沢野先生からの
「お、おす」
「……おはよう」
月曜日。なんとなく気まずい挨拶を鈴木と交わす。
周りに誰もいないことを確認して、
「スーツ、クリーニングにだした?」
とき訊く。
「だした」
「なら良かった」
「あの、さあ」
「何?」
鈴木は少し躊躇いながらも、
「女って、あんな状態でも寝れるもんなの?」
と地雷を踏んできた。忘れたいことなのに、思い出さされて私は少し不機嫌に、
「友達と雑魚寝でしょ。私は眠れた」
と答えた。
「雑魚寝……」
「とにかく何も無かったんだし、思い出す必要もないことだよ。これに懲りて、酒は控えなね」
「ああ」
歯切れの悪い鈴木に、私は、
「ちょっと、今日急いでるんだ。またね」
と鈴木を見ずに足を早めた。
消化器内科のある7階に立って挨拶をする。勉強会で少し顔を覚えてもらった今がチャンスだ。
「おはようございます! エクサシール、よろしくお願いします!」
「昨日はどうも〜」
「エクサシールね」
何人かのドクターが手を上げて挨拶してくれた。
10階の腎臓内科の医局に入ると、谷口先生と夏目さんが話をしていた。二人とも私が入ってくると、
「おはよう」
「おはよう、千薬さん」
と挨拶をしてくれる。
「おはようございます」
「あの後大丈夫だった?」
「大変でしたが、鈴木君を送りました」
「そう、悪かったわね」
谷口先生が興味津々な顔をしている。
「なになに? 」
「勉強会をしたんです。消化器内科で」
夏目さんがさくっと説明した。
「いいね、うちでもやってほしいな」
「もちろん! よろしくお願いします」
私と夏目さんはそれぞれの薬の処方をお願いして、医局を出た。
「昨日は鈴木さんには嫌な思いをさせちゃったわね」
と夏目さんが謝る。
「いえ、大丈夫です。ボディタッチは嫌でしたけど」
「そうよね。酔うと触ってくるドクターいるからね。ところで、鈴木君とは何もなかったの?」
「はい? ……ありませんけど」
「そうなの? 残念。ちょっと期待してたんだけどなあ」
「何をですか? 鈴木には彼女いますし」
「そうなの? 残念! ドクターに恋するよりよっぽどいいと思ったんだけど」
と夏目さんが耳打ちしてくる。
意外に夏目さんは恋バナが好きなのだろうか?
「夏目さんこそどうなんですか? お綺麗だし、素敵な恋愛されてそう」
私の言葉に夏目さんの顔が一瞬曇ったように見えた。
「ああ、私はね、モテないし男運もないのよ」
夏目さんはごまかすように笑って言った。
「そう、ですか」
夏目さんがモテないわけないんだけどな。たぶん踏み込まれたくないからそう言ったのだろう。
私は夏目さんと別れて呼吸器内科の医局に行った。
「おう。鈴木さん。井尻行った?」
塩屋先生が声をかけてきた。
「行きました! 抹茶パフェ、最高に美味しかったです! 友達も喜んでました!」
「だろ? たまにはそっちからもいい店教えてくれよな~」
「まだこちらに詳しくないので、よくわかりませんが探してみますね」
「おう」
塩屋先生にはシルビルナのコールはしても自分から宣伝はしないことにした。向こうがふってきたときに話せればいいかなと考えるようになった。嫌がられずに宣伝するにはそちらの方がいい。
相変わらず、橘先生の部屋と沢野先生の部屋には行くことが多い。もちろん今は橘先生の部屋で泣いたりはしない。
「頑張ってるじゃねぇか」
と橘先生に言ってもらえるのは嬉しい。
呼吸器内科の他のドクターとも話をすることが増えた。あとは竹部先生だけだ。どうしても竹部先生が攻略できない。でも焦って悪い結果になるよりかは気長に待とうと今は思っていた。
今日は呼吸器内科でシルビルナの説明会があるので、私はその時にドクターたちに配る資料をまとめ、パワーポイントの見直しと、ページごとの説明をおさらいした。塩屋先生と竹部先生も説明会、出てくれるといいんだけど。
「おい。お、い! す、ず、き!」
橘先生に呼ばれてはっとする。自主研究の症例について聞いていたのだった。
