第三話 相容れぬ少女達
助けて。
そんな悲痛な叫び声を和真はよく覚えている。
助ける。
そんな強い言葉を叫んだことを、和真はよく覚えている。
そして、そのどちらの言葉もただの言葉でしかなかったことを、和真は誰よりもよく知っていた。
◇◆◇◆
肌寒さに目が覚める。ベッドから身体を起こして背筋を伸ばし、霞む思考をクリアに。吸い込む息が全身を覚醒へと近づけ、和真はふっと息を吐き出した。
「昨日のあれ、夢か……」
静かな自室を見渡した和真は、ボリボリと寝癖の跳ねた頭をかきながら眉をしかめる。
嫌な夢を見た。幼い頃の事故の夢だ。
「あー……最悪だ」
この夢を見た日は必ずと言っていいほど不幸に見舞われる。ある意味でトラウマだ。一度思い出してしまえばしばらくは頭の片隅から離れない映像に、和真はげんなりとしてしまう。だが、朝の時間は短い。気持ちを切り替えた和真はベッドから起き上がり、手近にあったパーカーを着こんで部屋を出た。
そのまますたすたと朝刊を取りに階下に降り、廊下を歩いて玄関を開く。
「全く、昨日も勢い余って人助けなんてするもんだからこんなひどい夢を……ん?」
すぅっと。和真の瞳が細くなる。玄関の扉を開いたその先に、ポツンと立っている一人の少女。霜が降りたかのような白い透き通る肌と銀色の髪の毛。一目見てわかるほどに寝癖で跳ねきったツインテールに噴き出しそうになるも、彼女の物言いたげな視線に和真は頭をかく。
「…………」
「…………」
だが、一向に自分を見つめたまま何一つ言葉を発しない銀髪少女――ソフィの様子に、和真は彼女を無視してそのままポストから朝刊を手に取り、ソフィに背を向けた。
すると、背後から彼女の透き通った声が届く。
「貴方にききたいことがっくしゅん!」
「…………」
「べ、別にくしゃみなんてしてない! 私はくしゃみなんてしてない! 正義のみひゃ……!」
「…………」
真っ赤になったソフィが必死に何かを取り繕おうとし、噛んだ。鼻から垂れる鼻水と真っ赤に染まった顔。フグの如く膨らむ頬と、どこにぶつけていいかわからない恥かしさを堪える両拳を見て、和真は思わずぷっと噴き出してしまった。
だが、同時に彼女の履いていた黒いパンプスが和真の顔面に迫り、慌てて躱す。
「っぶないだろうが! いきなり靴投げてくるなよ!?」
「貴方が笑いすぎなのが悪い! 人の不幸を笑う貴方が悪――くしゅん!」
「あぁもう、ったく。わかった、分かったよもう!」
「ちょ、ちょっと、ひ、引っ張らないで……!」
つべこべと文句を言いながらも鼻水を垂らしたままのソフィの腕を引いて、和真は彼女を連れて家の中に戻る。そのままソフィに靴を脱がせ家に上がらせ、居間のソファに座らせた。
ポツンと背中を伸ばしてソファに腰かけるソフィに手近にあったジャケットとティッシュを投げつけ、頭をかく。
未だに鼻水を垂らしたままむすっとする彼女を見て、和真は思い出す。昨晩作った豚汁がまだ残っていた。あれを温めて食べれば、多少なりとも身体も暖かくなるだろう。そう思い、和真はキッチンへ向かった。
だが、直ぐに背後から聞こえてきた不審そうな声に和真は振り返る。
「……一体何の真似?」
ソフィの言葉に振り返った和真は、伸びた自分の髪を左右で掴んで極短のツインテールを作り、ムッツリと瞳を細めて口元を三角形に。ソフィの視線にまで膝を曲げて、面倒臭そうに言い返した。
「何の真似って、お前の真似ェーーふごっ!?」
場を和ます意味での冗談も彼女には通じなかったらしく、今度こそまっすぐ飛んできたソファの上のクッションが顔面に直撃する。仰け反った和真は赤くなった鼻を押さえて落ちたクッションを拾い上げ、ソフィを軽く睨み付けた。
「ほんのおちゃめな冗談だろ!?」
「そんな冗談いらない! 今日私がここに来たのは……!」
「あぁはいはい。昨日の件の話なら悪いけどパス。何度も言うけど、俺は死ぬほどに人助けが嫌いなんだ」
話を続けようとするソフィに視線を向けたまま軽く言い返し、和真は湯を沸かすべくやかんを用意していたコンロのスイッチに手を伸ばす。
「人助けが嫌いなら、なんで私のことを家に入れたの? ロリコン?」
「ロリコンじゃねぇよッ! それに、別にこんなの人助けでもなんでもないだろ。そう、これは例えるなら……」
