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MR(医薬情報担当者)だって恋します!  作者: 天音 花香


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谷口先生という人

 夏目さんのことを司に言うのは躊躇われた。司もホテルから出てくる夏目さんと谷口先生を見たとはいえ、夏目さんのプライバシーのことだし、秘密とも言われたから。

 でも黙っているというのは思ったよりも苦しいもののようだ。心の奥にしこりのように夏目さんのことが居座っている。

 私は夏目さんのために何ができるかを日々考えるようになった。



「理緒、最近また悩んでないか?」


 鋭い司は尋ねてきた。


「うん? 大丈夫だよ。ちょっと疲れているのはあるけど」

「だったらちゃんと寝かせてやらなきゃダメかな?」

「もう」



 夏目さんの話を聞いてから腎臓内科の医局に行くのが苦痛になっている。私には優しく接してくれる谷口先生。でも、下心があるのだろうかと疑ってしまう。夏目さんを出入り禁止にしたのに、谷口先生の態度が以前と変わらないことにも私は怒りを覚えていた。

 悔しい。これでは夏目さんだけが泣き寝入りだ。



「鈴木さん」


 谷口先生に名前を呼ばれてはっとして思考を中断させる。


「はい」

「最近おとなしいけど大丈夫? 疲れているのかな?」


 駄目だ。ふつふつと怒りがこみあげてくる。誰のせいでこんな思いをしてると思っているのだろう。


「あの、谷口先生。ちょっとお話があるのですが、いいですか?」


 気が付いたら口に出していた。


「ここじゃダメなことかい?」

「はい。先生のお部屋での方がいいのですが……」

「? じゃあ私の部屋に行こう」


 谷口先生の部屋に入るのは初めてだ。

 橘先生の部屋ほど雑然としていないが、沢野先生の部屋ほど片付いてはいない。


「それで、どうしたのかな?」

「あの」


 私は一度、唾を飲み込んだ。どうしよう。まだ今なら引き返せる。でも、引き返したくない自分がいる。


「あの、夏目さんはなぜ出入り禁止になったのでしょうか?」


 谷口先生の片眉がわずかに上がるのを私は見た。


「ああ、夏目さんのことを気にしていたのかい?」

「はい。同じ女性のMRとしてなんだか気になってしまって……」

「講演会の後に連れていかれたところが気に入らなくてね。夏目さんらしからぬところで」


 谷口先生は困ったような笑みを浮かべた。


「それだけですか? それだけで出入り禁止になるのですか? 私は怖いです」

「なに、鈴木さんは大丈夫でしょう。接待をするのは今野さんだしね」


 私は黙って床を見つめていた。

 どうしよう。このまま納得したふりをしてここを出たほうが身のためだとは分かっている。でも、私は夏目さんのために谷口先生に一矢報いたい。どうしても何事もなかったかのようにされるのは嫌だ。

 私は視線を上げて、谷口先生をじっと見た。


「まだ何かあるのかい?」

「先生。私。見たんです」

「……何をだい?」


 谷口先生の目がすうと窄まる。私の心臓が口から出そうなほど早鐘を打つ。


「先生と、夏目さんが、出てくるのを」

「ははは。どこからだい?」

「休日。ホテルからでてくるのを」


 谷口先生の笑顔が消えた。

 しばらく嫌な沈黙が訪れた。


「……講演会の後だったのではないかな?」


 谷口先生は注意深く言葉を吐いたが、沈黙の後ではその言葉は浮いて聞こえた。


「……そう、かもしれません」


 谷口先生は夏目さんの肩を抱いていたけれど、私も断定はできない。


「……誰かにそれを言ったかい?」

「いいえ」

「それで、鈴木さんはどうしたいんだい? ……まさか、僕を脅すようなことはないだろうね?」


 私は驚いて谷口先生を見た。


「まさか! そんなつもりはないです。ただ、ただ……」

「ただ?」

「夏目さんのことが気になって……。できれば出入り禁止が解消されればいいなと……」


 私はしどろもどろに答えながら、また失敗をしてしまったのだと痛感していた。谷口先生に不倫の件を言ってどうしたかったのか。谷口先生が脅しととるのももっともだ。

 ただ、許せなかった。谷口先生が飄々としていることが。夏目さんだけが被害を被ったことが。


「夏目さんの出入り禁止はもう終わったことだよ。今更取り消しはしないつもりだ」


 私は絶望が後ろから忍び寄る足音を聞いた。

 夏目さんの件は変わらない。なら、今回私がしたことで変わることは。


「鈴木さんも出入り禁止にはなりたくないよね?」


 ドクンと心臓が跳ねる。


「は、はい……」

「だったら、黙っていることだ。この話はもう終わりにしよう」


 谷口先生にドアを開けられ、私は部屋を出るしかなかった。

 ああ。私は馬鹿なことをしてしまった。

 久しぶりに泣きそうになって、私は上を向いてエレベーターホールの方へ歩いた。



 次の日からだ。

 谷口先生が挨拶をしても返さなくなったのは。


 始めは気のせいだと思うようにしたけれど、完全に違う。谷口先生は私を無視している。

 医局でもそうだ。話を私には振らない。空気が重い。


「鈴木さん、何か谷口先生を怒らせたの?」


 他社MRの一人がエレベーターホールで訊いてきた。その場にいた他のMRも心配の目や、好奇の目で私を見ながら話を聞こうとしている。その中に司もいた。

 谷口先生は自分からは理由を言っていないようだ。不倫のことなので言えないのだろう。


「いえ、よく分かりません。もしかしたら何か失礼なことを知らず知らずのうちに言ってしまったのかもしれません」


 私はしらを切る。司の私を見る目が心配からか曇った。


「そうなの? 謝って許してもらったら? 出入り禁止までは行ってないんだから」

「そう、ですね」


 たぶん謝ったところで谷口先生は許しはしないだろう。

 でも、どういうつもりなのだろう。私が不倫のことを言ってしまえば困るのは谷口先生の方なのに。それとも私は言わないと、MRは何もできないと思っているのだろうか。分からない。

