第2章 真実はいつも残酷だ
私――アイリス・アーケンシュッツは、今、異世界に行きます。
お父様、私は無事です。どうか、心配しないでください。
異世界渡りは、私の国の公族に古くから伝わる秘術で、お父様が大公に即位するずっと昔から、もう数百年行わなかった魔法で、二度と使うことはないだろうとお父様も言っているのを思い出す。
数百人分の魔力を魔法陣の成型に使い、一日を要して異世界へのゲートを開く特殊な魔法で、見聞録によれば、成功したとしても、異世界へ通じたとしても、その世界のどこに転送されるかはこちらから指定出来無いとあった。
万が一にでも、死ぬ可能性もあると。
お父様は最初、国を捨てて民を救うと決断しましたが、私が反対して国を守ろうと言った時、酷く怒られたのを思い出す。
無理なのは分かっていました。国の軍備力の半数は既にエリュトロン公国へ遠征に向かっていて、残存兵力は、歩兵5000、魔法兵1000の完全に兵力不足。
対して敵の軍勢は、報告によればおよそ3万規模。
異形の者相手とはいえ、魔法兵力が2000もあれば、こちらからの魔法による奇襲も可能だったが、半分しかいないと国の防衛を割くわけにもいかない。
こちらから攻めたとしても、国が手薄になればそこを狙われる。かといって、防衛に回ったとしても被害予想を考慮すれば、国民の命を犠牲にするより、他国へ逃げたほうが懸命なのは明白。
お父様はすぐに、国民に避難を促し、軍に混乱の沈静化と誘導に数百人歩兵を割り当て、現在は避難経路から隣国のクロン公国へと避難を開始している。
私はその間、お城にある古い書庫に篭もり、様々な書物や禁書、またその目録、見聞録に目を通している内に、この国の初代公王の見聞録を発見し、異世界へ転送出来る魔法陣があることを見つけた。それをすぐにお父様に打診。
お父様はなぜそれを知っていると、驚いた様子でしたが、すぐに却下されました。
この魔法は、死ぬかもしれないからだ。と言われて。
異世界へ渡るのは禁術中の禁術で、その見聞録によると初代公王が神より賜った魔法で、公国の危機だとしても世界が滅びる厄災が起きない限り封印しなければならないと記してあり、禁書目録にすら記載されていなかった魔法書の一つで、お城の地下の聖域の中心にある神域と呼ばれる空間に浮かんでいる光の球体がその魔法書でした。
国を守るにはこれしかない。と私は地下の聖域まで行き、その魔法書を手に取り、再びお父様の前に持って行った時は頭を叩かれて、激しい叱責を浴びてしまいました。
ですが、国を奪われればこの魔法書も、地下の書庫にある禁書全てが敵に渡ることにもなり、安易に民の為だから国を捨ててはいけないと私は数日感、頑なに抗議して、お父様はようやく頭を垂れて許可してくれました。
正直、死ぬのは怖かったですが、それよりも私の生まれ育った国がなくなる方こそ恐怖でした。
私が言い出した以上、私が異世界に渡って助けを呼ぶとお父様や家臣に伝え、貴重な魔法兵を貸してもらい、一日掛りで魔法陣を成型。
成型された青い魔法陣は異様な雰囲気で、息をするように文字が円上を回り、中心の空間には歪みが生じ、飲み込まれたが最後、二度と帰って来られないかもしれない気がした。
硬った手をぎゅっと握り、お父様や家臣、協力してくれた魔法兵達に挨拶をして、私は魔法陣に飛び込んだ――。
意を決して魔法陣に飛び込むと、ふっと体の重さがなくなり、どこからか引っ張るような力が全身を包み、目も開けられないくらいの速度で空間を滑る。
飛んでいるのか浮かんでいるのか、感覚がおぼつかない状態で、引っ張る力の先に成型された青い魔法陣が近づいていくのが見えると、それと同時に死を覚悟しました。
見聞録には、成型された魔法陣は、成型直後にはもう異世界へと繋がっており、進入から数秒で向こう側の魔法陣に転送する仕組みになっていると書かれている。
だが、向こう側の魔法陣を固定する方法はなく、そこが空中なのか、海の中なのか、普通に地面の上に出現するのかが把握出来ず、運が悪ければ火山火口の真上ということもありえる。
魔法陣から出た瞬間に、様々な場所に対応した危険回避の魔法を思考に走らせ、近づく向こう側の魔法陣に備え、身を構える。
でも、緊張と恐怖で鼓動が早くなり、構えていた身も縮こまり、目も痛いくらい瞑ってしまう。
気づいた時には、その体勢のまま出口の魔法陣へ突入してしまい、一気に体が固まる。
ドンッ!!
魔法陣から抜けたのかどうなのか分からないまま、私は頭から何かに思いっきりぶつかり、ほんの一瞬気を失ってしまった。
まさか、あの速度のまま魔法陣から飛び出るなんて思わなかったです……。痛い……。
若干涙目になりながらも、私はその何かの上で身じろぎして、目を開ける。
視線を前に向けると――。
「…………」
「…………」
今度は違う意味で頭が真っ白になった。
えっと……え? 私、魔法陣から出て、何かにぶつかって、それで――。
瞬間的に理解した。どうやら、ぶつかった何かはこの男の人らしく、そしてその男の人の上に私が乗っている状態になっている。
そしてその人と今見つめ合っている。相手もきょとんとしていて、目を離そうとはしない。
目と目が――。
「……っ!」
ずささささささっ!
私は思わず彼の体を飛び退くように後ろに後ずさりした。自分でも驚く程の速度で。
ゴッ!
「!?」
後頭部への思わぬ衝撃に私は頭を抑えた。
今度は勢い余って机の角に後頭部を打ったらしい。
ま、前も後ろも痛いよぉ……っ。
じわじわとくる痛みを和らげようと後頭部を両手で摩り、潤んだ目で彼を見る。
は、恥ずかしいよぉ……。
「……っっ?」
じんわりくる痛みに耐えていると、彼が心配そうに何かを言った。何を言っているのかを聞き逃してしまう。
ちょっと驚いてしまったけど、その様子からきっと私の身を案じてくれてるのだと直感した。
恥ずかしいやら面目ないやらで、私は彼に愛想を浮かべた。
すると、彼もそれで分かってくれたみたいで、ほっとするような表情をした。
私は、ここにこうして無事にいる。
きっと彼がこの世界の住人であることはもう明白で、私の世界をこれから、私自身の力で助けなきゃいけない。
それには、今この目の前にいる彼に協力してもらう必要がある。
絶対に上手くやってみせる!
