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第4章 俺はあの子を傷つけた

俺の人生はゴミみたいなもんだった。


五年前、人生最大の挫折を味わった俺は、そのたった一度の挫折で全てを捨てた。


別に後悔はしてない。むしろ、逆に自分を見つめ直すことが出来たと感謝出来る部分もあった。


……だが、五年はやっぱ長かった。


社交的に振舞うことすら、もう忘れていた。


人との付き合いを捨てた俺は、今更それを学ぼうとも思わないし、俺としても人とはもう付き合いたくもないと部屋に閉じこもった。


せいぜいPCのモニター越しにチャットやVCする程度で満足だった。


――でも、彼女と出会ってそれは違うってことに気づいた。


いや、気づかせてくれた。だ。それくらい、簡単なことだったんだ。


学ぼうとしないのも、避けていたのも、出来無いと思い込んでいたのも全部自分だ。


何年他人と接していまいが、結局俺も人間で、人と付き合うなんて考えなくても相手がそうさせてくれるし、それに合わせられる自分もちゃんと居た。


……もし、受験に失敗したあの日、誰かが、誰かしらがまだ俺に「頑張れ、来年がある」なんて言ってくれたら、俺の人生変わってたかもしれない。


……ま、今となってはどうでもいいんだけどさ。


彼女――アイリスが自分の世界に帰ってもう小一時間が経つ。


俺はいつも通りに、家に一人だ。


寂しく思ってしまうなんてことはない。


まぁ、すぐ会えるからね。


朝一番でアイリスは国に戻り、異世界に渡った結果を報告する。


今頃はきっと、向こうの国では大歓声が起こっているかもしれない。


そう思うと胃が痛い。


なにせ、結局は援軍なんて送れないんだからな……。


アイリスは俺のことかなり過大評価している様子だったし(まぁ、嫌われないようにするだけだったんだが)アイリスが向こうでどんな話をしているかなんてわかるはずもない……けど……。


……死なないよな? 俺。


再び最悪の結果が脳裏を過ぎり、頭が痛くなってソファーに倒れこむ。


異世界……どんなところだろうか。


この世界に驚いていたくらいだし、失礼だけど文明の発達はそこまでに達していないのは想像がつく。


けど、魔法が存在する。


俺たちの世界にそんな非科学的な代物は存在しない。


ある意味では俺たちより優れているとも言える。


なにせ、戦闘に参加出来るほどの魔法があるという事実があるからだ。


もちろん、この世界には核、水素、原子等様々な大量殺戮兵器がある。


だが、それには及ばないとしてもTNTやプラスチック爆弾並の威力を一人一人が扱えるとなれば、暴走したらそれこそ国自体が危ない。


そんな爆弾を何万人も抱えている国をまとめあげるには、相当たる人物がいないと無理なんじゃないだろうか?


アイリスの親父さんか……。


残虐無慈悲なお方だったらどうしようか。


「我が娘、アイリスとひとつ屋根の下、男と女二人だけで二日を過ごしただと? 貴様! 打ち首にしてくれるわ!」


ぐふぅ。ソファーに顔を埋めて、吐血しそうになる。


胃がキリキリしてきた。……胃薬は持っていこう。うん。


横目で時計を見てやると、そろそろ約束の時間だ。


正直、行きたくない。


だって、どっちみち俺には世界や国なんて規格外を救うとか無理だし! 逃げたいよ! マジで!


オマケに女の子の裸に触れないってわかっちゃったし! 酷すぎるわホント!


はぁー。と深く溜め息を吐き、自分の部屋に向かうべく重い足を持ち上げた。


自室に入ると、深呼吸する。


ああ、この空気が美味い。


自分の家に帰ってきた感じがなんとも言えない。


家の中でも特別な俺の居場所だ。


こらそこ。居場所がそこしかないくせにとか言わない。


なんて自虐的になりつつ、部屋の片隅にあるクローゼットを開ける。


クローゼットの中はゲームのパッケージが幾重にも積み重なっており、まるで壁さながらに絶妙なバランスで積み上がっている。


目的の品は、この奥に埋もれているはずなので、崩さないようにどけようとするも……。


ガッッシャーン!


……案の定盛大に手前へと全部崩れ、両足がパッケージの波に埋もれる。


軽く溜め息を吐き、波の残骸を無造作にかき分けて目的の品がある衣装ケースを見つける。


一番上のケースを引き開けると、ほのかに香る防虫剤の匂いの中に、きっちりと折りたたまれたスーツ一式があった。


親父が着ていたお古をもらった物だが、ほつれもなく新品同様だ。


今日行くときには、これを着ていこうかなと密かに思っていた。


こっちの世界のフォーマル的な衣装なら変に思われないかなと考えた末の結果だ。


……まぁ、実際は着ていく服の普段着が使い古したシャツやジャージくらいしか見当たらなかったとは言えない。


それらを引っ張り出し、不慣れながらも鏡の前でネクタイを締めて整える。


生まれ変わったなんて大げさなセリフを使いそうになるくらい、なんだか少し、気が締まる。


……本当なら合格して、大学初日にこういう気持ちになるはずだったのかな。


……今更センチになってもしようがないと肩をすくめ、リビングへと向かい、そのときを待つ。


リビングでは、中央を陣取っているテーブルを片付けて、少し空間を確保してある。


ゲートと呼ばれる世界を繋ぐ空間が、ここに開くためだ。


今朝、アイリスが所定の時刻にこの中央に魔法陣を書いた紙を置き、そこを目印にアイリスの世界からゲートを開いてくれるらしい。


紙は既に床に置いてある。


いつでもゲートが開いていい状態だ。


視線を落とし、紙を見る。


目をつむり、脳内デスクトップを起動させる。


数あるフォルダにフィルタをかけ、アイリスフォルダを検索し、フォルダ内の動画『帰るまでのアイリス』を再生させる。


――床に紙を置いたアイリスが、俺の脳内に映る。


俺の方へと振り返ると、アイリスは言った。


(私はこれから自分の世界へと帰り、ユーリ様のこと、この世界のことをみんなに伝えます。ユーリ様、申し訳ありませんが、その後で御足労願えないでしょうか……?)


(わかった。いつぐらいになりそう?)


(説明自体にはさほど時間は掛からないとは思いますが、何分戦争中でして、理解や準備をするのに時間が掛かるかもしれませんので、二時間後ぐらいにゲートを開こうと思います)


そして、少し寂しげな表情を浮かべ、俺に床に置いた紙と同じものを渡す。


(では、行ってきます。必ず、来てくださいね)


(ああ、約束は守るよ)


こくりと頷くと、一変して笑顔になるアイリス。


その数秒後、空間が揺れるような錯覚が襲い、同時に床に置いた紙が青く燃え出す。


激しい地鳴りと共に空間が裂けていき、紙は跡形もなく燃えるとその場所に大きな魔法陣が出現する。


アイリスは、少しためらう素振りを見せ、俺を一度見てから手を振り、魔法陣の中へと消えていった……。


――脳内PCの電源を切る。


これから俺もアイリスと同じく、魔法陣の中に入る。


……ぶっちゃけるとマジで怖い。


某RPGなんかにある旅の扉の様に、入ったら視界がぐにゃぐにゃになって目的地までスパゲッティ現象を拝まなきゃいけなくなるのかと妄想を働かせるだけで、嘔吐する自信があるぞ。


ただでさえ、緊張で胃がキリキリしてるってのに、ゲートの中が吐血まみれになっても知らないぞ!?


