chapter 5
チャラーン♪
携帯の着信音が俺の意識を鮮明にしていった。
締め切っていたカーテンの隙間から日差しが差し込んでいる。開けきれない瞼で睨まれるような視線を送られる机の上の携帯。
(朝、か…)
おもむろにそのガラケーを取った。
新着メール 一件
画面にはそう表示されていた。
角屋からのまた連絡網で回すメールだろうか?
俺はそのままメールを開いた。
差出人 担任
みなさん、バグ修正の進捗はいかがですか?思うようにいっていないことも多いのではないでしょうか?そこでみなさんに一つお手伝いをさせていただきます。明日、朝10時に登校してください。この登校は絶対です。みなさん必ず登校してください。
もし登校しない方がいた場合、バグ修正のやり直しという対処をとらせていただきます。
それでは朝10時、お待ちしております。
以上だ。
拒否権はなし、アイツらと顔を合わせたくないなどとグダグダいう余地はなかった。明日登校しなかったところでバグ修正のやり直しを喰らい、俺への風当たりはさらに強くなるだろう。もうこれ以上はごめんだ。
かといって、堂々と登校できたものでもなかった。今までの俺の前科はここへ来る前から溜まりに溜まっている。
喉が詰まりそうだ。最近はいつもそうで、眠っている時が一番幸せだった。何も見ず何も知らず、何も覚えていない。夢を見てもよくわからないあやふやなものだし、そもそもここへきてから夢を見ることが少ない。
しょうがない。明日は当たり障りなく、ただ静かに、しかし堂々と佇んでいよう。それが一番だ。そう言い聞かせた。
それから俺は部屋を出て階段を降り、昨日と同じように勝手に食材が補充される冷蔵庫を開いて朝食を摂った。
オーブンで焼いた食パンにマーガリンを塗っていて、眩しい日の光が斜めに差し込むリビングのガラス戸からふと外の景色を見た。
遠方の街から下がっていった視線は家に至るちょっとした坂道に、またそこから視線を上げていって、横に引かれた道路、田んぼ、街、そのさらに向こうにある山。そして青空。
キッチンのカウンター上の壁にかけられた時計を見ると9時48分。日差しも強くなってくるわけだ。明日の今頃は登校中か。
俺はそこで早めに明日の想像に歯止めをかけて、首を振って食パンにかぶりついた。
元の世界で最近ちゃんと食パンを食べていなかったから、カリカリの外身を噛み締めた時にふんわりした生地と共に出てくるジューシーに溶けたバターがすごくうまく感じた。ここへきてからはじめての食パンだ。今まではシリアルか、なぜか冷凍庫に入っていたご飯か、弁当だった。
今食べている食パン、確か普通の食パンだった気がするが、なんて名前だったっけか。現実世界とは絶妙似ていて違うネーミングのブランドだったと思った。
朝食を食べ終え、食器を片付け、俺は二階の部屋に戻る。
机の上に置いてあるリヴィジョンとホールダー。ドアを開けたまま部屋の奥へ進み、俺はホールダーを手にとる。そのまま左手に装着しようとするが、腕輪の繋ぎ目を開いたまま手を止めた。
だいたい30秒ほど、そのまま止まっていたと思う。
俺はホールダーを腕には装着せず、繋ぎ目をくっつけて机の上に元あったように戻した。そうすると踵を返して部屋を出て、一階へ戻ったのだった。
ソファに腰掛けて、前のめりになる。
なんだか今日はバグと相対する気にはならなかった。 いつもはもっと好戦的かと聞かれるとそんなこともなく、基本的にはバグと対峙するのは好きではなかった。敵意を持つものに対して怖気づかず、勇ましく挑んでゆく行為には、それはそれは大層な憧れを持っていた。だが裏腹に、痛みや悲しみ、苦しみなどのダメージには特別苦手な意識があった。
だからこそ、その恐怖に少しでも慣れ、アイツらに遅れをとらないために、俺は毎日戦いに臨んでいたのだ。アイツらに対する感情にさらに鞭を打って昂らせて。
平和に過ごすことを望んでいるのは山々だ。
だが、この世界に来た時点で平和ではない。
