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兄からの電話

 エレベーターホールでドクターを待っている時間は相変わらず苦しい。

 沢野先生の言葉を思い出して、「無駄ではない」と自分に言い聞かせても、顔は覚えているはずなのに未だに挨拶を返してくれないドクターがいる。まるで私などいないように素通りしていくドクターを見ると心が痛んだ。


『お前が無能だからだよ』


 空耳がする。


 一昨日、兄から珍しく電話があった。


『お前、MRになったらしいな。薬学部でもないのにしっかりやれてんのか? でも、まあ、使い捨ての職業らしいからお前にはピッタリかもな』


 使い捨て。その言葉を聞いたとき、私は心臓をぎゅうっと掴まれたような気がした。兄は変わっていない。私の傷つく言葉を言わせたら、世界一だ。


「鈴木? 大丈夫? 顔が真っ青だけど」


 鈴木の声で現実に戻された。


「ああ。ごめん。大丈夫。なんでもない」

「なんでもない顔に見えないんだけど」


 鈴木の目が心配そうに私を見ていた。鈴木は意外と優しい。


「……一昨日、兄から電話があってね。私、兄、苦手なんだ。一昨日も酷いこと言われてそれを思い出しただけ」

「ふうん。鈴木、兄がいるんだ」


 いなくてよかったけどね。と心で呟きながら、私は頷いた。


「俺は一つ上の姉がいる」

「そうなんだ。……仲いいの?」

「え? まあ、普通だと思うけど」

「いいね」


 鈴木は何も悪くない。でも、私はなんだか自分が惨めな気分になって、


「私、そろそろ別のとこ行くね」


 とエレベーターホールから離れて階段を上った。

 10階までの階段をもう少しで上りきるというところで、


「千薬さん」


 という女性の声と共に、腕を掴まれた。顔を上げると夏目さんがいた。


「えっと、夏目、さん……?」


 夏目さんとは話すのは名刺交換をして以来だ。


「千薬さんの、鈴木さん、だよね?」

「はい」


 夏目さんの真剣な目に私は射すくめられたように動けなくなった。夏目さんはクールビューティーな感じの、確か私より三年先輩のMRだ。


「別に、怒ろうとしてるわけじゃないから大丈夫よ。酷い顔してるから気になって。もしかして、営業で悩んでる? 新人で大学担当はつらいわよね」


 私はどんな返答をしていいかわからず、無言で頷いた。


「沢野先生も気にしてたわよ。私の名刺渡してたよね? 携帯の番号も書いてたと思う。あまり悩みすぎるとつぶれちゃうわよ。夜なら出られるから、もし相談したいことがあれば電話してきていいから。まあ、私は他社MRだから今野さんに相談したほうがいいかもしれないけれど、女性だからわかることもあるしね」


 私は夏目さんの目を見つめて、


「ありがとうございます……」


 と呆けたように言った。


「あと、誰が見てるかわからないから、営業先ではそんな顔してちゃだめよ。あなた、隙が多い。気を付けたほうがいいわ」

「はい」


 夏目さんは、


「それじゃあね」


 と言って私から腕を離した。そして何事もなかったように階段を下りて行った。

 夏目さんはかっこいいな。私は思った。


 隙が多い。

 私は夏目さんから言われたことを心に止めて、顔を引き締めた。

 10階のエレベーターホールには誰もいなかった。腎臓内科のドクターたちに声をかけるために待つ。

 しばらくして谷口先生が医局から出てきた。


「お疲れ様です。千薬です」


 深くお辞儀をする。谷口先生がこちらを向いた。


「千薬さん、毎日感心だね。真面目なことはいいことだよ」


 谷口先生に話しかけられるのは初めてだった。


「ありがとうございます!」

「明日処方するかな。えっとエクサシールだっけね」


 谷口先生の言葉に私はまた深々と頭を下げた。


「ありがとうございます! よろしくお願いします!」


 大丈夫。私でもいないより役に立つ。自分に言い聞かせた。


 谷口先生は40半ばぐらいのドクターで、紳士的な印象のドクターだ。

 今野さんは難しいドクターだと言っていたが私にはまだそれがわかっていなかった。このときは。



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