あぁ……動悸がしてきた……。


向こうの世界に行ったら、支援は出来無いとお偉いさん方や市民の皆様にプレゼンしなきゃならないし、失敗して下手なことになったら俺を人質に俺の世界へ交渉に来るかもしれないし、ゲートとかいう未知な扉を潜ってぐにょんぐにょんになるのかもしれないし、……なによりアイリスの悲しむ顔を見なくちゃならないんだ……。


五年もニートやってた俺にこんな重すぎる責任背負いきれるわけ無いいっての……。


ああああああぁ……。胃薬飲んど――。


ボワッ!


「うひょぉっ!!」


突然床に置いてある魔法陣を書いた紙が青く燃える。


唐突だったので、手に持っていた粉末胃薬をひと袋床にぶちまけてしまった。


無論掃除等させる余裕などあるわけなく、間髪入れずに等身大の魔法陣が紙の頭上に現れ、紙が跡形もなく燃え尽きる。


さて……。


行かなきゃいけないんだよね。うん。


わかってるさ、わかってるよ?


あ、でもちょっとだけ深呼吸させてくれないかなー?


すーはーすーはーすーはっ――。


ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!


なんだか地鳴りが酷くなってきたな。


ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!


早く行けと言わんばかりに急激に激しさを増した地鳴りが俺を襲う。


局地的豪雨ならぬ、局地的な大地震が起きたかのように、家全体が激しく揺れ、立っていられなくなるくらい威力を増していく。


家のあちこちでなにか物が倒れたり落ちたりする音がけたたましく響いてくる。


「ぎゃああああああああ!! 行きます! 行きますからあああああああああああああああ!!」


観念した俺は、悲鳴にも似た叫びと共に、魔法陣へと飛び込んでゆくのだった――。



☆★☆



悠里は流れゆく空間に身を任せ、その時を待っていた。


魔法陣――ゲートの中に飛び込んだ悠里は、おもむろに、怖々と目を開ける。


「うわ……」


眼前に広がる光景に、口をぽかんと開ける。


ゲート内の空間は、高速にも似た光の粒子が細かく、そして長く早く流れている。


体の感覚はあるが、思うように動かすことが出来ず、悠里は違和感を覚える。


まるで、宇宙を高速飛行している錯覚に近いゲート内で、悠里は視線を奥の奥まで凝らし、その先に確かにある大きな光の塊を見つける。


直感で、あれが出口だと感じた悠里は、その光へとただ、流れていった。


…。

……。

………。


ゲート内で、空間に流された悠里は、果てにある光へと吸い込まれる。


そして――。


「こ……ここは……」


眩い光に包まれたかと思うと、一気に視界が開ける。


そこは、広々とした空間の中央だった。


石造り調の内装はとても厳かで、天井はドーム状になっており、そこから巨大なシャンデリアが吊るされて、何百本というロウソクに明かりを灯して、空間を明るくしている。


周りには、独特な衣装に身を包んだ人々が数百人規模、悠里を囲うようにして円陣を組んでいる。


「ユーリ様!」


聴き慣れた声が耳に入り、悠里はそちらへと顔を向ける。


周囲の人がそこだけ道を作るようにして、避けて開けた先に、アイリスと、隣に一人、壮年の男性が並んでいる。


アイリスは悠里と出会った当初と同じ格好をしており、隣に歩く壮年の男性は、いかにもな威厳ある貫禄にしっくりくる衣装を身にまとい、悠里の元へと歩いてくる。


しっかとした足取りで悠里の前まで赴くと、それが合図のように、周囲にいる人々は膝をつく。


「ユーリ様、また……会えましたね」


「え……えぇ、また会うことが出来て光栄です」


「ふふっ、そんなに固くならなくても結構ですよ。あ、私の隣にいるのが――」


「――ギリアム・アーケンシュッツだ。我が娘から話は伺っている。遠い異世界からよく来てくれた」


「私のお父様です」


何故か誇らしげに胸を張るアイリスと、威厳に威圧感を混ぜた視線を送るギリアムに、悠里は複雑な心境になったが、ひと呼吸置き、跪いて返事をする。


「お初にお目にかかり光栄ですギリアム公王陛下。俺は碧海悠里と言います。この度の貴国への災厄、心中お察しします」


建て前なしに敬意を払って挨拶する。


――と。


「ゆ、ユーリ様っ、そんなに畏まらなくても大丈夫ですよっ。私のお父様は、確かに公王ですけれど、そんなに偉いという程では――痛っ!」


ギリアム公王がアイリスの頭に手刀を一発かます。


「これ、公王が偉くないとはよく言えたな。……して、ユーリ殿、でよろしいか? 遠い異世界の彼方からよくぞ参った。客人が膝をつく必要はない。むしろ、こちらが膝をつかねばならぬ。さあ、掴まりなさい」


おもむろに手を伸ばしてきたギリアムに、悠里は困惑する。


おずおずと手を掴み、握手の形になると、そのまま引っ張られ、立ち上がらせられる。


「ふむ。髪は少々長いが、なに。中々な顔立ちではないか。娘が気に入るのも無理はないな」


「おっ、おおおおおおおおお父様!? 何を言ってるんですかっ!!」


「ふむ? お前は帰ってくるなりユーリ様はユーリ様はと始終話しておったではないか」


「そっ! そそそそそういうことは本人の前では言わないで下さいいいいいいいいいいっ!!」


はっはっはっと笑うギリアムの胸を、顔を真っ赤にしながらぽかぽか叩くアイリスは、どこでにでもいそうな幸せな親子という印象だ。


(いや……一国の王とその娘が公然とすることじゃないと思うんだけど……)


悠里が思った通り、常識的に考えてもこの行為はおかしい。


一見はただの親子に見えるが、その実は公王とその娘だ。


大衆の前で、仲睦まじく喧嘩する総理大臣は普通はいない。


周囲を取り囲んでいる人々も、微笑んで見ている者や、呆れた様子で肩を竦ませている者までいる。


すっかり毒気を抜かれてしまい、悠里は思わず微笑する。


「さて、ユーリ殿。遠路はるばるそちらの世界の話でもといきたいところだが、こちらの世界の事情は既にお分かりか?」


「はい。異形の者が攻め込もうとしている。までは」


「うむ。その通りだ。さて、立ち話で語れる程安い話ではない。こちらへ参ろうか。ついてきなさい。アイリス、お前はアイサを手伝ってきなさい」


「分かりましたお父様。……ユーリ様、またあとで」


軽く会釈をするアイリスに、悠里もそれに倣って返す。


アイリスは足早に駆けていき、奥へと消えていく。


それを見届けた後、ギリアムは「こちらだ」と悠里を促し、アイリスが消えていった方向へ歩き始める。その間にも、ギリアムは話を続ける。


「……ここにいる兵士たちはみな魔法兵だ。数にして五百人程だが、我が魔法兵総数の四分の一程度。半分は他国へ派兵しておるが、残る兵力でゲートの生成と民の避難誘導を指揮しておる。言いたくはないが、我が国は魔法兵が基礎的な軍事力だ。基盤が四分の一となれば、もはやこの国に勝ち目などあるわけがない。だが……」


