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突然のプロポーズ

 アパートに着くとまずシャワーを浴びた。

 ともするとぼんやりして、同じところをずっと擦っていたり、お湯を延々と出していたりして、よく分からないまま部屋着に着替えてしばらく床に座っていた。

 何となく寒いなと思ったら髪を乾かしていなかった。

 髪を乾かしながら鏡を見ると、唇にばかり視線が行った。

 私の唇。

 なんでこうも簡単に二人の男性に奪われちゃったんだろう。視界がぼやけて、ぽたりと涙が一粒落ちた。

 キスって好きな人とするものじゃないのだろうか?

 男性はどんな時にキスをするのだろう?

 恋愛経験ゼロな私には全然わからない。


 私は香澄に電話することにした。


「どうしたの? 何かあった?」


 香澄の気遣う声にまた泣きそうになる。


「ねえ、香澄。男の人って好きでもないのにキスできるのかな?」

「え? 何? 話が全く読めないんだけど」

「あのね。酔った他社MRに初キス奪われた。そして、今日、よくわからないけど、ドクターにキスされた」

「えーと、まだよく状況が分からない」


 私は鈴木とのことと沢野先生とのことをかいつまんで話した。


「うーん。酔っ払ってキス、する人時々いるよね。嫌だったの?」

「嫌では……なかったけど、ショックで。ファーストキスだよ? 好きな人としたかった」

「沢野先生のときは?」

「小鳥のキスみたいで、なんだか信じられない。先生はそんなことするタイプじゃなくて、真面目な方だから、キスされる理由がわからなくて」


 ううんと香澄は唸る。


「沢野先生のこと、理緒はどう思ってるの?」

「好きなドクターだよ。でも恋愛の好きではないよ。橘先生とはちょっと違う。会うだけで安心する、癒してくれる人」

「うーん。微妙だね。じゃあさ、仮定ね。もし付き合うなら鈴木君と沢野先生どっち?」


 香澄の言葉に今度は私が唸った。


「そんな、困るよ。鈴木は大切な友人で、沢野先生は尊敬できる先生。どちらも選べないし、そういうのじゃ……ないから」


 香澄は受話器の向こうでため息をついた。


「鈴木君はMRだから、多少ギクシャクしてもいいけど、処方もよくしてくれてるドクターとなると、関係が壊れるのはよろしくないよね~」

「そうだよね」

「自分からは何も言わずに、ドクターの出方を伺うしかないかな〜」


 うーんとまた唸りながら香澄は言った。


「うん……」

「それにしても、理緒の大学どうなってるのよ? 私も触られるとかはあるよ? でも、キス……そんなドクターはいないよ」


 呆れと興味が混じった声で香澄に言われて私はふうとため息をついた。


「鈴木が言うには、私、危機感がないんだって」

「わかる気するわ。でも、こういうことが度々起こったら身がもたないよ? 本当に危機感もって営業しないと」

「そうだね」


 私はもう一度ため息をついた。


「ほら、しっかりして、理緒。もう済んじゃったことだから、どうにもならないよ。これからどうするかでしょ?」

「うん……。でも、沢野先生に会う自信ない……」

「それならしばらく行くのやめたら? 自分の中で、もう会っても大丈夫って思えるまで。まあ、あまりにも長いと営業としてどうかとは思うけど」

「そうだね……。少し距離を置いて、また顔だそう」

「うん。それにしても、理緒、キスしたことなかったのね。ウブな奴だ」


 香澄がくすくす笑いながら言った。


「彼氏いたことないんだから、しょうがないじゃん」

「最近帰りも一緒に帰れてないし、休日ご飯でも行こっか。理緒ストレスたまってるから」

「うん、行く!」

「じゃあ、それを楽しみに、頑張って!」

「そうだね。頑張る」



 私はしばらく沢野先生の部屋を訪れるのをやめた。

 循環器内科の医局に行かないわけにはいかないので、短時間で用を済ませて出る。3階のエレベーターホールには一人で立たない。なるべく沢野先生に会わないよう工夫した。


