大団円ではないかもしれないけれど
谷口先生の噂は瞬く間に広がり、大学に居づらくなった谷口先生は大学から去った。実家の内科を継ぐことになったと聞いている。
夏目さんも大学を外れた。今は違う県の開業医を回っている。
「開業医は女性のMRも多いからやりやすいわ」
と夏目さんは言ってるけれど、かなり自社でバッシングを受けたみたいだ。
私は大学を外されるのを免れた。
私は外される予定だった。だが、私を外さないでくれと呼吸器内科のドクターをはじめ、橘先生、沢野先生、他の科のドクターからも声が上がったようだ。それでかろうじて外れずにすんだ。
司はというと、同県の国立大学病院に移動になった。私と付き合っていることが発覚してしまったからだろうけれど、国立大学病院のほうが格上だ。
私は今の担当大学病院で司と顔を合わせることはなくなってしまった。それでも、私たちは営業後や土日に時間を作って会っている。
不安がないわけではない。
でも、司を信じるって決めたから、私は司のいない大学病院でひたすら営業している。
最近になってやっと、私はしろと香澄には事の顛末を話した。
「理緒にしては思い切ったことをしたね。まあ、なんとかなってよかった」
としろには苦笑いをされ、香澄には、
「なんで相談してくれなかったの?! 私だったら谷口先生に言わなかった、絶対。理緒も今後はもう少し考えて行動してよね。でないと心配で仕方ない」
と怒られた。
***
「それで」
私は司の部屋で彼の隣に座って、紅茶の入ったカップを両手で持ちながら言った。
「うん?」
司がくつろいだ顔で返事をする。
「私たちいつのまに結婚前提に付き合ってることになってるの?」
あの日以来、私は大学病院で、
「鈴木さんたち、いつ結婚するの~?」
と他社のMRたちにからかわれるようになってしまった。
「だって理緒が言ったじゃん。何があってもそばにいてって」
「それは……そうだけど、結婚してっていう意味じゃ……」
司は私の目を覗き込む。
「そうなの? 結婚したくないの?」
「ずるいよ、司。そんなこと言われたら、結婚したいとしか言えない」
司は嬉しそうに笑って私を抱き寄せた。
私はそんな司の手に自分の手を重ねる。
「ねえ、司。これで本当に良かったのかな」
「うん?」
「谷口先生、大学から追い出しちゃった。私、もしかして大きな失敗をまたしちゃったのかな」
「なんでそう思うの? 谷口先生は大学を辞めなければいけないようなことをしたんだよ。当然さ」
司がポンポンと私の手の甲を優しく叩きながら言った。
「そう、だよね」
「それより、また、って何?」
「え?」
司の声の調子に私は司を振り返って見る。真剣な眼差しがあった。
「理緒は失敗してばかりだと思ってるってこと?」
私は司の言葉に沈黙した。
「理緒が何を失敗してきたかは分からないけどさ。失敗ってそんなに悪いことかな?」
司が考え込むようにして言った。
「え?」
「人間なんだから失敗くらい誰でもするよ」
「失敗、してもいいの?」
私は目を見開いて司を見る。
「失敗しない方が無理でしょ」
私は司から一度視線を自分の手に戻した。司の手のひらに包まれている私の手はやや汗ばんでいた。
失敗しない方が無理……。
そう、なんだろうか。失敗ってしてもいいものなのだろうか。
今まで私は色々な失敗をしてきた。小さな失敗でも母や兄には罵られ、私自身が「失敗作」だと言われ続けた。
いつの間にか思うようになっていた。私は失敗ばかり。この家に生まれたのも失敗。なかなか同性の友人を作れないのも失敗。この会社に就職したのも失敗。塩屋先生を怒らせたのも失敗。谷口先生を辞めさせたのも失敗。数えればキリがない。
「理緒?」
司が私の目をまた覗き込んだ。
「思い出してるの? 失敗したことを」
私は黙って頷いた。
「でも、失敗して、理緒はそのあとどうだった?」
「え?」
そのあと……?
