その3
俺はコンクリートの岸壁に虚しく打ち寄せる波の音を聞きながら、何時間もの間、その場に呆然と立ち尽くしていた。ようやくここが元いた世界とは違う異空間だと理性では理解できたが、感情の方はなかなか納得してくれず、諦めがつくのにそれくらいの時間を要したのだ。ちなみにこの世界は星辰の動きは無さそうで、いくら待っても太陽が昇る気配はなかった。月も出ていないが星だけは刷いて捨てるほど輝いており、俺の知っている星座と一致するものは一つとして見当たらなかった。
足が棒になった俺は、海に背を向けるとよろよろとアーケード街の探索を再開した。結局「田」の下の道は「力」となっており、道の行き止まりはどこも同じで夜の海に繋がっていた。つまりこのうらみ町は絶海の孤島の上に立地しており、更にアーケードの道の形は「田」∔「力」で「男」ということになる。なるほど、確かに浅野の言う通り、近江町の「女」と対になっている。さすがうらみ町。
どこにも出口がないという絶望的事実に打ちひしがれた俺は、すごすごとねぐらに指定された例の花瓶屋に引き返した。一階の奥にある傾斜のきつい階段をギシギシと登ると、そこは六畳の洋式の台所兼食堂と六畳の和室の計二部屋があり、人の気配はなかった。台所にガスコンロと炊飯器はあるものの、冷蔵庫も電子レンジもなく、食糧と言えば麻袋に古米がややあるのみだった。和室の方に至っては押し入れに煎餅布団が押し込められているのみで、テレビはおろかラジオもなく、俺はふてくされて風呂にも入らず布団を敷いて横になった。すきっ腹だったが、飯を食いたくてもおかずが無い。
ちなみに和室の窓から大海原を見下ろすことが出来る点だけはロケーション的に良かったが、ザザーンザザーンという、いつ果てるとも知れぬ波の音が永遠の闇の中繰り返し続くのは、徐々に精神的に来るものがあり、謎の頭痛も悪化し、元の世界に対する恋しさがつのるばかりであった。しかしたとえ戻ったところであの貞子よりも怖い血まみれ女が手ぐすね引いて待ち構えているかと思うとすぐに望郷の想いは萎え、まだこの独身時代の大学生活にも劣る暮らしの方がましだと自分に言い聞かせた。何だか下の階から人の話し声がかすかに響いてくる気もしたが、入眠前には夢と同様人の声の幻聴が聞こえやすいとも言うし、朦朧としていたので気にも留めなかった。
そうこうするうちに少しは眠ったのだろうか、何とも言い難い悪夢にうなされていた気がするが、起きた時には欠片も覚えておらず、現在の自分の状況を思い出し、憂鬱だがとりあえずは無事でいることに少しは安心した。しかし睡眠中は収まっていた空腹がいよいよ限界に近づいてきた。どうにもたまらなくなった俺はきしむ階段を降りると、致し方なく少しでも腹の足しになって副菜代わりになるものを分けてもらおうと、隣りのナイフショップに表敬訪問した。何故猟銃店の方に行かなかったかというと、単純に、まだこっちの方がいきなり殺される率は低いかな、と思っただけだ。
「おや、いらっしゃい。昨日、浅野様と一緒にやって来られた方ですね。そうですか、隣りの花瓶屋が貴方のお住まいですか」
その瘦せぎすな小男の店員は、長く伸びた髪を柳の枝のように揺らし、陰気に話しかけて来た。だがその口ぶりから、こちらの事情はとうに察しているといった様子だったので、正直新参者の俺はホッとした。
「すいませんが、そういうわけなんで、なんでもいいから食べ物を分けて貰えませんか? 昨日の朝から何も口にしてないんですよ」
あの妻と喧嘩する直前に食べた食パンが俺の最後のメニューだった。
「おやおや、そうですか。しかしこっちにも残念ですが余分な食料なんてのはないんですよ。この町では自給自足が原則でしてね」
「ええっ!? そんなこと言っても、一体どうすれば……?」
男は薄く笑うと、「まあ、それよりもうちの商品を見てくれませんか? どうせ時間は腐るほどあるんでしょう」といきなり話を変えて、壁の棚に陳列された、月のように青く光る凶器の群れを指し示した。気圧された俺は、「はぁ……」と答えながら、仕方なく男の機嫌を損ねないよう、彼のナイフ自慢をありがたく傾聴する羽目になった。