魂の中継地点(非18禁バージョン)
私は日々の仕事で疲れ果てていた。
残業に次ぐ残業、家に帰れば妻と子供の相手、心は八方塞がりで、どこにも救いを見い出せない状態であった。
睡眠時間もここ最近は、平均で4時間ほどしか取れなかった。
だが忙しい合間を縫って何とか一日だけ、定時終わりで帰宅する事ができた。私は風呂と食事を済ませると、泥のように眠り込んだ。
不思議な出来事が起こったのはそんな時であった。
――私は気がつくとある部屋の中に居た。
初めは宇宙空間に放り出されたのかと思ったが、地面と重力が存在するから違う。
6畳ほどの小さな部屋だが、美しい絨毯が敷いてある。壁は……無い。
壁のあるはずの所が宇宙空間のようになっていた。壁紙では無く、本物の宇宙が広がっているように見えた。
後ろには細長い廊下があり、その奥には出口と見られる光が見えていた。
目の前には大きな本棚があった。星屑を散りばめたような綺麗な装丁が施してある青い本で埋まっていた。
ふと見ると、眼鏡をかけた女性が一人立っていた。
「ようこそいらっしゃいました」
「え?あなたは?というかここは?」
「ここは魂の中継地点。誰もが人生で一度だけ訪れる事ができるチェックポイントでございます。これまでの人生お疲れ様でした。ここでは存分にリフレッシュして気持ちをゼロに戻して頂き、新しい気持ちでこれからの人生を始めるお手伝いをしております」
「へ?ここは……夢?」
「はい。明晰夢を通してアクセスして頂いております」
明晰夢って、夢の中で夢だと気づいているというあれか……
「ここではあなたの望みが全て反映されます。あなたが宇宙を好んでいる事、そしてこの私。どこかに見覚えありませんか?」
「……あるね……ソックリだ……」
「ダメですよ、そんなテンションじゃあ!ここは何でもありなんですからね。あなたには完全にリフレッシュして、人生に戻って頂くのが私のお仕事なんですから!」
「そ、そうだな」
と言っても、知っている顔の前では、その子と接しているような感じがして、テンションを上げようにも、上げる事ができない。
「じゃあとりあえずあなたのこれまでの人生を振り返ってみましょうか」
「え?」
「この本棚にはあなたがこれまで生きてきた全ての瞬間の記録が眠っています。アカシックレコードって聞いた事ありませんか?あれは万物の魂の記録ですけど、これはその個人バージョンみたいなものですよ」
適当な説明だ。それに何だか胡散臭いな……
「あなた疑ってますね?じゃあちょっと本の中を見てみましょうか」
そう言うと、女はキラキラした青い本を一つ取って開き始めた。
「ふむふむ。なるほどなるほど。
あなたがこれまで奥さんと過ごした時間、2565時間48分21秒。
あなたが子供と一緒に過ごした時間、1020時間7分12秒」
「え!そんな事まで分かるの!?」
「はい!でも、これはあなたの心の中で、無意識にせよ『そう感じている』時間なので、睡眠時間は省かれます。だから実際にはもっと長いんですよ。心の移り変わりを元に時間化していますので」
私は驚愕した。夢の中とは言え、こんなに正確な時間を出されると、思わず信じこんでしまう。
私は思わず壁にもたれかかった。周りは宇宙空間だと思い出してハッとしたが、どうやら見えない壁があるようで落ちる事は無かった。宇宙はただのイメージなのだろう。
「もっと知りたい事はありませんか?」
「そうだなぁ。時間以外も分かるの?」
「ええ、もちろん。あなたが最も感動した瞬間は、ビートルズ来日とありますね」
「あぁ~今でも覚えてるよ。あれは最高だった!」
私は今でもギターを弾いている。ビートルズ来日はその原点とも言える瞬間だったのだ。
私はその瞬間を思い出そうとした。すると、思い出した事がまるで現在の瞬間であるかのように再生された。その時の興奮が蘇ってきたのだ!
