出入り禁止の恐怖
橘先生の部屋にはあの日以降も行っている。
今のところ泣いていない。
私は営業に行ってるんだ、と自分に言い聞かせて、距離をとるようにした。
それは私には辛いことで、橘先生は特別ではないと思おうとする度に心は痛んだ。自分の気持ちを消そうとするのはなんて辛いことなんだろう。
私が離れても橘先生は何も変わらない。それもまた悲しいことだった。私は橘先生にとってはやはりMRの一人に過ぎないのだ。当たり前のこと。
分かっていても。
辛い時ほど橘先生にぎゅっと抱きしめてもらえたら、なんて馬鹿な妄想をしてしまう自分がいる。
「鈴木。橘先生に怒られでもしたの?」
不意に鈴木から話しかけられて、私は橘先生の後ろ姿を追っていた目を鈴木に向けた。
「な、なんで? 怒られてないよ?」
「悲しそうな顔で橘先生見てるからさ」
鈴木は意外と鋭い。
「あ~、橘先生を見てたんじゃなくて、ちょっと考え事してたからかな」
苦しい言い訳をすると、鈴木は、
「まだ悩み解決できないの?」
と言ってきた。
「うん。でも誰でも悩みの一つ二つはあるでしょう」
「そう言われると、あるな、俺も」
鈴木は言って長い人差し指で頬をかいた。
「そういやさ、アンサンブルプラネタ? 聴いてみたよ。確かに綺麗だった。声だけであのクオリティは凄い。でも泣くのはどうよ?」
私は驚いて鈴木の顔を見返した。
「え? 本当に聴いてくれたの?」
「アマゾンミュージックにあったからな」
私は嬉しくなって鈴木の手を掴み、上下に振った。
「鈴木ってほんといいやつだね!」
鈴木は苦笑いをしながら手を離し、
「俺、思ったよ。鈴木かなり疲れてんだなって。その、本当に大丈夫か?」
と訊いてきた。
「心配してくれるの? 鈴木、本当はやさしいんだね!」
私はもう一度鈴木の手を握った。
鈴木はなんとも言えない顔をしている。
「ねえ 鈴木! 私と友達になってくれない?」
鈴木は「はあ?」と怪訝そうな声を上げた。
「友達ってそんな風に言ってなるもんじゃないだろ? それにもう俺たち友達じゃねーの?」
照れて言った鈴木に、私は手をさらに強く握った。
「ありがとう! 嬉しい!」
そうだ、と鈴木がバッグから一枚のCD‐ROMを取り出した。
「Queenの曲、個人的に好きなのまとめといた。暇な時に聴いてみな!」
「すごい、ありがとう! 聴いてみる!」
鈴木との時間は私に元気をくれる。今はそれがありがたかった。
***
少しずつ強くなりたい、と思いながら働いて二週間。なんとか営業を頑張れていたとき。
私はまた大きな失敗をすることになる。
呼吸器内科の医局に販促品を置きに入った時だった。
塩屋先生と大川製薬のMRの原口さんが一緒に医局に入ってきた。とても親しげに話をしている。
私は医局を出ようか迷ったが、原口さんが私に向けた意味深な目線が気になり、出るのをやめた。
「最近千薬さんの鈴木さんが医局によくいるから、心配なんですよ。塩屋先生、処方の方もよろしくお願いしますね」
原口さんの言葉に塩屋先生は、
「分かってる分かってる。ちゃんと出してるから」
と答えた。
私の中に黒い怒りが宿った。胃のあたりに不快感を覚える。
「じゃ、僕はこれで」
原口さんが医局から出ると、塩屋先生と二人になった。
「塩屋先生、シルビルナもお願いします」
私は怒りを殺して言った。
「シルビルナ? さっき原口君と約束したからねえ」
私は抑えていた何かがプツンと切れるのを感じた。
「先生、私は患者さんのためになると思って営業をしています。いい薬だと自負してます。なぜ処方していただけないんですか? 一日4カプセル飲むより一錠の方が飲みやすいのに、なぜうちの薬より大川製薬さんのばかり処方するのですか?」
「なぜっていろいろあるんだよ」
私の口は止まらない。
「大川社の原口さんとは個人的に仲がいいですよね? だからですか? おかしいと思います」
私の言葉に塩屋先生が私の方を向いた。
「薬の良さでなく……」
私の言葉を塩屋先生が遮る。
「お前ね、誰にものを言ってるのかわかってんの? MRが医師の処方に口出しできると思ってんのか! いい加減にしろ!」
塩屋先生の大きな声が医局に響いて、医局に入ろうとしていたドクターとMRが医局の入り口で立ち止まる。
私は塩屋先生の剣幕に呆然と立ちつくしていた。
「ふん」
塩屋先生は私の方を見ずに医局から出て行き、残された私は、大きな失敗をやらかしたのだけは分かった。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
まずは今野さんに報告しなくては。
私は呼吸器内科の医局を出て今野さんを探した。
が、こんな時に限ってなかなか見つからない。
上の階から順に探そうと私は階段を上って腎臓内科の医局を覗いた。
「おや、千薬さん」
医局にいたのは谷口先生と岡田先生だった。
「どうしたの? そんな青い顔して」
「今野さんを探してるのですが、お見かけしませんでしたか?」
「見てないねえ」
「そうですか、ありがとうございます」
私は頭を下げて医局を出ようとする。そんな私に声がかかった。
「千薬さんは真面目で好感が持てるね」
「ありがとうございます」
谷口先生に言われ、もう一度頭を下げる。
「それに比べて、アベルファーマシー。滅多に来ないくせに、僕に失礼なことを言ってね」
谷口先生の声にどきりとした。
「あー、誰だっけ? 僕名前も知らないですよ」
岡田先生が笑った。
「出入り禁止だな」
出入り禁止……。谷口先生の言葉に、私は血の気が引いていくのを感じた。
こんなに簡単に出入り禁止されてしまうの?