「鈴木」

「あ、うん。何?」

「何って、こないだからボーッとして、どうしたんだよ? ちょっと前までは調子良さそうにしてたのに」


 鈴木は本気で心配してくれてるようだった。

 複雑な気分になる。

 沢野先生のキス。私を悩ませてるもの。

 でも鈴木のキスも悩みの一つなのに。

 酔ってて覚えてないから仕方ないとは思う。でもやっぱり複雑。


「鈴木? 俺の顔に何かついてる?」

「唇がついてる」

「はあ? ほんと大丈夫か?」

「あんまり大丈夫じゃないけど、相談することでもないの」

「なら、聞けないけど……。言って楽になることあったら言えよな。俺はケリついたし」

「ありがとう」


 鈴木が酔ってキスしてきたからって言ったらどんな反応するのかな? 彼女のこともあるし、鈴木も悩んじゃうだろうな。それなら言わずに私が悶々としとくしかない。

 沢野先生のことはもちろん相談なんてできないし。

 でも、営業に影響出るようじゃだめだよね。気を入れてやらないと。


 とはいえ、いつもは沢野先生の部屋で癒してもらってたのに、行けなくなり私は疲れを感じていた。

 沢野先生のいつもの笑顔が見たい。

 いい関係だと思っていたのに、なぜ沢野先生はあんなことをしたんだろう。沢野先生だって今まで通りじゃなくなるのは分かっているはず。

 分からない。

 ため息ばかりが出る。


「最近またしょげてんのか? 」


 橘先生の声に私は顔を上げた。


「しょげてるというか、いっぱいいっぱいで……」

「シルビルナは俺は結構出してるんだけどなあ。まあ、いい。話くらいは聞いてやるよ」


 橘先生に誘われ、私は橘先生の部屋に入った。


「おう。それで? 何がいっぱいいっぱいなんだ?」


 部屋に入ったのはいいけれど、何を話せばいいのか分からなくなってしまった。沢野先生のことはもちろん言えないし……。


「どうした?」

「先生。営業のことで悩んでるんではないんです」

「ほう? じゃ、プライベートなことか」

「そんな感じです」


 橘先生はいつものように煙草に火をつけた。


「先生。男性はどんな時にキスをしたいと思うのでしょうか?」

「……」


 橘先生は煙草の煙を吐ききって、私を見た。


「なんだ、好きな人でもできたのか?」

「一番好きなのは橘先生ですけど」


 橘先生はゴホゴホとむせて私を睨んだ。


「まだそんなこと言ってるのか? で、俺にされたいからそんなこと言うのか?」

「いえ、奥さんに悪いので、今はそう思ってません」


 ちょっと考えて言うと、


「ちっとは冷静になったじゃねえか」


 橘先生はふっと笑ったが、すぐに真顔になった。


「鈴木、もしかして」


 橘先生の言葉にどきりとしながら続きを待つ。


「されたのか?」


 私は答えられない。


「俺がもしそんなことをするなら、相手を落としたいからだ。好意があるからだ」


 好意があるから……。


「だが、それは勝手な言い分で、相手にその気がないのに無理やりするのはいただけないな」


 橘先生は真っ直ぐに私を見た。


「誰にされた? 医者か? MRか? セクハラじゃ済まないぞ?」


 私は橘先生の心遣いに涙が出そうになるのをこらえた。この部屋では泣かないと約束したんだ。


「私に隙があるからいけないんです」

「確かに鈴木は隙だらけだ。今だって」


 橘先生は突然私の手をつかんでぐいと引き寄せた。

 私は驚きと不安に先生を見る。


「鈴木は女だ。こうやって男に掴まれたら何もできない」


 橘先生は手を離した。


「他のドクターの部屋にも入ってるんだろ? 部屋に二人。その時は常に気を抜くな。何かあってからじゃ遅いんだ」


 私は諦めたはずの橘先生にどきどきしてしまった。


「そんな風に惚けるのも誘ってるのと同じだからな」


 橘先生に言われて私は姿勢を正した。


「心がなくても隙あれば手を出す馬鹿な男もいる。鈴木が誰にされたか知らんが、そう言う男はお前の体だけが目当てだ。とにかく身を守れよ」


