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恋慕

 医局に入っても何をしていいか分からず、5分はいよう、と自分で決めていた時間が、少しずつ長くなった。ドクターが話しているのを他社MRと一緒に立って聞く。他社MRが相槌を打ったりその話に加わったりするのを見ているけれど、会話に自分から入るのは難しい。 

 私は毎日「いないよりましだ」と自分に言い聞かせて、焦りを抑え込んでいた。

 表情に焦りを出してはいけない。隙が多いと夏目さんにも言われたばかりだ。

 そう思ってドクターに接するときはなるべく笑顔を作る。でもふっと気を抜くと泣きそうになる自分がいた。もちろん実際には泣いていなかったけれど。


 毎日同じような日々が続く。

 仕事というものはそんなものなのかもしれないが、自分が役に立てているのかわからなくなるとどうしても不安になり、兄の言葉を思い出し、焦りが増す。今野さんと比べてはいけないとは思う。でも、病院長や薬剤部長、主要教授を押さえている今野さんと違って自分は仕事になっているのかと何度も不安になった。


「俺、ほとんど薬の話、したことないよ? 焦りすぎだよ、鈴木は」


 鈴木には言われる。そうかもしれない。新人のMRに何ができるというのか。それでも負けず嫌いな私はじりじりと焦りを毎日感じていた。

 医局での薬剤の説明会は経験を積んでほしいということで、ほとんど私がすることになったので、練習を入浴中にもするようになった。



***




「おう。最近、体の調子はどうだ?」


 悶々としている毎日。

 通りかかった橘先生に言われたとき、私は思わず橘先生に救いの神を見たのだと思う。


「なんだ、そんな顔して。まあ、入れ」


 橘先生に自室に促され私は入った。


「どうした? 営業、きついのか?」 


 そう言った橘先生の目がとてもやさしく見えて、私の目から一筋の涙が落ちた。何の涙か自分でもわからなかった。いったん泣いてしまうともう止められなかった。私の目からはとめどなく涙が溢れ、橘先生はそんな私を困ったように見ていた。


「なんだ、何かあったのか?」

「い、いえ。ただ、自分は役に立っているのかわからなくなりまして……。会社で教わった宣伝はほとんどできないし、大学に来ていても薬の話もできない。それでいいのかと……」


 涙と一緒に言葉が出てくる。沢野先生に話したことと同じことだ。あの時沢野先生に言われたのに。私がいる意味はある、と。それなのに、その実感をなかなか得られない。


 橘先生は煙草に火をつけると、ゆっくりと煙を吐いた。


「先生、ここは禁煙では……」

「気にするな。俺は自室では吸っている」


 橘先生はそう言ってもう一度煙を吐いた。そして私にティッシュを差し出した。


「まあ、拭け」

「ありがとうございます」


 私は涙を渡されたティッシュで拭いて、鼻もかんだ。


「あのな。鈴木さんは営業に出てからどのくらいだ?」

「半年になりました」

「半年ね。まだまだ半年だ。他のMR見て見ろ。薬の話できてるMRがどれほどいる?」

「……でも今野さんは……」

「今野さんね。まあ、あの人は営業してる感じだな。だが、鈴木さんとどれだけキャリアが違うと思ってんだ? もう一人の鈴木を見て見ろ。薬の営業してるか? あいつはニコニコして立ってる。それくらいでいいんだよ。誰がどの製薬会社のMRかくらいは俺らにもわかる。来てるMRの薬から出そうとくらいは思う」

「はい……。でも、シルビルナの自主研究の対象患者さんがまだまだ集まっていません」


 私は頷きながらも付け加えてしまう。


「ああ、自主研究、な」


 橘先生は少し困ったように眉を寄せた。

    

「今野さんは教授との関係は悪くないから自主研究を入れられたんだろうが、喘息の患者が多い竹部と塩屋に対してはそれほど強くないな」

「私、二人の先生に処方していただきたいんです」


 橘先生はうーんと唸った。


「それはまだ鈴木さんには難しいかもしれんな。まあ、でもお金は入っているわけだから、俺からも言わなければいけないだろうな」


 また橘先生は煙草の煙を吐いた。


「鈴木さんが真面目なのは分かるが、ちょっと力み過ぎじゃないか? 一人で回ってるならともかく、今野さんがいるんだから。まだ新人。分からないことだらけなんだ。周りに頼ってもっと気楽にやらないと潰れるぞ?」

「力み過ぎ……」

「ああ」


 私の脳裏を母の言葉がかすめる。


 ーーあんたは竜一と違って出来の悪い子なんだから、もっと死ぬ気でやりなさいーー


「死ぬ気でやらないと、ダメなんです。私は」


 ぽつりと私の口から出た言葉に、橘先生は私を凝視してため息をついた。


「……誰から言われたか知らんが、死ぬ気でなんて言うもんじゃない。もっと肩の力を抜くんだ。……おっと、おしゃべりが過ぎたな。俺も忙しいんだ。そろそろ鈴木さんも営業戻んなさい」


