沢野先生のマンション
沢野先生のマンションは12階建てで、沢野先生の部屋はその12階だった。
「どうぞ」
案内されて入ると、立派な玄関があり、廊下の幅も広かった。
私は恐縮しながら靴をそろえる。
「お邪魔します」
先に入った沢野先生が廊下の奥の扉を開けると、急に視界が明るくなった。案内されたのはリビングで、大きな窓から太陽の光が降り注いでいた。壁は白。家具も白に統一されていて、明るい印象だ。
テレビが大きい。ソファーも革でできたしっかりしたもの。
リビングと続きになっている部屋にグランドピアノが置いてある。ピアノも高価なもののようだ。
「どうしました?」
「い、いえ。沢野先生らしい部屋ですね」
「僕らしいですか?」
沢野先生は不思議そうな顔をしている。
「どうぞ、ピアノ、弾いてみてください」
私はピアノの椅子に腰かける。こんなに大きなグランドピアノを弾くのは初めてだ。緊張で手に汗をかいてしまう。
「最近弾いていないので、弾けないかもしれません」
言い訳をしてから、ドビュッシーの『二つのアラベスク』の一番を弾いた。小学生の六年生の時に発表会で弾いた曲だ。今の私にはこのレベルでもノーミスは難しい。ところどころ音が抜けたが、何とか弾き終えた。ピアノがいいせいか、いい音がする。
「アラベスク。僕も好きです。綺麗な音ですね」
沢野先生は目を細めて笑った。
「他にもどうぞ?」
他……。逆に困ってしまう。
私は苦心してベートーヴェンの『月光のソナタ』を通して弾いた。第三楽章が難しい。かなり音間違いもしてしまった。
「ドビュッシーとはまた違って、力強い音ですね」
「お恥ずかしいです。こんな出来で……」
「いえいえ。ショパンを何か弾きませんか?」
「えっと、それでは幻想即興曲を……」
久しぶりに弾く幻想即興曲は指がもつれて音も抜けて散々だった。
「すみません……。残念な出来で」
沢野先生は「いえいえ」と目を細めた。
「ドビュッシー、ベートーヴェン、ショパン、それぞれ弾き分けができていましたよ」
「とんでもないです。あ! 私、先生のピアノも聞いてみたいです」
私の言葉に、
「僕はさらに指が動きませんが、それでよければ」
と沢野先生は言って、私とピアノの椅子を変わった。
「僕は最近はショパンのエチュードしか弾いていないので」
そう弾き始めた沢野先生。先程の言葉は沢野先生の謙遜だったと直ぐに分かる。
沢野先生の長い指が正確に、ドラマチックに音を紡ぐ。
「『革命』……! 凄い……!」
圧倒される。嵐のように駆け抜けて、曲が終わった時、私は感激して拍手を送った。
「そんなに拍手されると照れますね。そんな大した腕でないのに」
沢野先生は座ったままこちらを向いて、赤くなって言った。
「もう一曲ぐらい弾こうかな」
またピアノに向かった沢野先生が弾きだしたのは、『黒鍵』だった。
『黒鍵』はちょうど就職活動と重なって、何回かしかレッスンが受けられず、合格をもらえずに終わった思い出深い曲だ。
『革命』とはまた違ってポロポロと音が軽快に転がっていく。高い音から低い音まで指が自在に動き、明るくクリアな音が耳に心地よい。
私は思わず身を乗り出して沢野先生の指を見ていた。
そのときだった。
突然演奏が途切れ、私は手首を掴まれた。
「え?」
声を上げたときには沢野先生の顔が近くにあって、私はマズイと思った。沢野先生の目に熱い炎が宿っていた。私は、
「イヤっ! 鈴木!」
と無意識のうちに顔を背けて叫んでいた。
その声が部屋に響いたとき、手首を掴んでいた沢野先生の手が離れた。
私は震える足で沢野先生との距離を取る。
沢野先生はゆっくり椅子を引いて立った。そして呆然としたように私を見つめた。
「……っ」
沢野先生の喉から声にならない音が出る。おそるおそる見つめ続ける私の前で、沢野先生は両手で自分の顔を覆った。
「……ああ。僕は何てことを」
「せ、先生?」
「すみません。もう何もしないので、怖がらないで下さい。本当に、すみませんでした。お茶を入れます」
沢野先生はそう言うとピアノの部屋を出て、リビングからキッチンの方へ歩いて行った。
私は戸惑いながらもその後に続いた。
「そこのソファーにどうぞ」
紅茶の香りがしてきた。
「ティーパックので申し訳ないですが」
と言いながら沢野先生がティーカップを私の前とその横に置いた。
沢野先生はしばらく黙ったまま、私の斜め横に座って紅茶を飲んでいた。五分ほど経っただろうか。
「……すみません」
沢野先生は絞り出すように言葉を吐いた。
「僕はなんて勘違いをしていたんでしょう。鈴木さんは僕に好意があるからではなく、信頼をしているからこそこんなにも無防備だったのですよね。それなのに、僕は部屋に来てくださった鈴木さんをこの際になんて、卑劣なことを……」