「うおおおおお!ジョオオオオオオオオオオン!」
「あはははは!相当感動したんですね!ではこれはどうですか?村上春樹『風の歌を聴け』」
「うおおおおお!ジェエエエエエエエエエエイ!」
「あはははは!誰ですか?ジェイって!」
『風の歌を聴け』は私が小説に初めて魅せられた話だ。発表された当時の私はもう良い歳だったが、この作品に影響され、いつか小説家デビューする事を夢見て、今でも私は小説を書いている。
「ありがとう!君は素晴らしいものを思い出させてくれたよ!」
「いえいえ、まだまだこんなもんじゃありませんよ。あなたはこんな事では満足しない。そうでしょう?」
少し間があった後、女は新たに本を取って喋りだした。
「あなたが愚痴を吐いていた時間 875時間39分44秒。
あなたが他人の不幸を喜んでいた時間 402時間10分5秒」
「え?」
女の声の調子が明らかに変わり、吐き捨てるような口調になった。目もそれまでの可愛らしい目から少し虚ろな怖い目になった。
「あなたが退屈だと思いながら仕事をしていた時間 4150時間48分56秒。
あなたが結婚してから妻以外の女と2人で過ごした時間 315時間56分12秒」
情報も明らかに変わった。私の気にしている事をえぐり出すかのような情報だった。
「い、いや、そんな情報はいらない」
「嘘だ。お前は指摘して欲しかったんだろ?クズみたいな自分を。誰かにクズだと言って欲しかったんだろ?」
切れ長になった目で女が言う。私より遥かに年下の女が。
「失礼だろ!私は毎日仕事を頑張っているんだ!妻にだって感謝されている!」
「退屈する為に会社に行ってるだけだろ。自分に嘘ついてんじゃねぇよ。そんな事だから4000時間も馬鹿みたいに退屈してんだろうがよ!お前の妻も感謝なんかしてないよ?つーか金運んでくる機械にしか見てないよ?」
「おい!」
激しい屈辱を感じる。だが確かに、私は誰かに言って欲しかったのかもしれない。自分の中にある大きな大きなトゲの事を。自分でも隠していたトゲの事を。
「お前がビートルズを好きなのも、村上春樹を好きなのも嘘だろ?私にそれを『読ませた』のも、ただ昔を懐かしみたいだけだったんだろう。私には分かる。お前は日常のつまらなさをそれらで隠しているだけなんだよ」
「違う!」
「音楽家にも小説家にもなろうとしてなれるもんじゃない。才能を持っている奴だけが、気づいたらなってるんだよ。お前みたいな底辺は希望を抱えているだけでもう満足してるんだよ。自分はギターを弾く、小説を書くようないっぱしの人間だと思いたいだけなんだよ」
「いい加減にしろ!」
「小説家は誰よりも小説を書く。それを愛しているからな。なのにお前は何だ?お前の行動のほとんどは何が占めている?『退屈』だ。お前は退屈人間だ。4000時間も退屈する事に時間を注いできたんだ。史上最高の退屈人間なんだよ。退屈人間のお前が書いた小説なんて誰が読むんだよボケ」
最後の言葉を発した時、女の顔が歪んだ。
私は気づいたら手が出ていた。知性漂う女性の美しい顔を、全力の拳で振り抜いていた。
女は地面に倒れこんだ。ふいの出来事に訳も分からず、意識が朦朧としているといった様子だった。
私は構わずマウントを取り、気が済むまで全力で殴った。もう女は痙攣して動けない状態だった。
本当の所、私は気づいていた。この部屋に来て、経理の増村と同じ顔をした女が現れた時、そして望みが叶うという言葉を聞いた時、私は『長年の望みが叶う事』を知っていた。
私はずっと増村を殴り倒す事を夢見ていた。こいつは私の醜さに全て気づいていた。その上で会社ではいつも私に皮肉ばかり言ってきたのだ。恨みは募り、いつか殴り飛ばしてやりたかったが、会社や家族の事を考えるとそれができなかった。
ここの案内役か何かの、この女が私から暴力を受ける事を知らないのは当たり前だ。私の望みは『何も知らない』増村をボコボコにしたかったのだから。双方合意の上の暴力で満足するはずがない。この女には悪いが、私の長年の望みはやっと叶えられたよ。
私は長い廊下を走る。壁は無く、周囲は宇宙空間。なんと心地良いのだろう。こんなに全力で走ったのは何年ぶりだろうか。私は宇宙の神秘に陶酔し、子供のような気持ちで走った。
200mほど走った所で出口が見えた。私の心は感謝でいっぱいだった。
ありがとう!気持ちがゼロになったかは分からないが、明日からまた頑張れそうだ。私は満たされた。本当にありがとう!