このところ周りを気にしたり、アイツらとのことを考えたり、気が張り詰めていた。そのツケが回ってきたのか一度バグを討伐しに行くのをやめて、こうしてソファに座っていると全身から重い疲れが沸き出てきた。しかも前のめりで下を向いていると緊張や焦りからくる気持ち悪さが促進されるように感じた。
なんだかもうその体勢が耐えられなくなって、全身をソファに預けて寝転がった。
力が入らず、ソファから垂れ下がった右手。ムシャクシャもするが、頭を掻きむしる気も起きずただ頭に置いただけになった左手。気づいたらパンパンに張って筋肉痛になっている両足。
ずっと前から変わらない、
ボロボロの心。
俺は何をしているんだろう。
何がしたいんだろう。
昨日、里田を助けたのは意味があったんだろうか。どうせやり直しにはなるが、ちゃんと生き返るんだ。ほっといたってよかったかもしれない。
痛み、恐怖を感じて一度消滅はするが、それは俺からの今までの報復ってことで。アイツが危機的状況に陥ったのは俺のせいじゃない、勝手にきゃーきゃー喚いて慌てふためいたアイツのせいだ。
そんな思いさえ浮かんできてしまう。
(ただのうのうとお気楽に過ごしてたお前が悪いんだよ、ざまぁみろ。ってか…)
悪役みたいで妬みや復讐に駆られたドス黒い台詞。いけない行いだということは心底わかっていた。
だがそれでも吐き出したくなるその台詞。罵声を浴びせ、許しを乞うまで踏みにじり続ける光景が目に浮かぶ。
アイツらには、そうしてやりたいと思ってしまうことさえある。人の気も知らず、俺を遠ざけたアイツらには。
(何…考えてんだよ)
そんな自分に嫌気が差す。あの頃からずっと。
今更アイツらと関わることに意味はあるのか。この世界は、一体何を求めているのか。
初めはこちらも手を伸ばしたい気はあった。アイツらとまた笑えるならと。だが、蔑んだような目や噛み合わない空気を感じ、ただ自分だけが悪いようにされてなお、伸ばし続けられるかという話だ。
もちろん俺自身にも非はあったと思う。おそらく俺が気づいていない過ちも。だから俺は自分を責めたりもした。そして後悔もした。あそこでああしていれば、ああいうふうに行動していればと。
でもいくら悪かったと思っても、あちらが何も気づかなければ、ただ俺のみが過ちを犯していると思われていたら…
何の意味もない。
もう段々と歩み寄る気も失せ始めてきている。
それでもなお、何かあったら手を伸ばしてみようと思ってしまうのは、始まりが良すぎたからかもしれない。
まあ、もう無駄なのかもしれないが。
俺はやっとソファから離れると気分を和らげるために温かいシャワーを浴びた。
俯いた体の脳天から優しく流れていく湯。枝分かれして顔を覆っていく水流が気持ちいい。目の前が水でぼやけてもなお、俺の瞳はただ前を見つめていた。
シャワーを全身に浴びながら立ち尽くしている俺。
その脳裏には昔の光景が微かに浮かびつつあった。
でも…
でも、俺には、
とても無駄だとは思えなかった。
いつの間にか驚くほど離れていた俺たちの距離。
間には今まで見て見ぬ振りをした互いの思いの残骸と瓦礫が数を成す。別々の場所へ進み出すアイツら、ただその場に留まって迷い果てる俺。
俺はまたお前たちのいるその場所へ、辿り着けるのだろうか。
・・・
「…はぁ」
翌日、俺は予定より早めに目覚めてしまった。ギリギリまで寝ていたら、この緊張もギリギリまで感じずに済んだのに。いつもなら一度目が覚めても全く眠気がとれないのだが、今日は目が覚めたと同時にこれからのことを意識してしまって、二度寝する気も失せた。
上半身だけ起き上がった形で、俺は少しボッーとしていた。
「はぁ」
もう一度だけため息をつくと、俺は渋々登校の準備に取り掛かった。
トーストを焼いても食べきれる気がしなくて、とりあえずあったロールパンを一個だけ口に入れた。
制服を着て、何かあった時のためにリヴィジョンとホールダーは装備し、一応登校だからと何のために使うかわからないバックに財布など必要そうなものをとりあえず入れて、家を出た。財布なんて何に使うのかわからないが、お金は困らない程度に入っていた。
