第二話 ブリジットの罠
翌日学校へ登校した和真を待っていたのは、予想だにしない事態だった。
「……おいおいおいおいおい」
「どうかしたのか、御堂?」
隣の席に座る仲のいい友人が、大口を開けて呆然とする和真を怪訝に眺める。友人の声にも気づかない和真は、教卓の傍で自己紹介を続ける彼女と目が合い、慌てて机に突っ伏した。
「あら」
だが、彼女が親しげに和真に手を振るい、おのずとクラス中の嫉妬が和真に集中する。
「おい和真! てめぇ、転校生にまで手を付けてんのかよ!?」
「御堂君って思ったよりプレイボーイよね」
騒ぎの広がる教室の中で、和真は何度も額を机に叩き付けて落ち着きを取り戻す。
どうしてだ、どうしてこうなった。いや、こうなるかもしれないなぁなんて思ってはいた。思ってはいたが、どうしてこうも嫌なほうばかりに事態が転がるのか、和真は見当もつかない。
それもこれも、
「改めて自己紹介させていただきますわ。一学年ほど飛び級となりますが、本日よりこのクラスに転校して参りましたブリジット・エインズワースと申します。以後、お見知りおきを」
顔を上げた和真の視線の先で、ブリジットが優雅に一礼をする。それだけでクラス中から黄色い声が湧き上がった。帰国子女と言っても疑わないほどの日本人離れした美少女。そして、飛び級。クラスメイト達が色めき立つのも不思議ではないのは分かる。
「はーい、質問です!」
「なんでしょうか?」
女子生徒の一人が手を上げて席を立つ。
「御堂君とはどういう関係なんですか!?」
「そうですわね……。強いて言うなら、踏みつけ、踏みつけられる関係かしら」
再びの黄色い悲鳴。確かに、昨日のショーの中で踏みつけられはしたがそれだけだ。言い方一つでこうも色めき立つこのクラスの野次馬魂に、和真は深い溜息をついた。
うんざりした気分で教卓に視線を戻すと、何かを探していた教師と目が合う。その顔が嬉しそうに笑顔に変わるのに気付き、顔を上げなければよかったと和真は己の不幸を呪った。
「それじゃあ、エインズワースさんの席は御堂君の近くが良いですね」
「えぇ、そうしてもらえると助かりますわ、先生。でも、御堂さんの傍には既にご友人が座っているようですけれど――」
窓際に座る和真の隣には、すでに一年来の仲の友人が座っている。すぐさま和真は彼に視線で訴えた。絶対にそこを動くなと。友人もまた、和真のアイコンタクトに神妙に頷き、教卓に向って手をまっすぐと上げる。
「あぁ俺後ろに下がるから平気っす! どうぞどうぞエインズワースさん!」
「ありがとうございますわ」
「おおおいっ!?」
上手くやれよと言わんばかりに親指を立て、友人は背後の空いた席に素早く移動していった。これこそまさに余計なお節介なのだが、そんなことを意にも介さないブリジットは、周囲の視線を受け止めながらもまっすぐと和真の前に歩いてくる。
そして、席に座っている和真に視線を合わせるべく彼女はグイッと腰を折り、和真に顔を近づけた。
「よろしくお願い致しますわ。御堂、さ、ん」
ぞぞぞっと、和真の背筋を冷たい何かが駆け抜けた。年下だったのかよ、なんて軽口をたたく余裕はない。まるで足元から大蛇に絡まれた気分で動けなくなる和真は、そのまま流れるように隣の席に着いたブリジットから視線を外す。
「では皆さん、授業を始めますよ」
担任の女性教師の声で、気の重い一日が幕を開けた。
◇◆◇◆
「御堂さん、お昼ご一緒しません?」
「は?」
午前の授業も滞りなくすみ、カバンからソフィが用意してくれた弁当を取り出した和真に声がかかった。声の主は上品さで厚化粧したような立ち振る舞いで和真の空いた右腕を取る。
この瞬間、騒がしかったクラスの中が一瞬にして静まった。
「ささ、お邪魔の入らないところで食べましょう、御堂さん」
「は、いや、ちょ、へ!?」
慌てて机にしがみ付いてブリジットの引きに対抗しようとしたところ、彼女の細い足が和真の足を踏みつけた。
「……っ!」
痛みに思わず悲鳴を上げそうになると、素早くブリジットが和真の身体を自分に引き寄せ、図らずも彼女の胸に顔面から飛び込む形になる。
おおっ、と周囲がざわめき立ち、和真はすぐさま彼女から離れた。
