第3話 消えた赤ん坊
1811年10月25日(金)パリのある産院で一組の双子が生まれた。女の子と男の子の二卵性双生児、いわゆる異性双生児であった。
母親は前日この産院に連れてこられた若い人間の女性で、出産と同時に赤ん坊から引き離されてどこかに連れていかれた。
その間の彼女の無口で、まるで死人のように終始無表情であった様から、何か深い訳ありな事情が推察された。
彼女のその後についても、どこかの修道院で不遇な一生を送ったとか、果ては妊娠で刑の執行が延期されていた死刑囚だったので、出産と同時に刑が執行された、というものまであったが、誰も本当の事はわからなかった。
女の赤ん坊は、産院まで受け取りに来ていたパリ郊外の子供のいない百姓夫婦に養女として貰われていった。
男の赤ん坊は生まれてから数時間ずーっと産院の幼児ベッドで元気に泣いていたが、やがて疲れて寝てしまった。
しばらくして彼の隣のベッドに同じように当日生まれたばかりの男の赤ちゃんが連れてこられた。静かに寝ているように見えたが、良く見ると息をしていなかった。
この赤ん坊と入れ替わりに、最初に来た赤ん坊は男の医者に連れられてどこかへ行ってしまった。
一方パリのある裕福な家族の邸宅では、前日から慌ただしい雰囲気に包まれていた。若奥様の陣痛が予定より1週間早く昨夜始まった。急遽助産婦が呼ばれ、産院の男の医者も万一にそなえ待機していた。
一家は学者や知識人を家系に持つ由緒ある家柄で、2年前に女の子が生まれていたが、跡継ぎの男の子の誕生が渇望されていた。
難産の末、明け方になって助産婦が赤ん坊を取り上げた。
「お目出とうございます。男の赤ちゃんです。」
助産婦の声に家の一同は喜びの声に包まれた。
しかしその喜びの声の大きさに比して、赤ん坊の泣き声は弱々しかった。
その場に待機していた男の医師がすぐに赤ちゃんを連れて産院の方に向かった。
その日の夕方になって医師が赤ん坊を連れて家に戻ってきた。赤ちゃんは元気になっていて、一同はほっとした。
助産婦だけが、赤ちゃんの様子に何か釈然としないものを感じていたが、
帰りに渡された『お礼』と書かれた封筒の中身を見て、赤ちゃんの事などすっかり忘れてしまった。
・・・それより18年後
マリー(Marie)
出身: フランス
職業: 家政婦、自作アクセサリーの路上販売、他
学歴: 不明
(前史)人類歴1829年 10月 地球 - パリ サン・ドニ(St Denis)通り
十月のパリ。街路樹の枝を渡る風の冷たさが、その年もまた冬の訪れの早いことを教えてくれる。昼から降り始めた冷たい雨に夕方から風も強まり、薄暗くなったサン・ドニ(St Denis)通りのパサージュ(Passageアーケード)でマリーは細い体を震えさせながらいつものように客探しをしていた
政治には関心のないマリーにも今のフランスの政治が混乱していることはわかる。 40年前にフランス革命が起きた時は人々は王様がいなくなってこれでやっと静かで楽な暮らしが出来るって思ってたけど、王様の時代よりもっとひどくなった。
25年前にナポレオンが出てきた時は、これで本当にフランスに平和が来たと思ったけど、気が付いたらまた王様の世に戻っていた。
『政治のことはわからないし、わかりたくもない。ただ誰かが、この暮らしを良くしてくれればいいだけなんだけど。』
ぶつぶつといつもの独り言をいいながら、道を通る男たちの品定めをしている。
突然、20人くらいの若者の集団が大声でしゃべりながらマリーの目の前を通り過ぎて行く。どうやら共和主義者のグループのようだ。その後ろに通行人を装ってはいるが明らかに不自然な歩き方をしている、マリーにも私服警官とわかる男性が少なくとも3人はいる。そのうちの一人はマリーも知っている顔である。
あわててマリーは顔をそむけた。
『あいつだ。顔も見たくない。5年前のちょっとした事件の時、真っ先に私を疑って、私が潔白だとわかってからもそれ以来何かあるとしつこくつきまとってくる。』
マリーは彼に背を向けて集団が通り過ぎるのを待った。
その時、集団の去っていった方角から急ぎ足でこちらに向かって来る一人の紳士に目が留まった。身なりから見て明らかに金持ちである。
『今日はついている。運が向いてきたかもね。』
マリーは、バッグからコンパクトミラーを取り出し化粧を整えると、紳士の方に向かってゆっくり歩いて行った。
(第4話に続く)