橘先生なりのやさしさ
塩屋先生の態度は今も以前とあまり変わらない。
あんなに語ってくれたのに、医局で話しかけてもそっけないし、処方は相変わらず出してくれない。やはり竹部先生と同様、攻略に苦労していた。
ただ一つ変わったことがある。こちらから話しかけたときはつれないのに、なぜか塩屋先生は話を振ってくるようになった。小さな変化だが、私は嬉しく感じていた。
だから今野さんから言われたときは耳を疑った。
「ええと、鈴木さん。もう、竹部先生と塩屋先生には営業しなくていいから」
「え?」
意味が分からなかった。
「僕があの二人には営業するから、心配しなくていい。その……橘先生に言われてね。鈴木さんが苦労してるのが可哀想だから営業外してあげて欲しいと。すまなかったね、気付かずに」
「た、橘先生が……?」
私は信じられない気持ちで聞き返した。
「うん。橘先生はよく見てらっしゃるね。僕も悪かったんだよね。僕があの二人が苦手なもんだから、鈴木さんに無理させる形になってしまった」
私はきゅうと眉を寄せて自分の指先を見た。私の指は震えていた。
「鈴木さん?」
「私が二人を攻略できないからですか? だから外すんですか? それなら、仕方ないと思えます!」
今野さんは私の反応に困ったように眉を下げた。
「そういう訳じゃないんだよ」
「私、橘先生にそんなこと頼んでないです! 頼んでないのに……!」
私の目からは悔し涙が溢れた。
「塩屋先生とは少しだけ以前より話せるようになりました。口は悪いから傷つくことも多いけど、でも少しの変化が嬉しいのに。竹部先生には確かに嫌われています。でも、私は竹部先生に営業したくない訳ではありません!」
「鈴木さん……」
「私、午後、橘先生と話してきます」
今野さんはため息をついた。
「そうか。うん。分かった。くれぐれも橘先生を怒らせないようにな」
「はい」
私は燃えるような目で頷いた。
私は早めに昼食をとると、まず橘先生の部屋を目指すことを考えた。こういう日に限って雨がザーザー降り。速度規制の都市高速の運転中、私はいつもよりイライラするのを止められなかった。
橘先生は私を気遣ってからだとは思う。
でも、私は二人の先生から逃げるのは嫌だ。
はあはあ息を切らして階段を上る。
落ち着かないとと自分に言い聞かせて。
橘先生の部屋の前に立ち、私は冷静になろうと深呼吸を繰り返す。
ノックをする手が震えた。
「はい~?」
「千薬の鈴木です」
「どうぞ~」
柔らかい返事に勇気をもらってドアを開けた。
今日も橘先生一人で、私は少し安堵した。
「あの! 橘先生!」
私は冷静になろうとしたが、目は正直で、橘先生を凝視してしまった。
「……例の話、今野さんから聞いたのか?」
「聞きました!」
私は間髪入れずに答えた。
橘先生は「そうか」と言いながら、煙草を出して火をつけた。
「私、塩屋先生からも竹部先生からも外されたくありません!」
言い切った瞬間、涙が落ちて、私は咄嗟にぐいっと拭った。
泣くな! 私!
「鈴木は俺にどうして欲しいんだ? こないだも竹部に無視されたとか、塩屋にきつく言われたとかで、部屋に来ていたじゃないか」
それは事実だった。
「鈴木がきついみたいだから、俺は二人から担当外すように言った。でも鈴木はそれは嫌だと言う。ここは泣くところじゃない。泣くほど辛いならもうMRをやめるしかない。俺は医師で鈴木はMR。それ以上でも以下でもない。どうしてやることもできない。けれど、鈴木の涙を見ると俺だって心が痛むんだよ」
橘先生の言うことはもっともであり、やさしさも感じられた。私の目にまた涙が浮かぶ。
「す、すみません。私、先生に甘えてました。橘先生なら何を言っても受け止めてくれる気がして……」
橘先生は煙草の煙を吐いて目を瞑った。
「泣きながら言う事ではないのは分かってます。でも、やっぱり二人の担当を外されたくない! 私、頑張りますから!」
「そうか……。きつくてもそれでも外されたくないと言うんだな?」
「はい!」
「だったら泣くんじゃない。次から泣きに来るんだったら帰ってもらう。話は聞く。でも泣くな。ここには営業に来ていることを忘れるな。いいな?」
「……はい!」
私の涙はしばらく止まることがなく、橘先生は気まずそうに煙草を吸っていた。
「あの、私、頑張りますので、これからもよろしくお願いします」
そう深くお辞儀をすると、
「おう。忘れるな。俺は鈴木の味方ではないかもしれない。だが、個人的には頑張って欲しいと思っているよ」
と橘先生は言った。十分な言葉だった。
「それと……」
部屋を出ようとする私に橘先生が声をかけて来た。
「はい?」
「俺の勘違いなら謝る」
橘先生の言葉に、私は何を言われるのだろうと不安になる。
「な、何ですか?」
「その……。鈴木はドクターみんなをそんな目で見てるのか?」
「え?」
私の心臓がドキンと鳴った。
「それとも……俺が好きだからそんな目で見るのか?」
びくりと体が硬直した。
気付かれた! 私の想いに気付かれてしまった!
