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日差しがぎらつき始めた七月。季節は春から夏へ移り変わり、数日前から梅雨入りした外は連日雨が降ったり止んだりを繰り返していた。
その日は朝から曇りだったため、四限目の体育はグランドで行われたのだ。しかし、終わりがけにものの見事に降られてしまった。皆校舎内に逃げ込んだものの、多かれ少なかれ濡れたことに変わりはない。匠も椅子に腰がけて、濡れてしまった肩や頭をタオルでふき取っていた。
「毎日毎日うっとうしいほど降りやがって。そのうち、カビが生えてきそうだな」
「まったくだ。こうも雨続きだとこっちが滅入りそうだよ」
ぼやきに返った声に顔を上げると、ちょうど正義が自分の机に弁当を取り出したところところだった。言葉通り、いくらかうんざりした顔で、悪友は湿って額に張り付いた髪をかきあげる。その気だるそうな様子に、匠はタオルを肩にかけて嫌みったらしく笑ってやった。
「さすがのお前もテンション低いな」
「おや、君は高いのをお望みかい? それなら今までにないハイテンションで答えてみせようか?」
「やめろ、見たくねぇ」
正義の目がきらりと光る。半ば本気の気配を感じ取り、匠は即効で拒否した。想像だけでも耐え難いものがある。
眼鏡を押し上げた正義は、わざとらしくため息を吐くと物憂げな表情をする。
「酷いな。せっかく出たやる気を削ぐなんて鬼畜の所業だ。僕のガラスのハートはバリンボリンと砕けたよ。ぜひとも君には責任を取ってもらわないといけないね」
「なんの責任だよ。お前のハートがガラス製なんて始めて聞いたぜ。あーあれか、ガラスはガラスでも防弾性のあっつい奴だろ? 仮に砕けても接着剤ではり付けとけば万事解決だ」
「言うね、君も」
「お前に言われたかねぇよ。けどまぁ、たしかにテンションガタ落ちだよな。ほんと飽きもせずによく降るぜ」
窓から見える空は黒い雲が厚く広がり、グランドにはまるで白い線を何本も引いたかのように、雨が降り注いでいる。魚さえも溺れそうな豪雨、といった感じか。外を眺めていると、ふいにつんっと袖をひっぱられた。振り向けばへにょりと眉を下げた雫がいた。
「どうした?」
「あのね、あの、匠くん、もう一つタオル持ってないかな?」
よく見れば、頭が濡れたままになって、彼女の髪からぽたぽたと雫が滴っていた。
「これはまた、派手に濡らしたものだね」
「お前なぁ……タオル持ってけってお袋に言われただろ?」
「うー、だって今日は寝坊してバタバタしてたんだもの」
「仕方ねぇな。これしかねぇし我慢しろよ」
匠は肩にかけていたタオルを取ると、それで雫の頭をがしがしとふき取る。
「うひゃっ! た、た、た、匠く、くん、も、も、もっと優しくしてよー」
小さな頭がぐらぐら揺れて悲鳴が上がる。タオルの隙間から見えた餓鬼丸出しの顔に、匠は口元を僅かに緩めた。いつまで経っても、雫は無邪気で純粋だ。これだからけして面倒見がいいわけでもない匠も、彼女を放っておけないのだ。
あらかた拭き終わって開放してやると、雫の頭はまるで爆発したみたいに跳ね散らかっていて、匠と正義は思わず噴出した。
「すっげぇ頭」
「実験が失敗でもしたのかい?」
「二人共、笑うなんて酷いよ」
雫は恥ずかしそうに顔をほんのり赤らめて、跳ねた髪をせっせと手櫛で整える。それでも見えない所はあるわけで、端々が寝癖のように残ってしまう。さすがにそのままは可哀想なので、匠も笑いながら指先で整えてやる。指にするりと抜ける髪質は少しだけ湿りを帯びていたが柔らかなものだった。
「大丈夫そう? もう跳ねてないかな?」
「チェックしてやるから回ってみろよ」
素直に頷いた雫がその場でくるりと回る。翻るスカートから白い足がちらりと覗いて、一瞬、どきりと心臓が跳ねた。
「どうかな?」
「あ、あぁ、大丈夫そうだ」
「うん、匠はいい仕事をしたね」
雫の声に我に返ってなんとか言葉を返すが、思考は混乱の海に飛び込んでいた。
──どきりじゃねぇよ。雫相手になに動揺してんだよ、オレ。
いくらなんでも、妹のような相手にこれはないだろう。自分の馬鹿さ加減に突っ込んで、ますます居たたまれなくなる。何だか彼女を汚してしまった気がして、気まずい思いを隠すように匠は目を逸らして口元を手で覆った。