だめだ。一刻も早く今野さんを探して、塩屋先生に謝罪に行かないと。
「すみません、失礼します」
私は一礼して医局を出た。探すのももどかしい。電話をしよう。
今野さんに電話をすると、今野さんは支店に戻ろうとしているところだった。
『塩屋先生を怒らせた?』
今野さんの焦った声に私の心臓が冷たく痛んだ。
『そ、それはまずいな。……とりあえず支店に帰っておいで。午後一緒に謝りに行こう』
今野さんに言われて、私は一瞬考えた。午後からでは遅い気がした。
「あの。私一人でまず謝らせてください。今から行ってきます」
今野さんはしばらく黙っていたが、
『謝罪だけにできるかい? さらに怒らせることはないようにね』
と言ってくれた。
「わかりました。行ってきます」
私は塩屋先生の部屋に急いだ。一度深呼吸して、ノックする。
返事がない。
もう一度だけノックしたが、塩屋先生はいないようだった。
ああ。
力が抜けた。安堵からか失望からか分からない溜息が出る。
その時だった。橘先生の部屋のドアが開いた。
どきりとして見ると、橘先生と目が合った。
「どうした? 珍しいな。塩屋の部屋の前にいるなんて。塩屋は今、病棟だと思うぞ」
「そう、ですか……」
「何かあったのか?」
橘先生に言われると涙腺が壊れそうになる。でも、泣いてはいけない。
橘先生はそんな私を見て、
「どうぞ」
と、再び自室のドアを開いた。私は、
「先生、お忙しいんじゃ……」
と少し躊躇う。
「少しなら大丈夫だ」
橘先生の言葉に、私は久しぶりに甘えることにした。
私は塩屋先生を怒らせた経緯を橘先生に話した。
橘先生はしばらくううんと唸っていた。
「塩屋の言い分はもっともだ」
「そうですよね」
「でも鈴木が怒って言ってしまった気持ちも分からないでもない」
「ありがとうございます」
橘先生は私の方を見て、
「まあ、でも塩屋は後に引かないタイプだ。鈴木が謝罪すれば大丈夫だろうよ」
と言ってくれた。
「そうだと、いいんですが……」
「何が不安なんだ?」
私は胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
「あの……。私、出入り禁止にならないでしょうか?」
橘先生は、少し目を見張って私を見た。
「俺は出禁になんてしないつもりだが? なんで出禁なんて……」
「ある科で他社MRが出禁にされるのを聞いてしまったのです。医局長を怒らせて。私も塩屋先生を間違いなく怒らせてしまったので」
私は下を向きながらそう言った。
「そこは俺が何とかするからいい。まずは塩屋に謝罪してこい。そろそろ病棟から戻ってきているかもしれない」
「そうですね。行ってみます」
私は橘先生に一度頭を下げてから、橘先生の部屋のドアを開けた。
「冷静にな」
背中に降ってきた橘先生の声に、
「はい」
と私は頷き、再び塩屋先生の部屋の前に立った。
深呼吸を三度した。橘先生の部屋をノックするのとは違う緊張感が私を支配する。
大丈夫。出禁にはしないと橘先生は言ってくれた。
私は謝罪をまずはすること。
三回ノックする。
「はい?」
「千薬の鈴木です」
「……どうぞ~」
やる気のない塩屋先生の声が返ってきて、私は恐る恐るドアを開けた。塩屋先生の部屋に入った私は慌ててドアを閉める。塩屋先生はテレビゲームをしていた。
「塩屋先生」
「おう?」
「あの、先程は申し訳ございませんでした。出過ぎたことを言いました」
私が深々と頭を下げると、塩屋先生はゲームの画面から目を離さずに、
「別に~。俺は言いたいこと言っただけ。鈴木さんもさ、頭下げにくんだったらさ、これに懲りて処方に口出しはしない方がいいよ」
と言った。
「はい。本当にすみませんでした」
「もういいよ。それより、鈴木さんさ、結婚したら?」
塩屋先生の言葉に私は意味が分からず少し考えてから、
「相手がいません」
と答えた。