落ち着いていられず、家を出てきてしまったが全然登校するには早く着きすぎてしまう時間だ。根拠はないが何かあるかもと既に夏の暑さに侵された脳で思い立って、寄り道がてら周りを探索して時間を潰してから登校することにした。
まず家の周りには民家が点々と、新しいものもあれば古いものも。田んぼが広がっているところと、丘もところどころにあった。ここらへんはまだここ数日間で嫌でも目についた範囲だ。
俺はガラケーを開いて時間を確認する。外は相も変わらず快晴なので、左手で影を作って画面を見た。
9時23分。
登校に要する時間は約15分。まだもう少し見て回れる。
(それにしても、)
俺はガラケーを閉じて、空を見て目を細める。
(嫉妬するくらいの晴天だな)
太陽に背を向けて、また歩き出した。
「あなたの自宅」周りはある程度地形や道は把握もできていた。今見ても、特に変わったところはなかった。もう少しあなたの自宅から離れた範囲を調べてみたいところだ。学校までの道を途中まで行き、程良い場所で道を逸れてみることにした。
しばらく歩くと少し道が坂になり、丘の間を縫っている。坂が平らな道へと戻ると、鳥居を見つけた。
鳥居は道を外れた丘の下にあった。どうやら丘の上には神社があるらしく、階段がその先へ続いている。鳥居の周りは樹木が固めていて、鳥居だけが唯一の入り口になっているように見えた。
何ということもなく、でも無意識に惹かれるように俺は鳥居を潜った。
階段の周辺も木々が並んでいてトンネルのようになっていた。あれだけ強かった日差しが、今は優しい木漏れ日となり、少し涼しくなっている。
階段を上がり、もう一つ鳥居を潜ると、そこには小さな神社が佇んでいた。周りに何かがいるはずもなく、ただ風に揺らされる木々の音がしているだけだった。
ガラケーで時間を確認すると時間もいい時間になっていた。
せっかく神社に入って何もしないで去るというのもどうかと思ったので、俺は家を出る時にバックに入れておいた財布を取り出した。
「なんだっけ…確か、「10のご縁で15円」だっけか…」
財布から15円を取り出しながら呟く。
「なんだか懐かしい…な…?…懐かしい?」
言いかけて俺は気づいた。自然と口をついて出た言葉に違和感を感じた。
「懐かしいってなんだ?」
自分でもよくわからなかった。当然のように口から出てきたのだから。どうして懐かしいなんて思ったのか。今の今まで懐かしいと感じていたのにそれはもう発端を失った感情だった。
「…誰に、言われたんだっけ」
誰かが俺に言ってくれたことはまだ覚えていた。しかし俺にそう言ってくれた人物の名前も姿も浮かんでこなかった。そして何故俺はそれを懐かしいと思った?忘れてしまった。
忘れてしまった…?
…何故?
おかしい。言われた言葉ははっきりと覚えていたのに、他は覚えていない。言われた場所も曖昧だった。
誰かが俺に言ってくれたということだけは確かだった。
いくら考えても、思い出せない。
ただ忘れているだけ、か…、一旦そう割り切った。そしてモヤモヤとした気持ちのまま、俺は15円を賽銭箱に入れた。
二礼二拍手。手を合わせ、願った。
なんだかんだ色々願った気がする。
自分のこと。アイツらとのこと。そしてこれからのこと。色々。
最後に、一礼。
時計を見ると時間は38分。もう行かないとやばそうだ。この世界にはスマホがないし、位置情報アプリが使えるわけじゃない。学校は見つけやすい場所に建っているとはいえ、方向感覚と道の記憶が頼りだ。方向感覚には自信があるが万が一があってバグ修正やり直しも困る。
俺は逸れた道を少し早足で引き返し、学校へ向かった。
俺が学校に着いた頃には下駄箱にクラスの奴らはいなかった。そのかわり、あちこちに靴が入っている。団体行動が板について、みんなでワイワイ登校してきたのかもしれない。まあ、バグ修正やり直しだもんな。そりゃみんな早く来るか…。