沢野先生の後悔に沈む顔を見て、私はまた大きな失敗をしたことを悟った。
誤解をさせないためにも私はきちんと断らなければいけなかったのだ。私は自分の考えの甘さを悔やんだ。
「いいえ。沢野先生は悪くないです。私が期待をさせたのが一番悪い。本当に本当にすみません」
私と沢野先生はしばらく二人とも下を向いて、紅茶を飲んだ。重い空気が漂う。
「……その……」
沢野先生が遠慮がちに口を開いた。
「はい」
「鈴木、と名前を呼びましたね、鈴木さん」
私はどきりとした。そうだ。先程とっさに名前を言ってしまった。
「……はい」
「それはもしかして……アオハナさんの鈴木君ですか?」
私は隠せないと思って小さく頷いた。
「そう、ですか……。鈴木さんは鈴木君が好きなのですね」
沢野先生は私の目を静かに見つめて言った。以前の私だったら、「友達として」、なんて言葉を付けたかもしれない。でも、今の私は、
「はい。好きです」
と素直に答えられた。
「迷いのない答えですね。僕の入る隙間は微塵もなさそうだ」
沢野先生は寂しげに笑って下を向いた。
「お付き合いをしているのですか?」
私は答えに戸惑った。でも、沢野先生なら大丈夫だと思い直して、
「はい」
と答えた。
沢野先生は手を組んで、
「今日のことは……?」
と言いにくそうに尋ねてきた。
「鈴木君も知ってます」
「それではさぞかし心配しているでしょうね」
私は苦笑いをして頷いた。
沢野先生は組んでいた手を解いて、大きく伸びをした。
そして、私に再び視線を戻す。
「どこかで、いつかは僕の方を向いてくれるのではと淡い期待を抱いてました。でも、これは潮時ですね。今日で僕は鈴木さんをきっぱり諦めます」
沢野先生は吹っ切れたように微笑んだ。
「以前はその……キスを。そして、今日もあんなことをして、鈴木さんには怖い思いをさせてしまいましたね。本当に申し訳ない」
沢野先生は深く頭を下げた。私は困って、
「そ、そんな。先生顔を上げてください」
言う。
「今後は絶対しません。だから、せめて友人という立場を頂けませんか?」
沢野先生の言葉に、私はますます混乱する。
「そ、そんな。私はMRで……」
「MRだから何ですか? 僕はこれからも鈴木さんと音楽の話をしたいし、困っている時には助けになりたい」
私の言葉を遮って沢野先生は言った。
「部屋には呼びません。たまにご飯などだけでも。鈴木君も一緒でもかまいませんよ」
「でも、その、仕事に差し障りは……」
私の言葉に沢野先生はくすくすと笑った。
「大丈夫です。僕は友人であってもエクサシールの処方ばかりをするような医者じゃありません。そこら辺は公平にさせて頂きます」
私はほっとすると同時に残念にも思って、自分はずるい人間だなと思った。
「まず、敬語をやめさせて頂きますね。鈴木さん、昼ごはんだけでもこの後外でどうかな?」
私は迷った挙句、
「……それが友人としてなら、付き合います。でも、自分の分は払いたいのであまり高い店はやめてください」
と答えた。
「ありがとう」
私と沢野先生は、マンションを出て、BMWの沢野先生の車に乗って比較的庶民的なイタリアンの店に入った。
日替わりランチを頼む。
「ちょっと不思議な感じです。こういう店に沢野先生が入るって」
「僕の趣味の一つは貯金なんだよ。だから、安い店にも行くし、普段は自炊してるよ」
私は驚いた。
頼んだ日替わりランチが運ばれてきて、私たちは食事をしながらおしゃべりを続ける。
「貯金……。沢野先生は何か買いたいものがあるのですか?」
「買いたいものというより、旅行が好きなので、そのためかな。それから、大学病院以外で先生と呼ぶのはやめて欲しいな」
「あ。えーっと、では沢野さんで」
沢野先生は嬉しそうに目を細めた。
「あの……沢野さん」
「うん?」
「その……お見合いの話なんですが、断って本当に良かったのでしょうか?」
「ああ、それは、まあ、鈴木さんとの未来は無くなってしまったけど、急いではいないから。前、話したと思うけど、研究の方に本腰をいれたいんだ。お嫁さん候補は、研究が一段落ついてから自分で探したいし、いいんだよ」
「そうならいいのですが……」
「ありがとう。心配してくれたんだね? 正直僕はヒエラルキーに属するのが苦手で、大学は窮屈で仕方ない。しがらみが多くてね。だから鈴木さんが友人として付き合ってくれると少し新しい風が吹いていいと思うんだよ」
沢野先生はにっこり笑った。
「これからよろしく」
沢野先生に手を差し出され私はその手を握った。




