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母の小箱

作者: 山内重雄

 夢から目覚めたら、まだ夢の中だったり、夢とわかっていながら夢を楽しんでいたりとか、夢の二重構造ともいうべき不確かな状態を体験したことはないだろうか。

私は、よくある。まるで長距離走をしていてゴールだと思っていたらゴールは先にあり、走り続けるならなければならないときのように。走り好きにとっては、走れるという喜びがあるかもしれない。


 夢から目覚めたら、まだ夢の中だったり、夢とわかっていながら夢を楽しんでいたりとか、夢の二重構造ともいうべき不確かな状態を体験したことはないだろうか。

私は、よくある。まるで長距離走をしていてゴールだと思っていたらゴールは先にあり、走り続けるならなければならないときのように。走り好きにとっては、走れるという喜びがあるかもしれない。

 これは、最近見た夢の中の夢の話だ。煙草屋の前に一人の女がやってきた。母に似た女だったが、母ではない。なぜならば母は昨年に亡くなっていたからだ。

 その年の夏に母は、くも膜下出血で倒れて日赤病院に運び込まれ、手術は成功したが、意識が戻らないままに四ヶ月後に病院のベッドの上で息をひきとった。ベランダの鉢植えが知らぬ間に枯れてしまったように母は朽ち落ちた。それは、年末の慌ただしい日だった。椿の紅い花が夕陽に染まった日の夜、母は白い国へ逝った。

 煙草屋というのは母が経営していた小さな店のことだ。住まいの表通りに面したところに窓を設けて煙草を売る昔ながらの店だ。店前に煙草の自動販売機があるのでほとんどの客はそちらを利用する。ごくまれにカートンで買う客が来るぐらいだ。こんなやっているかやっていないかわからないような煙草屋で煙草を買う物好きはいない。曙通り商店街と北山本通りの南東の角という昔なら店を構えるには一等地と言える場所だ。

ところが、かつて商店街だった曙通りで開けている店は、いまやほとんどない。大型のショッピングセンターや食品スーパー、コンビニができて個人商店は抹殺された。シャッターだけの商店街になってしまった。住んでいる人はいる。伝染病が流行るのを怖れて家の奥に籠っている村人のように、外に出ている人はいない。

店を開けるのは、高齢の母の生活の一部だった。客がいようがいまいがかまわない、朝起きて店を開け、日が暮れたら閉める。その繰り返しが永遠に続くと信じていたのだろうか。母が亡くなった当初は店を閉めていた、忌中の貼り紙をして。この紙さえ貼っておけば誰もが悲しさを共感してるとでもいうように、太く印刷された文字は強引に見えた。

一人息子の私が、一人暮らししていた母の住まいの整理をしにきたついでに店の窓を開けた。ガラス窓には五十八の私が写っていた。母の遺影よりも老けて見えた。どちらかというと私の顔は、母よりも父に似ているように見えた。八十二で亡くなった母は、手頃な写真がなかったのでかなり前の写真をアルバムから探しだして引き伸ばした。それでも私の年齢よりは上のはずだ。

 店を開けるとそれを見越したように独りの客があった。老人がやってきた。身に付けているものすべてが老人の生まれた時から存在したかのように古びて見えた。

「ここが開いていなくてコンビニまで買いに行く気にならなかった。せっかく禁煙できたのに」と憎まれ口を叩いて二箱買っていった。

老人は禁煙してまで健康に暮らしたかったのだろうか。私が店を開けたことで彼の健康を害する結果になるのならば申し訳ない。私に、そんな責任を押し付けずに店の前にある自動販売機で買えばいいのにと思った。老人は母のことについては何も聞いてこなかった。

それからもほんとうにたまに忘れた頃に客がガラス窓を叩いて知らせた。こんな店でもけっこう常連がいたみたいだった。誰かが「ご愁傷さまでした」と形式的な挨拶をしてから母のことを話すのではないかと思ったが、それはなかった。いつしか母のことを誰かが話してくれるのではないかという期待だけで店番していた。ガラス窓の内側のわずかな隙間にスチール椅子を置いて座っていた。左右を壁に挟まれ、後ろは段ボール箱に塞がれ逃げ場がない。