 でも、沢野先生はそういう男ではない、と思う。


「気をつけます」

「呼吸器内科のドクターじゃねえよな? もしそうなら殴ってやる」

「違います。まるで橘先生は私のお父さんみたい」

「ばあか。まだそんなに歳いってねえよ」


 橘先生は笑ったが、また真顔になって、


「何かされそうになったら本気で抵抗してここまで逃げてこい。俺が相手になってやる」


 と言った。

 橘先生のこういう熱血漢なところ、やっぱり素敵だと思う。


「心強いです」


 私は笑って答えた。


「女は大変だな。自分の身を守りながら営業。なかなか難しいと思う。頑張れよ」

「はい。頑張りますので、シルビルナよろしくお願いします」

「出してやるよ。最近、一錠の方がいいと言う患者が多いからな」

「ありがとうございます」

「じゃあな」

「失礼します」


 橘先生の部屋を出る頃には少し心が軽くなっていた。



***



 でも、沢野先生を避けているばかりではどうにもならない。


 私はついに沢野先生に声をかけられた。


「鈴木さん。ちょっといいかな」


 沢野先生の思いつめた目に、私は断れずに沢野先生の部屋へ入った。


「あの……この間のことなんですが、本当にすみませんでした」


 沢野先生は席につかずに深々と頭を下げた。私は恐縮する。


「あ、いいんです。ちょっとした事故みたいなものですよね。気にしてませんから。忘れてください」


 私のとっさの言葉に沢野先生は真面目な顔で首を横に振った。


「事故? そうじゃない。 鈴木さんが愛おしくてしてしまったんです。なかったことになんかできない」


 まっすぐに目を見てそう言われ、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。


「避けられている数日、気が狂いそうでした。嫌われてしまったのだろうかと」


 まるで泣く寸前のような顔で沢野先生は言った。私は胸が痛んだ。


「そんな、大丈夫ですよ?」


 こんなにも打ちひしがれている沢野先生に私は動揺していた。

 沢野先生はじっと私を見つめた。


「責任はとるつもりです」

「え?」


 次の瞬間、私は沢野先生に抱きしめられていた。


「あ、あのっ!」


 私は身をよじるが、沢野先生の力は意外と強いものだった。沢野先生は私を抱きしめたまま言った。


「好きなんです。貴女が、鈴木さん」

「?!」


 沢野先生は身体を一度離すと、かがんで今度は私の頬を両手のひらで挟むように包み込んだ。目の前に沢野先生の目がある。

「あの……」

 逃げなければいけないとは思った。でも沢野先生の私を見る目の真剣さに、私は動けなくなってしまった。


「好きです」


 沢野先生ははっきりとそう言うと、私にくちづけた。先日のキスとはまるで違う。唇を柔らかく何度も食まれて私は思わず口を開けてしまった。沢野先生の舌が私の口の中に入り込み、ゆっくりと歯を舐めた後私の舌に絡みつく。私は力が抜けてバランスを崩した。慌てて沢野先生が私を受けとめる。ぼうっとする頭で沢野先生を見つめると、沢野先生は私に手を差し伸べて、私を起こした。そして言った。


「結婚してくれませんか?」

「はい?」


 私の声が裏返った。

 現実感がなくふわふわする。


「私と結婚して頂けませんか? 困らせているのは分かっています。でも、考えて頂けませんか?」


 戸惑う私に沢野先生はやさしく微笑んだ。


「安心して下さい。断っても処方を減らしたりしませんから。……だから医者でなく一人の男として、結婚を本気で考えて欲しいんです」


 私は気を失いそうになるのを必死でこらえて、なんとか沢野先生の部屋を後にした。

 頭の中が真っ白で何も考えられなかった。

 途中で鈴木とすれ違ったのにも気が付かなかった。

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