谷口先生という人2
私は逃げかもしれないがなるべく谷口先生と会わないように行動した。
下手に刺激をしても良くない。
他の科は普通に回る。腎臓内科のある10階だけ、なるべくドクターの出入りの少ない時間にエレベーターホールに立つ。正直営業的にはよろしくないが、仕方なかった。
ところが他の階のエレベーターホールでドクター達が来るのを待っている時、他社MRから良からぬ噂を耳にした。谷口先生が夏目さんを悪く言って回っているらしい。
「どんな風に言ってるんですか?」
「うーん。それは……」
私の問いに他社MRたちは言葉を濁す。
「教えてください」
「その……夏目さんが営業のとき色目を使っているって。谷口先生も使われたと……」
私は唖然としてしまった。夏目さんにアプローチしてきたのは谷口先生だというのに。
「皆さんはそれを信じるんですか? 夏目さんはサバサバしていて男勝りなところがありますよね? 私は夏目さんが色目を使うなんてありえないと思います!」
私の声が自然と大きくなる。
「いや、僕は夏目さんがそんな人ではないって思ってるよ?」
「ただね、谷口先生が言ってるとなるとね、そちらも信じないわけにも……」
私は唇を噛んだ。
「夏目さんが女性だから、だからこんな風に言われないといけないんですか?」
私の問いかけに彼らは黙る。私は悔しくて身体中から火が出そうに熱くなるのを感じた。
夏目さんをそういう風に言ったのだから、次は自分かもしれないとも思った。
私は不倫のことを黙っていていいのか、自問するようになった。
***
「司は夏目さんのこと谷口先生から直接聞いたことある?」
「うん。一人のときじゃなくて、何人かMRがいたときにね。反吐が出そうになったよ。谷口先生は困ったように笑いながら自分が被害者というように話してた」
司の部屋で私が尋ねると司はそう答えて嫌悪感を隠さなかった。
「司、そのとき今のような顔してなかったよね? 大丈夫かな」
「一応、笑って聞き流したけどひきつってたかもね」
私は司の手を握った。
「ねえ。私、このまま黙ってていいのかなって最近考えるようになった」
「理緒……」
司は私を真剣な目で見つめ返してきた。
「大丈夫。司には迷惑かけないようにするから」
「それってどういう意味?」
少し怒ったように司が言った。
「言葉通りだけど? 私のした行動には自分で責任を取るってこと。だから司は私がどんなことになっても私をかばったりしちゃだめだからね」
「それはそのとき俺が考えることだよ」
司はやっぱり怒っているようだった。
「どうして怒ってるの? 司?」
「あまりにも他人行儀だから」
「そんなことないよ。司が好きだから、だから司にだけはこの件で迷惑かけたくないんだよ」
司は私の手を強く握り返して、
「いいよ。俺には迷惑かけていいんだよ」
と言った。私は最近涙腺が弱くなっているなと思った。
「……私、もう一度だけ谷口先生と交渉してみようかな」
「それはどうかなと俺は思う」
司が間髪入れずに返してきた。
「谷口先生は交渉する気がないから夏目さんのことを悪く言ってるんだよ。理緒が言ってもきっともっと状況は悪化するだけだと思う。それでも言うというならかなりの覚悟がいるんじゃないか?」
それは大学病院を離れる覚悟だろう。
「……そうだね……」
私は溜息をついた。そんな私の手を司はもう一度握りしめた。
悔しい気持ちのまま私はとにかく他の科のドクターへの営業に力を入れた。
「夏目ちゃんのこと悪く言ってるドクターいるらしいじゃん」
呼吸器内科の医局で塩屋先生に声をかけられた。枝豆をもぐもぐと食べながらまるっきり他人事のように言われ、私はこめかみを引きつらせる。
「いや、なんで鈴木が怒るよ? まあ、でも女のMRはそんな風に言われるの、可哀相だと思ってんだよ、俺は。俺的には夏目ちゃんのこと好きだし、大学から離れてほしくないからさ。MR個人攻撃して追い出そうとするのはどうかと思うわけよ」
塩屋先生の言葉に少し私は肩の力が抜けた。でも、なんとも反応できなかった。
「で、鈴木もターゲットにされてるとか? せっかくシルビルナ少しは出すようになったんだから辞めんなよ?」
医局には私と塩屋先生と竹部先生しかいなかった。竹部先生は黙ってパソコンに向かっているが、たぶん聞いているのだと思う。その背中は以前ほどは私を拒んでいない気がする。私は勇気づけられ、
「はい」
と頷いた。
「それじゃ、来週のエクサシールの説明会、ちゃんと出てくださいね」
「うーん。それはその日に決めるよ」
塩屋先生らしい。私は笑って医局を出た。
循環器内科と神経内科で講演会のプリントをドクターたちに配り、階段で上の階へ上がっては営業することを繰り返した。
そのときだった。
上から谷口先生が下りてきてすれ違う形になった。
「……お疲れ様です」
「久しぶりだね、鈴木さん」
谷口先生はわざとらしいほどの笑顔を浮かべていた。そして。
「言わないと約束するならエクサシールはまた出してあげるよ?」
と耳打ちした。私は周りに誰もいないのを確認してから、
「私は言うつもりはありません。でも、谷口先生の夏目さんへの仕打ちはよくないと思います」
と答えた。
「君は僕が怖くないのかい?」
「怖いです」
私は即答する。
「ならなんで……」
「私は自分に恥じないような行動をしたいだけです」
言いながら自分は強くなったなと思った。谷口先生から笑みが消えて、私を見る目には冷たい炎が宿った。
「ふん」
谷口先生が下りて行ったあと、私はしばらく立ち尽くしていた。膝が笑っていた。




