第十四話 自分で選んだこと
「虎彦さん、無茶を承知で頼んでいいですか」
「おっさん、面倒事は――」
「アリサの動きを止めてください」
アリサを視線で捕えたまま言い切った和真の言葉に、虎彦とソフィが絶句した。すでに現役を引退して二十年で、生身の虎彦。その虎彦に、戦闘用に調整されたアンドロイドのアリサを捕まえろと。
「……坊主、そりゃおっさんに手厳しくないか?」
「マスター、一体何を考えて……!」
「ちょっとだけ、多分、ちょっとだけ無茶をする。そのために、少しでも時間が欲しいんだ」
今から自分がやろうとしていることは、一歩間違えれば唯の自殺行為。そもそも多分できる、という程度の勘でしかない。特に、このやり方の無茶苦茶さをソフィとベルイットは良く知っているのだ。
そんな和真の内面を知ってか、虎彦は深い溜息をついて右拳を正面に突出し、脇を締めて左拳を深く構えた。武術の型ではない。ただ単純に――幾重も積み重ねて磨き上げられた、唯の拳だ。
「五十秒。それ以上はさすがにおっさんも無理だ。だが、その時間は持ちこたえて、必ず捕まえてやる。後は絶対、坊主が何とかしろ」
服の上からでもわかる、鍛え抜かれた肉体が語る。持ちこたえてやる、と。
「有難う御座います……!」
次の瞬間、アリサが猛然と自分達のもとに飛び込んできた。不意を突かれた和真は、虎彦に突き飛ばされる形でソフィとと共に背後に飛びずさる。
戦闘は再開した。残り時間は後四十九秒。
「っオオアッ!」
「――ッ!」
飛び込んできたアリサの顔面に虎彦が拳を振り下ろす。深い構えからの、完全ノーモーションのパンチ。不意を突いたとはいえ、アリサの頬を掠めただけの拳は、そのままアリサの服を掴み取った。
「!?」
力任せにアリサの身体を自分のもとに引き寄せた虎彦は、そのままアリサを捕まえに掛かる。
だが、アリサもすぐに転身。強引に虎彦の束縛から抜け出し、そのまま虎彦の胴体に回し蹴りを決めた。
「っぐ!」
強烈に突き刺さった蹴りに歯を食いしばりながらも、虎彦は深く構えていた左拳を全力でアリサの腹に叩き込む。鉄板を叩き付ける様な鈍い音が当たりに響くが、そんなものを無視して、虎彦はそのままアリサを殴り飛ばした。
――強い。この人なら、残りの四十八秒を安心して任せられる。
そう直感した和真は、突き飛ばされた体勢のまま、ソフィが伸ばした手を握り替えし、地面に転がった。すぐさま体勢を建て直し、近寄ってきたベルイットと、抱きかかえたソフィに問う。
「答えろソフィ、ベル! 生体同調は、あいつを巻き込めるのか!?」
「巻き込むって、マスターは一体何を!?」
混乱するソフィをよそに、地面を転がった自分達を支えるベルイットが一瞬だけ眉間を揉み、大きく頷いた。
「……うむ。理論上は可能なはずじゃ。じゃが、分かっておるな和真? 少なくとも、いつもとは全く違うのじゃぞ?」
「分かってるよ、んなことは……!」
「ベルもマスターも、私に分かるように話して!」
起き上がった和真は脇腹の痛みを堪えつつも、ソフィの手を引いて彼女を抱き寄せる。小さな悲鳴を上げながらも、抱き寄せられるままに和真の腰に手を廻したソフィは、和真の言わんとしていることにようやく気付いてしまう。
「そ、そんなの無理に決まってる! 大体、あれは見せつけるものじゃなくて、見せつけられるものなの! あんな中から見つけるってことは、嵐の海の中に飛び込むなんて生易しいものじゃない!」
「ソフィの言う通りじゃ和真。理論上、可能なだけじゃ。それにお主は一度……」
「分かってる。でも、それしかできない。そしてそれは――俺達じゃなきゃできない」
自分を支えるベルイットとソフィの頭を撫で、和真は立ちあがった。すでに残り時間は三十秒。目の前で戦っている虎彦もアリサに圧倒され始めていた。これ以上議論している暇はない。
「やるぞ、ソフィ!」
「……絶対っ、後で怒るから!」
一瞬だけ逡巡したソフィも、和真の声に大きな返答を返す。そうして二人はその場を駆け出し、アリサと虎彦のもとに向って飛び込んだ。