 私はまだ潤みそうになる目をごしごしとティッシュで拭いた。


「はい。ありがとうございました」


 深々とお辞儀をして、部屋を出ようとすると、


「礼はいいから、もっと気楽に、だぞ」    


 と声をかけられた。私はもう一度お辞儀をして部屋を出た。


 なんだろう。沢野先生もやさしいけれど、橘先生の言葉はなんだか温かい。心がじんわりする。


 私はこの日から落ち込んでいる時に橘先生の部屋を訪れるようになった。沢野先生は癒しをくれる。でも、橘先生はまた違って、顔を見るだけで元気をもらえる。


 ある日気がついた。橘先生の散乱した机の上に、橘先生に似た小学生ぐらいの男の子と綺麗な女性が微笑んでる写真があることに。

 橘先生の年齢からすれば当たり前のことだ。なのになぜか心が軋む音を聞いた気がした。



***



 講演会を主催する、というのも製薬会社の仕事だ。

 大学の講師以上のドクターには講演会での発表を依頼することもある。

 関連する科のドクターたちに呼びかけて講演会に出てもらい、パンフレットを渡し、講演会後の立食ではドクター方に飲み物などを渡すのもMRの役目だ。

 講演会には大学のドクターだけでなく、開業医ももちろん呼ぶため、支店をあげて取り組むことになる。千薬製薬は美人な女性MRが多いので、


「鈴木さんじゃなくて、他の子が来たら良かったのに」


 なんてことを言われることもあった。最初の頃は傷ついていたが、最近では、


「私で我慢してくださいよ、先生!」


 と返すこともようやくできるようになった。


 その日は喘息をテーマとした講演会だったので、教授の原田先生、講師の橘先生、他、呼吸器内科のドクターたちが何人か来ていた。私は苦手な竹部先生、塩屋先生にもお礼を言って飲み物を渡していたが、橘先生の姿を見つけると、


「橘先生、何を飲まれますか?」


 と声をかけに行った。


「おう、車だから烏龍茶でいい」

「分かりました。食べ物は食べていらっしゃいます?」

「食ってるから大丈夫だ」


 用事だけ済ませて、話すこともなくなった私は邪魔にならないように壁を背にドクターたちを見ていた。そんな私の手を香澄が引いた。


「ちょっと」

「え?」

「あの先生って所帯持ちよね?」


 香澄は前を向いたまま口だけでこそこそと私に話しかけてきた。


 あの先生? 橘先生のこと?


「うん。そうだけど?」

「駄目よ、惚れたりなんかしたら」

「え?」


 一瞬香澄の言葉を私は理解できなかった。


「理緒、分かりやすすぎ。目があの先生ばかり追ってる」


 私は自分の頬が熱を持つのが分かった。心臓が急に早鐘を打ち始める。


「そんなこと、ない、よ?」

「……とにかく、気をつけなよ。他の先生やMRにバレると不味いから」


 私は言葉を返せなかった。


 橘先生を好き?


 橘先生はドクターで。営業相手で。私を診てくれた先生でもある。

 でもそれだけのはずだ。


 そうかな。本当に?


 確かに橘先生の姿を見つけると何だかホッとする自分がいる。だからついついその姿を探してしまう。





「鈴木? 何かあった?」


 ついつい呼吸器内科のある4階のエレベーターホールにいてしまう私を現実に呼び戻したのは、鈴木の声だった。


「え? な、何も」


 背の高い鈴木が私を見下ろしている。


「ふーん」

「なんか、私、おかしいかな?」

「考え事が増えてる感じ。心ここにあらず」

「そっか。気をつけないとね。夏目さんにも隙が多いって言われたんだった」


 私の言葉に、

「あー、それはあるね」


 と鈴木が返した。


「そ、そう?」

「うん。悩んでる時、顔に出てる。何悩んでんの?」


 鈴木に橘先生のことは言えない。そこで、私は鈴木に質問することにした。


「鈴木は……自分の存在意義とか考えない? MRとして、役に立ってるかどうかとか」


 鈴木は不思議そうな顔をした。


「存在意義? 小難しいこと考えてるんだな。仕事が全てじゃないと思ってるから、存在意義まで考えない」


 鈴木の答えに、私は。


「え?」


 動揺した。


「だから。役に立ってるか立ってないかで自分の存在意義を決めたりなんかしない」


 もう一度言った鈴木に私は黙った。母の言葉が聞こえてくる。


 『役立たずはいらないのよ』


 ずっとそう言われてきた。


「鈴木? 大丈夫か?」

「え、あ、うん」

「鈴木さ、仕事に入れ込み過ぎじゃない? 家で何してる?」


 最近、何してるかな。説明会の練習ばかりしてる気がする。


「おい、まさか仕事してないよな?」


 私は返答につまった。


「じゃあ、質問変えるわ。好きなことは?」


 好きなこと。最近できてないけど。


「ゲームは割と好き」

「マジ? 何好き?」

「ダーク◯ウルのシリーズとか、アサシン◯リードとか」


 鈴木の顔が輝きだした。


「え、じゃあ、ブラッド◯ーンは知ってる?」

「あ、かなり好き」

「マジかよ?!」


 鈴木の声がホールに響いて、鈴木は「あぶねー」と口を閉じた。


「なあ、一緒にやんね? 今度の土曜暇? ネット繋がってる? ダーク◯ウル3しよーぜ!」

「ああ、協力してプレイするの? そうだね、土曜日なら予定ないや」

「それじゃ、やる時メールするから」

「分かった」


 機嫌が良くなった鈴木を見て私も少し気持ちが和らいだ。そこへ橘先生が通った。


「おう、楽しそうだな」


 私はやましい事はないのに、


「いえ、大したことじゃないんです」


 と思わず否定してしまう。


「いいじゃないか。少しは息抜きしろよ」


 笑って去っていく橘先生。

 どこから聞いてたんだろう。変な誤解されていたら嫌だな。


「……へえ、橘先生、気遣ってくれるなんて、案外優しいんだな」


 鈴木が橘先生の後ろ姿を見ながら言った。


「そうだね」


 私は橘先生の顔も見られたし、違う階に行こうとする。


「土曜、忘れんなよ」


 背後の鈴木の声に私は振り返って黙って頷くと階段を上った。


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