(俺も急がないと)
置いたバックを肩に担ぎ直した時だった。また人影が見えた。
「またかよ…」
やはり良い心地はせず、内心は驚いていた。
念の為俺は、リヴィジョンに手をかけながらソイツの後をつけてみることにした。
人影は下駄箱から真っ直ぐ進んだところにある部屋に入っていく。部屋の名前が書いてある札を見て見ると「保健室」と。
ゆっくりと扉の窓から中を覗き込む。
「ッ!?」
その光景に俺は息を呑んだ。
端々に並ぶ人体を保存するようなポッドの数々。その中心に立っているのは先程の人影ではなく、俺たちX組にバグ修正という責務を与えた抜け殻の教師。だが、その教師は…、ポッドの中には…。
俺は迷いもせず、扉を開けてリヴィジョンを構えた。
「何をしている…?!これはなんだ…?」
その教師はゆっくりとこちらに目を向けた。ソイツが生き物なのかも定かではない存在のように見えて、冷や汗と震えが増した。それでも俺は問いかけた。
「答えろッ!!」
リヴィジョンを構えている震える右手を、バックを手放した左手でも抑えつけた。
ソイツは何も言わず、ゆらりとこちらに一歩を踏み出してくる。
身構えた瞬間、目の前から教師は消えていた。
辺りを見回すと、歩き去っていく教師の姿があった。
「クソッ!」
俺はバックを取ってその姿を追った。
その教師は追いつけそうな時に消えていなくなり、気づくとまた少し離れた場所を歩いていた。キャンセルが発生しているのか、だがそれにしてはホールダーが機能していない。
そしてコイツは俺たちX組の教室に向かっているようだ。俺は階段を駆け上がった。
X組の教室がある三階のフロアについても、またアイツを見失ってしまう。
X組の教室に向かうと教師はもう教室の中だった。
「おいテメェどういうつもりだッ!!何か知ってるんだろ!!」
俺は教室の扉を荒々しく開け放つと教卓に鎮座するソイツに怒鳴りつけた。
「お席にお座りください。」
俺の声など歯牙にもかけず、淡々と告げるソイツ。
俺は勢いを止めず、バックを投げ捨てて間を詰める。装備していたリヴィジョンのソードを引き抜いてソイツの喉元に突きつける。
「お前は誰だ…!お前は何なんだ…!!!」
俺は睨んだ。ソイツの目を。何かが隠されているのに、何も見えてこないその瞳を。
「すみませんが、それ以上の強行は他のみなさんが消滅すると思ってください。」
そう言われてアイツらの方を見ると俺以外の全員の背後に、リヴィジョンのソードのようなものを持ったバグが立っていた。
だがそのバグは、
その姿は
俺だった。
俺の姿をした黒い影に覆われたバグは全員の喉元にソードを突きつけていた。
「なん…だと…!?」
いつもは顔も髪型も服もはっきりしないバグが、今は俺と同じ顔をして同じ服を着て、それが39体いるのだ。だがその肌も服も何もかも闇に覆われていて黒い。
頭が狂いそうになる。
「どういうつもりだッ…!!」
俺はソイツに視線を戻す。体のあちこちから冷や汗が滲み出て、自分が暑いのか寒いのかもわからない。
「お前は何なんだ…、お前はこの世界の神か…!!」
問いただす。だが当然、望む答えが返って来たりはしない。
「消滅、しますよ?」
無機質な言葉だけに、その言葉の響きがひどく恐ろしく感じた。
「…ックソッ!!!」
俺は吐き捨てて、ソイツから離れた。すると俺の姿をしたバグたちも消え去っていく。
俺はみんなの視線を感じながら早足で席についた。
何事もなかったかのようにソイツは今日の登校の本題を話し始めた。俺はまともに聞く気にはなれず、その内容はうろ覚えでしかない。
周りの奴らの視線も、この世界もバグも、全てが怖い。俺自身の存在すら怖い。このクラスの奴らのことが、俺は更に信じられなくなった。
俺があの時見た光景、あれは…。
一人で考えこんでいると時間はあっという間に過ぎ去っていた。もう解散の時間らしい。
解散の合図があると、俺はすぐに一人教室を出た。だが案の定アイツがいるはずもない。だがそれでも、と、俺は校内を探し回った。