決意を胸に、私は今、ここにいる。
「…………」
さっきまでの決意はどこへやら。
驚きました。
それが素直な感想だと思う。
あの後、彼に促されるがままにその後をついて行った。
ここは、彼の家なのだと思うが、私の世界の一般的な家とは全く違う。
床は木……なんだと思う。なんでこんなにスベスベで光沢まであるんだろうか。
壁なんて石材でも木材でもないし、それに至るところに透明な硝子がはめ込んである。
階段には手すりまでついていて、そこからすぐの部屋に入ってみると、もう別次元だった。
実際別の世界にいる時点で別次元なんだけれど、そういう意味じゃなく、家として別次元という意味で。
私たちの作りとは全然違う。
私たちの家は、木材と石材を使い分けて建てていて、家具や床は基本木で出来てるし、石だって所々と見えてて当たり前。
硝子なんて、私のお城みたいな王族が住んでいる所でしか使われてない高級品だし、なによりここの硝子は曇りの一つもない。
もしかして、この家庭も王族なのかもしれない。
だってだって、この部屋は凄いとしか言いようがないです!
見たことのない物がいっぱい!
天井には何か丸くて白っぽい物がくっついてるし、ピカピカ点滅してる物もあったり、硝子がはめ込んである箱があったり、もう説明が出来ません!
私の世界にはないものがいっぱいで、とても新鮮な反面少し怖くなってしまう。
知らない世界の知らない家で、見ず知らずの他人を説得出来るのでしょうか……。
見渡せば分かる通り、文明が凄く発達している。
今私が座っているふっかふかの椅子だって、こんな革張りで柔らかくてゆったり出来る椅子なんて私の国にはなかったし、あそこにある置物だってあんな小さいのに精巧に出来てる。
き、緊張してきました……。
きっと王族やその眷属。私のお父様と同じ公爵位の家庭であると予想し、彼はきっとそのご子息様であると判断した。
転送は、どこに飛ばされるかわからないリスクがあるので、そこが人気ない場所だったり、生命に関わる場所だったらどうしようと最初は思ってしまった物だが、まさかこんなトントン拍子で上手くいって、しかもそれが、もしかしたら王族かもしれないとなると、運がいいと言うか、なんと言うか……。
でも、きっとこれも神によるお導きに違いありません。私は、これを偶然だとは思いたくないです。お父様、私はきっと彼と、彼のこの世界を説得して、きっと私の世界に光を届けます。待っていてください――。
再び胸に決意を秘めた。
コトッ。
気付くと、彼が私の前に湯呑を置く。木の器のようなものに、何やら色々入っている物も置く。
「?」
飲み物でしょうか、何やら緑色の液体が入っていて、湯気が出ています。
手に取ると、暖かい温もりが両手をに伝わる。
私は正面に座った彼の顔を見る。
「……、……っ」
「……?」
彼はなにやら言葉を発するも、私はここでようやく理解する。
彼の言葉と私の国の言葉は違う言葉だ。
さっき心配(?)してくれた時にも声を掛けてくれたけれど、あれは聞き取れなかったんじゃなくて、知らない言葉で話しかけられたから――。
それもそうか。と私は納得した。
私の世界にだって私の国とは違う言葉を話す人はいっぱいいるし、ましてやここは別世界。逆に言葉が違わないとおかしい。
言葉が通じない事を彼は知ってか知らずか、彼も自分の前に置いた湯呑を手に取り口に運ぶ。
それに習って私も手に持っていた湯呑に口を付ける。
――美味しい。
少しだけ緊張が緩む。
心が落ち着く深い味わいで、一度も飲んだことがないのにどこか懐かしくも思った。
自分でも知らない内に喉が渇いていたのか、湯呑を口につけたまま夢中で飲み続ける。
「……っ」
すると、彼は何かを話しかけて来る。
なんて言っているのか分からないままでいると、彼はまた、
「……、……っ?」
何かを尋ねている様だけど、言葉が通じないこの現状じゃどうしようもない。
飲み物に夢中になっている場合じゃない!
「あのっ、何か書くもの……。羊皮紙でも、木の皮や木片なんでもいいです。それとペンがあれば貸して欲しいのですが……」
しかし、彼に通じるはずもなく、彼は困ったように目が泳いだ。
それもそうですよね……。言葉が通じないのでは、通じさせる為の手段を口で言っても理解されるはずありません……。
って、落ち込んでも仕方ありません! 今は反省するより、先にやることがあります!
私は言葉でダメなら。と、身振り手振りで彼に伝えることにした。
「”何か、四角っぽい何かと、サラサラっと、何かペンを……”」
手で四角く空中に形を描き、そこに人差し指でなぞる様に空に指を走らせる。
こんなつたない方法でしか出来無い自分を責めるのは後にして、とりあえずこれくらいしか方法が思い浮かばなかったので、分かってくれるまでやるしかないと、手振りを繰り返した。
「……っ」
ほんの数回繰り返しただけなのに、彼は理解したかのようにすぐ横にある棚の上にある――なんだろう? 凄く薄いヒラヒラした物とペンらしき物を持ってきてくれた。
こっ、これは……? 薄いのは、か、紙ですか?! な、なんて薄さ……し、しかもっ、しかも真っ白!? ありえないです! 一体どんな作り方をすればこんなに薄くて真っ白に……。
それに、これはペン……なのでしょうか? 先端に小さな穴が空いてて、中心には黒く細い何かが埋め込まれてます。
普通のペンと言えば、鳥の羽のペンに墨を付ける物で、最近流行っているのが木炭を削って押し固めた物を木の皮や布で包んで使う炭ペンが主流なのですが、このペンには穴が空いてて墨なんか付けても書き辛そうですし、別段木炭も見えないですけど……。
もしかして間違えて伝わって別の物と勘違いをしているんじゃ……。
「あっ……」
不意に彼が私の手にあるペンに手を伸ばしてきた。
私はそのまま彼に渡す。すると――彼はペンの上部先端を親指で押す。
カチッ。
小気味よい音が鳴ると、なんと下部先端から尖ったペン先が出てきた。
カチカチカチカチ。
彼は何度も上部を押すと、下部からペン先が出たり引っ込んだりを繰り返す。
今度は先端を出したまま紙に走らせると――。
なんと黒くて細い線が紙に残っている。これ――!
ペン! ペンなんですアレは!! 凄い……!
彼は私の顔を見ると、少し微笑んでペンを差し出す。
それを受け取ると、私は早速上部の先端を押し込んでみる。
カチッ。
すると当然の様に下部からペン先が出てくる。
紙に走らせる。
黒い線がスラスラと書ける。
こんな……! もう、凄すぎます! さ、流石異世界の王室御用達のペン……。技術力が段違いです……!