朝が来た。
これまでに無い最高の朝が来た。
そう思った後、ある異変に気づいた。
「ここはどこだ?」
白い壁、白い鉄格子が見える。床は薄いオレンジ。和式のトイレがポツンとある。私は床で寝ていた。ここは……刑務所!?
「気が付かれましたか」
頭の中で声がする。声の調子からして、夢の中で最初に現れた女だった。
「気分はどうですか?」
「どうですか、っておい、ここはどこなんだ!」
「決まっているでしょう。留置所です」
「留置所!?」
「あなた、昨日した事を覚えてないんですか?」
「昨日……昨日は仕事から帰って家で眠って、夢の中で君と会ったんだろうが」
「違います。それは一昨日です」
「え?」
「まあ、どうせ勘違いしているだろうと思って話しかけたんですけどね。先に言っておきますが、あの部屋で行われた事は全て現実になります。正確には現実で同じ事を行います。あなた、覚えているでしょう?昨日起こった事実を」
女に言われて思い出した。昨日は残業の帰りに経理の増村と一緒に飲みに行ったんだった。
居酒屋が閉まった後も、缶チューハイを買ってシャッターの閉まった店の前で話しながら飲んでいた。酔った勢いからか、普段は理性的な増村があまりにも私に毒を吐くので、私はカッとなって増村をボコボコに殴り飛ばした。
そこを通りがかった警官に見つかり、全速力で逃げた。200mほど走った所であえなく捕まった。
そう、私は完全に覚えていた。拳の感触だって思い出せる。だが現実を受け入れる事はできない。
「なんて事をしてくれたんだ!もう終わりだ……」
「いやいや、私はあなたの欲望を叶えただけですよ?現実世界でやらなければあなたは満足しないのですよ。あなたは夢の中で殴っただけで満足できるんですか?」
「それは……」
「現実世界の経理の女の子をボコボコに殴る。あなたがやりたかったのはそれなんです」
「しかし、私は会社や家族を犠牲にしてまでしたいとは思っていなかった!」
「理性ではそうかもしれませんが、本心はどうですかねぇ。そういうシガラミも全部捨てたかったんじゃないですか?刑務所暮しをしてでも、あなたは全てを捨てたかった。
まあどうせだから言っちゃいますけど、あなたの言う通り刑務所から出ても、会社や家族はあなたを待っていません。あなたは本当に『ゼロ』から再出発できますよ」
「ほえ……」
私にはもう状況を整理する力も無く、涙を流してその場にへたりこんでしまった。
「では、さようなら。あなたに幸福あれ☆」
そういって頭の中から声が消えた。
ついにやってしまった。真面目だと褒められながら仕事をこなしてきた私が……
私は段々と現実を認識しはじめ、背筋が凍り付くのを感じた。
しかし、その裏では長年の欲望が叶えられたという充足感も感じていた。もちろん夢の中で感じた以上に。
そして家族や仕事を失う事にもどこかで解放感を感じていた。
私の中に狂気が潜んでいたのは事実だ。きっと退屈な毎日を趣味で覆い隠していたのも事実だろう。
刑務所を出たらもう一度、自分が何をやりたいのか考え直そう。そして一から出直してみよう。そう思った。
――ここは魂の中継地点。誰もが人生で一度だけ訪れる事ができるチェックポイントでございます。ここでは存分にリフレッシュして気持ちをゼロに戻して頂き、新しい気持ちでこれからの人生を始めるお手伝いをしております。
18禁バージョンはレイプの要素が加わるだけですので、改めて読むほどの変化はありません。