「どうした? 心あらずだな。何かあったのか? 今日は説明会もするんだろ?」
「そうなんです。説明会……」
以前したのはエクサシールだったが、今回はシルビルナ。呼吸器内科で出る薬なので気合いを入れなければいけないのだが、ぼんやりしてしまうのは唇に残る感触のせいだろう。
忘れたい。なかったことにしたい記憶なのに、初めての感覚がそれを阻む。唇って敏感なんだな。
「橘先生は初めてのキスのことを覚えていますか?」
私の問いに、煙草を吸っていた橘先生がむせてせきこんだ。
「な、なんだ、いきなり」
目を白黒させて橘先生が私を見る。
「すみません、なんでもありません」
うなだれて言った私に、
「まさか、鈴木、したのか?」
と橘先生が驚いたように言った。
私は首を横に振った。鈴木とのはカウントしたくない。
「幼い感じだとは思っていたが、じゃあ、もしかして恋人がいたこともないのか?」
「実は、そう、です」
しどろもどろに返事すると、橘先生はふうと煙草の煙を吐いた。
「危なっかしいやつだな。変なのに引っかかるなよ? 」
「橘先生は変なのじゃなかったですよ」
「馬鹿。妻帯者に惚れる時点で間違ってるんだよ」
橘先生は頭をかいて、困った顔をした。
「他にいなかったのか? 例えば、千薬の同期とか」
「男子もいることはいますが、大学回ってるの私だけなので顔もあまり合わせないし……。そういう対象になりませんね」
「他社MRも独身は少ないかもな、ここ回ってるやつは……。ってなんの話をしてるんだ? とにかく安売りはすんなよ」
橘先生はいつもより余裕のない顔をしてそう言った。恋愛話は苦手なのかもしれない。なんだか可愛らしい。
「はい」
「説明会頑張れよ」
「ありがとうございます。先生は来てくれますよね?」
「ああ。弁当もらいにな」
笑って冗談を言う橘先生に私は少し怒った顔をする。
「弁当より、私のプレゼンをしっかり聞いてください」
「わかったわかった」
「失礼します」
橘先生の部屋を出て、いけない、と思う。やっぱり今日はぼんやりしている。
説明会を成功させるためにもしっかりしないと。
呼吸器内科でのシルビルナの説明会は、滞りなく終わるかに思えた。ドクターたちのいくつかの質問にも答えられたし、良かった、と気を抜いた時に原田教授から質問を受けた。私はその質問に答えることができなかった。今野さんがカバーをしてくれてなんとかなったが、私は自分はまだまだなのだなと改めて感じた。カウントしたくもないファーストキスのことを考えてる余裕なんて私にはないのだ。
弁当の箱を回収して、後片付けを終えて帰る時に、沢野先生とすれ違った。
「今日は説明会だったのですか?」
「はい」
「おや、あまりうまくいきませんでしたか?」
沢野先生は私の顔を見て、心配そうに言った。
「質問に答えられずに今野さんに助けてもらいました」
「そうでしたか」
沢野先生はいつものように穏やかに微笑んだ。
「なんでも完璧にできる人はそうはいません。今日、答えられなかったことを学ぶことができたのですから、次は答えられる。元気出してくださいね」
沢野先生の言葉は疲れた心をほぐしてくれる。
「ありがとうございます。沢野先生はまだお仕事なのですよね。遅くまでお疲れ様です」
「いえいえ。鈴木さんもお疲れ様でした。気をつけて帰ってくださいね」
MRにもやさしく気遣ってくれる沢野先生。まさにドクターの鑑だ。
私は気持ちを切り替えて、次はもっと頑張ろうと思った。きっと沢野先生と話さなければ帰り道も失敗を引きずっていたに違いない。感謝だ。
「なんか少しリラックスして営業できるようになった?」
鈴木に聞かれて、
「うん。少しね」
と答える。
「鈴木の方は、問題は解決したの?」
「問題?」
「うん。なんか悩んでたみたいじゃん?」
「ああ、うん。それは……まあ、いい結果かは分からないけど、解決したよ」
鈴木はいつもより真面目な顔でそう言った。
「そっか。いい結果になるように今後行動すればいいんじゃない?」