はっ! お、思わず感動してしまいました……。こんなことをしてる場合じゃないです! 早速……。
私は紙を裏返して異世界のペンを紙に走らせる。
これから書こうとしているのは魔法陣の図形で、精霊召喚用の魔法陣です。
言葉が分からない時、私たちの世界では外交時にこの魔法陣を使う。
精霊は国によって違い、その国の文化の上に必ず成り立っている。
人は言葉が違うと言語での意思疎通が不可能だが、精霊は違う。
精霊は精霊間だと精霊専用の言語が存在しており、どんな国の精霊でどんな種類の精霊だろうと、精霊同士ならば意思疎通が可能なんです。
精霊は、その土地の人間の言語にも精通していて、土地同士の精霊を呼び出すことで精霊を介しての人間同士の言語の意思疎通が可能になるという魔法です。
平たく言えば翻訳の魔法です。
異世界に精霊がいるのかどうかは分からないけれど、精霊は世界が成り立つ上で必ず存在している神聖な存在だと私たちの世界では習っている。
この世界でも例外ではないはずで、現に私の精霊はここに存在している。
この世界のこの国、ここの土地にも必ず精霊がいるはずで、その精霊と私の精霊とが交信すれば――。
きっと、異世界だろうと言葉が通じるはず!
……なんで異世界に来る時に言葉の壁を考えなかったのか、緊急時だからと言っても少々準備不足も甚だしいです。
ここに着いてから最初の目的から逸れてしまう所でした……。準備不足といい、散漫な点といい、私はもう少ししっかりするべきです。
早いところ書き上げて、早く私たちが置かれている事態を説明しなければ……。
それにしても――。
右手に握っているペンを見る。
このペンは凄いです! 液垂れも無ければ引っかかりも無い……。線の太さも常に均一で、液にいちいち浸さなくていいし、手が黒くなったりすることも無いんです! これを発明した人はきっと王室直属の専門技師ですねきっと!
そのペンの効果もあってか、いつもよりも数倍も早く書き上げることが出来ました。
出来栄えも良く、見た目も綺麗に仕上がっている。こんなに綺麗な魔法陣を書いたのは生まれて初めてです。
ついうっとりと眺めていたいが、早く精霊を呼び出さなくては――。
私はペンを置いて紙を手に取り、召喚の準備をしようとしたら……。
な、何をやっているのでしょうか……?
思わず顔が引き攣る。
その原因は、目の前の彼の行動にあった。
まるで、神に懺悔するかのように片膝をつき胸の前で両腕を組むと、目から涙を流している。
ど、どうしたのでしょうか。私がなにか粗相でも――。
拙い点があったのかと自分を鑑みようとすると、彼は次にいきなり立ち上がりピシッと背筋を伸ばして目線を上向きに右手を額に当てた。
私が考える余裕もないくらい、彼は素早くその体勢から右手を胸に当てる。その数秒後に、フルフルと怒りに震え始めたかと思うと空中に向かって拳を突き出す。
何が起きてるんですか――!
私の思考が追いつかないくらい目まぐるしく彼の行動が移り変わる。
今度はこっちをこっちへ。みたいに手を動かして、右の空間に平手でビシッっと決める。
もはや私は唖然としていた。というより、放心に近かった。
何かの踊りだったのでしょうか? それとも儀式? いやいや、私に何かしら落ち度があってそれを伝えるために――いや、それとも……。
色んな考えが頭を埋め尽くす。彼の行動が理解し難いのが理由だが、彼がやっている以上何かきっと意味があるはず。
……あるはずなんだけど。な、なんなのでしょうか?
訳の分からないままでいると、不意に彼と目が合う。
彼は私と目が合うと、人形の様に動かなくなってしまった。
てんてんてん。と、しばらくの間冷たい沈黙が流れる。ゆっくりと座る彼。
すると、いきなり彼は何かを悟ったかの様な表情を一瞬浮かべ、その場に崩れ落ちた。しかも、涙を流している。
「ど、どうしたのですか? 大丈夫ですか?」
思わず声を掛けてしまう。
まだ言葉が分からないのか、彼はこっちを見つめたまま固まってしまった。
すると突然彼はまるで力尽きた兵士の様に真っ白になっていた。
これじゃあ、言葉が分かっても分からなくても同じなんじゃ……。と思い、謎の踊りで力果てた彼をよそに、魔法陣を書いた紙に向かい合う。
だ、大丈夫ですよね? 彼には悪いですが、早く彼と会話をしないと、その為には――。
私は魔法陣を書いた紙に向かい合い、集中する。
紙に書かれた魔法陣が私の一言に反応し、ビリッと破れ、青色の炎に包まれる。
魔法陣を書いた紙が置かれた場所になぞる様にして青い炎が線として魔法陣を象っていく。
徐々にその形は鮮明になり、ついには紙に書いた魔法陣と全く同じ形で燃えている。
それを確認した私は、一言呟く。
「我に精霊の加護をっ!」
炎で象っていた魔法陣が四散するのを確認して、私は意を決して彼に話しかけた。
「あ、あのー……」
すると彼はすぐさま顔をこちらに向ける。
その反応だけでは言葉が理解出来ているのかが分からなかったので、私は続ける。
「私の言葉、分かりますか? 聞こえてますか……?」
「え、えーと……今喋ったのは、君……なの?」
「あ! よかったぁ、失敗したのかと思いました」
精霊を召喚するのに成功したと心の中で安堵し、これでようやく一歩進んだとほっと胸をなで下ろした。
私が何のためにここに来たのか、彼がそれに協力してくれるのか、この国の軍隊が応援に来てくれるのか。
それを今から確かめなきゃいけない。こんな小さな一歩で安心なんかしていられません。
でもそんな気持ちとは裏腹に期待に胸が膨らむ。それと同時に、興奮さえ覚えている。
異世界へ行けた確率もそうだし、安全地帯へ飛べた確率もそうだし(彼に頭から思いっきりぶつかってしまいましたが……)、私は確実に神様に愛されていると思った。
自惚れと言われたら否定出来無いけれど、それでもこの奇跡を肌で実感している以上、このまますんなりと行けるところまで行けるかもしれない。ううん、行かなきゃいけない。絶対に。
お父様、必ず私と一緒に吉報を持って必ず帰ります。待っていてください。
……けれど、その時感じた確かな希望は、すぐに打ち砕かれるのでした。
☆★☆
本日未明。時刻は午後8時と14分。……多分。
俺は風呂から上がり、用意していたタオルで体を隅々まで拭き始めた。