「例えるなら、何?」
むすっとしたままのソフィの視線を受け止めながら、和真は上手い言葉を探す。彼女に言い返した通り、自分は彼女を助けたつもりなんて毛頭ない。助けるなんて行為のつもりは全くない。認めてしまえば、気が狂いそうになってしまう。
「そう、これは例えるのなら来客対応だ。お客が来たから家に招き入れただけ! たったそれだけだぞ!」
「……ぷいっ」
和真の答えが納得いかなかったのか、ソファに座り込んだままのソフィがそっぽを向いてしまう。彼女の様子に溜息をつきながらも、和真はコンロのスイッチに伸ばしていた腕に力を込める。
むにゅっ。
「ん?」
と、不思議な柔らかい弾力に、和真は思わず掌にさらなる力を込める。そのままスイッチを入れるべく捻ってみるが、掌の中でその柔らかい何かは僅かに形を変えるだけ。
なんだこれ。そんな不思議な感覚に和真はソフィに向けていた視線をキッチンのコンロに向け――、
「ひゃぁん!? い、いきなり激しいのじゃ。わし、落ちちゃう……ぽっ」
「――ッ!?」
目の前から聞こえてきた少女の嬌声に、和真の顔が真っ青に染まる。ぎょっと目を見開いた和真は、慌てて目の前にいる少女に目を向けた。
「おぉう、ようやくわしに気が付いたのじゃな和真! あ、やぁん! あんまり触られると、照れちゃうのじゃ……きゃっ」
「あ、ああああ、あああ……!?」
そこにいたのは悪戯っ気に笑うベルイット。ただ今和真の左腕は彼女の足りない胸を鷲掴み。
「朝からいきなり胸とは、さ、さすがのわしも照れてしまうのじゃ。この調子じゃわし、夜にはどこを触られて……いやん!」
「な、なななん! わ、悪い! てか、いつの間に入ってきた、この家に!?」
「いつの間にも何も、お主がそ奴を連れて家に入るときにこそっと後ろからついてきたのじゃ」
「いやこそっとっていうか忍んで入って来ただろうが! 全く気付かなかったからね俺!?」
「さっきから何を騒いで――むっ」
ベルイットの胸を鷲掴みにしたままの和真の前に、様子を見に来たソフィが現れる。だが、直ぐに状況を悟るソフィの瞳が絶対零度まで冷たくなり、和真を射抜いた。
「……なに、やってるの、貴方は?」
「いや、これはただの偶然で!」
「ぱいたーっち、なんて言いながら和真がワシの胸を……きゃっ」
「顔赤らめて何もじもじしてんの、お前!? 時と場所を選んでボケを――いだだっ!?」
悪ふざけを見せたベルイットの言葉に、ソフィがずけずけと和真に近寄ってその頬を抓りあげた。突然の痛みに反射的に和真はベルイットから手を離し、痛む頬をさすってソフィを睨み付ける。
「いきなり抓るなよ!」
「……やっぱり貴方はロリコン。さすがの私も身の危険を感じる!」
「だ、か、ら! 別にロリコンじゃないって、何度も言ってるだろうが!」
そんな二人の様子もなんのその、一人食卓の席に座ってスプーンとフォークを叩きながらテレビを眺めていたベルイットが和真に声をかけてきた。
「のぅのぅ和真!」
「なんでお前、この状況でそんなに寛いでいられんの? え、お前のせいで酷い目にあったんだけど?」
「そろそろ朝ご飯にするのじゃ。昨日の夜から何も食べておらんからの、頭と足がぺったんこになりそうなのじゃ」
「縦にぺったんこ!? い、いや違う、そうじゃない。なんで俺がお前らの朝ご飯まで用意することに――」
「うぬ? そのつもりでキッチンにかけていた豚汁の残りを温めようとしていたのではないのかの? 鼻水たらしたそ奴のために」
「うっ……!?」
「え?」
本当にそんなことしようとしてたの。そんな疑問をぶつけるように、傍で怒鳴っていたソフィが和真を見上げた。ほんの僅かに驚きの顔を見せるソフィの視線に、和真は赤く染まる頬を掻いてそっぽを向く。
なぜばれたのか全く理解できはしないが、言い当てられたことに急な恥かしさを覚え、和真は赤く染まりかけた頬を両手で叩いた。おかしな空気になりそうなことを知り、直ぐに和真はソフィ達に背を向けてコンロへと向かう。
「き、昨日に豚汁を作りすぎたんだよ。俺一人じゃ食べきれないから温めようと思っただけだ!」
「にょっほっほっほ!」
