つきまとうもの
身体を合わせるというのは、温もりが伝わり、同時に愛情も伝わる最も効果的な方法だと思う。そこには私の不安が入る隙間がない。
けれど離れると小さな不安が顔を出して笑う。
久しぶりに兄から電話があったからかもしれない。
「まだMR続けてんのか? 早く結婚したら? 相手がいないか」
笑って言った兄に、つい、
「付き合ってる人ならいる」
と返してしまったのが悪かった。
「酔狂な奴がいるんだな。絶対結婚までもたないよ。お前はそのうち振られる」
どうして兄は私の不安を刺激することばかり言うのだろう。この人に妹への愛情を求めても仕方ないが、せめて人間として気を使ってほしい。
悔しくて涙が出る。同時に不安が増す。
私は振られるのだろうか。
司は私を愛してくれている。分かっているのに不安になる。
兄の言葉より司を信じなければならないのに、私はふらふら揺れてしまう。
「自己評価を上げるためには? なんだ、彼氏と上手くいってないのか?」
橘先生の部屋で私は吐露してしまった。
「いえ、彼とは上手くいってます。とても大切にしてもらってます」
「それで十分じゃねぇか」
「そ、そうなのですが……」
橘先生は私の顔を見て、はぁと息を吐いた。
「相思相愛なんてのは奇跡だ。それを大事にしないでどうするよ。いいか。相手は自分じゃねぇんだから、心まで束縛はできない。お互い不安は残るんだよ。結婚しててもな」
「お互い、ですか?」
私は意外という風に首を傾げる。
「お互い、だよ。相手だって不安なんだ。それでも信頼するんだろ。好きな奴のことなんだから」
「信頼……」
「そうだよ。信じてやらないでどうすんだ」
「でも……」
「でもじゃない。信じられないのは相手より自分を優先してるからだ」
「え?」
私はどきりとする。
「信じて裏切られたら嫌だから信じねぇんだろうが」
「……」
それはあるかもしれない。
「信じてやれよ。そして、惚れられてる自分はそう悪くないと思ってやれ。俺から見ても鈴木が何か劣っているとは思えない。逆になんでそんなに自分を卑下するのか分からんな」
橘先生は煙草を美味しそうに吸って、煙を吐いた。
「自信を持て。こないだの説明会も良かったぞ。プレゼン能力が段々上がってる」
橘先生は嘘は言わない。私は嬉しく思った。
「それから、竹部がシルビルナのことで聞きたいことがあるって言ってたから声かけてやんな」
「竹部先生がですか?」
「ああ」
「分かりました」
「鈴木は面白いな。営業のことになると顔つきが変わる。自分のことの時は自信なさげなのにな」
「そ、そうですか?」
「まあ、それも個性だ。自分を自分として受け入れてやれよ」
「自分を自分として……。頑張ります」
「まあ、ぼちぼちな」
橘先生は煙草を持つ手を一度上げて、私の方を向いていた椅子をくるりと回して後ろの机に向き直った。
「ありがとうございました。シルビルナよろしくお願いします」
「はいはい」
毎日忙しい中で、司との電話は癒しだ。
『なんか疲れてる?』
「うん。パワーポイントで作らなきゃいけないのがあったんだけど苦戦して。先生も前もって言ってくれればいいのに」
『お疲れさん』
「今度いつ司に会えるかな」
『来週の日曜は講演会あるんだろ? その後の土日かな』
私はため息をつく。
「早く会いたい」
『毎日会ってんじゃん』
司の言葉に私は面白くない。不安が頭をもたげる。
会いたいと思ってるのは私だけなの?