「っああ!」
虎彦の腕を捻りあげて押し倒したアリサの背後から、全速力のタックル。アリサ諸共無様に地面を転がる和真は、そのまま彼女の腕を掴み取り、動きを止めに掛かる。だが、地面に指を突き立てて動きを止めるアリサの蹴りが、和真の脇腹の傷を捕えた。
「ぐッ!?」
「くっそ、坊主!」
痛みに呻く和真を踏みつけるアリサの後ろから、直ぐに虎彦が飛び込み、羽交い絞めにしてアリサの動きを奪った。身長差で彼女を持ち上げるようにして動きを奪った虎彦は、すぐさま和真に視線を投げた。
「さっさとしろ坊主! 長くもたねぇっつったろ!?」
「わかって、ます……! ソフィ、やるぞ!」
「イエス、マスター!」
地面に腕をついて立ちあがりながらも、和真は羽交い絞めにされたアリサの無骨な首輪に向って腕を伸ばす。宙から飛び込んできたソフィもまた、和真の伸ばした手に掌を重ねるようにして、アリサの首輪に向って手を伸ばす。
「行――」
『させると、本当に思ったのかい?』
やはり来た、と。和真は背後から聞こえてきた風切音に舌打ちをした。自分達が最も無防備を晒す瞬間を、あの漆黒の怪鳥が逃すはずがないと分かっていたのだ。
「和真、避けるのじゃ!」
「坊主……!」
目の前にいるベルイットと虎彦の声が聞こえる。
だが、止まっていく時間の中で、和真は自分の背から振り下ろされた巨大な鉤爪を見た。あの時アリサに強制介入して見せられた悍ましい景色。引き裂かれ、切り裂かれ。バラバラにされたアンドロイド達の悲惨な姿が、和真の脳裏をフラッシュバックする。
しかし、そんな悍ましい景色よりなお――。
「――――っ」
目の前で虎彦に捕えられたままのアリサの口元が、動いた。操られてしまっているのに。もはや正気も残っていないはずなのに。それでもなお、彼女の口元は唯。
――逃げて、と。
(逃げるか……バカ野郎……ッ!)
背後から襲ってくる化け物など、もはや頭の片隅からすら消え去った。ソフィの口元から洩れる自分を気遣う悲鳴すら無視し、和真は右腕を伸ばし続ける。一秒にも満たないその時間はなお、加速する知覚が止めた。
背中に鉤爪が触れ、ゆっくりと肉を抉る。痛みはまだない。どうせ、後十秒もしないうちに痛みよりも恐ろしいものに襲われるのだ。背中の怪我などどうでもいい。
アリサに見せつけてやらなければならないのだ。彼女が戦いづつけていたその時のことを。彼女が失ってしまったものを。彼女が求めていた答えを。
――だからこそ、叫ぶ。
「シグナル、コンタクトォォオオッ!」
止まった世界で、思考だけが猛烈に加速した。ソフィと重ねた掌は、アリサの首につけられた無骨な首輪を握り締め、彼女と自分達を一つに。
聖句と共に、和真とソフィの頭の中を幾千幾万の正義の味方、アンチヒーローの怪人の記憶が吹き荒れる。
その一つ一つが目を覆いたくなるような凄惨な映像。
――痛い。
――怖い。
――熱い。
――苦しい。
――死にたくない。
あるものは腕をもがれ、あるものは焼けただれ、あるものは胸を貫かれ、あるものは大切なものを目の前で失う。真っ赤に染まる世界。触れただけで記憶の中の激痛さえ伝える光の奔流。
いつもならその全てをソフィと共に駆け抜ける。だが、今回は違う。
ソフィと共に、脳裏を焼き尽くす全ての記憶に立ち止まり、その光景を探す。絶望に押しつぶされそうな記憶の嵐の中を、ソフィと手を取り己を見失わぬよう探し尽くしていく。
探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。探す。
――見つけた。
◆◇◆◇
戦場は、始まっていなかった。
綺麗なままの噴水公園広場。まだ人通りのあったころの美しい景色。寄り添い噴水を眺める男女もいれば、駆け回る子供の姿もある。そんな彼らのことを慈しみながら歩く――彼女達の姿も。
彼女の傍には、線の細い男性がいた。サラリーマン風のスーツに身を包み、照れたように頭をかいている男性だ。彼のかけている眼鏡のずれを直す彼女は、嬉しそうに笑っていた。