出口を潜ったところで、ギリアム公王は顔に暗い影を落とし、立ち止まる。


よく見れば、疲労困憊といった様子で、目の下には隈が、頬が少しこけている。


あまり休養を取っていない証拠だ。


だが、国の一大事に体を休ませてはいられないのだろう、ギリアム公王は、悠里を横目で見てから、前を見据え、歩き始める。


「だが、ユーリ殿。貴殿に会えて心から感謝しておるよ。まだ、神は我らを、見捨ててはおらなんだとな」


ギリアム公王の目に、確かな希望の光を悠里は見た。


その希望とは裏腹に、悠里の心は引き裂かれる思いが渦巻いている。


無論、言うまでもないが、希望である自分は単なる一般人に過ぎず、この国を救うことなど出来やしないからだ。


部屋につくまでの道中、ギリアム公王の会話は、悠里の耳にはあまり届いてはいなかった。





「……さて、皆の者よろしいか?」


会議室さながらの部屋に、ギリアム公王の声が響く。


部屋の中央に置かれた長方形の机に陣を描くように座っているのは、恐らくこの国の大臣や幹部といった重鎮たちなのだろう。それぞれに貫禄がある者たちがギリアム公王の言葉に頷く。


ギリアム公王と悠里は、その上座に並んで座っている。


「よろしい。……さて、皆の者、こちらが異世界より来られたしユーリ殿だ」


「……碧海悠里と言います。性が碧海、名が悠里になります。以後、よろしくお願いします」


「さあ、本題に入ろうではないか。前日行った会議の結果に、皆は異論あるまいな?」


この言葉に、みな頷く。


悠里の緊張はさらに高まり、心臓がはち切れんばかりに鼓動を鳴らしている。


「……ユーリ殿、まずは聞きたい。貴殿の世界から、援軍を派兵してくれるのだろうか?」


悠里の呼吸が一瞬止まる。


どっと汗が噴き出し、手に力が入る。


皆が皆、悠里を真剣な眼差しで見つめる。その視線に、悠里は卒倒しそうになるが、ぐっとこらえ、脳内思考を巡らせるも、結果は言わざる負えない状況にあるとしか判断してくれない。


数秒の間が空き、喉が詰まりそうになりながらも、悠里は口を開く。


「……申し訳ありません。俺の世界から援軍を派兵することは出来ません。本当に申し訳ありません」


しん。と静まり返る部屋。


大臣たちは、絶望な表情を浮かべ、涙ぐむ者までいる。


悠里はそれを見て、唇を噛んだ。


ギリアム公王は、それを聞くと悠里の肩に手を置く。


「……貴殿が落ち込むことはない。はなから、無理な相談……いや、援軍を呼ぶこと自体不可能なのだからな」


「え?」


悠里は耳を疑った。


援軍を呼ぶのが不可能。そうギリアム公王が言ったからだ。


ではなぜ、アイリスを異世界に行かせる必要があったのか。


ギリアム公王は口を開く。


「我が娘には隠しておったのだが、異世界へと渡るあの魔法は、一回に人一人が渡るのがやっとなのだ。仮に貴殿の国から万の軍勢を派兵してもらおうにも、我が魔法兵が圧倒的に足りぬ。渡れてあと五回が限度なのだよ」


「そ、そんな!」


ギリアム公王の言葉に、悠里は声を上げる。


「じゃあなぜアイリ――公女様を俺の世界に渡らせたんですか!? 死ぬ危険もあったというのに!」


「死にはしないのだよ」


「……え?」


「死にはせん。元々そういう魔法なのだ。娘には嘘をついてしまったがな。……驚くのも無理はなかろう。前回の会議で全て、皆と相談して決めたことなのだ。これから説明しよう」


ギリアム公王は深く息を吐くと、悠里の目を見て語る。


その内容に、悠里はただただ聞き入るしかなかった。


――事の始まりはアイリスが書庫奥にある聖域から持ってきた神の遺産だ。


それこそ、異世界へと渡るための魔法書だった。


アイリスはそれに関する何代も前の先王が記した見聞録も見つけ出し、ギリアム公王に打診した。


ギリアム公王は、長らくこの代物の存在を忘れており、アイリスが聖域に入った事に怒りもしたが、希望を持ってきてくれた娘が誇らしかった。


……だが、都合よくとはいかなかった。


見聞録には、異世界渡りには死ぬ危険があると書かれていたが、ギリアム公王はこれをよしとせず、この魔法に関する書記が他にないかと書庫をくまなく調べ、一つの手記を発見する。


異世界へ渡る魔法に関する詳細が書かれたぼろぼろの手帳だった。


手帳の中身を見るなり、ギリアム公王の顔は青くなる。


『一度の魔法につき、人一人分の質量のみ転送可能』


絶望した。異世界へ渡れるとなると、救援を呼ぶ。という選択肢を垣間見ていたからだ。


それがもろくも崩れ、ギリアム公王は落胆した。


だが、手記にはまだ詳細があった。


異世界へ渡る際には、百人規模の魔力が必要なこと。


魔法陣を描くのに一日、転送は一つの魔法陣で三回が限度だということ。


転送先はその世界で魔力を宿した者の近くに転送されること。


転送した世界の座標は固定されるということ。


手記には見聞録とは違い、明白にこれらの事項が詳しく書かれていた。


そこで、一つの案が出る。


ギリアム公王は、これを持って会議を開く。


内容は――異世界を最終避難場所にすること。


この内容に大臣たちは驚き、気がふれたのかと大声を上げる。


しかし、異世界へと渡ることが出来るのならこれより安全な場所は他にないと次第に皆納得してゆく。


異世界がもし、危険な場所であったとしても現状と変わらぬとギリアム公王は言い放つと、これに反論する者はもういなかった。


既にこの時に敵軍が攻めてくる予想日数は五日を切っており、先に伸ばせはしないからだ。


そして、ギリアム公王は異世界がどのような場所なのかを視察する任に、アイリスを指定する。


これには大臣たちは猛反対した。


危険すぎる任をわざわざ公女様にやらせる。それでも親なのですかとギリアム公王に罵声を浴びせる大臣もいた。


だが、ギリアム公王は譲らなかった。


仮に、優秀な兵士を送るとし、その兵士が戻らなかった場合や、連絡が途絶えた場合を想定した時、猶予もなければ魔法兵も足りないこの状況下でそれはこの案自体の根底を崩しかねなかったからだ。


魔法兵が異世界先で死亡した、そのまま逃走した、不備があり帰れない。では困るのだとギリアム公王は言う。


これに反論する者はいなかった。


では、なぜアイリスなのか。


アイリスは神に祝福された特別な能力の持ち主だったからだ。


その能力は、精霊魔法と呼ばれる固有魔法で、この世界にはたった数人しかいない特別な能力だ。


精霊魔法にも様々あるが、アイリスの精霊魔法は精霊との意思疎通が主で、対象精霊の過去の歴史を見ることも出来る。


また、精霊間には精霊言語というものが存在しており、精霊自身が住んでいる言語とは別に、精霊間同士が意思疎通出来る思いにも似ている言語が存在する。アイリスはこの言語も話すことができる。


精霊の歴史の全てを見ることが出来るアイリスは、遠く離れた地の違う言葉を話す人でも、その土地の精霊から歴史を得ることで、知らない言葉でも翻訳することが可能になる。


これを利用すれば、例え異世界に行ったとして意思疎通の問題が生じたとしても、異世界にも精霊が存在すれば言葉を交わすことが可能になる。


この点に置いても、アイリスは特筆している。


ついで、アイリスが起用された要因として挙げられたのは、保有魔力量だ。


一般的な魔法兵の魔力保有量が十だとすれば、アイリスは百。


つまり、魔法兵十人分の魔力を保有していることになる。


保有魔力が多ければ、もしもの時にはある程度対応しても魔力に余裕があるのと、異世界へと渡ること自体が魔法なので、渡る本人にもある程度の魔力消費がある分、保有魔力が多いアイリスなら十分余力を残せるとして、この点も要因に挙がる。