「大学じゃなくて。司は、会いたくないの?」
『会いたいよ? 会って色々したいよ? 当たり前じゃん』
「ばか」
司の言葉にほっとした。
大丈夫。橘先生も言っていたように信頼しなければ。
司は兄でも、母でもないのだから。
ふぅ。
兄ではない。母でもない。
頭で自分に言い聞かせる。分かっているのに、不安が消えない。司とは心も体も繋がったのに、なんでこんなに兄の言葉ばかり気になるんだろう。
「きっと幸せすぎるから不安なんだ」
呟いて、しまった、と思うと、
「うーん、深いですね」
と首を傾げて笑う沢野先生が目の前にいた。
思わず手に持っていた資料を落としてしまう。拾おうとする沢野先生に、
「いえ、大丈夫ですから!」
と言って自分で拾う。
「声をかけたんですが、鈴木さん、気付かず百面相をしてましたよ?」
営業中に感情を顔に出しちゃいけないと思ってるのに情けない。幸い、15時前で他のMRが回りにいなかった。
「部屋に来ませんか?」
と沢野先生に言われ、私は頷いた。
「人は絶好調の時にそれを楽しめる人と不安になる人がいますよね。鈴木さんは後者なのですね」
沢野先生に言われて私は素直に頷いた。
「沢野先生には兄弟はいますか?」
「いますよ、弟が。四つ離れていて、今は大工をしてます」
「大工?」
私は目を瞬かせる。
「はい。僕と違って自由に生きてますよ。時々羨ましくなりますが、弟も色々思うところはあったのかな」
優秀な沢野先生の弟……。自分と沢野先生を比較することもあっただろう。
「私は三つ上の兄がいるんです。ちょっと沢野先生の弟さんの気持ち、分かるかもです」
「どんな気持ちですか?」
「優秀な兄と比較されるといたたまれない気持ちに私はなります」
私は俯いて言った。
「いたたまれない? そんなに?」
「ええ。うちの兄は沢野先生と違って優しくなくて、私のことを馬鹿にしてばかりでした。母も。私は出来損ないだと。こないだも兄にお前は振られると言われて……」
私は慌てて笑顔を作った。
「変な話をしてしまいました!」
「いいんですよ。無理して笑わなくて。そうですね。育った環境で思考回路も変わりますよね。鈴木さんは自分に自信が持てないのかな? 謙遜かなと思ってましたが、そうではないみたいですね。それで、鈴木君とのことも不安になるんですね。愛されていて幸せなのに」
「はい。そうなんです」
「これはやはり……」
沢野先生はにっこりと微笑んだ。
***
明らかに機嫌の悪そうな司が、
「久しぶりに二人で会うって言ってなかった?」
と半眼で私を見て言ってくる。
「鈴木君、そんな嫌そうな顔しないでください。僕はすぐに帰りますから」
「すぐに帰るならなんでいるんですか?」
「ちょっと、沢野先生に対して失礼だよ」
駅前のカフェで司はコーヒーを、私はコーヒーにミルクを入れて、沢野先生はエスプレッソを飲みながら話をしていた。
「鈴木さん悩んでるんですよ」
沢野先生の言葉に、
「なんで沢野先生から? 言いづらいこと?」
と司はさらに面白くなさそうな顔で私に訊いてくる。私は困って一度下を向いた。でもはっきり言わないと。沢野先生も心配してきてくれてるんだから。そう思って顔を上げた。
「うん……。なんか、私、幸せなのに怖いの。司が私のことを大切にしてくれてるのも分かるのに、いずれ司は私から離れていくんじゃないかって不安になるの」
司の表情が曇る。
「……なんで? 俺、理緒のこと心も体も愛し尽くしてるけど、それなのに不安なの? 俺のこと信頼できない?」
沢野先生の前で断言する司に私は驚き、もじもじと俯いた。
「信頼できないわけではないんだけど……」
「俺も不安はあるよ? 理緒が本当は俺のこと一番好きなわけじゃないかもとか。でも、俺は理緒の言葉を信じたい。だから、俺は不安より信じる方を取ってる」
まさに橘先生が言った通りだ。
「だから理緒にも俺を信頼してほしい」
私は司の言葉に、
「そうだよね。信頼しなきゃだよね」
と私は自分に言い聞かせるように呟く。そのとき、沢野先生が口を開いた。
「鈴木君」
「はい」
うわっ。司、めちゃくちゃ嫌そうな顔。
「鈴木さんの不安は自己評価が低いから起こるもののようなんです。鈴木君しか鈴木さんの自己肯定の助けは出来ないと思う。 もちろん鈴木さん自身がどうにかしなければいけない問題だけど、鈴木君は彼氏なんだからそんな鈴木さんを支えなきゃ」
沢野先生は司の目を真っ直ぐ見て言った。
「……はい」
司は何か感じるものがあったのか急に真面目な顔になって返事をした。
「僕にできるなら喜んで支えたのになあ。ほんと、鈴木君、頼むよ? じゃ、僕はこれで」
と立ち上がった沢野先生の瞳が揺れた。
「あれ? 夏目さん?」
沢野先生の呟きに、私と司は沢野先生の見ている方を見た。
グランドホテルから出てきた夏目さんの隣にいたのは。
「谷口先生……」
三人の間に一瞬沈黙が訪れた。
「谷口先生、奥さんいるよな」
「不倫、ですか……。まずいものを見てしまいましたね。いや、でも、何か事情があるのかもしれませんし、決めつけてはいけませんよね」
「どう考えても、休日こんなホテルから出てくるのはおかしいと思うけどね、俺は」
私は何も言えなかった。橘先生を好きになった時に夏目さんは反対していた。その夏目さんがどうして?
