ミルクティー
夕方まで街路を隠していた粉雪は、道ゆく人の浮き足立つ跡で消え掛かっている。右へ左へ、縦に横。子供がはしゃいだのだろうか、中には小さな足跡も混ざっていた。
俯いたまま歩いていると、大きなショッピングバッグを手に提げたおじさんとぶつかった。すみませんと謝ったが、声は届いただろうか。何せ、右からも左からも、聞こえてくるのは賑やかなクリスマスソング。カレンダーを見なくても、今日がなんの日かは嫌というほど認識させられる。自分のように、暗い顔をして歩く人間は残念ながら確認できなかった。
口元を隠すように巻いたマフラーの隙間から白い息が漏れ出ている。寒さを可視化されたようで、マフラーで覆いきれていない耳が思い出したようにヒリヒリと傷んだ。両手で耳を塞いでみると、クリスマスソングがくぐもって聞こえてきて、余計に気が滅入った。諦めるように手を離すと、かけたメガネが曇るのも気にしないで、ふうと重いため息を吐いた。
手を繋ぐ仲睦まじいカップルに、「すぐ帰るから」と電話しているサラリーマン、高級コスメブランドのショッパーを満足そうに手に持った女性と、すれ違う人は皆楽しそうだった。
もうここまでくると羨ましいを超えて虚無だった。リア充爆発しろと笑い合った仲間は皆就職を機に離れ離れになり、三年付き合った彼女とは一昨年振られてから疎遠のまま。新しい恋を見つけることもできなければ、離れて暮らす家族の元までわざわざ帰る気にもなれず、今年も一人でクリスマスを過ごすことになりそうだった。
チキンとかケーキとか、形だけでもクリスマスを満喫しようにも、退社してからここにくるまでの人混みを見て蝋燭の火が消えるようにモチベーションが削がれてしまった。
自分が気づけていないだけで、同じような気持ちを抱えた人間はそれなりにいるはず。そう言い聞かせて、いつもより重い足を一歩、また一歩踏み出して帰路を進む。
「雪めっちゃ綺麗に撮れた!」
冬だというのに生足を見せる制服姿の女子高生が雑貨屋のショーウィンドウの前ではしゃいでいる。
その声にふと空を見上げると、止む気配のない雪がちらちらと舞っていた。
地元で嫌というほど見てきた自分にとっては、雪なんてロマンチックでも特別でもなんでもなかった。なんでもないのに、今日はクリスマスだからと意識して自然現象を神格化してしまう日本人の多さたるや。
そうだ、今日はただの平日に過ぎない。他国の神様のお祝いなんて自分には何も関係ない。良くも悪くもツリーと門松を同時に置いてしまうような国だ。数百年前まで日本になかった文化だ。
頭に流れるクリスマスソングに言い返すように、脳内に考えを巡らせる。そんなことをしたって、なんの対抗にもならない。わかっている。気にしないように、平然を装うと思えば思うほど、クリスマスのことを考えてしまった。一番このイベントに踊らされているのは、自分自身かもしれない。
また一つため息を吐く。通りの人も増え、雑踏が音楽をかき消していく。
その方が都合がいい。ありがたい。心の中で感謝していると、クリスマスソングとは違う、透き通るような声が聞こえた。
”マライアキャリー”でも”ワム!”でもない、中性的な声で聞いたことのないやや切ないメロディラインだった。音の正体を探るように人混みを縫う。多少引き返すことになっても、どうせ今日は帰って一人。寄り道はいくらでもできた。
「これからもずっと」
歌詞が聞き取れるほど音が近づく。アコースティックギターと、ボーカルはハイトーンが心地よい、男性の声だろうか。
「私は『私』を生きてゆける」
誰も足を止めている人はいない。むしろ避けて通る街路の端に、小柄なストリートミュージシャンが佇んでいた。
童顔だがギターを持つ手はしっかりと骨張っている。
決して派手ではなく、足元にダンボールでできた粗末な自己紹介が置かれているだけ。何をアピールしたいのかわからない売り出し方で、チップを置く場所さえも用意されていなかった。