最後に、公女としての立場だ。


異世界で通用するかしないかを別にして、公女としての立場であるなら、交渉する時のアドバンテージになるからだ。


最終避難場所として確保出来るなら良し、更には一騎当千の人材、兵器があり、援軍として呼べるなら尚良しとし、総合的に考えた末に、やはりアイリスが適任という事で会議はまとまった。


そこでまず、アイリスには救援を求めるためと言い、避難場所として確保するためとは言わず、死ぬ危険もあると説明する。


避難場所してと言えば、そのまま逃げてしまう可能性があるからとの判断で、死ぬ危険があると言うのは、国を救う為に死ぬ危険がある異世界へと渡れる覚悟を見る為だ。


アイリスは、迷うことなく異世界を渡ることを決意する。


反対気味だった大臣も、アイリスの決意を見るなり、涙し、ギリアム公王に謝罪したという。


アイリスは公女としての立場を十二分に理解しており、国を救うためなら命も厭わない覚悟で望んでいると、大臣たちは満場一致でこの案を可決。


後は流れるように全ての準備が滞りなく進められ、現在に至る。


ギリアム公王は、長い説明を終えると、一息ついて、悠里に頭を下げる。


「ユーリ殿、どうか、どうか我が国の未来を貴殿の世界へ避難させてはくれまいか? 礼ならいくらでもしよう、頭ならいくらでも下げよう、どうか……」


大臣たちも、倣うようにして頭を深々と下げる。


悠里は、固まった。


アイリスが悠里の世界に来た経緯は、アイリス自身から聞かされ、援軍を呼ぶためだとしか言われていなかったところに、避難場所として異世界の住民を匿うためだったという事実を受け入れ切れていなかった。


(アイリスは、アイリスは本気で援軍を呼ぶ気でいたんだ。なのに、本当は避難場所としての視察目的だったなんて……いくらなんでも酷過ぎやしないか?)


悠里は頭を垂れるギリアム公王を見る。


(でも、俺も結局は支援をすると言ったのに、出来ずにアイリスを裏切った。酷いのは俺も同じだ。それが、元々出来はしないとしても、俺自身にはこの世界を救う術も元々なかった。なら、せめて……)


「ギリアム公王様、承知しました。その件、責任を持って受けさせて頂きます」


「おお、おお……! ユーリ殿、受けてくれるか。感謝してもしきれん……! これで我が娘の事で気に病む必要もなくなった。感謝する」


「公女様の事で、ですか?」


「うむ……。既に避難する人選は済んでおる。猶予もないので、な。避難出来るとしても、四人くらいが限度であろう……。その中には娘、アイリスも入っておる。この国の次期公王はアイリスだからな。ここで死なせるわけにはいくまい」


「そうですか……公王様ももちろん、避難されるのですよね?」


「我がか? 馬鹿を申せ、我は避難などせん。この国は我が王だ。見捨てるわけにはいかん。言ったであろう? 未来を避難させるのだと」


「あ……」


悠里はそこで理解する。


アイリスになぜ偽ってまで異世界へ送ったのかが。


もし、避難場所として異世界へ視察させたとあれば、それこそ今と同じことをアイリスが言っただろう。


アイリスの優しさは知っている。


きっとアイリスは、避難出来るとわかったら、真っ先にギリアム公王を避難させようとするだろう。


娘を避難させるには、こうするしかなかったという表情で、ギリアム公王は目を伏せた。


「……もちろん、我が娘だけでない。本当ならば、我が国の民や、ここにいる全員を連れて避難させたい。だが、魔法兵の人数も限られておるこの状況で、苦渋の決断をせざるおえん。せめて、避難できぬ民の為に、我が国の為に、我が命でよければいくらでもさしだそうぞ。最後の最後まで、この国の公王として、この地で果てるつもりだ。我が身、我が国は滅びようとも、この国の未来への種はせめて空へと撒くのがせめてもの希望だ。ユーリ殿よ、貴殿が申し受けしてくれて心より感謝する。これで思い残すことはもうない。明日死のうとも、悔いは残らんて」


おもむろに見開いたその瞳には、熱い覚悟の炎が宿っていた。


大臣たちも、それぞれに覚悟の表情をして、ギリアム公王の後をついてくと誓っている様子だ。


悠里はその姿を見て、胸に熱いものが込み上げてくるのをぐっと堪え、起立してギリアム公王に一礼をする。


「……そんな、お父様」


その扉の向こうで、トレーにお茶を乗せたアイリスがいるとも知らずに。





ギリアム公王が居城している城の一階にある給仕室では、使用人の女性が大勢右往左往している。


給仕室横にある食堂では豪華な飾り付けに勤しむ使用人がこれまた右往左往している。


「この燭台を各配置に置きなさい、火をつけるのは食事をする直前に。そこ、シャンデリアにはもう火を入れてなさい、火がない箇所がないように注意しなさい」


忙しなく動く使用人たちを指揮するようにしている一人の女性が居る。


長く背中まで掛かるストレートな髪と、キリッと整った顔立ちが特徴的な若い女性だ。


手にはボードに紙を挟んだ物を持ち歩き、紙と現場を交互に見ながら的確な指示を出している。


軽いやり残しもないように、目を光らせている。


本来ならば、彼女はこの役目を果たす人物ではない。


異形の者が攻め込んでいる中で、ほとんどの女中や雇用者は隣国や故郷などに避難している。


場内の人数はごく限られた人数で回しているため、働いている人たちは必死で仕事をこなしている。


彼女もまた、的確に指示を出しながらも、自分の手で出来る範囲のことはきちんとこなし、広い場内を早足で駆け回っている。


――と。


「アイサ……」


アイサと呼ばれ、彼女は振り返る。


「お嬢様、お疲れ様でした。会議の方、どうでしたか?」


「…………」


「お嬢様?」


「アイサ、どうしよう……私、なんてことを……」


「……こちらへ行きましょう」


近くにいる使用人に、ボートと紙を渡し「代わりにお願い」とだけ言い、困惑する使用人を尻目に、狼狽するアイリスを自室へと付き添い歩く。


アイサはアイリスをベッドへ腰掛けさせ、アイサもその隣に座る。


アイリスの様子はただ事ではない様子で、腕を抱え込んで震えていた。


(……会議で何かあったのかもしれない。アイリスを手伝いの方に回したくらいだから)


「……お嬢様、何を聞いてしまったのかは知りませんが、そこまで思いつめてしまう内容でしたら、私にも話してください。一人で抱え込んではいけません」


アイサは淡々と述べる。


聞かないという選択肢を選ばなかったのも、アイリスが人一倍責任感が強く、なんでも一人で抱え込んでしまう癖を知っている為だった。


アイサのその言葉に促されるように、アイリスはおもむろに口を開く。


「……異世界に渡ったのは、避難場所を確保する為だって……お父様が……」


「…………」


「アイサも知ってるでしょう? 異世界に渡るには、百数人の魔力がないと起動しないの。魔法を使える人は、ほとんどもういないの。だから、あと数人だけしかユーリ様の世界へ渡ることが出来無いって言ってて……私っ」


堰を切った様に、アイリスは叫ぶ。


「私がその中の一人なんだってっ……! お父様は、私に生きて――キュアノエイデス公国の公女として生きていて欲しいって……でも、でもっ、私はみんなを見捨てて自分だけ助かろうだなんて思ってない! お父様も、自分は国の為に最後まで残るって! 私も、私もお父様の娘なのだから、残ろうって……最後まで残って、この国とずっと一緒にいるって思ってた、なのに……っ!」