心臓が止まりそうになる。
「……分かってるとは思うが、俺には妻子がいる。鈴木には何もしてあげられないんだよ」
少し苦しげに橘先生は言った。
「わ、分かってます」
「俺はまだいい。変な気も起こさないからな。だがドクターによっては違う。言い方は悪いがセフレにされることもあるんだぞ。鈴木は女だ。もっと危機感を持ってくれ」
橘先生の言葉には深いやさしさがあった。私は橘先生の心配をありがたいと思った。
「分かりました。気をつけます」
「そうしてくれ」
私は明確に振られた。それは橘先生の真摯な心からだ。
私は。
「橘先生。私、先生のこと諦めます。でも、最後にわがまま聞いてください」
「なんだ?」
私は少し躊躇いながらも、
「キスしてください」
と口にしてしまった。
橘先生はゴホッとむせた。
「鈴木、俺の話を聞いていたのか?」
「思い出が欲しいんです」
「鈴木。お前はこれからも営業でここに来る。だから、気まずくならない方がいいんだ。今のは軽率な発言だぞ」
私はうなだれて、
「そう、ですね」
と言って頭を下げた。
「すみませんでした」
橘先生は少し黙って、席を立った。私は驚いて橘先生を見る。橘先生は私の頭をぽんぽんと撫でた。
「これで勘弁してくれ」
私は泣きながら微笑んだ。
「十分です。ありがとうございます」
「これで俺のことは忘れろ。でも、この部屋に来るのを躊躇うことはない。営業にくるのはMRの仕事だ」
「はい! シルビルナの宣伝に参ります」
「ああ。それでいい。二人のドクターの担当の件だが、鈴木が頑張れるなら頑張ってみろ」
「はい!」
私は決意を新たに頷いた。
「今野さんには鈴木のフォローをしっかりするように言ってくれ。じゃあ、またな」
「はい」
私は一礼して橘先生の部屋を出た。
橘先生に触られた頭が熱い。でも、この恋はダメだ。諦めよう。橘先生を苦しめないためにも。
今野さんに、二人のドクターに今後も営業できるようになった旨を報告をした。
「そうか。僕ももっとフォローをするようにするから」
今野さんは申し訳なさそうにそう言った。
香澄とはなかなか時間が合わないので電話で全てを話した。
「橘先生って、いい先生だね。変な先生に惚れなくて良かった。その先生の言う通りだよ。理緒は女なんだから、もっと危機感持たないと」
「そうだね」
「諦められそう?」
「すぐには難しいと思うけど、先生に迷惑かけるのは嫌だから諦めるよう頑張る」
「辛いだろうけどそれがいいと私も思う」
「うん」
「頑張れ!」
私は電話を切った後、一人缶チューハイを飲みながら涙を流した。
バイバイ。私の独りよがりな恋心。
なかなか涙が止まらない。三十分ほど泣いていたとき、鈴木からゲームしない? とメールがあった。私は残りの缶チューハイを飲み干して涙を拭い、
「よおし! やるぞお!」
と声を出した。そして、ゲームに馬鹿みたいに熱中した。
友人たちの存在ってありがたい。
明日からは泣かない私。頑張ろう。




