三話 四年半後
四年半が経った。
今日はいよいよ王立魔法学院の入学式だ。
俺は今、シックな制服に身を包んで、魔法学院行きの馬車に乗っている。
この四年半は中々大変だった。
きっかけは、暇過ぎてだんだん精神に変調をきたし「ぼくはいらいらしています」というオーラをあからさまに醸し出していた俺を見かねた両親が、「そろそろ大きくなってきたし、ちょっと早いけど魔法を教えてみようか」と考え、魔法を教えてくれるようになったことだった。
したところ。
ははは、人にはどんな才能が眠っているかわからない。
単純計算で二十五年の人生の蓄積。ファンタジーへの憧れに起因する魔法へのパッション。絶望的な暇に対する憤り。そして何より絶対にコーヒーを再現すると言う強い決意。これらが燃料になったことに疑いの余地はないだろう。俺は圧倒的な習熟速度を叩き出し、テンションが上がって早口になっていった両親の授業をすら悉く理解した。
その時は全員のリミッターが外れて、夕食を食べた後に始まった授業が、窓から差し込む朝日に俺が気づくまで続いたが、これは始まりに過ぎなかった。
あの夜を経て母さんの何かに火がついたらしく、今まで気配すらなかった教育ママ的側面が突如として表出、毎晩仕事から帰り夕食が済むと豹変し、鬼気迫るスパルタ教育が始まった。
その激しさたるやライブでヘドバンをする若者のように髪を振り乱す有様で、様子を見た父さんがドン引きし、普段の生活で何かと下手に出るようになり家庭内のパワーバランスが変化するほどだった。
母さんは特に“闇の魔法”――各国で使用が禁じられている禁忌の魔法――への対処法を熱心に教えた。よく使われる闇の魔法の特徴とその対応、闇の魔法使いと遭遇した時にどのように戦えばいいか、などなど。その時ばかりは父さんも、母さんに負けないくらい熱く教えていた。
妙に細かく、生々しかったが、母さん、そして父さんも闇の魔法使いを取り締まるのが仕事と聞いて納得した。
「“闇の魔法”のことなんて知らなくていい、ってみんな言うけどね」母さんは俺にいつもそう切り出した。そこからこう続く。「“闇の魔法”はみんなが思ってる以上に普通にあるものなの。ごく普通の日常のすぐそこに潜んでいるの。だからどんな時でも警戒していなくちゃいけないわ」
そしてこうも言った。「でも、必要以上に“闇の魔法”を恐れてはいけないわ。“闇の魔法”は心の闇の発現よ。相手の心、そして自分の心に、真正面から向き合わないといけない。さもないと、闇に呑まれることになる」
まあ内容そのものは興味深く、また俺のコーヒーへの渇望を起因とする熱意も、母さんのそれに劣らないくらい強かったから、ノイローゼになることもなく四年半の家庭教育を無事修了した。
やっぱり物事に熱意を持って取り組むってすごい大事で、通常ある種の拷問と認識される“勉強”でさえ楽しく感じられるのだから、改めてそう思わされた。
とにかく。魔法学院行きの馬車の中で、誰かメガネを壊したりしないかな、とか考えている今の俺には、少なくとも学業に関する不安は無い。
十二歳の集団にこれから混じるのか、とか、そもそも地球でもあんまり社交的じゃなかったしな、といった不安はあるが。
しかし問題はない。
俺は青春を満喫するだとか、学業で大成するだとか、そんなことを目指してはいない。
ただ己の内から湧き上がるコーヒーへの渇望。これを満たさんと励めば良いのだから。
おっと、コーヒーの暗黒面に堕ちかけた!俺は自分の心の闇に真正面から向きあった。
まぁとりあえず、自由に行動できるようになったら即図書館だ。ひとまずそれでいこう。
さて、思考のネタも尽きたことだし一眠りするか。
そう思って目を閉じてから数秒経った時。
ガタン。
突然、馬車を衝撃が襲った。
にわかに騒然となる車内。
裏声をあげて座席にしがみつくやつ、声変わりしたての声で「ママー」と叫ぶやつ、不可抗力で隣の女子に抱きついてビンタを食らったやつ。
「あっ、ごめんなさい!」
うごっ。
俺の隣に座っていた女の子が、揺れてぶつかってきた。
俺は、大丈夫、と言った。ふわっといい匂いがしたので役得です、とは言わなかった。
それにしてもこの女の子、さっきからずっと教科書を読んでいたから気になっていたが、この状況でも開いて読んでいるとは大した根性だ。
さて、何が起きやがったんだ?
俺も事態を確認するべく目を開けて窓から外の様子を確認すると――はは、これはすごい、馬車が空を飛んでいた。
車内は今の喧騒から一転し、離れゆく大地を皆が見つめて静まり返った。
眼下の街道がどんどん小さくなってく中、微かな風の音と、時折小さく揺れる馬車の音だけが響く。
それにしてもどういうトリックだろう?
馬車を引いているのがペガサスとかならまだ想像できただろうが、この馬車を引いている馬は普通の馬に見えた。
恐るべきは魔法の力、だ。
馬車はそれほど高度を上げることなく上昇をやめると、空を悠々と駆けた。
窓から地上を見下ろすと、まだ糸のように細い街道が見える。
コーヒーが育つにはまだ高度が低いかな。
そんなことを考えながらぼけーっとしていたら、窓の外に他の馬車が空を駆けているのが見えた。
まるで地面を走っているかのような動きだな、と感心したが、辺りをよく見てみると同じような馬車がおびただしい数、空を駆けている。
これはもしかして、もう近いのか?
そう思ってちょっと視線を下にやると、見えてきた。
大きな湖の真ん中にポツンと浮かぶ島。その上に建つ城――王立魔法学院だ。
数えきれない空飛ぶ馬車の流れが、城を目指して収束していく。
まるで天の川のようだ。
感動して、そんなちょっとポエティックな比喩が浮かぶ。
俺たちの乗る馬車も、すでにその流れの中にあった。
城に近づくにつれて、距離感が隠していたその巨大さが徐々に露わになっていく。前を行く馬車と比較してみると、騙し絵を見せられているように思える大きさだ。
マイナスのGが掛かった。
馬車は高度を下げ始め、ついに見えてきた城の門では、俺たちが着ているのと同じ制服を着た、たくさんの人たちが手を振っている。上級生だろうか?
遠かった地面はもう目と鼻の先だった。
再び、ガタン、と衝撃が襲い、ほどなくして馬車は停止した。
王立魔法学院に到着だ。