気が付けば、アイリスの目から止めどなく涙が溢れ、最後は嗚咽と共にうずくまった。


(そんなことが……! しかし、現実を見据えれば、それが妥当なのかもしれない)


冷静に、淡々と状況を整理し、理解に努めるアイサはそっと、泣きじゃくるアイリスの背中を摩るのだった。



☆★☆



俺がアイリスのいる世界に来て、今ほど悩んだことはない。


アイリスの親父さん――ギリアム公王は、俺にアイリスと数名を俺の世界に避難させたいと言ってきた。


俺にはそれくらいしか出来ることはないと、快く――とはいかないものの、承諾した。


ニートな俺に、数名分を養うだけの度量も器量もあるわけないが、この申し出を受けなければアイリスはきっと災禍に巻き込まれ命を落としてしまう危険がある。


だけれど、いいのだろうか。


案内された客室で、天蓋付きのベッドに身を投げている俺は、天井をじっと見つめる。


会議は俺が避難を承諾してからも続いた。


ギリアム公王や、大臣たちの話を聞いて、この国の現状はかなり厳しい――いや、瀕しているといっても過言じゃないくらい酷いということが分かった。


国の民の避難誘導は始まって数日経つが、まだ残っている人もいれば、死に場所と決めている人もいるみたいだ。


兵士たちにも、避難できる人は避難するようにと勧告したみたいだが、結構な人数がまだ残っているらしい。


兵士たちに最後まで戦えと指示しないのは、明らかにこの国は滅びてしまうと分かっているからこその決断だ。


偵察兵も何人か派兵しているみたいだが、帰ってこないらしいし、最後に敵の軍隊を発見した地点からはまだかなり離れているみたいだが、気は抜けない状況だ。


進行速度的にはあと猶予は早くて二日持って三日と見ているみたいだ。


異世界へ渡れるのは魔法陣一個につき三人まで、魔法兵の数は五百人以下、今日で二百人程度使ったとして、魔力回復には最低二日かかるらしいから、もう何人も俺の世界へは避難出来やしない。


最高で五人くらいが限度だろう……。


五人送れば、魔法兵はほとんど戦力として加算出来無い。魔法が主力のこの世界で、それは死を意味している。


俺の考えでは、全ての人たちが隣国に避難するものだと思っていた。


だってそうだろう? 命が一番。だ。


でも、この国を想う人々には、そうしない理由がある。


ギリアム公王は、公王として国や民を見捨てずに残る。民もまた、公王や国を想うからこそ残る。


そんな印象を受けた。


勝てないとわかっていても、死ぬとわかっていても、それぞれに覚悟があって、最後の最後までキュアノエイデスの国民として生涯の幕を閉じる。


……のだろうか。


やっぱ俺にはよくわからない。


上体を起こして、ベッドから這い出ると、カーテンを開けて外を見る。


眼下には、立派な街並みが一望出来る。


よく中世のRPGなんかの首都みたいな作りで、上手くは言えないけど、とても綺麗だ。


テレビとかで外国の特集で見たロンドンの町並みに似ている。


所々、煙突から煙が立ち上っているのが見受けられ、あの家にはまだ人がいるんだ。と実感させられる。


不意に。


この町並みは壊されたくない。


と思ってしまった。


なんでかはわからない。


俺の故郷なわけないし、確かに綺麗だけど、思い入れもなにもない。


だけど、なんだろうか。この気持ちは。


……俺に力があれば、こんな思いをせずに済んだんだろうか?


「止めよう……俺がなんにも出来やしないのは、いつものことじゃないか」


ぽつり呟き、軽く唇を噛んだところで。


コンコン。


ドアがノックされる音が室内に響くと、次いで「お食事の用意が出来ました。お支度が整い次第食堂までご案内致します」


と、ドア越しに女性の声が響く。


もうそんな時間なのか。


気づけば窓越しの景色は綺麗な夕焼け色に染まりつつある。


待たせるのは悪いと、俺はベッドに脱ぎ捨ててあった上着を手に取りドアへと急ぐ。


「すみません。今行きます」


軽く一声掛けてドアを開けると、いかにも女中と言わんばかりの衣装を身にまとった女性が凛と立っていた。


「では、参りましょう。こちらです」


「あ、はい」


腰までなびく綺麗な黒髪の女中は、踵を返すと長い廊下を黙々と歩いてゆく。


俺は腕に抱えた上着を着ながら彼女の後に続く。


これから公王やその大臣達と晩餐を共にすると考えると胃が痛くなってきた。


ただでさえニートな俺がここまで頑張れたのは、どっちかというと空想や妄想に近い世界で、三次元なんだけれどリアルに魔法とか異世界とかお城とか金髪公女様とか実在してて限りなく二次元に近い存在であったからこそなわけなんだが、この世界に来てから数時間立ってようやくリアルな現実だということが否応なしに認めざる負えないかった。


ここにいる人たちはもれなくCGなんかじゃなく、実際に俺の世界にいる人となんら変わりない――いや、同じなんだ。


先の会談の最中に、公王とその側近の並々ならない気迫に当てられて、ああ、現実なんだなと今更ながら思う。


俺の目の前を歩いている、いかにもメイドのコスプレだと言える格好をしているこの女性もまた、この世界では正装なんだ。


ああ……認めれば認めるほどにこれから先の事を思うと胃が爆発しそうだ。


キリキリと胃を締め付ける痛みを堪えながらも俺は彼女の後に習って歩く。


迷路のように入り組んでいるこの城では、はぐれたらどうなるかはもう想像しやすいのは言うまでもない。


「こちらです」


彼女は不意に声をかけると、俺の顔を一度見やり、その先に視線を移す。


視線の先には、螺旋状に上へと続く階段があった。


食堂は一階じゃないのか?


俺の世界みたいに、蛇口ひねれば水が出てくる訳でもないんだから水場が近い一階なのが普通だと思っていたけれど……。


魔法が日常な世界だもんなぁ。


俺の世界の常識が当てはまるわけがないと決めつけ、無言で階段を登っていく女性の後に続く。


緩やかに続く螺旋階段を登っていくと、一つ。また一つと入口を通り過ぎてゆく。


不思議に思いながらも黙々と彼女の後についてゆく。


「こちらです」


ようやく立ち止まったと思ったら、見向きもせずに一言言い放つと、数えること三つ目の入口の中へ入っていった。


階段はそれより先が存在せず、つまりここがこの階段の最上階だ。


見失ったら大変な事になると、慌てて彼女を追う。


すると、いつの間にか廊下の先にあるドアの前で静かに立っていた。


慌てることもなさそうだと、俺は息を整えながら、流行る鼓動を抑えつつ歩く。


周りには等間隔で立てつけられたドアが無数に並び、ホテルの廊下を連想させる。


くっ、高校の時に行った修学旅行の苦い思い出が蘇るぜ……。


まぁ、そのホテルに比べたら廊下の幅なんか倍以上あるし、突き当たりは非常階段用の扉じゃなくて普通にドアだしなぁ。


とここで気づく。


彼女が立っているドアが他のドアと様相が違う。


まるで――そう。まるで豪華過ぎるというか、厳か的な印象の装飾が施されている。


晩餐会はその扉の向こうか……。今の俺には地獄へ続くドアにしか見えない。


足取りが重くなるも、立ち止まってどうなるわけでもないので、ものの数十秒で彼女が待つ扉の前までやって来た。


ああ、鼓動が早すぎて心臓がはちきれそうだ。


背中なんて冷や汗かきまくりでシャツが引っ付いてて気持ち悪すぎるし、笑いたくもないのに膝が笑ってやがる。


こういう時は深呼吸して落ち着くしかない!