 その空間が心地よかった。空気が留まり、自らの体温で温められていく。そこで新聞や雑誌を読んでいると全部読み終えても客が来ないこともある。客が来ないだけでなく、歩いている人も見かけない。車が無愛想に走り抜けていくだけだった。車は車であって人間を感じない。たとえ運転者は人間であっても車という機械に人間が取り込まれてしまっている。車に取り込まれた人間たちは、そのまま広い駐車場のある大型のショッピングセンターに運び込まれて、ベルトコンベアーに積み込まれた荷物よろしく画一化されたショッピングに勤しむ。機械化されたレジにカード決済、ここでは人間はシステムの一部でしかない。人が人に物を売っていた時代は遠い過去であったのだろうか。

幼い頃に母と行った市場には、人の匂いがあった。市場は、この煙草屋の真向かいにあった。それぞれの売り場に売る人がいて、客と話していた。市場には会話が満ちていた。世間話があり、愚痴があり、自慢話があり、そして商品についてのやり取りがあった。その市場は高層マンションになっている。無機質の外装が夕暮れの日を浴びて鈍く光る。ガラス窓を通して私の目を射った。射られた私は、睡魔に襲われた。

中学生の頃に夕焼けに背を向けて帰宅すると、紅く染まったガラス窓の中に母がいたものだ。手術後の母は髪を刈られ、額の上に真一文字に切開跡が残り、そこに生々しく紅い血がこびりついていた。その紅と夕日の紅は違う色だった。どちらも漠然としていて定かではないが、二つの色が明らかに異なっていたのは確かだった。

 共通するのは、母の唇の紅さ。化粧していなくても母の唇は紅かった。例え夕陽に照らされようと、血にまみれようと唇だけは己を主張していた。

 いつしか夢と現実の区別がつかなくなったときだった。煙草屋の前に一人の女性がやってきた。母に似た女性だったが、母ではない。母ではない、母であるはずがない、たぶん母ではない、母の若い頃に似ているが。女は手の甲で、こつんとガラス窓を叩いた。無意識に私が窓を開けると、女は指で下を指した。ガラス窓の下は小さな小さな小さなショウウィンドウだ。煙草のから箱が並べられている。から箱を使って作った小さな傘も飾られていた。誰が作ったのか知らない。女の指差したところに新聞紙に包まれた四角い箱のようなものが二つあった。歯磨き粉の箱みたいな大きさだった。私は無意識に一つを取ると女に手渡した。女は反対の手で千円札を差し出した。

「残りは次に取りにきます」女の紅い唇が動くと再び光が目に飛び込んできた。温もりが感じられた。そして白い眠りが訪れた。

 母と店に来た女に共通する紅い唇を脳裏に並べた時に、遥かな背景として荒涼の大地を感じた。風は吹いていない。朝靄とも夕靄とも区別がつかない霞が脳味噌の毛細血管の隅々まで拡散していく。闇のとばりが寒気さを運んできた。暦の上では春を迎えていたが、肌は冬を感じていた。街灯の白い光が差し込んでいた。ガラス窓に疲れた私の顔がある。空中に浮かんだイコンのように厳かにも見えたが、成仏できない浮遊霊のほうが近いかもしれない。死後の世界なるものがあり、霊魂が存在すると、私のまわりには何人もの霊が漂っているのだろう。人間の欲望はなくなったとしても霊には霊の欲望があるはずだ。死後の世界がないとすれば霊はなく、欲望もない。私の欲望は何だろうか。食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、もちろん金銭欲もある。金なんて手段でしかないのに。人が作った欲望の代替品。具体的な欲望を思いつくことができない者のために合理主義者が考えついた。その合理主義者は、幼い頃に手品師になりたかった。ただの印刷された紙切れや金属の塊に欲望の芽を封じ込めることに成功したのだからサーカスの手品師になるよりはよかったのではないだろうか。例えば千円という紙幣は千円以上の価値のある浪漫と引き換えることができると信じている楽観主義者が世界に何人いるのか。ひとりいた。私だ。

 私の手には千円札が握り締められていた。汗染みがついている。女が来たことは現実ではなかったような気がした。あれは確実な夢だ、千円札は居眠りする前から握っていたのだ、と思い込もうとした。