男性は少しも笑っていない。苦しさや哀しさといった類の思い詰めた顔で、けれども愛おしそうに音楽を奏でている。その表情に、音楽に、吸い込まれていく。靴裏が地面に凍り付いたと錯覚するくらい、その魅力に取り憑かれて彼の前から動くことはできなかった。
「あの時、私は貴方の事が好きでした」
その声は震えていた。彼の目の端が光ったように見えた。一瞬目を伏せたのはイルミネーションが煌々としているからだけではないのだろう。
音楽には明るくないが、その感情に乗せられた言葉には胸を打たれた。
彼に何があったのかも知らないのに、名前すらも知らないのに、心根を理解できるような気がしてしまった。
叫びたいのを抑えて音に乗せるような、そうでもしないと自分を保っていられないような、そんな不安定さを感じた。
二年前の自分と重ねてしまったのかもしれない。そんなことを考えていると、曲の終わりを告げるフレーズが鳴っていた。
彼との間には余韻という名の沈黙が漂っていた。
「へっくしゅ」
彼のくしゃみで我に返るとざわざわと人の声が、足音がフェードインした。そのまま去ってしまっても良かったのだが、背中を丸めて手を擦り合わせる彼を見ていると、なんだかマッチ売りの少女のような、捨てられた子犬のような姿に憐憫の情が芽生えた。
何か声をかけるべきかと迷っていると、彼はギターをケースにしまい始めた。こちらの姿に気がついていないのか、避けているのか、目が全く合わない。
そういうことならとこちらも静かに踵を返すと、またくしゃみが聞こえた。
こんな寒空に一人で何時間過ごしたのか計り知れないが、一曲分くらいは労ってやりたいと思った。
近くの自販機であったかいと書かれたミルクティーと缶コーヒーを一つずつ買って戻ると、彼は自己紹介ボードを手に取ったところだった。
「あの、これ良かったら。好きな方どうぞ」
男性は目を丸くして飲み物と俺の顔を交互に見た。飲食物の差し入れはまずかったかと考えが過ったが彼は「じゃあ」とミルクティーを選んだ。
キャップを開けると微かに湯気が立ち上った。彼は両手でミニボトルを包んだまま「いただきます」と一礼して、ミルクティーを飲み下した。
せっかくならと、彼に促されるまま道端に腰掛けると、選ばれなかった缶コーヒーのプルタブを引いた。
「寒すぎてもう手の感覚なくなりました」
そうはにかんだ横顔を見て、孤独を共有できた気がした。
「いつからライブを?」
「高校からです。ノリでバンド組んでそれから……あ、今日のことでした?」
夜の六時からあの場所で路上ライブをしていたらしいことも教えてもらったが、もうすでに時刻は八時を過ぎていた。最後に歌ったのは、好きなバンドのカバー曲だということも聞かされた。
彼は名前を「飯盛純」といった。高校から大学まで音楽に没頭し、いつかメジャーデビューすることを夢見て取り組んできたらしいが、夢を語った仲間は皆定職に就き、中にはすでに家庭を築いているものもおり、飯盛だけが諦めきれずにアルバイトで食い繋ぎながらその日暮らしをしているとのことだった。
「わかってはいるんだけどね。いい加減、現実見なきゃいけないこととか」
同い年だとわかると、飯盛はタメ口で話してきた。会社でも常に敬語のため、こんなふうに誰かと話せるのは大学生以来で嬉しかった。
「好きなら続けたら。まだ若いんだし」
「若いって、五竜くんも二十五でしょ」
夢を追いかける、なんて学生時代に辞めてしまった。
でもそのおかげで安定した職に就いて、そこそこの給料をもらって、仕事も任せてもらえるようになった。
良いことづくしだ。それなのに、どこか満たされない。
不安定でも、好きなことを続けている飯盛を羨ましく感じた。孤独だけど自由で、きっと飯盛は自分の生き方を悔いてはいないのだろう。
どうか、そのまま夢を叶えてほしい。道半ばで諦めた俺の分まで、人生を謳歌してほしい。
初対面の人間に願うのもどうかと思うが、心の声なら聞こえない。俺が勝手に思っているだけ。伝わらない独言だ。
「でもありがとう」