「だったら見つけてさ。鈴木君とかさ」
「彼女持ちです」
「そーなの? 鈴木君?」
今度弄ってやろうと塩屋先生は笑って、その後急に真面目な顔になった。
「MRはさ、やめた方がいいよ。鈴木さんいい大学出てるらしいじゃん。なんでなったの? もったいない。今からでも遅くないから実家帰んなよ」
私は塩屋先生の言葉に怒りが沸々と湧いてくるのを感じた。でも、冷静にならなければ。
「先生はどうしてそのようなことおっしゃるんですか? 私には帰る家なんかありません」
「……まあ、そこはあえて聞かないけど。それならさ、考え方変えた方がいいよ」
「え?」
私はいつのまにかこちらを見ている塩屋先生を見た。
「処方が出せるMRはなんで出せるんだと思う?」
「……分かりません」
「長くいるからだよ。MRはさ、辞めてくか、担当外されるかでいなくなる奴が多いんだよ。強いMRは長くいる。そして、医者と仲良くなってる」
「……でも、そしたら薬の良し悪しは……」
私は言っていいのか悩みつつ口にしてしまった。
「二の次だね。考えてみろよ。信頼できないやつから忙しいのに話聞こうと思うか?」
「……いえ」
「どんな薬も良いとこと悪いとこがあんだよ。俺たちだって勉強はしてる。それでも処方しないのはMRに魅力がないからだよ。処方されたいなら強いMRになれ。そして話を聞いてもらうようになれ」
私はしばらく声が出せなかった。
「まあ、老婆心で教えてやったからな。あ~、もう一つ、分かってないみたいだから教えてやるよ。医局はな、ドクターたちの戻ってくる場所だ。自室がないドクターにとっては寛げる場所だな。その医局に疲れて帰ってきた時に、ごちゃごちゃ言われてみろ。誰だって怒るわな。医局でドクターを楽しませるMRは強くなる。癒しでもいいわな。そこは自分で考えてみ? ほい。以上。俺はもう怒ってないから、今野さんには来ないでいいって言っといて」
私は深々とお辞儀をして、塩屋先生の部屋を出た。
塩屋先生から色々話してもらえるとは思っていなかった。貴重な体験をさせてもらった。
私はMR。営業マンなのだ。今後はドクターを怒らせるようなことはしないようにしないと。
支店に帰って今野さんに報告すると、今野さんは安堵の溜息をつくとともに、
「塩屋先生にそんなことを言われたのか。僕にはきっと言ってくれないだろうな」
と感心していた。
今回はたまたま塩屋先生の機嫌がそこまでは悪くなかったからだろう。
私は塩屋先生のこともだが、谷口先生のことも気になった。私には優しく接してくれている谷口先生があんなに簡単に出入り禁止を決めてしまうなんて。
「谷口先生はあれでなかなか厳しいからね」
私は今回の失敗で、出入り禁止は他人事ではないのだと再認識した。MRとドクターでは立場が違う。私はMR。肝に銘じようと思った。
香澄にも今回のことを話すと、
「理緒って、結構凄いことやらかすよね」
と呆れられてしまった。
「私はそこまで営業、熱くなれないかな。だからドクターに対してもなんの感情も生まれない」
香澄に言われて、自分はそんなに熱くなっているのだろうかと少し意外に思った。でも確かに、私はドクターと接する度に色々な感情が湧いてくる。ただの営業相手だと思えていないのかもしれない。
「まあ、いいんじゃない? それが理緒らしさなのかもしれないし。でも、あまり真面目にやってると自分がきついよ。そこら辺は上手く調節しなね」
「うん……」
処方が欲しい。でも私のしてることは逆効果になっている気がする。
なんだか悲しくなったとき、私はふと鈴木からもらったCD‐ROMを思い出した。
Queenの色々なタイプの曲が入っていて、中には聞いたことがある曲もあり、14曲があっという間だった。
沢山あるQueenの曲の中から、鈴木が14曲を考えながら選んでくれたんだと思うと、鈴木の優しさに胸が熱くなった。
やっぱりいい奴だな、鈴木。