家族が変わることはなかった。でも、それで家を出ようと思った。会社では居場所を作るのに苦労したけれど、香澄という友達を得た。そして、色々な人に出会った。司という同期の友達で今は恋人。橘先生や沢野先生というドクターとの出会い。私が失敗したと思っていたことはなんらかの影響を私に与えたけれど。でも。
「失敗はしたけれど、本当だ。今は後悔はしていない。何より、司がそばにいてくれるから、だから私は今幸せ」
司の目がやさしく笑んだ。
「失敗はさ、誰でもするけれど、そのあとどうするかでその人の人生は変わっていくよな」
「そう、だね」
「俺は以前、理緒に『生きていればいい』と言ったことがあったと思う。でもそれは自分のために生きていればいいということで、誰かの役に立たなくても存在価値はある、っていう意味だった。……ただ、それは漠然と生きるということではない」
私は司の目を見ながら先を促す。
「生きていて誰でも壁にぶち当たるだろうし失敗もする。でも、それでも人間は生きなければならないから、だからそのあと生きやすいように対処はしなければならない。よりよい人生を諦めるのは違うと思うんだ。失敗してもいい。けれど失敗して、そのあと理緒がどうしてきたかが一番意味があることなんだと思う」
私は司の言葉を頭の中でもう一度反芻した。そんな私の手を司はまた優しく叩いた。
「今、理緒が幸せだと思えるということは、理緒がそれだけ努力をしてきたって意味なんじゃあないかな」
「私が努力をしてきた……」
私はなんだか胸がいっぱいになるのを感じた。
そうか、司はそう感じてくれているんだ。そのことが嬉しかった。
そして。自分の今までの人生は無駄ではなかったのだと司の言葉で思うことができた。
「……やっぱり司はすごいや」
「え?」
「私の心の中にあったしこりが溶けていく感じだよ」
「そう? それはよかった」
司は嬉しそうに笑った。
「俺さ、今回の件で理緒のためにほとんど何もできなかったから、少し悔しかったんだよね」
「そうなの?」
「うん。沢野先生にメールして助けを呼ぶっていう恥ずかしい結果になっちゃった」
私は驚いた。
「え? 沢野先生があの場に来たのって……」
「うん。俺がメールしたんだ。やばいなって思ったから。でなきゃ10階に来ないよ、沢野先生。でも、結局呼んだことで沢野先生にも的が移って。俺の方こそ、失敗したとほんと思ったよ。かっこ悪いよな」
司はうなだれて言った。私は首を横に振る。
「夏目さんは?」
「夏目さんは知らない。騒ぎが大きくなったから来たんじゃないかな」
肩を落としている司に私は声をかける。
「司。大丈夫。司があの場にいてくれたから、私は頑張れた。それだけじゃない。司の存在がいつも私の支えなの。本当に感謝している」
「理緒……」
司は感激したように私を見た。
「あのとき、俺は谷口先生の言葉を無視できなくて、大学外れることを覚悟した。理緒も谷口先生が自分と不倫してるなんて嘘を言った時はそうだろ?」
「うん」
結局辞めたのは谷口先生と夏目さんになってしまったけど。
「全く、理緒は無茶ばかりする。谷口先生と不倫してるなんて言い出すとは俺も思わなかったよ」
「……ごめん」
「いや、謝って欲しいわけじゃないから」
司は苦笑して言った。
「話を戻すけど、確かに今回の結末は穏やかなものではないと思う。でも、それは理緒のせいじゃないよ。谷口先生が夏目さんを出禁にしたことが、いや、不倫をしたこと自体が発端なんだから」
私はそうかもしれないと頷いた。
「まあ、俺たちにできることは夏目さんの分まで営業を頑張ることぐらいかな」
「……そうだね」
これでよかったわけではないかもしれない。でも、この結末しかなかったのかもしれない。
「そういえば、香澄の結婚式の招待状が来てるの。それでね、今回のこと話したら、司にも来てもらいたいって」
「香澄さんって、例の友達? え? 俺?」
司は驚いたように私を見た。
「だ、だって、司が結婚前提として付き合ってるだなんて言うから……」
私は視線をうろうろさせる。
「お? それじゃ、公認ってことなの? 嬉しいな。ぜひ香澄さんにも会ってみたいね」
司は嬉しそうだ。
「ほ、本当に出るの?」
「出たらだめなの?」
「そうじゃ、ないけど……」
なんだか司からプロポーズをちゃんとされていないことが気になってしまう。司はこういうことを嘘で言う人間じゃないけれど、毎日営業先で会えなくなってしまった今、やっぱりちゃんと口にしてほしい。
司が私を見て笑った。
「なるほど、その顔。理緒の考えていること分かっちゃった」
「え?」
私は顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「鈴木理緒さん」
司が足を正して私に向き直った。
「俺と結婚してください。ずっと一緒にいさせてください。俺が理緒を幸せにするから」
私の目にじんわりと涙が浮かぶ。
「はい。一緒に幸せにならせてください、司。よろしくお願いします」
司は私を再び抱きよせた。
「指輪、買いに行こう。次の土曜日。いや、今からでもいいけど?」
「次の土曜日でいいよ。今日は一緒にこのままいたい」
「可愛いこと言ってくれるなあ」
司は私の体をお姫様抱っこしてベッドに寝かせた。
「それで式はいつにする?」
「ちょ、ちょっと。訊くか服脱がせるかどちらかにしてよ」
「じゃあ、結婚式の話は後で」
司の深いキスを受け止め、私は人生で一番の幸せを感じていた。
母や兄はきっと色々と言ってくるだろう。もしかしたら父も結婚となると何か言う可能性もある。
以前の私なら、言われたことが気になって結婚を考え直していたかもしれない。でも、今の私は全くそんなことは気にはならない。私は司からたくさんのことを教わった。私の世界は司と会って変わったのだ。
私、これだけは言える。MRになって様々な人と出会えて、そして何より、司に出会えてよかった!
***
一年後。私は司と式を挙げた。
私は迷った末、家族を呼ばなかった。
司はそれに反対はしなかったけれど、挨拶に行くと言い張っている。
スピーチはなんと香澄と沢野先生。
同じく式に呼んでバージンロードまで一緒に歩いてくれた橘先生は、「鈴木の彼氏が鈴木だったとはな。お前、鈴木を泣かせんなよ」と冗談のように司に向かって言ってたけれど、目は笑ってなかった。
「もちろんです。大切にします。誰よりも幸せにします!」
司の返事が頼もしい。
私はこれからどんな時も司と共に歩いていく。
了