昔から俺には考え事や嫌なこと、現実から逃げ出したいとき等、取り敢えず風呂に入って物思いに耽るクセがある。
そのせいで両親のみならず妹からも、風呂が長い! と非難を浴びることなど日常茶飯事になっている。
申し訳ない。とは、全く思っていない。
いやむしろ、傷心に関する悩み事や思春期特有の悩み事を抱えている健全な男子高校生の心のオアシスたる風呂場を占領したくらいで文句を言うくらいならお前らが俺の心の内を癒してくれるのかと言いたい。
あ、でもうん。別に言いたくないんだが。
まぁ、そういう訳で異世界からやってきた彼女からの事情を説明されるやいなや、当然の如く俺のお悩みメーターがMAXで振り切ってしまい、彼女のあらかたの説明が終わり、俺が簡単に答えると同時に風呂へと直行した次第だ。
体を拭いて重くなったタオルを無造作に洗濯機に投げ込む。
が、フタが閉じていた事に投げた直後に気づき、湿ったタオルが洗濯機の上へと乗り、勢いがそのままでついっと滑っていき、あろうことか洗濯機の裏側へ落下していった。
3秒程硬直して、目線だけを横にそらす。
俺は、見なかったことにした。
ため息一つ吐いて、床に置いておいた着替えをいそいそと身につける。
風呂場ではああは考えたが、やっぱり気が重い。
せっかくオアシスと言う名の風呂に入ったというのに全くこの苦悩から解放されていないと肩を落とすが、流石にあんまり待たせるのはマズイと思い、ポロシャツに袖を通しながら風呂場をあとにした。
だが、リビングに続くドアノブに手を掛けたところで、その手でノブを回すのをためらった。
俺は風呂に入る前に、彼女の国の窮地を救うことが出来無いと言った。
可能か不可能かと言われれば、可能な訳が無い。
風呂に入る前に彼女にも説明した通り、たかが高校生が自衛隊貸してくれと言って、誰が相手にする?
そんな事は無駄な事だと誰でも分かる。
俺個人にそんな権限は無いし、仮に総理大臣であったとしても異世界がピンチだから自衛隊を派遣しよう! って、そんな気軽な発言出来る訳がない。
もしかしたら、特殊部隊を編成して視察と調査を兼ねて送り出してから秘密裏に派遣……なんてのも考えられなくもないが、そもそもそれはそれ相応の権限を持った人間でなければ到底ありえない話で、俺なんかにそんな権限は、当たり前だが無い。
とすれば、結論は簡単に済む。
無理なんだ。
それを説明した時の彼女の表情がどんどん曇っていくのを、俺は見てられなかった。
考える必要なんか全くないくらい簡単な回答で、俺は問題を解決する考えやそれに対する悩みを整理するために風呂に入ったんじゃなく、心の奥では彼女とあれ以上あの気まずい空気の中で二人きりでいられる自信が無かったからその場を離れる口実を作っただけだ。
「……ヘタレすぎるだろ、俺」
ボソッと呟く。
でも、風呂場で俺は決めた。
異世界だろうが、戦争だろうが、異形の怪物共だろうが、俺になにが出来るか分からないが、それでも俺は彼女の力になりたい。
お前に何が出来るって言われても言い返せる自信はないが、きっと何かあるはずだ。
この世界にいる俺に何か出来ること。それを今は必死で探してみよう。
俺の目に再び自信と希望の光が宿り、熱を帯びたその手でドアノブを回す。
リビングのドアを開け、部屋を見渡すと、彼女はさっきの定位置に座ってうつむいていた。
やばい、空気が重い……。
彼女の話しを聞けばそうなって当然と言える。最後の望みである異世界へ渡って来たのにその望みが叶うことが無いと言われたのだから。
逆の立場なら発狂したっておかしくないだろう。なにせ自分の世界が、国が、家族がもしかしたら滅んでしまう未曾有の危機なのだから。
呆然と椅子に座り込んでいる彼女はピクリともせず、ただただ暗い影を落としていた。
声を掛けられるような雰囲気ではないものの、このままではいたたまれなさすぎるので、重たい空気の中、彼女の前の席に腰掛ける。
「あ、あのさ……」
意を決して俺は彼女に声を掛ける。
彼女は俺の言葉に反応して軽く頭を上げる。ブロンドの髪がサラリと頬を撫でると、上目遣い気味でこちらに目を向ける。
その目は、明らかに赤く腫れており、頬には涙の筋が出来ていた。
俺は声を掛けたものの、その表情を見て思わず固まった。さっきまでの決意は何処へ、憔悴しきったその目から希望も光も完全になくなってるのを感じると、次の言葉が喉の辺りで詰まって出てこない。
俺は数秒間程沈黙した挙句、スッ、と目を逸らしてしまう。
とんだヘタレキチン野郎だ。自分が嫌になってくる。
俺は当事者じゃないから、事の重大さっていうのがいまいち把握出来ていない。そんなことは分かってる。俺みたいな社会不適合者が国の危機だ、戦争だなんて理解出来るわけないんだ。
頭の中では酷い話しだとか、災難だとか、可哀想とか思っていても、本当に体験してる人からしたら、それは全部他人事で、楽観的で、偽善に溢れているに違いない。
でもそれは全部現実に起きている出来事で、他人がどう思っていようがいまいが、事実は受け入れなきゃいけないんだ。
彼女は今、自分の国を救うために俺を頼っている。
俺はどうする。
考えろ。
風呂ではああ考えた通り、国は絶対に救えない。
それは確実だ。兵力差がありすぎるし、かと言ってこっちからは援軍は絶対に送れない。
だが、国は無理でも国民なら助けることが出来る可能性があるなら……?
幾度となく戦国、中世時代のSLGのゲームを網羅して来た俺は、こういう状況の時には撤退するべきだと考えるはずだ。
そもそも隣国に避難をしているのだから、残存戦力で無理に応戦しなくても、兵力を隣国に移すべきだと思う。
隣国の戦力数が分からないが、このままキュアノエイデス公国に残っていても蹂躙されるのは目に見えている。
だが、撤退と言ってもそうさせない為に彼女はこの世界に来たんだ。
元々は撤退するはずだったのを、彼女が懸命に探し当てた希望が俺の世界だったんだ。
ここで簡単に無理だったから逃げましょうじゃ、公女としての立場上どうなんだ……?
考えろ……。
こんな時にこそ働かせるべきだろゲーム脳。
……そういや、こんなシチュエーションが何かのSLGにあったな。
あれは……そうだ。『タクト・タクティクス』で、確か国民を逃がす為に時間を稼ぐシーンのイベントで――。
こ、これだ! これなら行けるぞ!