「お、珍しく鈴木にしては前向き意見だな」
「そうかも」
鈴木とも私が初キスについて思い出さないようにすれば友人として会話できた。
***
その日、エクサシールWについて沢野先生に情報提供するため、私は駐車場から大学病院まで早足で歩いていた。
「最近の鈴木、機嫌がいいな」
後ろから鈴木の声がした。私は振り向いて、
「そうかな?」
と答える。
「仕事なのに、足取りも軽い。俺は、この仕事、嫌いじゃないけど好きでもないな」
「私は、少しずつ面白くなってきたところかな」
「ふうん」
少し面白くなさそうな鈴木の声。
「そういえば、Queen聞いてみた?」
「うん、聞いてるよ! いい曲ばかり選んでくれてありがとう! 聞いてて飽きない」
鈴木の表情がぱっと明るくなった。
「歌詞は暗いけど、ボヘミアンラプソディーすごく好み! オペラみたいで。メインボーカルの人、とてもいい声だね!」
私が言うと、鈴木はさらに笑顔になった。
「ボヘミアンラプソディーいいよな? 名曲だよな~! メインボーカルの人はフレディ・マーキュリーね。個性の強い人だったみたいだけど、ほんと歌は上手いだろ? そうか、聞いてくれたんだ、良かった」
「沢野先生とも音楽の話するんだ〜」
私が何の気なしに言った言葉に、
「沢野先生と?」
と鈴木の真面目な声が返ってきた。
「最近、沢野先生の部屋に入り浸ってるって話、本当だったんだ」
「入り浸っている?! そんな、そこまでじゃないよ」
「他社MRは面白くないみたいだよ」
まあ、それはそうかもねと思う。
「沢野先生、一応独身だし、長時間二人で部屋にいるってのはどうかと俺は思うよ」
鈴木の低い声に私は驚く。
「部屋って、鍵かけてるわけでもないし、隣も他の先生の部屋だし、そんな変な見方しなくても……」
「前言わなかったっけ? 鈴木、危機感なさすぎって」
鈴木には言われたくないよ、と内心思いながらも、黙ってしまう。
「それに他社のMRに嫌われ過ぎないほうがいいと思うよ? 情報くれなくなる」
「用があるから行ってるんだもん。でも、鈴木がそういうなら気を付けるよ」
鈴木に言われたばかりなのに、来てすぐ沢野先生のところに行くのはどうかと思ったのだが、早い時間の方が他社MRはいないので、迷惑もかけないんじゃないかと思って行くことにした。
正直に言えば、沢野先生との時間は私にとって癒しの時間なので、営業がある程度終わったころに訪ねられれば一番いい。だがその時間は他社MRもいる時が多いのだ。
今日はエクサシールWについてと、それから、沢野先生から頼まれていたアシュケナージのショパンワルツ集のCD。
私がピアノで最初に苦労したのが小学生の時の発表会のショパンの子犬のワルツだった。その時に聞いていたのがアシュケナージのショパンワルツ集のCDで、
「こんな風にいつか弾けるようになりたいと思いながら聞いていたんです」
と沢野先生に言うと、
「そうなのですね。鈴木さんが目標にしたショパンのワルツ。気になりますね。良かったらCDを貸して頂けますか?」
と言われたのだ。だいぶん前に買ったものだからケースに小さなヒビが入っているし、恥ずかしいとは思ったのだが、沢野先生が聞きたいというのならと持ってきた。
沢野先生の部屋の前でノックをする。
反応がない。
いらっしゃらないのかな、と後ろを向こうとすると、
「すみません。今、開けますね」
と背後から腕が伸びてきた。沢野先生だった。あまりに近い距離に一瞬ドキリとした。
「どうぞ?」
私はすっかり座り慣れた沢野先生の机の前の椅子に座った。
「今日はどんな情報をくれますか?」
「エクサシールWについてなんですが」
エクサシールWは他の薬で降圧効果が見られない場合、もしくは何錠も違う降圧剤を飲んで血圧管理をしている方を切り替える形での処方をしてほしいということを説明した。
「高血圧で来られた患者さんにいきなりは投与できないということですね?」
「すみません。私の勉強不足で」
