第4話 何だ、これは?
「何だ、これは?」ガロアの論文を読み始めたコーシーは紅茶カップに伸ばした手がまるでフリーズしたかのようにそこで止まってしまった。
パリ大学の数学担当主任教授として毎日多忙をきわめるコーシーは、帰宅後書斎で紅茶を飲みながらゆっくり読書するのが習慣であった。今日も読書がわりに、その日の朝リシャールが大学の教授室に持つて来た高校生の論文を読み始めた。
18歳の高校生が書いた論文と聞いてコーシーは最初受け取りを拒否したが、リシャールが優秀な学生だと言うので、とりあえず目を通すことだけ約束してアカデミーへの提出は約束しなかった。いくら優秀でも高校生がアカデミー・レベルの論文を書けるとは思わなかった。
しかし論文を読み始めたコーシーは目が論文に釘付けになった。
エヴァリスト・ガロアの子供時代
エヴァリスト・ガロアは人類暦1811年10月、フランス、パリ郊外のブール=ラ=レーヌで生まれた。父ニコラ・ガブリエル・ガロアは当時校長として人望厚く、後に町長となる。母アデレード・マリーは教養深い女性でありエヴァリストはこの母から10歳まで主にラテン語や古典文学を教わった。しかし2人とも息子の天賦の才能には気づいていなかった。
エヴァリストは、11歳になると更に進んだ教育を受けるためパリの名門リセ(高等中学校)「ルイ=ル=グラン」寄宿舎学校に第四学級より入る。
ここでこの後のガロアの人生を特徴づける2つの資質が形作られ研ぎ澄まされていく。
ひとつは、専制なるものに対する反抗性や攻撃性であり、これがガロアの学校に対する反発や後の政治活動への傾倒につながって行く。
もうひとつが、数学に対する類まれな才能である。
1826年第2学級に落第し「準備数学学級」で数学を履修することになった15歳のエヴァリスト・ガロアは、そこで一冊の数学の本に出会って彼の人生は一変した。
それは、当時の著名な数学者アドリアン=マリー・ルジャンドルが書いた「幾何学の基礎」という本で、その授業を受け持っていたジャン=イポリット・ヴェロン(通称ヴェルニエ)が「準備数学学級」教科書として選んだものだった。
当時、ドイツの大数学者ガウスと並び称せられるルジャンドルの、通常では全部を理解するのに2年はかかると言われるこの本を、ガロアはまるで小説でも読んでいるかのようなスピードで、一気に読み切った。しかも一回読んだだけで全てを理解した。数日でマスターしたという伝説もある。
これ以来、ガロアは数学の虜になった。この本は眠っていたガロアの数学の才能を目覚めさせた。授業のありきたりな数学は退屈で、いつも自分の興味ある課題を一人で研究していた。先生達には彼は授業に集中しない、やる気のない生徒と映っていた。
リシャール先生との出会い
そんな学級にリシャール先生がやってきた。ガロアは期待していなかった。どうせこれまでの数学の先生と同じように教科書に書かれた模範解答を押し付けるだけだろうと。
しかしこれまでの先生なら、中身も見ずに「間違い」と一蹴されるガロアの一見とんでもない解法を、リシャール先生は暫く眺めた後ガロアに一つ質問をした。
ガロアは驚いた。それは、この解法を理解していなければできない質問であり、逆にガロアが先生にしてみたい質問でもあったから。
一方リシャールもガロアの解法を見て驚いた。最初、全く的外れな解き方をしていると思えたが、良く見てみると当時の数学会での最新の考え方、あるいはまだ数学会でも理解されていない考え方を使った解法であった。
そしてリシャールは一目でエヴァリストの非凡な才能を見抜いた。数学の授業が変わった。ガロアはリシャールの与えた課題だけはきちんとやってきた。リシャールはガロアの解法を正確に評価し、授業の中で皆に説明した。
授業を離れても当時の一流数学者、ガウス、ルジャンドル、コーシー、ラグランジュの仕事について議論した。また、リシャールは、ガロアに彼のこれまでの研究成果をフランス科学アカデミーに提出して評価してもらうことを提案した。
オーギュスタン=ルイ・コーシー
(Augustin Louis Cauchy, 1789年―1857年)はフランスの数学者。解析学の分野に対する多大な貢献から「フランスのガウス」と呼ばれることもある。(Wikipedia)
フランス科学アカデミーの会員であり、エコール・ポリテクニークの解析学教授であり、パリ大学理学部とコレージュ・ド・フランスでも教鞭をとっていた。純粋数学と応用数学の両面で、まさに当時のフランス数学会の支配的存在であった。(ガロア 天才数学者の生涯 加藤文元)
コーシーの査読
「何だ、これは?」数式の羅列を想像していたコーシーは一瞬目を疑って、もう一度その論文のタイトルに目をやった。「一般のn次方程式の代数的可解性についての考察」とあった。間違いなかった。
「n次方程式の代数的可解性」とは平たくいえば、「Xのn次方程式が解の公式を持つか」と言うことである。
Xの2次方程式が解の公式を持つことは、中学校の数学で教わるところであり、Xの3次方程式、4次方程式は計算が複雑になるので学校では教わらないが解の公式を求めることができる。
しかしXの5次方程式以上になると、勝手が違ってくる。これまでの数式変形の方法は力づくでも通用しない。
これに対してガロア少年は全く新しい、独創的アイデアで、一般の5次以上の方程式は解の公式を持たないこと、および解の公式を持つための条件を示した。
多くの論文が方程式を巧みに変形して X= の形に持って行って解こうとしているのに対し、ガロアの論文では、方程式の解をα、β、γ、・・・と置いてこの解の置き換え(置換)を要素とする集合の構造(群)に着目し、それが方程式の裏に隠れている解の構造を反映していることを発見した。
これにより、方程式が解の公式を持つかという問題を、複雑な計算をすることなく、群の構造を調べると言うはるかに扱いやすい問題に帰着させた。
コーシーは何度も読んでみた。証明は不親切で分かりにくかったが、コーシーには理解できた。
数を扱ってきたこれまでの数学とは違って、ある構造をもった集合を扱っているが、これも確かに数学だ。こんな数学があるなんて。しかもこれを考え出したのは高校生なんだ。
ガロアの論文へのコーシーの賞賛
(前史)人類歴1830年
そしてコーシーは、翌年1月の科学アカデミーの論文審査委員会においてガロアの論文を賞賛の言葉と共に紹介しアカデミーの論文として採用することを強く推薦した。
コーシーが他人の論文をこれほどまでに褒めるのは珍しいことである。それほどまでに、ガロアの解法は革新的で独創的であった。
これがもし、コーシー以外のアカデミー委員に査読されていたら、内容が理解できず、没にされていただろう。
実は、コーシーは以前ガロアと同じアイデアを漠然と考えたことがあった。しかし、彼はそれを数学の形で表すことが出来なかった。出来ると思わなかった。まさか高校生が発見するなんて。
その時代の多くの優秀な数学者でも理解できなかったガロアの理論であるが、さすがにコーシーである。その中に新しい数学の世界を予感した。
そして彼にしては珍しく素直にガロアの功績を評価し賞賛した。それだけガロアの発想が時代を超越していたと言える。
(筆者注: 上記およびこれ以降数ページの内容のいくつかには大方の伝記書と異なる記述があるが、ここで述べられているのは歴史介入前の『前史』であり、我々の知っている介入後の『現史』とは異なることに注意されたい。)
(第5話に続く)