だが、その為には俺は悪役にならなければならない。
彼女からすれば、俺が今から言うことは、どうしようもないのに手を伸ばし、淡い期待に胸膨らませるだけでなんの解決にもなっていない、自己満足の偽善だと思われるかもしれない。
だが、それが偽善じゃなくて、もし本当に望んでいた事が叶うのならと思わせることが出来れば、少なくとも今の憔悴しきった彼女を元気づける事が出来る。
……酷い奴だ俺は。最低だ。本当に偽善者なクソ野郎だ。
でも、俺は今の彼女を見てられない。今にも投身してしまいそうで、心が折れきっている今この時だからこと、少しでも元気にさせてあげたい。
……それが、例え叶わない現実でも、俺は偽善に走って悪者になる。今、彼女が笑ってくれるなら。俺は、もう迷わない。
俺は俺自身を納得させ、ズキリと痛む心を胸に隠しながら、再び彼女の方を向いて口を開く。
「俺……さ、この国の政府官僚と繋がりがあるから、その筋からなんとか頼み込んでみるよ。絶対説得させて、援軍送るからさ。その、信じて欲しい」
言った。
言ってしまった。
ありえないくらい心臓が鼓動してる。
「え……で、でも、先程は無理だと……」
「あ、ああ、いや、無理かもしれないって話しをしたんだ。俺はこの世界じゃ一市民で、この国の政治に口を出す事さえ出来無い。でも、さっき風呂入りながら考えてたら、俺の父さんが国防省に知り合いがいるっていうのを思い出したんだ。その筋から頼みこんでみるよ」
「え、えっ! じゃ、じゃあもしかして私の要望を受け入れてくれる可能性があるのですか!? で、では早速私もご挨拶と状況を説明しに――っ」
「い、いや、いいんだ! この国じゃ魔法なんて概念は存在しないんだ。だから、魔法だとか異世界から来たなんて直接言っても絶対信じてくれない。だから俺がこの国に危害が及ぶテロリストの情報をネットで入手したからその為の対策として軍を派遣してもらうように表面上はしてもらって、ちゃんと信頼できる人には君の国の事を話して支援部隊を編成してもうように言うよ。その間、君は大人しく家で待っていて欲しい。下手に君が動くと君に危害が及ぶ可能性がある。この世界に来ているのは君一人なんだろう? なら、君にもしもの事があったら、それこそ何もかも終わってしまう。だから、俺の方から事情を説明して頼んでみるよ」
……我ながらなんて舌の周り具合だ。流石に自分でもゲンナリする。
論理は完全に破綻している上に、無理矢理なこじ付けで言い逃れする遅刻した中学生的な言い回しだが、彼女はそれを信じるしか無い。
彼女からしたら、この国のシステムを理解していない。俺が誰で、俺の誰が偉い人で、その偉い人なら~という下手くそな詐欺師のような台詞でも鵜呑みにするはずだ。
……いや、どうこう理屈を捏ねても、彼女には信じる以外何もないんだ。
俺はそれを分かってて彼女に希望を抱かせている。
ホント、呆れるくらいなゲス野郎だ。反吐が出る。
「な、なるほど……。そこまで考えが及びませんでした。至らなくて申し訳ないです。そうですよね、私に何かあっては交渉も何も無いですからね。この世界に来ているのは私一人だけなのですから……。私の身まで気遣ってくれて、本当にありがとうございます」
彼女の表情はさっきまでとは一変し、明るく、光の篭った目をしている。
まだ望みはあるのだと希望を宿した目だ。元気になって良かった。
「本当……さっきは見苦しい所をお見せしてしまいました。もう……私の国を救うことは諦めなければならないのかと、私、ホントに怖くって……。自分じゃどうする事も出来無いから、もうこのまま消えてしまいたいなんて、馬鹿な考えですよね。でも、碧海様は私の為にこんなにして下さって、絶望してた自分が恥ずかしいです」
……ヤバイ。冷や汗半端ない。動悸がすんごい。目が泳ぎまくってるぞ。俺、しっかりしろ!
「私に手伝える事があったら是が非でも言ってください! 私、何でもやります! 私の身一つで私の国が救えるのなら、この体を惜しみはしません!」
ウグッ! い、胃が痛いぃぃ! こんなに胃が痛くなったのは部屋に入ったらベッドの上に秘蔵グッズがキレイに整頓された後で食べ始める夕飯の時以来だ……。
俺の心境や、この話の真実を全く知る由もない彼女の瞳は10秒前の暗いそれとは違い、太陽のように爛々と輝いて見える。
自分の国の存亡が俺に委ねられていて、その俺が国を救える唯一の希望だからこそ、俺の言葉一つでも彼女にとっては神のお告げにも等しい物なのだと思う。
……も、もう後には引けないぞこれ。こうなった以上、どうにかしてでもなんとか成功させなくちゃ……。
だが、俺のそんな安直で楽観的でもある考えは、絶対にどうにもならないし、悪足掻きすら出来なくなるという壁に、十数時間後に彼女の世界に行った俺自身が身を持ってブチ当たっていた。
チックタクチックタクチックタク。
100均で購入したシンプルイズベストな四角いちんまりした時計の秒針が進むたびに、チッチッと音が鳴る。
その時計と眼前にある物体を横目でチラチラ見ながら、彼女――アイリスは、身動ぎ一つせずにひたすらに寡黙していた。
そんな彼女の目の前にある『シーフードヌードル』とラベルされている物体には、最上部に箸が置かれており、蓋をする形で重しの代わりに鎮座していた。
チッチッと時計の秒針が進み、そのきっかり5秒毎に彼女の目が交互に動く。
お湯を入れて3分で出来上がる簡易ラーメンにお湯を注いだのは、およそ20秒前の事だ。
彼女が俺の言った救いの言葉(元気づけるつもりが彼女を過剰に期待させてしまいどうにもならなくなった件)の直後、可愛らしい小動物の様な鳴き声が部屋に小さく反響し、その音の主が彼女のお腹だという事実に気づいた時、既に顔を真っ赤にさせた彼女がひたすらに硬直してしまい、俺もそんな時はなんて言えば彼女を辱める事なくやり過ごせるかなんて知りもしなかったので、無言になってしまい、その時のその場のなんとも言えない気まずい空気をなんとかしようと、無言のままいそいそとキッチンの戸棚から夜食用のカップ麺を取り出して、今に至る。
風呂場での葛藤では、風呂に入る前に彼女に話した援軍を送る事は無理だという結論を、期待を持たせるのはいけない。
現実を考えて、嘘をつくよりも、その方が彼女の為になると散々悩んだが、実際はやはりそうはいかないんだと今更ながらに思う。
彼女は国の一身を受け、異世界へとやってきてる。