「いえいえ、教えて頂き良かったです」
沢野先生はにっこり笑うとそう言った。
この笑顔を見ると来てよかったと思う。
鈴木は「生まれたんだから、生きるだけでいい」と言ってくれた。そう思えるのが一番だと思う。ただ、誰かの役に立てるのはやはり嬉しい。
「それと、先生がおっしゃられてた、アシュケナージのショパンワルツ集のCD、持ってきました」
「ありがとうございます」
沢野先生の表情が先程とはまた違って柔らかくなった。私の持ってきた袋からCDを取り出して、
「年季が入ってますね」
と沢野先生は微笑んだ。
「聞くのが楽しみです。では、僕の方からは、アシュケナージのエチュードをお貸しいたしますね」
予想外のことに私は思わず、
「いいんですか?! 嬉しいです!」
と歓声を上げた。沢野先生はそんな私に、
「どうぞ」
と嬉しそうに微笑んだ。エチュードはアシュケナージのを聞いたことがなかった。
「確か以前、エチュードの途中まで練習していたと聞いたので、持ってきました」
「ありがとうございます! ポリーニのは持っているのですが、アシュケナージのエチュードは持っていなくて……」
「ぜひ聞き比べて感想を聞かせてください」
「はい!」
もう少し話していたい気もしたけれど、鈴木の言葉を思い出して、私は沢野先生の部屋を出ることにした。
「先生、今日もエクサシールの話を聞いてくださりありがとうございました。CDまで貸していただいて、本当に嬉しいです。ありがとうございました! えっと」
私は処方をお願いしようか迷った。言葉にしなくてもいい気もして。すると、沢野先生は察して、
「処方ですね。分かっていますよ」
と笑って頷いた。
「では失礼します」
「僕も医局に行きます」
すっと沢野先生は立ち上がってドアの方へ来る。私はその沢野先生の後ろに立つ形になった。
ーーと、沢野先生が振り返った。
「忘れ物ですか?」
と私は沢野先生を見上げる。
ーーえ?
一瞬だった。
沢野はすっと屈んで私の唇に自分の唇をそっと重ねた。
目が合う。
沢野先生はハッとしたように、小さく「すみません」と言った。
私はなんて返していいかわからず、顔を伏せた。
そのまま二人で部屋を出る。
私は下を向いたまま、一礼をするとエレベーターホールの方へ歩いた。
足が雲を踏んでいるかのようにふわふわする。そのままの感覚で私は無意識に階段を上った。
あまりにさりげなくされたキス。
もしかして私の勘違い? 白昼夢? 挨拶のキス?
でも、沢野先生はすみませんと言った。
ますます分からなくなる。
何のキスだったのだろう?
沢野先生はもちろんお酒に酔っていたわけではない。
なぜ私に?
考えれば考えるほど分からない。
その日一日、私はぐるぐると各階の医局を回ったが、記憶が殆どなかった。
明日、沢野先生とどんな顔をして会えばいいのだろう。
駐車場に入ると、クラクションを鳴らされた。
「鈴木、今帰り? お疲れ!」
車の窓を開けて鈴木が声をかけてくる。
ーー危機感がなさすぎ。
鈴木の言った言葉を思い出して、どきりとした。
私に隙があったから? だから沢野先生は私にキスしたの?
「鈴木~?」
「あ、ごめん。お疲れ。鈴木も帰るとこ?」
「うん。……大丈夫か? 何かあった?」
鈴木の言葉に再びどきりとして、
「え? 何で? 何もないけど?」
と慌てて答えた。
「ならいいけど、ぼんやりしてるから……。運転そんなんで大丈夫か? 気をつけろよ?」
「うん。ありがと」
車に乗って、私は深く息を吐いた。
私の知ってる沢野先生は、どんなドクターだった?
いつも笑顔で、MRを尊重してくれて。真面目で、優しい、医者の鑑のような……。
そこまで考えて、私はますます混乱した。
沢野先生はセクハラを簡単にするようなドクターではない。
だったらどうして?
癒しの時間。楽しみにしてたのに、こんな気持ちじゃ、沢野先生の部屋に行けない。
私は大きなため息をつく。
まずは家に帰ろう。
私は車のエンジンをかけて、ライトをつけた。