特徴的なベルイットの笑い声を背中に受けながらも、和真はコンロの火をかけ、豚汁を温めはじめた。一体自分は何をやってるんだか。そんな馬鹿馬鹿しさに頭を抱えていると、傍に寄ってきたソフィに服の裾を引かれてしまう。
「貴方はもう少し正義の味方としての自覚と、女の子――特に変身ベルト型アンドロイドの扱い方を知るべき」
「残念でした。俺は正義の味方になんかなりゃしないし、変身ベルト型アンドロイドとかどうとかどうでもいいから、お前の扱い方を教えてくれ。毎回抓られたんじゃ頬が伸びる」
「そんなの簡単。正義の味方になればいいだけ」
「だから、ならないっての。おいベルイット、悪いけど皿の準備だけ――」
隣に並び立ったソフィに苦笑しながらも、和真は一人食卓に座っているベルイットに声をかけた。
「んむ? はにかひったかの?」
「人に朝食頼んだ傍から怪人に用意してもらってんじゃねぇよッ! お前どこまで自由人間!?」
いつの間にやらベルイットの傍に控えて立つコック姿の怪人三体。それぞれがコミカルな動物の外見をしたアンドロイドだ。
和真の視線に気づいた彼らは丁寧にお辞儀を返し、食事を続けるベルイットの口元をナプキンで拭う。
「んく。うむ。どうじゃ和真。そこのポンコツ変身ベルトとは違い、アンチヒーローの怪人達は皆超高性能。戦闘から料理までなんでもござれ。見ての通り子供に人気の愛らしさまで完備しておる」
「いや、愛らしさっていうか間抜けさがにじみ出てるんだけど……ごめんなさい言い過ぎましたこの通り謝りますんで」
和真の発言にコミカルだった怪人達の顔が唐突のリアル化。ライオンに睨み付けられた蛙の如く和真の背筋が折れる。愛らしさどころじゃない。超怖い。
そんな和真とは裏腹に、ずいっとベルイットの傍に近寄ったソフィが食卓を叩いた。
「ポンコツポンコツうるさい。私は正義の味方の変身ベルト。私は人を守るために作られたの。悪の幹部のおもちゃなんかと一緒にしないで」
「変身する気もないのにかのぅ?」
「……っ!」
ベルイットの言葉に、バッと音をたててソフィが振り返った。彼女の強い視線を向けられた和真はあたりを見渡し、彼女が自分を見つめていることに気づく。
「え、あ、俺?」
「ちょうどいい。貴方に正義の味方の資格があるか試す」
「いやだから……。何度も言うけど俺は正義の味方とかそう言うのは――」
「グダグダ言わないで」
小さな声ながらも強い意志のこもったその瞳に射抜かれ、和真は言葉を詰まらせた。
ソフィはそのまま和真の傍にやってきて服の裾を掴む。すぐにソフィは背後で笑っていたベルイットに向かい合うと、大きな声で宣言。
「悪の幹部。今から見せてあげる。私がちゃんと正義の味方の変身ベルトだってこと……!」
「ふふん。やってみるが良いのじゃ」
ベルイットの挑発にやすやすと乗ってしまったソフィは、事情の呑み込めていない和真の腰に抱き着いた。
「ちょ、おい!」
思わず背筋を伸ばした和真の背に腕を廻したソフィは、そのまま和真に身を寄せ、小さな深呼吸と共に瞳を閉じた。
「生体信号確認。目を閉じて」
「お、おう」
事情をよく呑み込めないままに、和真は目を閉じる。そのまま大きく深呼吸した和真の耳に聞こえてくるのは、抱き着いてきたソフィの小さな息遣いと心音。彼女の言う生体信号はまさに、和真自身の心音でもあった。
「同調完了。目を開けていいロリコン。合言葉は『シグナル・コンタクト』。分かった?」
かかった声に、和真は周囲を見渡した。だが、直ぐにソフィに脇腹を抓られて彼女に視線を合わせる。
「……え、それ俺が言うの?」
「当たり前。正義の味方にとって変身シーンは一番大事なシーン。叫ぶのが常識。それぐらい当然。背後で爆発が起きたりするのが大切。絶体絶命の場面でやるからカッコいい」
「言うだけでダメなのそれ!? 叫ぶ必要あるの!? 背後で爆発起こると俺の家吹っ飛ぶからね!? 爆風で俺達立っていられないからね!?」
ソフィがジト目で和真を見上げた。その無言の視線がとても冷たい。
「いいから、叫ぶ」
「いや、だから何度も言うけど俺は正義の味方になんか――」
「叫んで」
「……はぁ」
深い溜息をついて和真は項垂れる。口調こそ命令形ではあるが、自分の背中に回された彼女の掌が震えているのに気付き、和真は瞳を閉じる。射抜かれた視線は不安げに揺れており、ソフィが言葉ほどに変身を望んでいるわけではないことを知った和真は、大きく息を吸い込んだ。