「……匠クン」
それは平坦でありながら鋭い声だった。顔を向けると、美鈴がこちらをじっと見ていた。まるで匠の心を透かし見るように目を細めている。その強い視線を受け流すように、匠は極めていつも通りを装う。
「なんだよ?」
「……いいえ……何でもないわ」
とてもそうは見えないが。匠は喉まで出かかったそれを言わずに飲み込んだ。変につっついて墓穴を掘るのはごめんだ。
正義が意味深な笑みを浮かべる。その目が面白そうに笑うのを無視して、雫へと目を戻す。目が合うと、彼女は小さく首を傾げてへにゃりと笑った。そのぽやんとした笑顔に思わず小さな頭に手が伸びる。ぐりぐり撫でてやると、今度は驚いたようにきょとりと表情を変えた。それは素直な感情の露出だった。取り繕うこともせず含みももたない彼女は穢れを知らない子供のようだ。
そんな雫に匠はしみじみと言い聞かせる。
「お前はそのまま真っ直ぐ育てよ」
「匠くん、私もう小さな子供じゃないよ? 同い年だって忘れてない?」
「忘れてない忘れてない」
「なんで二度言うの!」
不満いっぱいの顔で口を尖らせる雫に、匠はますますからかいたくなるのを堪えた。これ以上は大人気ないし、本気で拗ねさせると後が面倒だ。昔、本気で拗ねさせた時には、二週間近く口を利いてもらえず、宥めるのに苦労したものだ。
「東堂さーん」
くだらないことを思い出していると、雫を呼ぶ声がした。つられて振り返ると、教室の入り口で見覚えのない女子が雫を呼んでいる。ちらりと目が合い、慌てたように顔が廊下側に引っ込んだ。睨んだつもりはなかったが、もともと目つきはよくない。勘違いされたのだろう。
「知り合いか?」
「ううん。何だろ? ちょっと行ってくるね」
パタパタと走っていく雫を見送ると、正義がそっと耳打ちしてくる。
「相手が女子でよかったじゃないか」
「あぁ? なんでだ?」
「だって君、これが男子なら告白されるんじゃないかと心配しただろ?」
「んなわけあるか! だいたいガキのあいつが告白なんざされるわけがねぇだろ」
「あら、そんなことないわよ」
からかうように笑う悪友を逆に鼻で笑い飛ばしていると、美鈴から思わぬ否定が返る。その表情には冗談の色がなくて、匠は一瞬言葉に詰まった。
「匠クンは知らないだろうけど、あの子小さくて可愛いって結構男子に人気なのよ? ただ、いつも二人って一緒でしょ? だからなんていうのかしら……そこに二人だけの世界が出来てるみたいで、声をかけにくいみたいよ」
「君はどちらかといえば強面だからね。そのせいもあるんじゃないかい? ふむ、しかし傍から見るととても不思議な関係だね。恋愛関係じゃないのに、二人の間には周りが入れないほど強い絆があるように見える。いや、実に面白いよ」
「……そりゃあ家族みたいなもんだから、特別ちゃ特別なんだろうよ。けど、二人だけの世界ってのは大げさだろ? そんなもん作った覚えないぜ」
そう答えながらも、胸はざわつく。雫が他の男から恋愛対象とされている、それは匠にとってある種の衝撃だった。匠は今まで彼女をそういう目で見たことは一度もない。だから、目が曇っていたのだろう。他の男からも、彼女が女として見られることはけしてないだろうと思い込んでいた。
口の中に苦い気持ちが込み上げる。それは強烈な不快感だった。
──なんだこれ? すげぇ、気分悪りぃ……。
自分の気持ちを持て余し、匠は眉間に皺を寄せて深く考え込む。しかし、自分の思考を掘り下げて考えても、答えらしきものが見えてこない。
考えている間に雫が戻ってきて、匠は思考を切り替える。
「おや、お帰り。あの女子はなんの用だったんだい?」
「なんかね、わたし家の鍵を落としちゃってたみたいで、それを拾ってくれたんだって」
「へぇ、親切な子もいるものねぇ」
「感心してる場合かよ。お前なぁ、どんだけ抜けてんだよ? 今まで気づかなかったのか?」
「え、えへ……?」
困った顔で笑う雫は誤魔化そうとしているのが見え見えだ。やはりまだまだてんで子供だ。こんな彼女を女として見る男の方がおかしい。匠はそう考えて納得する。きっとさっきの不快感は妹を守ろうとする兄の気持ちだ。思わぬ事実を知って少しばかり驚いて混乱したのだろう。
すっきりした匠は、あわあわと言い訳を並べる雫へがっつりと説教を始めるのだった。