心の声が漏れ出ていたかとギョッとしたが、そうではないらしく、飯盛はミルクティーに目を落としたままだった。その目がどうしても切なく見えて、何か気の利いたことを返せないかと頭を悩ませた。
「こちらこそ、おかげであったまった」
「ん、なんか言った?」
強めに首を横に振った。柄にもないことを言った自覚はあったが、聴こえていなかったのだとしたら恥ずかしくて耳まで赤くなっているのが容易に想像できた。いや聞こえていても恥ずかしいのだが。
なんだか大学生時代の自分が顔を覗かせたようで、羞恥心を潰すように息を吐いた。
「五竜くん、早く帰った方がいいよ。僕なんかに構ってないでさ。ほら、今日はクリスマスだし、彼女さんだって待ってるんでしょ」
嫌味ではないのだろう。ただ、その言い方からして彼には聖夜を共に過ごす相手がいないことは容易に想像できた。
「生憎今年も一人の予定だからな」
「も? 前はいたの?」
「まあ」
「ああいやごめん。僕もちょうど先週振られたばっかで、ちょっと心の整理できてなくてさ」
歌っている飯盛の姿と過去の自分が重なったのは間違いじゃなかったらしい。
「だからあんなに苦しそうだったのか」
飯盛は困り眉をさらに困らせて、頭をかいた。
「話し合いができなくてさ。僕が彼女にもっと気持ちを伝えていれば良かったんだろうけど、なんか我慢しちゃって」
我慢した結果、何を考えているかわからないと振られてしまったらしい。彼女側も歩み寄ろうとしたのかは飯盛の話を聞く限りわからなかったが、なんとなくしないまま別れたように感じた。俺もそうだったから。
蓋をして箪笥の奥にしまっておいた記憶がだんだんと鮮明に思い出された。鬱々とした気持ちを晴らすように首を振ってコーヒーを流し込んでいると、飯盛が続けた。
「僕ね、人と話すの苦手なんだ。どう会話すればいいのかわからなくて、人数が増えれば増えるほど、居場所を作れずにただそこにいる人になっちゃって」
「苦手の割には俺とは普通に話せてるぞ」
「それは、君が僕のことを笑わないでいてくれるから」
その一言に眉がぴくりと反応した。
——そんなので食っていけるわけないじゃん。
——二十歳過ぎて痛いよね。
——自分に酔ってるだけでしょ。
講義室で聞こえてくる声は激励からは程遠かった。
ただひたすらパソコンと向き合って、誰ともつるもうとせず、自分のやりたいことだけをまっすぐに見つめていたあの頃。
通るわけでもないコンテストに応募して、読者がいるわけでもないのに書き続けた。
そんな夢みがちな自分をバカにする人間は多かった。
「……もしかして、五竜くん創作してる?」
「なんでそう思う?」
出会ってまだ数十分なのに、心を見透かしてくるような発言をする飯盛は、エスパーなのかもしれない。
「なんとなく。普通の人は僕なんかに話しかけようとはしないから」
飯盛は自虐するような物言いをしていたが、やはり創作をする人間は普通ではないのだと改めて認識させられた。
「昔ちょっとな」
やっぱり、と口角を上げる飯盛は、好奇心を隠しきれない子供のような表情をしていた。
「五竜くん、言葉選びも詩的で素敵だもん」
納得したように頷くだけで、それ以上踏み込んで来ないのは彼なりの気遣いなのだろうか。
すっかり冷めた缶コーヒーをぼんやり見つめていると、隣でまた一つくしゃみが聞こえた。
腕時計を見ると、かれこれ二十分は話し込んでいた。
そろそろ潮時だと感じつつも、個人的に飯盛についてもっと知りたいと思った。
「あのさ」
単なる好奇心、自分のあったかもしれない生き方に惹かれただけ。
「飯盛さえ良ければ、もう少し話さな——」
「聞きたい」
最後まで提案を言い切ってもいないのに、爛々と目を輝かせた飯盛に見つめられた。
「五竜くんの話、もっと聞きたい」
じゃあ、と同じようなタイミングで立ち上がると、飯盛は俺の頭一つ分小さかった。
「座ってるときはあんま感じなかったのに」
苦笑する飯盛に釣られて思わず口角が上がった。
未だ降り止まぬ雪の中、帰路に残す足跡が増えるのはなんだか嬉しかった。