そんな彼らに馴れ馴れしく後ろから肩を組んだ男性がいる。
近藤虎彦だ。
彼のがっしりとした腕が、彼女とそのご主人だった男性の方に無遠慮に回され、大笑いが聞こえてくる。
流れ見る記憶だけで判る。彼らは本当に――幸せだったのだろう。
だからこそ、その先の記憶に絶望する。
戦場が始まった。逃げ遅れた人々を虎彦が誘導し、彼の息子であったアリサのご主人様とアリサが敵を止める。青空のよう透き通るブルーのバトルスーツに身を包み、彼は漆黒の怪鳥に立ち向った。
戦う。戦う。戦う。庇う。抉られる。戦う。戦う。裂ける。立ち上がる。戦う。戦う。庇う。貫かれる。立ちあがる。戦う。戦う。戦う。膝をつく。蹴り飛ばされる。立ちあがる。戦う。戦う。戦う。戦う。叫ぶ。戦う。戦う。変身が解ける。戦う。戦う。
戦――えなかった。
戦場ではない。処刑場だった。逃げ遅れた見知らぬ誰かを庇い、致命傷を負う。それでもなお、時間を稼ぐために戦い続け、戦って戦って立ちあがって戦って。虎彦が庇いに入り、怪我を負い、変身が解ける。
――逃げて。
アリサの悲痛な叫びが聞こえる。だが、そんな彼女の叫びも空しく、彼女のご主人様は戦うために立ちあがった。振り下ろされていく漆黒の怪鳥の鋭い鉤爪の前に男性は晒され、アリサが必死に手を伸ばす。
誰か、誰か助けて……!
聞こえてくる。彼女の悲痛な叫びが。絶望に支配される声が。彼女が失ってしまう物の形が。
すべては間に合わなかった記憶。ソフィの中に刻まれた過去。ソフィが人を化け物に変えてしまう――悍ましい記録。誰も助けることのできない記憶。彼女を介して、唯見せつけられているだけの終わった過去。
つまり、彼女がどう足掻こうと彼女のご主人様はここで――、
「――え?」
呆然自失とした声が背後から聞こえる。加速していた記憶の時間が止まり、ただただ驚きだけがアリサを支配した。地面に座り込んだまま、アリサは呆然とそこを見つめる。そうして、泣き叫んでいたアリサの声は困惑に揺れ、乱れきった黒髪のまま問うた。
「なん、で……」
かけられた問いの答えなど、はなから決まってる。もとより、自分は最初に言ったはずだ。言葉で言われて理解なんてできる人間じゃないと。
だからこそ、問いに答える。
「お前が望むなら、俺達は好き勝手助けるって言っただろ。たとえそれが――記憶の中だって関係ない」
ぶわっと、音を立ててアリサの顔が歪む。溢れ出した涙は留まることを知らず、アリサはただ抱きしめた。たった今――和真が助けたご主人様を。
「わた、わたしは……! 私はっ……!」
アリサの嗚咽は言葉にならない。赤子のように声を上げて泣く彼女と、彼女に抱きしめられたままの男性を見つめた和真は、記録の中でも一層輝きを増す白銀のスーツに声をかけた。
「やるぞ、ソフィ!」
『……もう、マスターの無茶苦茶には驚かない!』
受け止めていた鉤爪をへし折り、懐に飛び込む。吃驚に歪む漆黒の怪鳥の首元を掴んだ和真は、一度だけ瞳を閉じ、
「……あんたの言いたいことは分かる。でも、俺はあんたのやり方を認められない! ソフィ!」
『イエス、マスター!』
「意識共鳴! モード、流星の槍!」
首元を掴み取った右掌に、そのまま意識を集中。荒れ狂う銀色の粒子が右腕を螺旋状に覆い、集束。集まった粒子は弾けるようにして、そのまま漆黒の怪鳥の記憶ごと消し飛ばした。
――戦場は終わる。
荒れ果てた噴水広場の中央で、記録の中の敵を倒した和真の纏うスーツが弾けて消えた。そのまますぐに和真の正面で人の形を為した光の奔流を見て、和真は慌てて彼女を受け止める。
「ソフィ! 悪い、無茶させ過ぎた」
「はぁ、はぁ……。ごめ、ん、なさい、少しだけ……」
息の荒れるソフィはそのまま、和真の腕の中で倒れ込むようにして瞳を閉じた。彼女の身体はオーバーヒートしかけており、顔は既に赤い。それも当然だ。トラウマですらある敗北の記録をたった今、自分の都合で無理矢理書き換えさせたのだ。
アリサを助ける、そのためだけに。
