夏目さんの出禁
駐車場から病院に入るまでの間にコートを羽織るようになった頃、私は他社のMRから夏目さんが腎臓内科の医局に出入り禁止になったことを聞いた。
「え? それ、本当ですか?!」
「僕はそう聞いてるよ」
「あ、あの、理由は……?」
「よくは知らないけど、谷口先生を怒らせたとか」
私は不倫のことが公になった訳ではないことに少し安堵したが、夏目さんのことを思うと居ても立っても居られなくなった。一体何があったのだろう。
もやもやした気持ちのまま各階の医局を回る。
腎臓内科の医局に行くと谷口先生がいた。いたって普通だ。そんな谷口先生に私は苛立ちを覚えた。もちろん面には出さなかったけれど。
ドクターにとってはどこまで重みがあるかは分からない。だがMRにとって出入り禁止は営業生命に関わる。
夏目さんはどんな思いをしているだろう。心が痛んだ。
私は気になって結局営業を終えた後、駐車タワーで夏目さんが戻ってくるのを待った。
ネイビーのパンツスーツを着た夏目さんが駐車タワーの入り口から上ってくるのが見えた。何度か重そうな鞄を持ち直し、前というより下を向いて歩いてくる夏目さんは遠目からでも疲れているのが分かった。
「夏目さん」
私の声に夏目さんははっと顔を上げた。
「鈴木さん……?」
私の表情を窺うような夏目さんの目。
「ちょっとお話、いいですか?」
「出禁の話、聞いたのね? いいわ。私の車の中で話しましょう」
私と夏目さんは並んで駐車タワーの中を無言で歩いた。
「どうぞ。あまり綺麗じゃないけど」
夏目さんが助手席のドアを開けたので私は夏目さんの車に乗り込んだ。ライムのような芳香剤の香りがする。綺麗じゃないという割に車内は片付いていた。
「あの、なぜ出入り禁止になったのですか?」
「谷口先生を怒らせてしまったのよ。講演会の後の食事がお気に召さなかったようで」
私は夏目さんの横顔を見て、本当にそれだけなのだろうかと考える。夏目さんは疲れてはいたが、普段と変わらず何でもないことのように口にしている。
「あの……。本当にそれだけですか?」
私の言葉に夏目さんが私の方を向いた。目が合う。
「他に何があるっていうの?」
私は少し言葉にするのを躊躇ったが、決心した。
「私、見てしまったんです。夏目さんが谷口先生とホテルから出てくるの」
夏目さんの目が泳いだ。
「ホテル? 何かの間違いじゃない?」
「見間違いだといいのですけれど……」
夏目さんはしばらく黙った。
「あの、今回の出禁と関係ないことなら私が言ったことは忘れてください。私も忘れます」
私は沈黙に耐え切れずにそう言って車を降りようとした。
「待って」
夏目さんの声がそれを止めた。
「私も谷口先生も軽率だった。もっと田舎のホテルにでも行っていればよかった」
夏目さんは苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。そして、
「そうなの。私は谷口先生と不倫をしていたのよ」
と諦めたように付け加えた。
「夏目さん、以前私がドクターに恋心を抱いたと相談したとき、やめときなさいとおっしゃっていましたよね? その夏目さんがなぜ……」
「それは私がきつかったから言ったの。鈴木さんに私のような思いはしてほしくなかった」
「夏目さん……」
私は切なくなった。
「谷口先生はね、私が一番最初に仲良くなったドクターだったの。右も左も分からないなりに一生懸命に大学を回っていた時よ。谷口先生はそんな私にいつも優しく声をかけてくれた」
私にもそうだったからよくわかった。
「優しい先生。ただそれだけだったのよ。でも、先生の部屋で話すうちに私は個人的な話をするようにまでなった。私は父を早くに亡くしているの。父がいたらこんな感じだったのかなと先生に対して思うようになったわ。でもいつの間にかそれ以上の存在になってしまったの」