いくら彼女が大公の娘、公女だとしても、家臣や大臣、ひいては軍や国民にも期待が寄せられてる以上、失敗して国が消えれば、彼女達一族は烙印を押され、一生迫害を受けることになるかもしれないんだ。
俺があそこで彼女の国を救うための援助は出来無いと言えば、彼女は明日の報告で、それを皆に伝えなければならない。
その時点で失敗したと言えば、それは当然彼女の責任になる。
彼女の責任になれば、一族の責任になり、そこからさっき言った通りの流れに発展するかもしれない。
国を守る為に奔走した結果が、その国の民から追放されるとなれば、それこそ一生自分を責め続けるトラウマにもなる。
だが、今ここで俺が援軍を送れるかもしれないと言えば、明日の報告は吉報を持って帰れる訳だ。
結果がどのみち救えないのだとすれば、その過程ではせめて俺が汚れ役を買って出たとしても、彼女のこれからを考えれば俺がいくら責められようともどうにでもなる。
彼女は明日支援を要請してきたと言い、俺がその当日に向こうに行って適当な理由を付けて無理だったと、俺に責任があると言えば、あとは国を捨ててクロン公国へと避難すれば解決だ。
これで、彼女の一族の体面も守れるし、俺はそもそも異世界の住人だからとやかく言われた所で実害は無い。
よし、これで問題無いはずだ。
うん。我ながら中々いい作戦じゃないか。ゲーム脳も馬鹿には出来ないな。
っと、そろそろカップ麺が出来上がる頃だな。
俺は100均で購入した時計を見て、3分程度経ったか確認して、カップ麺をじっ、と見つめる彼女にもう食べれると教えてあげる。
「もう食べれるから、蓋開けていいよ。すごく熱いから火傷には気をつけてね」
3分間微動だにしなかった彼女が、俺の言葉でピクリとすると、蓋の上に置いてある箸をテーブルに置き、恐る恐る蓋をペリペリと捲る。
カップ内の湯気が上方に逃げると、それと同時になんともいえないカップ麺独特のいい匂いが辺りに広がる。
「ふわっ……」
彼女はその匂いが気に入ったのか、湯気の熱さを気にしないまま匂いを嗅いでは「ふぁー」とか「ほぁー」とか言っていた。
くそっ! 可愛すぎる!!
そんな姿を小一時間眺めて愛でていたいが、そんなに眺めるとせっかくの麺が伸びてブヨブヨになってしまうので、俺も自分のカップ麺の蓋を剥がして箸を手に持ち、息を吹きかけながら麺をすする。
本日のお品書きは、シーフードヌードル。お値段100円也。
やっぱ日精のシーフードヌードルは神だな。流石日精。
「え……と、んっ、ほっ……」
俺は一口麺を口に運ぶ。うん。うまい。
「うっ……うっ……」
呻き声が彼女の方から聞こえ、見てみると彼女は箸と格闘していた。
呻きながらプルプルと手を震わせており、その手には箸がグーで握られていて、麺が数本かろうじて挟まっている最中だった。
彼女はその麺を落とさないようにゆっくりと口に運ぶと、チュルチュルと吸い込む。
パァッと彼女の顔が本日一番の笑顔になり、更にスープを口につけると惚けたような表情に早変わりした。
「こ、これがこの世界の食べ物ですか! な、なんて美味しいんでしょうか……! こんな美味しいもの初めて食べました!」
100円のカップヌードルをこんなに絶賛されるとは、日精の社員に聞かせてやりたいよ。
気付くと息つく暇もなく彼女は慣れない箸を片手にカップ麺を頬張っていった。
食べるたびにホワホワした表情がなんともいえない可愛さで、俺はその一部始終を逃すことなく脳内RECさせていることは、秘密だ。
「ふぅ、お粗末さまでした。とても美味しかったです」
えぇっ!? いやいや、早いから。まだ1分と経ってないから。
いくらお腹が空いたからって早食いは良くないよ。うん。
ていうか、むしろ何日も食べてないような感じの勢いだったな。
……もしかすると、そうなのかもしれないなぁ。こっちの世界に転送する為に必死で準備してきたみたいだし、戦争前で食欲も湧かなかったのかもしれないし。
そう考えてみて、彼女の顔を見る。
よく見れば、目元は隈が浮いていて、頬も若干痩けているように感じる。疲れきっているというよりかは、精根尽き果てた人の顔だ。
食事も睡眠もロクに取らずに働いてきたのかもしれない。
「よかったらこれも食べていいよ」
俺は自分用のカップ麺を彼女の前に置く。
自分自身何気なしに口と手が動いてしまった。
目の前に置かれたカップ麺と俺を見て、彼女は狼狽した。
「えっ! いえ、でもそれはアオミ様ので……私のは今食べましたから」
「いや、いいんだよ。毎日食べてるようなもんだから、飽きちゃって」
「い、いえ、でも……」
余計な世話だったかな? と、少し後悔するも、俺はそれでも彼女に食べて欲しくて誘導させることにした。
これで本当に余計な世話だったら――と、ネガティブな未来は想像しないでおこう。
「俺もアーケンシュッツさんも食べないなら、これは捨てちゃう訳なんだけど、それはもったいないと思うんだ。そうは思わない?」
「え? ええ、それはそうだと思いますが……。アオミ様は食べなくて平気なんですか?」
「これ毎日のように食べててちょっと食欲がね……。一緒に食べようと思ったんだけど、さっきの一口でもう十分かな。だから、よかったらどうぞ。あっ、でも無理はしなくていいから」
無理しなくては余計だったかもしれない。
食べてくれるか少し心配になるも、彼女は少しだけ考え込むと、躊躇い気味に手を伸ばした。
「あっ、じゃあ、頂いても……?」
「どうぞどうぞ」
促されるまま彼女は俺の食べかけのカップ麺を手に取り、慣れない手つきで箸を持ち、麺をすすり始めた。
なんだか無理矢理な感が否めないが、お腹が減っているっていうのは間違いじゃなかったようだ。
ほっこり笑顔で食べている彼女を見て、俺は少し安心して、脳内RECに励むのだった。
まったく、10時間見ていても飽きないぜ。
今日一日で脳内HDDがアイリスフォルダでいっぱいだな。うんうん。最高な日和だ。
……おっと、脳内アイリスコレクションを閲覧して悦に浸ってる場合じゃないな。
今度はゆっくりと麺をすすっている彼女を尻目に、席を立ち、リビングから風呂場に移動した。
脱衣所から風呂場に入り、俺が入ったままのお湯が残っている浴槽の栓を引っこ抜く。
俺が入ったお湯に彼女を入れる訳にはいかないもんな。まぁ、逆だったらご褒美もいいとこだが。
ゴポゴポと音を立てながらお湯が減っていき、無くなった所で一応ざっと浴槽内を洗っておく。
よもやありえないとは思うが、俺の体毛がプカリと浮かんでいたのを彼女に発見されたら、俺は恐らく一生風呂を入らない事になるだろう。
……いや、逆にそういうプレイもありか?