「……ありがとう、ソフィ」
彼女を深く抱きしめてそう伝えた後、和真はもう一度アリサ達に向かい合った。
「…………」
アリサは横たわったままのご主人様を抱きかかえたまま、嗚咽を隠して和真を見上げていた。その瞳はまだ、完全には色を取り戻してはいない。それは当然、彼女の首に未だついたままの無骨な首輪が消えていないことからも分かる。
だが、
「アリサ」
「御堂、さん……」
これは、記録でしかない。現実の世界とは違う。彼女を助けるために無理矢理書き換えただけの過去だ。これだけで彼女を救い出せることができないことなど、充分理解している。
それでも。
「私は、どうすればいいんですか……。これが唯の記録だなんて、全部わかってます。今助かったこの人も、現実では生きてないことだって分かってます。分かってるんです……!」
アリサの慟哭に、和真は耳を傾け続けた。
「分かってても、どうしようもないじゃないですか! 掌に広がるんです! この人の温かさが、この人への愛おしさが! 全部全部、あるんですよ今ここに! 現実の私は、この温もりを全部捨てて! それでも残ったデータだけで探して! 見つからなくて、御堂さん達を傷つけて! そんな、私のやってきたことなんて全部全部……っ!」
「お前が選んだんだ」
「……っ」
色が消えたままの瞳がもう一度、和真の瞳を射抜いた。
「お前が自分で選んで、自分で信じてきたんだよ。だから、俺達もお前と一緒に探したんだ」
「でも、でもぉ……!」
「間違ってるとか、意味がないとか、そんなもの関係ないんだよ。だから、もう一度言う」
物言わぬ記録の中のご主人様を抱えたままのアリサに、和真はソフィを抱いたまま視線を合わせた。アリサは和真の瞳から顔を逸らし、目を閉じた。
そんな彼女に向って、改めて問う。
「目を開けろ。前を見ろ。お前は今――どうしたい」
「私がしたい事……」
アリサの瞳が、彼女の胸の中で横たわったままのご主人様に向けられた。愛おしそうに男性の頬に掌を寄せ、その頭をぎゅっと彼女は抱きしめる。
彼女の口が開くより先に、世界が崩壊を始める。もとより、ソフィの記憶を無理矢理に改変した記録だ。矛盾が記憶を壊し、噴水広場の光景が崩壊していく。後もう十秒もしないうちにこの記録は――消えてなくなる。
『アリサ』
そんな中でも、声が聞こえた。目を見張る中で、アリサの胸の中にいた男性の声が聞こえた。もうすでに彼の半身は塵に消えてしまっている。今なお崩壊していく中でなお、アリサのご主人様は笑っていた。
『――――』
その口元が何かを発し、アリサの腕の中で彼は散った。和真に男性の声は届かなった。だが、その声はアリサにだけ向けられたものであり、現実の彼女には最後まで届かなかっただろう答え。
倒れ込んだままでいたアリサが立ちあがる。その瞳に目一杯の涙を抱えて、それでも立ちあがる。足元さえも消え去った世界の中で立ちあがった彼女は、同じく消え行く和真に向って口を開き、
『私のやりたいことは――』
◆◇◆◇
アリサの言葉を最後まで聞くより早く、急速に世界が加速する。ソフィの記録がこれまで同様に脳内を駆け巡り、一気に現実へと引き戻していく。それと同時に、和真は何かに引っ張り投げられるようにして地面に倒れ込んだ。
「ぐっ……!」
『マスター……!』
脳内に響くソフィの声と、身に纏った白い外套のままに地面に転がった和真は、慌てて身体を起こした。予想していた背中の痛みがない。いや、背中に敵の鉤爪が突き刺さるより早く、誰かに助けられたのだ。
そうしてすぐに気付く。自分の正面にいた彼女の首輪が、目の前に転がっていたことに。すぐさま和真は慌てて背後を振り返った。
そこで鉤爪を受け止めていた彼女は、背後で倒れ込む和真をちらりと見つめ、笑顔を見せた。その瞳に、初めて会った時のような光を取り戻して。その笑顔に、全ての答えを持って。
彼女――アリサは泣き腫れた瞳のまま、宣言した。己の選んだ答えを。
「私は、私の大好きな人たちをこれからも助けたいんです!」