そう言って夏目さんは自嘲気味に笑った。
「馬鹿だったわ。ドクターは私たちのこと、どんなに仲良くなっても対等には見てくれないのに」
夏目さんは語った。
腎臓内科の接待をしたときに、谷口先生が「君もタクシーに乗るといい」と夏目さんに言った。夏目さんは自分のタクシーチケットを持っていたが、断るのも憚られて乗ったという。その時に、「よければ飲み直さないかい?」と言われて、バーに行った。そして二人とも酔った勢いで寝てしまった。夏目さんは一度きりのいい思い出として忘れようとしたが、その後も谷口先生は何度も夏目さんを誘うようになった。夏目さんは谷口先生に惚れていたため、断ることができなかった。
「こんな関係続けてても無意味だと思っていたのよ。だから一度、言ったの。やめたい。別れたいと」
夏目さんは言った。
谷口先生は、「僕は今、妻とうまくいっていなくてね。もし別れたら君との関係を続けられるだろうか?」と言ってきたという。「私を妻にしてくれるということですか?」「君さえよければ」
夏目さんは信じてしばらく関係を続けた。しかし、谷口先生は一向に奥さんと別れる気配はなかった。「先生、まだ奥さんと別れられないのですか?」ある日夏目さんが口にすると、「え? なんのことだい?」谷口先生はしらばっくれたという。
「私は本当に馬鹿だった。でもその時思ったの。私が別れを切り出したら、今度こそ私と先生の間には何もなくなってしまうと。そう思うと怖くて、なかなか別れることができなかった」
愛のない体の関係にすがってしまった夏目さん。相手を好きならそれでもいいと思ってしまう気持ちが今はほんの少し分かるような気がした。でもそんなのあまりにも悲しい。
「私ももうすぐ28になるの。MRは若いうちに結婚しないと結婚できないままになるケースが多いのよ。それでちゃんとした恋愛をしなきゃと思うようになって、数日前、別れを切り出したの」
私は息を呑んで、夏目さんの次の言葉を待った。
「谷口先生はごねたわ。でもそれでも私は別れを選んだ。出入り禁止の理由は本当はそれ。谷口先生は手のひらを返したように冷たくなった。きっと私が大学の担当を外れるように仕向けているのよ」
「そんな……」
私は谷口先生がそんなことをするドクターだということに衝撃を受け、夏目さんのさらされている境遇に胸が痛くなった。
「正直、腎臓内科で出禁は厳しいけれど、私は簡単には大学を離れたくない。そのためには他の科で処方してもらわないとね」
夏目さんは悲しげに笑った。
「まだ誰にもばれていないと思うから、これは秘密ね」
「でも……これじゃ夏目さんだけが苦労します」
「寝た私も悪いんだから仕方ないのよ。きっと私の心を見透かして谷口先生は私を誘ったんだろうけど」
夏目さんからそう言われても納得のいかない自分がいた。
「そんな顔しないで。それより、鈴木さんこそ大丈夫なの? 例の先生って沢野先生?」
「え?」
突然沢野先生の名前が出てきたことに私は面食らった。
「あら、違うの? 沢野先生のところに長居してるって他社MRが言ってたから」
「いえ、沢野先生は違います」
「そうなの? まあ、深くは聞かないわ。ふう。なんだか全て話したら少しすっきりした。嫌な話を聞かせてしまったわね。ごめんなさい」
「いえ、そんな」
「私は私で頑張るだけだから、鈴木さんは今までと同じように頑張ってね。……谷口先生にも」
夏目さんは言ったけれど、私は頷くことができなかった。
「だから、貴女がそんな顔しちゃだめって。さ。帰ってしっかり寝てね。私も帰るわ」
夏目さんの言葉に私は車のドアを開けた。
「夏目さん、私にできることがあったら言ってくださいね。お疲れ様でした」
夏目さんは片手を上げると車を出した。私はそれを見送った。