深呼吸、深呼吸……ス――。


ガチャ。


ブッ――!!


俺の気持ちを全く察していない女中は、深呼吸のしの部分でドアを開け放つ。


一瞬だけ吸った空気を思いっきり吐き出した俺は、ドアが開いていくその様を見ていられなくなり、つい目を閉じてしまう。


「……なぜ目を瞑っているのですか? まぁ、それはそれでこちらとしても事が進みやすくて結構ですが」


ん? 女中が何か言ったが、え、事って? 何か俺目を瞑らなきゃいけない様な事されるの?


と、考える間もなく手が何かに握られる。


感触的と人物的に女中の手だろうか。


ついで握られた手を引っ張られ、あれよあれよと前へと強制的に進まされた。


「あの、え? 目は開けない方が……?」


「その方がこちらとしては都合がよろしいです」


「あ、はい――ぶへっ!?」


握られた手が思い切り引っ張られたと思ったら、足を引っ掛けられて前のめりで倒れこむ。


ドスッ!


「おっほ!?」


うつ伏せになった俺の背中に何かが思いっきりのしかかると、両腕を後ろに回されてロープでぐるんぐるんにされてゆく感触が……。


「え!? ちょっ、な、なにしてんですか!?」


閉じていた目を開いて首を後ろに回し、俺の背中に乗っている何か――女中の背中が見える。


その背中に向かって叫ぶも、しれっとして今度は両足がぐるんぐるん状態にされる。


それと同時に背中に当たっているのは恐らくも無い程分かりきっている彼女のお尻が柔らかいのなんのって!!


お陰様で俺、なんだかだんだん――。


気持ち悪くなってきた。


あっあっ……早く退いて……。縛ってもいいから、早くうううう!!


本来なら喜ぶべき行為。背中に女の子のお尻というおいしいシーンも、俺の女性恐怖症の前では美味しくもないシーンにすり替わる。


柔らかさは一級品だが、気持ち悪さも一級品。


筋骨隆々のマッチョマンが背中に乗って来て意外とお尻が柔らかかったという絵に差し替えてみれば俺の気持ちがわかるはずだ。


吐きたくなる衝動をなんとか堪えて、足の自由が利かなくなる程にキツく縛った女中はようやく俺の背中から降りる。


やっと……解放された……縛られといて解放も何もないが。


気持ち悪さを気合で払拭し、改めて彼女に顔を向ける。


「……俺をどうするつもりだ?」


「……そこから先は私からは言えません」


「それはどういう――っ?! アイリス……?」


「ユーリ様……」


女中の影から申し訳なさそうに顔をそっと出したアイリスに、思わず俺は目を剥いた。


「まさか、これアイリスが……?」


アイリスは俺の問いに、無言のまま頷く。


「どうして……」


「ユーリ様。私、会議室での事を聞いてしまったのです……」


「なっ……!」


会議室っていうと、俺と公王と側近達で話し合っていた、俺の世界へ数人のみ避難させる計画のことか!? だとしたら――!


「私……この国は大丈夫なのだろうと信じていました。危険な術で異世界へと渡り、助力してくださるユーリ様と出会え、神は我々を見捨てはしなかったのだと心から安堵しました。ですが、私が異世界へ行き、ユーリ様を手引きする事は、国を救う事ではなかったのですね……。お父様が正直そこまで先を読んでいたのには驚きました。そして、とても悲しかった。だってそうでしょう!? この国の未来がもう無いとお父様には分かっていたのだから!」


啖呵を切ったように大粒の涙を瞳に貯めて俺を睨むアイリス。


「私は悲しかった。私を騙して、知らない内に避難させようとしていたお父様の考えが。私はこの国の公女。この国の次期公王としての責任があります。民を見捨ててまで私は生きたくはありません。私もこの国と共にあるつもりですから」


「アイリス……」


「そして、ユーリ様。あなたをこのような事態に巻き込ませてしまい、本当に申し訳ありません。私の決心は揺らぎません。ですが、お父様や大臣達は絶対に納得しないでしょう。ですので、最終手段を取らせてもらいました」


「それが、俺を監禁するって事なのか?」


「……そこからは私が説明しよう」


「アイサ……」


アイサと呼ばれた長い黒髪の女中は、一歩前に出ると表情一つ変えずに淡々と語る。


「あなたを拉致した目的は、アイリスをこの世界で最後まで戦う事を認めてもらう為だ。その為にはまず、今回の計画の源である異世界の住人――つまり、アオミ様をこちら側に付ける必要がある」


「つまり、俺がいなければ異世界へは避難出来ないと?」


「……現実的に言えば、避難は可能だ。アオミ様の世界とは既に位置座標を固定してある故、条件が揃えばいつでも転送可能だ。例え異世界で言葉が通じなくとも、不審者扱いされようとも、生きているには違いはない」


「それだと、避難した人が暮らしていけない……」


「その通りだ。異世界で生活していく為には、異世界の橋渡しであるアオミ様が居て初めてなし得る。これ故にアオミ様がいなければ異世界は安全では無くなると判断せざる負えない」


「じゃあ、他の避難しようとしている人達も巻き込むのか?」


俺のこの言葉に、アイリスの顔が曇る。


酷な事を言ってしまったと少し後悔するが、つまりは俺を交渉材料にしてアイリスをこの世界に最後までいさせるのが目的らしい。


だが、もし交渉が長引けば他に決めている避難民をも巻き込みかねない危険を孕んでいる。


あのほんわかしたアイリスからは到底考えられない案だが、もしかしたら、このアイサという女性の案かもしれない。


アイサの方を見るが、彼女は至って表情を変えずに、ただ淡々と俺に言葉を投げる。


「そうだ。しかし、この件に関して公にするつもりはない。大事になれば混乱を生み、交渉が長引く可能性が高いからだ。そこで、晩餐会の前にアオミ様を拉致監禁した後、私自らが公王に耳打ちして直接交渉の場へと足を運んでもらう計画になっている。安心してほしい、アオミ様が帰れなくなるという心配は無い。公王様はとても聡明なお方だ。アイリスがここまで頑なな意思を持っていると分かれば、すぐにでも解放する」


「……分かった。おとなしくここで縛られてるよ」


「理解が早くて助かります。では、私はこれで」


一言言うと、アイサは部屋を出て行く。


なんだかとんでもない事になってきている気がするんだが……。


「あの、ユーリ様……痛くないですか?」


「え? あ、ああ。うん。そこまで痛くはないけど……解いてくれたら嬉しい」


「あ、ご、ごめんなさい……」


あの優しいアイリスなら、すぐに解いてもらえそうだと思っていたんだが……。


今回はかなり本気みたいだ。


俺を自由にしない所を見ると、アイサって人はかなりアイリスと信頼が厚いってことが分かる。


「あのさっきの女性なんだけど……ただの女中さんじゃないの?」


「アイサのことですか?」


「そうそう」


「アイサはこの国の近衛兵魔法団の副長なんです。今は人手が足りなくてお手伝いさん達のまとめ役をやっていますけど、本来ならお父様や大臣の護衛の任が主なお仕事なんですよ」