 下を見ると新聞紙に包まれた四角い箱がひとつあった。二つあったのは夢だったのか。最初からひとつだけだったのか。箱を手に取る。意外に軽い。振るとかさかさと中で何かが動いた。置いても動いている感じがする。気のせいだろうと再び持ち上げてみると明らかに箱の中で何物かが動いている。恐る恐るというよりも自らの感情を感じぬままに箱を開けた。新聞は新しいものだった。母が亡くなる直前の日付だった。箱は朱色の厚紙でできていた。開けるとトカゲが出てきた。かなり弱っているように見えた。それは気のせいだったかもしれない。トカゲではなくヤモリらしい。玄妙な黒いヤモリだ。影が実体になったかのような不思議な色だ。十センチにも満たない身体には小さな指や尾があり、顔には目鼻がついている。息をしていた。箱に閉じ込められていたにも関わらずこうして生きていることが、遠い昔の世界の出来事のように感じられた。

 「残りは次に取りにきます」と言っていた女の言葉が思い出された。

ようやく手を伸ばしてヤモリを捕まえた。そのまま先ほどの箱に戻した。すべては箱に入れれば元に戻ることができるかというように。

静寂と闇。夢ではない現実がそこにはあった。電灯をつければ新しい何かが始まると期待したが何も変わらない。明るくなったぶんだけ静寂が増した。奥の畳の間に行くと仏壇前の母の遺影が微笑んでいた。その微笑みが確信を持って見つめていた先にはプラスチック製の金魚鉢があった。手にしていた箱の蓋を開けてヤモリを鉢に移した。それが母の遺志であるかのように。

 居場所を見つけたヤモリは微笑んだ。それは父の顔だった。ヤモリは父だった。高齢のために母が世話しきれなくて老人施設に預けた父の笑顔がそこにはあった。

 わかった。もうひとつの箱、女が千円払って買っていった箱には、母が入っていたのだろう。ヤモリの姿をした母が入っていたのだ。まちがいない。どうして母を渡してしまったのだろう。悔やんでも今では遅い。二度と戻らないだろう。あの女は、父のヤモリが入っていた箱を取りに来ると言っていた。その時に母の箱を返してもらおう。父の顔を持ったヤモリは、どうしようか。父は、まだ老人施設にいる、母の死も知らずに。認知症が進み始めている父にショックを与えるのが心配だったので知らせていない。父にとっては何が起ころうと現状が変わるわけではないが。金魚鉢の中の父の顔はすべてを受け入れるだろう。

嬉しいことも悲しいことも忘却の海の中に流れていく。金魚鉢一杯だけの海であっても海と名のつくものは広く、深いものだ。父の人生にまつわる様々な事象を忘れても、妻と息子の名前だけは忘れていないようだった。たまに老人施設へ訪ねていくと母について聞いてくるので、母は、腰が痛くて来れない、風邪をひいた、町内会の集まりがあるなどと思いつく限りの嘘を並べた。

 「そうか」と一言だけで追及は終わるが、それでも「町内会の集まりは先週もあったんじゃないか」とこちらが忘れていたような辻褄の綻びを指摘してくることがあった。完璧な嘘がつけない未熟な自分を感じる。いつになったら私は平然と完璧な嘘をいうことができる完璧な大人になることができるのだろうか。

 明日になったら母の箱を持っていった女がやってくる気がした。千円札を返して箱を取り戻そう。

 安心すると睡魔が襲ってきた。炬燵の中でうつろみながら、あの女は、若い頃の母だったのではないかという疑惑が沸き起こった。顔は思い出せないが唇の紅さだけが記憶に残っていた。明日が今日でないように過去の日は、なかったはずの一日かも。

 今は夢の中だろうか。

 夢から目覚めたらまだ夢の中だったり、夢とわかっていながら夢を楽しんでいたりとか夢の二重構造ともいうべき状態を体験したことはないだろうか。私は、よくある。これは、最近見た夢の中の夢の話だろう。困るのは、どこまでが夢で、どれが現実であるのかわからないことだ。

 炬燵でうたた寝している私の背中を、ヤモリが見ている。

 明日花屋へ行こう。白いカーネーションを買おう。今度の日曜に。母の日ではないけど。


 台所から母が言った、気がした。

「そんなところで寝ると風邪をひくわよ」

                                     終


 炬燵でうたた寝している私の背中を、ヤモリが見ている。

 明日花屋へ行こう。白いカーネーションを買おう。今度の日曜に。母の日ではないけど。


 台所から母が言った、気がした。

「そんなところで寝ると風邪をひくわよ」


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― 新着の感想 ―
[良い点] 内田百閒の「冥途」に似る。 いいと思う。父、母への鎮魂のような。
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