その2
浅野はそれぞれの店の中に立つ男たちに、「よっ、辰さん元気?」だの「太郎さん最近景気はどう?」だの陽気に声をかけながら、どんどん市場を突き進んでいく。どの男たちも皆幽霊のように陰気でお世辞笑い一つ浮かべず、商売人としてどうなんだろうかと思ったが、それでも「ああ」だの「うん」だの答えている。やがてT字路に突き当たり右に曲がったため、俺はここが明らかに近江町とは違う市場であることを認めざるを得なかった。何故なら近江町にはT字路なんて存在しないからだ。昔訪れた時知ったことだが。
「俺は……違う世界に迷い込んだとでもいうのか?」そんな考えに頭を支配されかけるが、にわかには認め難く、馬鹿馬鹿しいと首を横に振る。エルフや竜人が道を歩いているならともかく、見た目自体は普通の市場だ。もっとも電灯が灯っているのに何となく薄暗く、活気もないが。「おっ、分かってきたんやね、おじさん。ここは近江町の並行世界ってやつや。全ては反対なんや」「えっ!?」浅野がSF的な台詞をさらっと吐き、俺はつい反応してしまった。
「やーっとついたがー。ここだよ、ここ。あーっ、疲れたじー」わざとらしく伸びをしながら浅野はナイフショップと猟銃店の間に挟まれた花瓶屋の店内にズカズカと入っていく。「さー、おじさんも入った入った」「いや……そんな入ったって言っても、誰もいない店の奥まで勝手に入ってもいいのか? 店の人が来たら……」「モーマンタイ! ここの店主ならこの前か……いやいや、この前どっかに行っちゃってそれっきりやから、ちょうど良かったんやが」「はぁ……」
確かに浅野の言う通り、狭い店内はがらんとして人影はなく、いかにも売れなさそうな安物の花瓶がポツポツと、埃まみれの棚に置いてあるだけだった。「本当にここで商売なんかしていたのか? 全然掃除してないぞ。まあ、新しそうな花瓶もあるにはあるが……」「そりゃ花瓶なんて買う男は少ないだろうからねえ。でも、これもおじさんが自ら選んだ業だから仕方ないがー。後、住居は店の二階で一階にはトイレと風呂がついとるがー。景色は最の高やで。んじゃ!」そう簡単に説明すると、浅野はさっさと店から出て行く。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺はこの薄汚い店でどうすればいいんだ!?」「だからここで、ほとぼりが冷めるまで隠れ住みながら、のんびり花瓶でも売って過ごせばいいんやが。大丈夫だって、時々様子見に来てやっからさー」「そんなこと言ったって、食べ物とかどうすればいいんだ!?」来る途中で通りをざっと見たが、ここには食べ物屋はおろか、魚屋の影すらなかった。毒草店なんて物騒なのは見かけたが。しかしこんな質問をする時点で、俺は自分が無意識のうちにここが近江町ではないことを認めていることに気づき、愕然となった。
「大丈夫大丈夫、お腹が空いたら釣りをすればいーがや」鼻歌を歌いながら、彼女は足早に遠ざかって行く。「つ、釣りだって!? そんなもの今までやったことないぞ!」俺が戸惑っている隙に、浅野は翼の生えた靴でも履いているみたいに軽やかに元来た方へT字路の角を曲がって消えていった。まるで、かくれんぼで隠れ先を探す子供のように。
「おーい、もうちょっと詳しく説明してくれー!」我に返った俺は慌てて後を追うも、角の先には浅野の姿は欠片もなく、寒々とした白い灯りに照らされたアーケード街が、合わせ鏡に映った空間のようにひたすら伸びているだけだった。俺は再び息を切らせてそこらじゅうを走ったが、時々すれ違うのは影のようなうつろな表情の男たちのみで、あの強烈な印象の紺色のセーラー服はどこにも発見できなかった。
だが汗水流して駆けずり回っているうちに、一つ分かったことがある。このアーケード街は石仏の立つ四つ辻を中心として、漢字の田んぼの「田」の形の道路をしていることが判明したが、「田」の一番下の横棒からやや左寄りの場所から、下方向に縦に伸びる道があり、しばらく進むと再び十字路にぶつかった。そこを更に行くと、道は徐々にカーブを描き、徐々に何やら洞窟の入り口のような黒々としたものが見えて来た。
「……アーケード街の出口か?」だが、出口にしては何やら様子がおかしい。やがて漂ってきた潮の香りがそれの正体を饒舌かつ瞬時に教えてくれたため、俺は耐え切れず絶叫した。なんとアーケードの出口は断崖絶壁と化し、その下には暗い夜の海がどこまでもどこまでも広がっていたのだ。