「そ、そんなに偉い人だったのか、あの人……」


通りで縄で縛るのが手馴れたご様子だと思ったよ。じゃなきゃSなのかと思っちゃった。


「ごめんなさいユーリ様。こんなことになってしまって……」


アイリスは俺の横に座り込むと、優しく手を握ってくる。


「俺の方こそごめん……結局力になれなくて」


本当のことを言えば、全て芝居で、アイリスを騙していた事まで全部喋って謝りたかった。


でも、それで本当に嫌われたらと思うと……。


「ユーリ様が気にすることはありませんよ。どの道、援軍は呼べないとお父様も仰っていましたし、僅かながらでもこの危機的状況から脱出出来る架橋になっていてくれて、私はそれだけで感謝しているんです」


うぐっ……! 心が痛い。


真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐな心で俺に感謝されると、本当に申し訳ないと思う。


こんなにも一生懸命で、国の為に自分の身まで削ってやっと俺のところに来たっていうのに、アイリスは最後の最後で、この国に残ってしまうのか……。


アイリスの親父さんが俺の世界を避難所にするっていう案を出して、その中にアイリスが含まれていると知った俺は、少し……いや、凄く嬉しかった。


俺の世界に来てくれたなら、これから先ずっと一緒にいられるんじゃないかって、ちょっとだけ期待したんだ。


国の事も、この世界の事全部を忘れて、俺の世界で幸せな生活を送って欲しい。俺がそれをサポート出来るんだと考えてしまって、内心舞い上がっていた。


でも、アイリスはやっぱりこの国に残る。


親父さんと一緒で、国の為、民の為に命を賭してここまでやって来たんだ。逆に故意に離れる方がおかしいか。


アイリスが残るなら、俺も残りたい。


これは本当の気持ちだ。


俺のしょっぼい人生をこれから先またあの世界で過ごさなきゃいけないくらいなら、アイリスの傍にずっと居て、別に恋人同士じゃなくても、死ぬなら同じ世界がいいな。と馬鹿みたいに考えてた。


それくらい、俺はアイリスが好きだ。片時も離れたくないし、ずっと笑顔で居てほしい。俺の隣に居てほしいし、出来れば恋人同士になりたい。


だが、俺にはやらなきゃいけない事がある。


親父さんに頼まれた以上、避難してくる人をなんとか俺の世界で生活させなきゃいけないし、それ自体が恐ろしく大変な事なのは十分に分かっている。


今から考えただけで、家族になんて言われるか……。


でも、やり遂げなければ俺がこの国に来た意味が無い。


親父さんが俺に託した、未来への種を守れるのは俺しかいないんだ。


今更どんな障害があろうと、俺はもう逃げないと決めた。


これだけは、絶対に譲らない。


でも……でも、出来ることなら――。


「アイリス……本当に俺の世界に避難しなくていいのか?」


本当は期待している。


俺と一緒にアイリスが来てくれると。


だが――。


「はい。私はこの国で生まれ、この国で育ってきました。私が最初から最後までアイリスでいられるのは、この国なんです。だから、心配は要りません。ユーリ様とはお別れになってしまって、悲しいですけれど、私は元気で――」


「死ぬかもしれないのにか?」


「――――っ」


俺の一言に、アイリスは押し黙ってしまう。


握られていた手に力が入ってくるのが伝わり、俺はそっと握り返した。


「……分かっています。死ぬかも知れないと。お父様達も、覚悟の上での決断だったのだと理解しています。私を騙して異世界へ行かせたのも、私の為だったというのも分かっています。そして、この行為が全部私のわがままだって分かっています。でも、それでも私はこの国が好きなんです。お父様も、アイサも、お城の皆も街の人たちも、空飛ぶ鳥も、草原を走る動物も、全部全部好きなんです。……だから、私はこの大好きな国を裏切れません。だって、私はこの国の公女であり、この国に生きる一人の人なんですから……」


「アイリス……」


アイリスはもう自分で決めた道を譲る気はないだろう。


唇を噛み締める。


何もできない自分が悔しい。


それどころか、俺がアイリスと出会ったことで、アイリスを悩ませてしまった。


娘の命を願う公王は、皮肉にも父親と同じ運命を望んでいる。


もし、俺がアイリスと出会っていなければ、本当はもっと親子の時間を過ごさせてあげれたのかもしれない。


なにより、俺は嘘を積み重ねてこの世界へ来た。


俺がやったことと言えば、アイリスに淡い希望を抱かせて、それをまんまと裏切ったことだけだ。


避難者を俺の世界へ連れてきたところで、その先のことなんか全く考えていない。


無力で、無知で、無責任。


俺は、この世界の為に――アイリスの為に、なにもしてやれなかったのか……。


今もこうしてアイリスの決意の為に、拉致されているだけで、俺の利用価値なんざこれっぽっちの意味しかない。


――そうなんだ。


……そう、公王も大臣達も、望んでいるのは俺なんかじゃない。


俺の『世界』なんだ。


別に俺じゃなくても、俺以外の誰でも同じ道を辿れる。


なのに、俺は……異世界だとか、魔法だとかで、まるで二次元の世界の主人公になった気がして……。


援軍だって、避難だって、全部どうにかなるでここまで来たけれど、アイリスはこうして自分の意思で自分の道をきちんと決めている。


俺は、流されるままその時その時の都合で来て、なにも考えてないじゃないか……!


くそっ! くそっ!!


血が出るほどに唇を噛んだことがなかった俺だが、悔しさのあまり口の中に血の味が滲む。


痛みよりも俺に課せられた責任から都合のいい理由をつけて逃げ回っていた自分が悔しい。


アイリスとデートした時、俺の家で寝泊りしてた時、楽観視したり、アイリスにドキドキしたり、自分のことしか考えてなかった事を今更ながら自分に腹が立つ。


だけど、分かっている。


本当に悔しい理由はそんなところにはない。


本当に悔しい理由は。


悔しがっても結局、俺にはなにも出来無いってことだ。


ああしておけばよかった。こうすればよかった。


そんな言葉が浮かんでも、最終的には俺にはなにも出来無い。


無力。


やっぱ俺は……この程度だ。


理解はしている。ヒキニートで社会の底辺な俺に、世界なんて救えるわけ無い。人一人も救えるわけ無い。


今更どう動こうが、アイリスはこの世界に残る。


俺は避難民を連れて自分の世界へと帰る。


もう、このビジョンしか見えない。


俺は……本当に、好きなんだ。


君のことが……! アイリスのことが!


「……アイリス」


「はい?」


もう、この時を逃せば言えなくなると思った。


俺の台詞は、迷惑だろうか?


どの道彼女を悩ませてしまうかもしれない。


自分の気持ちにここで区切りをつけて整理したいっていう勝手な理由だって分かっている。


でも、ここではっきりさせておかないと、俺はきっと逃げてしまう。


「……アイリス、俺はっ」


アイリスの目を見る。


澄んだブルーの瞳が俺を吸い込むかのように見つめ返している。


整った可愛げある顔立ちで、キラキラなびくブロンドの長髪がとても綺麗で……。


「君の事が好きだ」


言った。


言う間際でも、俺は躊躇してしまうんじゃないかと思っていたが、アイリスの顔を見ていたら、自然と口が動いてしまった。


アイリスは、驚いて握っていた俺の手を離して口元を覆う。


俺はもうなにも言えずに、ただ、ただアイリスの返事を待った。


アイリスは顔を少しだけ紅潮させて、俺をただじっと見ている。


何秒? 何分? 経過しただろうか。


沈黙と静寂が部屋の空気を変える。


時間が止まってしまったような錯覚に、俺の口の中が乾いていく。


アイリスは俺を見たり、時折視線を外したりと緊張している様子だ。


まぁ、無理もないか……。


好き同士だったとしても、同じ世界にいることは叶わない。


好きじゃなかったとしても、優しいアイリスの事だ、返事に迷うだろう。


彼女を迷わせてしまって、少しばかりの罪悪感が心に隙間を空ける。


俺としては断られてスッキリして、気持ちを入れ替えてこれからのことを真剣に考えるつもりで、アイリスのそれに利用したって言われても否定できない。


やっぱり、言わなきゃ良かったか……。


「あ、あのっ……」


俺が気落ちする寸でで、アイリスが遂に口を開く。


俺は、俺は思わず唾を飲み込む。


「わ、私……私、ユーリ様がっ――」


バタンッ!