あえて毛を残す事で俺が先に入ったんだぜアピールをして、「ああ、彼のイケナイ証拠が残ったお湯に入るなんて、私……私っ」という背徳感とそんなお風呂を堪能したいという好奇心の二律背反で苛まれながら恐る恐る足先からゆっくりとお湯に浸かっていき、肩まで使った所で「こ、こんなっ、彼が……彼の温もりが私を――。っ! こ、この浮かんでいるのは、彼の彼のアソコの――っ!!」
いやあああぁぁぁぁぁ!! 見ないでぇぇぇぇぇぇ!!
じゃねぇよ、キモすぎるだろ俺。
なんて下品な妄想をしちまったんだ……。俺ってこんな男だったのか、自分でヒクわ。
普通に考えて毛が残ってたら普通に気持ち悪いだけだからさっさと掃除を済まそう。
無駄な妄想に頭を働かせて止めていた手を動かし、綺麗になった浴槽に再びお湯を溜める。
大体20分でお湯が溜まるので、それまではほっといても大丈夫だろう。
俺は風呂場を後にして、リビングに戻る。
丁度彼女はカップ麺のスープを飲み干し終わったらしく。空になったカップ麺を机に置き、一息ついていた。
「お風呂沸かしてきたから、少し休んだら入ってね」
「そ、そこまでしてもらって……」
「いいのいいの、客人をもてなすのは当然だからね。それに――」
「それに?」
「いや、なんでもないよ。今飲み物持ってくるから、ゆっくりしていていいよ」
「あっ、はい。ありがとうございます」
ふー、危ない危ない。
「――それに異世界ブロンド美少女と二人っきりなんて逆にご褒美さっ!」
なんて爽やか笑顔で、歯キラッ☆親指グッ! なんて本音が飛び出したらキモいなんてもんじゃないぞ。
そんな事を口走って次の日まで彼女に本気のお断りされたら空間ごと消えてなくなりたくなるからな。
いらない妄想をしながら、戸棚に置いてあるコップを取って、冷蔵庫の中からミネラルウォーターが入ったペットボトルと一緒に彼女が座っているテーブルまで持っていく。
コップを彼女の前に置き、ミネラルウォーターを注ぐと、彼女はにっこり笑顔でお礼を言って口に運んだ。
さて、取り敢えず何をしようか。
何をするといっても、別に何もない。だからこそ何をするかと迷っているのだが、こういう時はテレビをつける程度くらいしか思い浮かばないトークスキルの無い自分が恨めしい。
ヘタに彼女の世界の話題を持ち出して、彼女の世界→国→人→親類→戦争→しょぼーんになったらフォローなんて出来る訳がない。
もちろん、戦争→しょぼーん→俺がいるから安心しろ!→キュンッでもいい訳だが、そもそも俺が救えない上で彼女を騙している訳で、殊更そんな事を言ったら、彼女の世界で説明した時に尚更に落ち込むのが目に見えてる。
嘘に嘘を重ねたくないし、かと言ってテレビなんかつけても、これどうなってるんですか?→ああ、これはね――。→なるほどー。→……→……。結局テレビつけてもこの流れになるのは目に見えている。
トークスキルなんざ無くても友達少ない俺はエロトーク出来りゃ生きていけるなんて笑ってた自分が恨めしいいいいい!
両腕で頭を抱えながら左右に体を揺すって心の中で慟哭していると。
「あ、あのっ!」
唐突に彼女が声を投げかけた。
「はい?」
両腕で頭を抱えたまま俺は彼女の方を向く。
「えっと……その……」
不意に呼んだ彼女は、少し頬を赤らめてもじもじしている。
ああ、これはアレか。
「えっと、ここから出て突き当たりの左にあるドアだよ」
「え? えっあっ、ありがとうございますっ」
俺の言葉に少し驚いた表情をした彼女は、お礼を言うとそそくさとリビングを後にした。
ふっ。さすが俺。空気読めるいい男だぜ。
やっぱ女の子はそういう事を口にしない方が俺としては正解だ。
隠語でお花を摘みに。とはよく言ったもので、やっぱそういう所で女子力は決まると勝手に確信している。
考えても見れば分かるが、どんだけ絶世の美少女がいたとして、不意に「ちょっとトイレ行ってくるね」なんて言ってみろ。
いくら美少女だろうと少し幻滅しないか?
可愛い顔からトイレ等、俺はその発言諸々を許しはしない。
それこそ、理想なのだ。
うむうむ。と自己納得してるが、二次元と三次元を重ねちゃいけないことくらいは理解している。
それだけで幻滅まではしないが、やっぱり女子足るもの言葉遣いというものは大切だと思うね。うん。
そしてそれに気づいてさりげなく道順を教えてあげる俺。ふっ。これで俺の株も急上昇だな。ふっ。
え? 何故俺が好きで顔を赤らめてもじもじして告白する寸前という状況と捉えないのかだって?
ふっ。何を言っている。そんな……そんな……。
そんなフラグが簡単に立つなら彼女なんざ100人はいるぜ!
…………。
さ、彼女が戻ってくる前にテーブルを片付けよう。
カップ麺と割り箸を無造作に掴むと、冷蔵庫脇にあるゴミ箱に捨てる。
そして、ミネラルウォーターを冷蔵庫に戻し、彼女が口を付けたコップをシンクに――。
そこで手が止まる。――今、なんて言った俺?
じとりと手が汗ばむ。震える。
一筋の汗が頬を伝って床に落ちる。
ゴクリと生唾を飲み込んで、もう一度頭の中でリフレインさせる。
彼女が口を付けたコップ。
アイリスが口を付けたコップ。
異世界公国公女金髪美少女アイリス・アーケンシュッツのピンクで艶のある柔らかそうな唇が触れたコップ。
な……ん……だ……と……!?
