いないとなると少しばかり寂しい――などとは思っていない。断じて思っていない。
ただ単に、イルスが抜けた分の穴埋めが自分ともう一人の同僚に割り振られたせいでどうしようもなく面倒臭い、というだけの話である。実際にはその某同僚が自分の割り当て分までエリオーシュに押し付けてきやがるため、カバーは実質的にエリオーシュ一人で行っているのが現状だ。流石の彼も疲れていた。
「なんだ辛気臭ェ溜息なんぞつきやがって。景気付けにちょっとカッ飛んでみるかエリー?」
背後から放り投げられた台詞と声に、エリオーシュは溜息をついた。
顔を顰めて振り向くと、そこには真っ黒い軍服を纏った黒髪の男が立っていた。全身喪服のような黒尽くめの彼は一見すればとても軍人には見えない優男だが、眼光の鋭さがその雰囲気を裏切っている。
「女みたいな呼び方やめろ、気配消して近付くなって、何度言ったら分かってくれるんッスかねぇヴィレッガさんはー」
面倒臭そうに文句を言うエリオーシュを鼻で笑い、腐れ馴染みその一(その二は今ベッドでへたれている銀髪だ)はベッドに目を向ける。
「まだ起きねぇのか、その脳筋は」
ヴィレッガのの言葉に、エリオーシュもちらりと視線を向ける。
二人の注目を受けたイルスの頭部には白い包帯が幾重にも巻き付けられていた。固く閉ざされた双眸はぴくりともしないまま、今日で三日が経過している。
「外傷は大したことないみたいなんッスけどねぇ。如何せん意識が戻らねぇらしい。何度検査しても異常が見つからないから、後はもう本人が起きてくれないことにはどうしようもないってよー」
肩を竦めて説明してやると、ヴィレッガはフンとつまらなそうに鼻を鳴らした。
「戦闘中に崖から落ちて頭打って意識不明か。万一このまま死にでもしたらバカらしいにも程があるな。このままコイツの仕事まで引き継がされたんじゃ溜まったもんじゃねー」
「アンタがいつイルスさんの仕事を手伝ってくれたことがあるっつーんだ」
げっそりした顔でエリオーシュが呻く。このまま済し崩しにイルスの仕事を丸ごと押し付けられるなんて、自分の方こそ真っ平ごめんだ。自分にだって仕事がある。
「大体この人は脳ミソまで筋肉なんだから、ちょっとやそっと打ったところで死ぬわけないっしょーが。どうせけろっと起きてきて、自分の体調も弁えずにチキンサンド買ってこいとか『今月のオススメ☆武器特集 ~情報漏洩もあるよ~』を買ってこいとか喚き出すに決まってんだろぉ」
「誰が脳ミソまで筋肉だこの野郎」
「そうそうこんな風に、うっわびっくりした」
「びっくりしたならもうちょっとびっくりした顔をしやがれ」
淡々と半歩後ずさるエリオーシュを緑玉の瞳でギロリと睨み、いつの間にやらばっちり意識を覚醒させていたイルスは手近にあった見舞い品の箱をぶん投げる。結構な豪速球と化したそれはひょいと躱したエリオーシュの頭頂を掠め、壁にぶつかって重い音を立てた。
「起きた途端にこれかよぉ。毎日毎日見舞いに来てやってた同僚に対して、その仕打ちはあんまりじゃねぇッスかねー?」
「うるせぇ砕くぞ馬鹿エリー」
投げやりに不満を言うエリオーシュに悪態をつきながら、イルスはドア際の壁に腕を組んで凭れているもう一人の悪友に視線を向ける。
「――テメェもいたのか、ヴィレッガ」
「クク、ご挨拶だな、寝トボケ野郎が」
じろりと向けられた視線に愉快そうに笑って、ヴィレッガが細長い物体を投げてきた。それを片手で受け止めて、イルスは眉を上げる。
「わざわざ探して回収しといてやったんだ。感謝しろよ」
「……ああ、悪ィな」
しっくりと手に馴染む使い込まれたライフルに、イルスは満足そうに口元を緩めた。それから改めて同僚二人に視線を送る。
「――なあ、ヴィレッガ、エリー、頼みがある」
「ほう、そりゃあ今妙にテメェの機嫌がいいことと関係ある話か?」
この悪友たちの観察眼は尋常ではない。面白そうに問うてくるヴィレッガを、イルスは睨むように見る。
「起きて早々面倒事ッスかぁ」
「いつものことだろ」
放り投げられた見舞い品を元の位置に戻し、エリオーシュが面倒臭そうに頭を掻く。常以上に凶悪さを増しているイルスの目付きに何かを読み取ったのか、ヴィレッガの口端も吊り上がった。
「――俺は高ェぞ」
「承知の上だ」
ヴィレッガの言葉に、一秒の迷いもなくイルスはそう答えた。
「せめて頼み事をする時くらいは呼び方を改めるべきだと思わんのか、アンタ?」
うんざりした顔で頭を振ったエリオーシュが、壁に凭れて溜息をついた。
※※※
イルスたちの勤める軍が所属する大国から、小さな国を幾つか挟んだ場所に、その国はあった。
多種の布織物を特産とし、程々に発展したとある町の片隅に存在するその小さな病室にイルス・サイードが訪れたのは、彼が原因不明と言われた三日間の昏睡から回復してから半年後のことだった。
ここに来るまでに医師から聞かされた、十年以上目覚めないままという情報を差し引いても随分と小さく見えるその少年は、清潔な白いシーツに埋もれて、まるで時が止まってしまったかのような姿で静かに眠り続けていた。
幼い頃に原因不明の病気に倒れ、それからずっとこの部屋のベッドで。訪れる人も多くはない患者だが、その瞼の奥に閉じ込められた鮮やかな色を、イルスは知っている。
そう言えば彼の寝顔を見たのは初めてだと、苦痛の影のない穏やかな表情を眺めてイルスは思った。
家族が持ってくるのだろう、テーブルには色とりどりの花が活けてあった。空いた花瓶に水を注ぎ、イルスも持参の花をそこに挿す。花屋で適当に選んでもらったものだが、白やピンクの可愛らしい花束は彼に似合うだろうと思った。
パイプ椅子を引き寄せてベッドの傍に座ると、ようやく張り詰めていた緊張が緩んだ。
「――やっと会えたな、管理人」
探して探して、ようやく見つけた小さな少年。白くて細い華奢な手を、イルスはそっと握った。
「言っただろう。今度は俺の番だ」
ここからだ。あの淋しい場所から、彼を引き戻す。自分は彼に、そう約束したのだから。
優しく握り締めた少年の手に、ほんの少し、力がこもった気がした。