「とにかく僕は帰ります。ごめんね、鈴木君。二人きりの時間を少し拝借して」
「いえ、いいです」
「沢野先生、ありがとうございました」
私が立って頭を下げると、
「沢野さん、でしょ? じゃあね」
と笑って沢野先生は行ってしまった。
「沢野先生って、本当に理緒が好きなんだな」
「え?」
「普通、ここまでしないよ。……俺、負けたくない。理緒が不安にならないよう努力する」
司は私の手を握って言った。
「ありがとう。私も司を信じるよう努力する」
私たちは見つめ合って笑った。
「ミスド行きたいんだろ?」
「うん」
「じゃあ、ドーナツ買って帰ろう」
「うん。今度は私のうちでもいいよ?」
「じゃあ、ドーナツとハーブティー? 合うのかな?」
「嫌なら紅茶でもいいよ?」
「そうしよう」
「さて……」
部屋について紅茶を入れ、二人で座ると司が切り出した。
「何?」
「何か不安になる出来事があったんじゃないの? またお兄さんから電話きた?」
私は紅茶の入ったマグカップを両手で持ったまま頷いた。
「電話で、私は振られるって言われた」
司は私の髪を撫でて、目を覗き込む。
「それはお兄さんの意見で、俺の心じゃないよな?」
「うん……」
「でも沢野先生も言ってたけど、理緒は自己評価が低いから不安になる、と」
「自分では分からないけど、橘先生にも自己肯定感が低いって言われたことある。橘先生に言われたんだよね。結婚しててもお互い不安だって。でも、好きなら相手を信頼しろって」
鈴木はうんうんと頷く。
「橘先生、分かってるなあ。って、橘先生ともそんな話してるの?」
「うん」
「俺も不安だよ? 橘先生は理緒の前の好きな人だから、そんな先生と理緒はまだ深い話をしてるんだと思うと」
司の本音を聞いて、私は申し訳なくなった。
「ごめん」
「いや、謝ることじゃないよ。俺はできれば理緒を束縛したくないから、自分の不安と戦うだけだ」
「不安と戦う……」
私は反すうするように言った。
「そう」
「司は強いね」
「強くなんかないよ。でも、俺は理緒を俺の都合で変えたくないんだ。そのままの理緒が好きだから」
「そのままの私? ……私、今のままでもいいの?」
「ダメなの? 俺は今の理緒を好きになったんだけど。お兄さんが理緒に求めてるレベルは高いんだろうけど、俺はそんなの求めてない。今の理緒が好きなんだよ。それにしても、理緒のお兄さんて、実はシスコンなんじゃないの? わざわざ理緒をけなすために電話してきて、それで自分のストレス解消? 迷惑な話だな」
「うん。ほんとね」
私はかすかに笑った。
二人でドーナツを食べる。
「久しぶりに食べるとやっぱり美味しい!」
「甘い」
「司はあまり好きじゃなかった?」
「いいや。でも俺はこっちの方が好き」
と司は私の頬を舐めた。
「ひゃ」
「ドーナツのかけら付いてたよ。理緒子供みたいで可愛い」
「なんか褒められてる気がしないんだけど」
「なんで? 無心に食べてる理緒可愛いけど? ドーナツ本当に好きなんだなって」
「可愛いって言葉が私に当てはまらない気がして」
私は顔を赤くして俯いて言う。
「馬鹿だな、理緒。俺は理緒が可愛くて仕方ないよ。毎日色んな理緒を見つけてますます好きになるよ。最近、大学で理緒見かけても抱きしめたくなって困る」
恥ずかしくて、でも嬉しくて、私は身体中が熱くなった。
「本当にこんなに好きなのに、なんで不安になるかな? ほら、赤くなった顔、見せてよ」
司が私の顔を横から覗き込む。そして頬にキスをした。驚いて顔を上げた私の今度は額にキスをする。
「ドーナツより理緒を食べたい」
司が唇にキスをしてくる。
「甘い味がする」
段々と深くなる口付けに私も応えた。