「アイリス! アオミ様! ここにいては危険です! すぐに私の後に付いてきてください!」


び、びびびびびびびびびびびびっくりしたああああああああああ!!


急にドアが蹴破られたと思ったら、アイサが怒鳴りながら俺たちの方へと走ってくる。


急なことで驚いたのはアイリスも同じだったらしく、尻餅をついて目を白黒させていた。


アイサは腰に携えてあった短剣を抜くと、俺の手足を縛っていたロープを切り落とす。


「さぁ、早くこちらへ!」


言われるがまま、俺は起き上がるとアイリスの手を握って目で合図をし、アイサの後を追う。


「な、なにが起きたの?」


アイリスが先頭を行くアイサに尋ねる。


「――奴らが来ました」


その一言を聞いて、俺は心臓がドクンと跳ね上がる。


「奴らって、まさか……」


「ええ、まさかです。異形の者が攻めてきました」


ま、さか……。そんな……。


「二日後のことではなかったのですか!?」


「敵の進軍速度から見てそうだと踏んでいた我々の落ち度です。偵察兵が帰還してこなかった時点でもっと警戒しておくべきでした」


キュッと悔しそうに唇を噛むアイサ。


長い螺旋階段を中腹まで差し掛かった時、


「――! 離れていろ!」


右手で俺らを制したアイサは、命令口調でその場にいることを強要する。


アイサは腰の両脇に携えてある剣を両手で抜き放つと、まだなにもいない階段の先を警戒する。


ヒタッヒタッヒタッ。


素足で階段を登ってくる様な音が壁内に響いてくる。


「いいか、そこを動くな。私が合図するまでは決して下りてくるんじゃない。分かったな?」


再度俺とアイリスに注意を促し、アイサはすり足気味で階段を音もなく降りてゆく。


「ユーリ様……」


不安な面持ちのアイリスの顔を見やると、顔は青白く、恐怖していた。


握っている手も、はっきりわかるぐらい震えている。


俺もそうだ。


異形の者と聞いていまいちピンと来なかったが、ここに来て突然の奇襲。


正直、かなり怖い。


でも、怖がってなんかいられない。


得体の知れない相手だろうが、俺は、命を投げ出してアイリスを守る。


その僅かばかりの勇気が、俺の内にある恐怖を和らげていた。


「大丈夫、俺がアイリスを絶対守ってやる」


こんな台詞恥ずかしくて言えない。


普段の俺なら赤面してしまう様な言葉も、本当の命の危機に晒された今は、本気でそう思っている。


真顔でアイリスに言うと、アイリスは涙ぐみながらもコクリと頷いてくれた。


次いで――。


「ハァァァァアアアアア!!」


階段の先から、アイサの雄叫びが聞こえる。


それと同時に、何かが悲鳴を上げる。


断末魔――ともいかないが、短い「ギェッ」とか「ガェッ」くらいの悲鳴だ。


悲鳴に次いで物が倒れこむ様な音がすると、


「降りて来い、今の内に急ぐぞ」


アイサが合図を出す。


俺たちは恐る恐る階段を下る――と。


「うっ……」


その光景にアイリスは口元を抑える。


二体、地面に転がっている。


その光景にアイリスは口元を抑える。


二体、地面に転がっている。


どちらもうつ伏せになって、その体は大量の血だまりに横たわっていた。


「こいつらは斥候だろう。斥候部隊の中でも、攻撃部隊だ。こいつらの知能は偵察には向いていないからな。恐らく場内を混乱させる為に送り込まれたに違いない」


と、死んでいるであろうその体をアイサは蹴飛ばして仰向けにする。


「ゴブ……リン……?」


仰向けになったその死体を見るやいなや、俺は考えるまでもなくその名前を口にする。


背丈は人間の半分ほどで、顔はまるで悪魔にも似たような顔立ちで、よくある洋ゲーRPG等で出てくるようなまさにそれだった。


俺の一言に、アイサの目が光る。


「ゴブリンだと? 貴様、なぜこいつの名称を知っている。答えろ」


アイサは俺との間合いを一瞬で詰めると、両手に持っている剣を俺の首元で交差させる。


殺気の宿った目で睨まれ、首元に刃が軽く触れヒンヤリと冷たい。


「やめてアイサ!」


「アイリス! 下がっていろと言ったはずだ。これ以上近寄るな。私の性格を知っているな?」


一歩踏みだろうとしたアイリスを怒号で制するアイサ。


アイリスはその一言で体を固くして、心配そうな面持ちで俺を見つめる。


冷や汗が額から流れるも、殺気は感じるが殺意が感じられないのを不思議と感じ取った俺は、唾を一飲みして答える。


「俺の……世界では、こいつらに似たキャラクターが存在する。だが、現実にはいない。人が生んだ空想の生物なんだ。俺の世界にある漫画――本や、ゲーム……遊戯って行ったほうが分かりやすいか? よくあるザコ敵って扱いで出てくる敵キャラの一つで、そいつらに顔や体格が似てたもんだからつい……。もちろん、この世界に来たのは俺は初めてだし、異形の者と繋がりはない。もし、繋がってたら今頃アイリスがどうなってるか、分かるよな?」


「…………そうか。すまなかった。許してくれ」


「いや、いいんだ。異形の者っていう一括りの生物の名前を俺が口走ったら、警戒されるのも当たり前なのは理解出来るよ。単純に似ているだけって話だから、あまり気にしないでくれると助かる。俺の方こそ紛らわしいこと言って悪かったよ」


「そう言ってもらえると助かる」


俺の説明で納得してくれたアイサは、剣を俺の首元から離すと辺りを警戒する様に廊下の先を見渡す。


「ユーリ様、大丈夫でしたか?」


アイリスがほっとしたように俺の傍に駆け寄る。


「ああ、大丈夫だ――って、うわっ」


驚いた俺は、一歩後ろに下がる。


異形の者――ゴブリンに似た生物の死体が、ブクブクと泡立つように地面に溶け出していっているのを見たからだ。


溶けていく過程で闇の様に黒くなり、やがて地面に吸い込まれるようにして消えていった。


その跡には血の一滴すら残っていなかった。


「異形の者共は、果てるとこうして消える。そのせいでこいつらの肉体的構造などが把握出来無い為、弱点となる肉質箇所や生態情報を特定出来ない。厄介この上無い奴らだ」


アイサは苦虫を噛み潰した様な表情で吐き捨てると、


「さぁ、立ち止まっている暇は無い。早く公王様の元へ急ぐぞ。結界がある聖域にいるはずだ。付いてこい」


俺とアイリスはアイサの言葉に頷くと、目的の場所へと駆け出した。

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