「一回きりだ。それでもう、終わりだからな」
「……ん」
コクンと頷いたソフィの様子に、和真は納得いったように頷き返す。そして、
「言い忘れてた。叫ばないと内側から吹き飛ぶから気を付けて」
「え、マジで!?」
「うそ」
「オイ、コラ」
ソフィの冗談に突っ込みつつも、和真は呼吸を落ち着ける。何はともあれ、年頃の男にそんなことを叫べというのは酷というもの。だが、躊躇すればするほどにソフィの視線が冷たくなり、その目からまたビームが出そうになり始めた。
ニヤニヤした視線を向けてくるベルイットと口元に手を当てて歪な笑みを浮かべる怪人達を睨み付けた和真は、やけくそ気味に叫ぶ。
「し、シグナるぅ、コンタ――『ブチッ!』…………おい」
「…………」
「…………」
和真の叫びと共にブレーカーが落ち、家の中からありとあらゆる音が消えた。
ベルイットの傍に控えていた一体の怪人が静かに歩き始め、キッチン近くにあるブレーカーを上げると、ゆっくりと自宅の音が戻り始める。
裏返りかけた声で、恥ずかしさをかなぐり捨てた叫びも中途半端に終わった。
天井を見上げてプルプルする和真は、真っ赤になった顔を正面に向けることができない。今自分がどれほど間抜けな顔をしているか想像もできない。
……想像したくない。
「……おいソフィ。この空気どうしてくれる?」
「貴方の気合いが足りなかった。私は精一杯頑張った。貴方に正義の味方の覚悟が足りなかっただけ。仕方ない。今度はちゃんと爆発も付ける。気合い入れて。失敗したら死ぬ」
「正義の味方の変身シーンってそんなに危険なものなの!? あれ、テレビとかすっごい簡単に変身してるよね、してるよね!?」
「あれはよく訓練された正義の味方。貴方は正義の味方ですらない。命がけは当然」
「正義の味方になるつもりなんてないって言ってるだろうが!」
『し、シグナルぅ、コンタ――おい』
「…………」
ソフィと顔を突き合わせて睨み合いをしていた和真の耳元に届く情けない掛け声。
油の切れた人形のように音をたててそこに視線を向けると、印籠の如くテープレコーダーを掲げたベルイットと視線が交わる。
『し、シグナルぅ、コンタ――おい』
ぐさりと、和真の中の大切な何かに冷たいナイフが突き刺さった。
「……おい、そこの人の話を聞かないやつ」
「にょほ?」
とぼけた顔したベルイットが、両手でテープレコーダを構えた。そして、
『し、シグナルぅ、コンタし、シグナルぅ、コンタおいコンタコンタコンタコン――』
「やーめーてーッ!?」
名人びっくりの超連打。世界級ボクサーのパンチをすべて急所で喰らった和真は床に倒れる。
聞こえてくる裏返ったドモリ声に和真は身もだえしながら床の上で溺れた。
「にょっほっほ! 和真もやっぱり男の子よのぅ! 心配ないぞ、わしならお主の恥ずかしさを優しく包み込んであげられるのじゃ。んちゅー」
「キスを迫るなバカ野郎!」
一体日曜の朝から自分は何をしているのだろうか。何とはなしに縋るような様子を見せたソフィに付き合ってしまったのが失敗だった。荒れる息を整える和真は、
「はぁ、はぁ、はぁ……。あーもうお前ら! 聞け、俺の話を聞け!」
抱き着いてきたベルイットを押しのけ、そっぽを向いたソフィとベルイットに向かい合った。
「いいかお前ら! 俺は正義の味方にもアンチヒーローにもなるつもりはない、無いからな!」
「和真、食後のコーヒーをお願いしたいのじゃが」
「豚汁が温め終わった。お皿用意するから、そこどいて」
「うむ。良きに計らうのじゃ。わしは和真と共に抱き合って先に食卓に着いておくぞぃ」
「貴方は邪魔。それに、私は給仕係じゃない」
「なんじゃなんじゃ。一丁前に嫉妬かの? ひょっひょっひょっひょっひょ!」
「……っ! し、嫉妬なんかしない、絶対しない! 今日という今日は決着をつける、悪の幹部!」
「おうおう、やれるものならやって見せればいいのじゃ、ポンコツアンドロイド!」
暴れ出した二人の少女を黙って眺める和真は大きく項垂れた。
「……はぁ。やっぱり人助けなんてするんじゃなかった」
変身なんてしたくない。
そんなソフィの消え入るような呟きに気づきもせずに。