 私は無視をされるのは構わない。確かに医局に行きづらいけれど、それでも出禁ではないから他のドクターへの宣伝が禁止されてる訳ではない。

 ただ、谷口先生は医局長だ。他のドクターにまで何か処方を左右されるようなことをされるとまずい。



「谷口先生。私が何か先生の気に触ることを言ってしまっていたのなら、申し訳ございませんでした」


 腎臓内科の医局。数人のMRとドクター達の前で、私は形ばかりの謝罪をした。これで何かが変わるとは思えないが、これだけ証人のいる前で謝ったのだから、谷口先生ももしかしたら何か反応を返してくるかもしれない。私は谷口先生の返事を待った。


「なんのことだい? 鈴木さんが何かしたと? 僕は分からないなあ。謝る必要なんてないけれど?」


 谷口先生は笑顔でそう言った。その場の温度が下がった。空気が張り詰める。

 私は今後も谷口先生から無視されるだろうことを受け入れるしかなくなった。



***



 谷口先生が無視をするようになったからといって、私が挨拶をしないというわけにはいかない。

 私は素通りする谷口先生に対しても毎日頭を下げ続けた。これで済むなら何度でも頭は下げられる。しかしやはりそれだけでは済まなくなった。


 ある日医局に行くと、説明会の日程が貼ってあった。いつもは誰かしらドクターが声をかけてくれるが今回は全くなく、そしてさらに空いている日に千薬の名前を書こうとすると、


「ああ、千薬さんは名前、書かないで。処方は出てるし他の会社に譲ってあげて下さい」


 と谷口先生の声がした。私が後ろを振り返ると、何とも言えない笑みを張り付かせた谷口先生がいた。

 薬の新しい情報を伝えるためにも説明会は定期的にいれたい。それが許されなくなった。これでは出禁とあまり変わらない。

 私は医局を出て唇を噛んだ。


 さらに。

 エクサシールの処方が落ちた。私は薄々腎臓内科の処方が落ちたからだろうとは思っていた。


「鈴木さん。最近谷口先生に避けられているんだって? 他社MRが言ってたけれど何かしたの? なんで僕に言ってくれなかったんだい?」


 さすがに慌てた今野さんが私に言ってきた。

 私はどこまで話していいか迷った。


「……夏目さんの出入り禁止について、少し意見をしました」

「え? どうしてそんな」


 今野さんは珍しく嫌そうな顔をした。


「同じ女のMRとして、なんだか気になって……」

「うーん。それで処方が落ちたのなら、今回は鈴木さんかなり失態だよ。どうしようかな。……分かった。腎臓内科には僕が行くようにするから。教授に掛け合って入っている自主研究をもっと進めるように言ってもらおう」


 今野さんの言葉にさすがに私はうなだれて、


「申し訳ございませんでした」


 と頭を下げた。


「まあ、鈴木さんはいつも頑張ってくれてるから今回は大目にみるよ。引き続き他の科での営業頑張って」

「分かりました」


 腎臓内科から外されたことは悔しいが仕方ない。自業自得だ。私は今回はおとなしく頷くしかなかった。


 その日、司からも電話で訊かれた。


「谷口先生とうまく言ってないみたいだけど、何かあったんだろ?」


 司は「あったの?」ではなく、「あったんだろ?」と言った。私は答えに窮して少し黙った。


「まさかとは思うけど、夏目さんの件で何か言ったとか? 不倫のこと持ち出してないよな?」


 私はますます困って言葉が出せなかった。

 沈黙を肯定だととった司は、


「あのさ、何で俺に相談しなかったの?」


 と低い声を出した。


「俺ってそんなに頼りない? 信頼ない?」

「違っ! そういうわけじゃ」


 私は咄嗟に答える。


「そうかな? 今だって、理緒、かなりキツい立場にあるのに俺に何にも言ってこなかったじゃん」

「だって司に迷惑かけたくない!」

「迷惑なんかじゃないよ。理緒が苦しんでるのに何もできないことの方が悔しくて悲しいよ」


 司の声は明らかに苛立ちを含んでいて、私はまた黙った。確かにもう少し司を頼った方が良かったのかもしれない。司に相談していたら、谷口先生に不倫のことまでは持ち出さなかったかもしれない。いや、それでも言っただろうか。


「理緒。俺は理緒に信頼されてないと感じる時が一番悲しい。だから、きつい時は頼って欲しいよ」


 司の声は切なげで、なんだか聞いていて涙が出そうになった。


「ごめん。分かった。ちゃんと司に言う」

「うん、そうしてくれると嬉しい」

「……司、今週末会える?」

「会えるよ。理緒の話、聞かせてもらえる?」

「うん……」


 私は司に話すことを決意して、電話を切った。



 腎臓内科の医局には行かなくなったが、エレベーターホールで挨拶や薬名のコールはしていた。谷口先生の前では黙っていても、エレベーターホールで二人のときは話してくれるドクターもいる。そんなときは自分のやってきたことは無意味ではなかったと思える。



「鈴木さん」


 声をかけてきたのは夏目さんだった。谷口先生が私を無視しているのを知ったのだろう。夏目さんの目は責めるようなそれでいて憐れむような複雑な光を宿していた。

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