「おまえ、一体ど――」
「さぁ行きましょう。二人っきりになれる場所に」
どういうつもりだと問いかける暇すら与えられず、和真はブリジットに引きずられて教室を去る。助け舟を出そうと教室に向って必死に手を伸ばしたが、仲のいい友人は白いハンカチを振ってくれるだけだった。
◇◆◇◆
ガチャリと。為されるがままに屋上に連れてこられた和真の耳に、扉に鍵をかける音が届く。
「おい、一体何のつもり――」
扉を閉めたブリジットの方へ振り向くと同時に、右頬に何かが突き付けられた。それは和真の頬を直撃する寸前で停止したが、風圧に思わず和真は顔を背けてしまう。
「……っ!?」
何が起きたか和真には理解できない。ただ、目の前にはすらりと伸ばされた右足と黒いニーソックスが見え、ブリジットが右ハイキックを繰り出したという事実だけがある。
振り向きざまに必殺の一撃が向けられた。それだけの事実が、それだけの事実のせいで理解できなかった。
「てっきり躱せると思いましたわ」
特に驚くわけでも自分のしたことに罪悪感も感じず、彼女は和真の頬に突き付けていた足の甲をゆっくりと下ろした。
チクリとした痛みに思わず和真が右頬に手を添えると、ぬめりとした感覚が指先に伝わる。その正体を知ると同時に、和真の背筋を冷たいものが突き抜けた。それを知ってか知らずか、和真の正面に立っていたブリジットは金色の髪の毛をかき上げ、不服そうに呟く。
「手を出せば勝手に暴れてくれると思ったのですけれど……。御堂さんは存外受け身体質なのかしら?」
その冷たい瞳が、呆然としたままの和真を射抜いた。まるで存在そのものを否定するかのようなその瞳の意味を、和真はよく知っている。
人が化け物を見る時の嫌悪の視線だ。
「……はっ」
それを理解すると、和真の口からは意識もせずに自嘲が漏れる。
一体何のつもり。そんなことを尋ねようとしていた自分の愚かしさを笑ったのだ。
正義の味方――。
彼女、ブリジット・エインズワースが自分を襲う理由など、それ以外にないではないかと。
「気分はどうですの? いきなり年下の女の子に良いようにあしらわれ、不意を突かれ、一歩間違えれば大怪我をするような攻撃を向けられた気分は」
「最悪だよコンチクショウ」
挑発を止めないブリジットの目の前で、和真は大きな溜息をついた。
「わるい、やっぱり聞いとかないと気持ち悪いから聞くぞ」
「どうぞ」
ブリジットの頬が攣り上がり、笑みへと変わる。聞きたければ聞けばと言わんばかりのその顔に向って、和真はいら立ちを隠さずに問いただす。
「なんで、こんな真似をするんだ? 冗談にしちゃ笑えない」
「『突然変異種』は正義の味方の滅ぼすべき敵だから。でしょう、御堂さん」
「あー、やっぱりそう言うのって情報流れてるわけ? ヒーロー協会で」
「いぃえ、協会は関係ないわ。ただ、私の勘が良いだけ。良く知ってるの。御堂さんみたいな、自分が化け物だってことを知られるのが怖いって顔を」
自信を持って答える彼女の様子に、和真はそっと彼女から半歩の距離を取った。当然、作ったはずの距離はすぐに彼女によって詰められる。
「あのさ、こういうのもなんだけど。正義の味方なら正義の味方として他にやるべきことあるんじゃないのか?」
「あら。私の仕事は唯一つ。突然変異種となった人間の無力化。この行動に何か問題でもありまして?」
ブリジットの迷いのない返答に、駄目だと和真はすぐに悟った。彼女がなぜこうまで迷わないのか、その理由までは分からないが、今の自分に彼女を止めることができないことだけは分かる。
「どうして逃げようとするのかしら? 御堂さんって、あの大藤大吾を捕えたのでしょう?」
「いやまぁ、色々みんなの助けを借りてだけどな」
一歩下がれば、一歩を詰められる。
「だったら、見せたらいかが? 貴方のその力。このままだと貴方、這い蹲って許しを請うことになりますわよ?」
「冗談。俺にそっちのけはないぞ。あと、力なんて使う気はない」
「強情ですわね」
「そっちこそ」
背中が屋上の金網に当たる。これ以上後ろには下がることも出来ない。だが、
(攻撃して、来ない……?)
ブリジットは既に得意の蹴りが届く距離まで近づいている。にもかかわらず、彼女は不満げに和真を睨み付けたまま、ピクリとも動きを見せない。
「無力化、するんじゃないのか? 今なら一発で終了だぞきっと」
「変な方向に自信ありげですわね。でしたら――」
すぅっと、ブリジットが音も立てずに和真との距離をゼロにした。そのまま和真のネクタイを強い力で引き、無理矢理に和真を自分の顔の目の前まで引き寄せる。
整った顔立ちと蒼い瞳は、隠せぬ苛立ちと怒りに代わり、小さな唇が和真に低い声で告げた。
「……さっさと、化け物になりなさい」
理解した。彼女が敵視しているのは御堂和真ではなく――突然変異種だと。故に、和真は向けられたその憎悪の視線に、歪な笑みを向けて一言。
「いやだ、ばーか」
ブチッと。それこそ服を引き裂くような酷い音が聞こえた気がした。ブリジットの顔は憎悪から怒りへと変化し、何かを叫ぼうと口を大きく開く。しかし直ぐに彼女はそれを止め、大げさな溜息をついた。
「そう。わかりましたわ。私の負けですの」
緊迫していた空気はそんな彼女の一言で消え、強い力で引かれていたネクタイからも彼女は手を放す。締まっていたネクタイを慌てて和真は緩め、離れていったブリジットに和真は言葉を投げた。
「悪いけど、俺はあんたと争うつもりはないからな」
「十分にわかりましたわ。これだけ挑発すれば自分から力を奮ってくれると思いましたのに、計算違いでしたわね」
「そんな物騒な計算は止めてくれ……」
溜息をついた和真をちらりとブリジットは見つめ、愛らしい笑みを見せた。先ほどまでの憎悪は既に完全に姿を消しており、和真は彼女の変わりように驚きを隠せない。
「貴方って、いつもそうなんですの?」
「はぁ? なんだよいきなり」
「進んで力を使うつもりがないみたいですもの」
「ったりまえだ。力、力っていうがな、こっちにとっちゃトラウマの弊害だぞ」
「そう。なら仕方ありませんわね」
肩をすくませたブリジットが、金網に背を預けていた和真の隣に寄る。緊張から呼吸を落ち着けていた和真は、彼女をちらりと見つめ、直ぐに瞳を伏せた。
ブリジットはそのまま金網越しに周囲を見渡し、和真に語る。
「心配いりませんわ。こちら側は裏庭の金網。裏庭辺りは虫が多くてあまり学生は近寄りませんわ」
「あー、そう言うこと言ってたな。基本、うちの学校は教室で飯食ったら、校庭に出るか教室で騒ぐかのどっちかだからな」
「えぇ。ですから、こういうことをしても学生には気づかれませんわね」
次の瞬間、背を預けていた金網が大きく揺れるのに気付き、和真は眼を開ける。隣にいたはずのブリジットの姿がなく、だがすぐ足元に見える少女の影に、和真は慌てて空を見上げた。
「んな!?」
金網をよじ登ったブリジットが、挑戦的な視線で和真を見下ろしていた。その口元が僅かに開き、和真に最悪の選択を迫る。
「ここまですれば、貴方はどう出るのかしら?」