動悸がしてきた。目も焦点が定まらないくらいブレてきた。
俺の右手に掴んでいるただのコップだったはずのアイテムが、ラスボスを倒すために必要なキーアイテム並みのレア度に変貌を遂げているのだ。
おい、待てよ俺。
これをどうする気だ?
ありえないぞ俺。これは速やかにシンクに入れてスポンジで洗って濯いでラックに伏せるだけだぞ?
使ったコップはちゃんと洗うべきだろ? 常識的に考えろ俺!
何も悩むことはない。このままシンクに置けば――。
しかし、右手は伝説のアイテムと化したコップを手放そうとはしない。
クソッ!! なんだこれ! 呪いのアイテムじゃねぇのか!? 外れねぇぞ!!
し、しかもチャームの魔法が掛かってやがる!! 二重トラップだ! や、やめろ! やめっ……。
勝手に右手が動き出し、彼女が口を付けたであろう部位を、ゆっくりと俺の口まで近づけようとする。
や、止めてくれ! いくら超絶金髪美少女が口を付けたコップだからと言って、俺はそんな卑しい真似はしたくないんだ!
もしそんなことをすれば、今後彼女を見るたびに唇を意識してまともに顔を直視出来なくなるだろうが!
あっあっ! 脳内で勝手に彼女の顔を表示させるな! 止めろ!! 唇をアップにするなああああああああぁぁぁぁぁっ!!
その間も右手が止まる気配は無く、それでいて一定の速度で確実に俺の唇に近づいていく。
い、いかん。なんだかドキドキしてきたぞ……。
俺は頬を赤らめ、口からハァハァと吐息を漏らし、近づいてくるコップを凝視した。
ま、ままままぁアレだな。これはアレだ。俺も喉が渇いたんだ。
コップならまだ戸棚にあるが、取るのが面倒だからな。適材適所、どうせ右手にコップがあるなら、使わないわけにはいかないよな?
誰に向けての言い訳か分からないが、俺の脳内ではコップがアイリスの唇に見えてきた。
コップでここまで視覚妄想出来るとか、新しい能力が開花してしまった自分が恐ろしい。
ああ、彼女のやわそうなピンク色の唇が俺の――っ!!
「あのー、何してるんですか?」
「ぶっばぁほぉぉぉぉうっっいえぇあっ!!」
あと少しで唇と唇(妄想)が触れる瞬間で、彼女がひょっこり横から覗いてきたので、俺は心臓が口から飛び出した勢いで奇声を発し、手が見えないくらいの高速でコップを瞬間洗浄してラックに置く。
彼女を見ると俺の奇声にびっくりした様子だ。無理もない。俺もびっくりしてる。
「い、いやっあっはは、あー、いやね、俺も喉が渇いてちょっと水をね……」
「そ、そうだったのですね。びっくりさせてごめんなさい」
「い、いや、こっちこそ……」
言えるわけない! よもや彼女が口を付けたコップで間接キスしようとしてたなんて……。
ふと、彼女の唇が目に映る。
俺は思わず顔を赤くして目を逸した。
彼女はそれを、不思議そうに見ていた。
「まったく……。あの時はどうかしてたな」
まったくもってどうかしてたな。うん。
彼女が口をつけたコップを舐め回――じゃなく、俺自身の口のつける直前で助かったな。精神的に。
口をつけてからでも水飲んでたで誤魔化せたとは思うけど、俺の心は誤魔化せない訳で、豆腐メンタルの俺からしたら、もう二度と彼女の顔を直視する事すら出来なくなっていたに違いないな……っと。
ガチャッ。
よし。これで入れるぞ。
前々から鍵は直しとけとあれ程口うるさく俺が言っていたのだが、今回ばかりは直してなくて助かったな。
さてさて……どこにあるやら。
お、あの可愛らしいチェストにありそうだな。
どれどれ……。
俺は白とピンク調のチェストの一番上を開ける。
中には、丸まった布がいくつもぎっしりと詰まっていた。
「おお……リアルでこういうたたみ方して入れてるのか、二次元の世界だけかと思ってたな。百聞は一見に如かずとはこのことだな。さて、どれにしようか……」
上から見ると、色やストライプや様々な柄のそれが見て取れる。ある意味宝石箱だな。
取り敢えず適当に一つ摘みとって広げてみる。
俺の手によって逆三角形に広げられた布は、淡いピンクの生地にレースがついたふんわり系の布だ。
おお、案外可愛いなぁ。いや、案外って言ったら妹に失礼か。
しかし、まさか妹の部屋に侵入する日が来ようとはな。
そう、俺は今、妹の部屋に侵入している。そして、パンツを物色している。
客観的に見て、完全に下着泥棒、性的犯罪者というレッテルがぴったりな最低の行為だ。
部屋には鍵が掛かっているのだが、かなり前に壊れて、一応掛けることは出来るのだが、俺の部屋の鍵を差し込んでドアノブと連ガチャすると何故か開いてしまうようになっている。
……言い方が少々おかしいな。まるで俺が妹の部屋に入るために壊したみたいじゃないか。
誤解なのだが、家の部屋の鍵は全部違うものの、型は同じなので、差し込むだけなら出来る家の部屋の鍵ならどれでも可能だ。
俺の部屋の鍵に限らず、両親の部屋だったり、物置部屋だったりの鍵でも、もちろん開けれる。
本人は特に気にしないでいるものの、こうして侵入されている時点でもう気にしない所の騒ぎじゃない。
今度無理矢理にでも修理するように説得しよう。
だが、鍵が直していないお陰でこうして部屋に入れたのだから、怪我の功名ということにしておくか。
妹の部屋に侵入して、チェストを勝手に開けて、妹のパンツを物色してるのにはもちろん訳がある。
俺がシスコンで妹大好きな変態お兄さんで、家に両親と妹が居ない今、ここぞとばかりに部屋に忍び込んでパンツを盗み、くんかくんかはぁはぁもぐもぐ、お、美味しいブヒーッ! なんて訳では無い。決して無い。
お気づきだろうが、彼女――アイリスの下着を借りに来ただけだ。
危うく間接キス事件の後、沸いたお風呂に入るよう彼女に促し、色々と風呂内部の説明をした後、彼女の持ち物が着の身着のままだという事に気づき、替えの下着と上下服をどうするかと悩んだ結果の行為だ。
やましい事だとは思っていないし、美味しい展開だとも微塵も思っていない。
そもそもリアル妹がいる兄貴からしたら、実の妹をそういう目で見るのは無理。生理的に無理。生物学的に無理。
最近の二次元と来たら、やれ妹が可愛いだの、やれ妹ペロペロだの、やれ妹は俺の嫁だのと空前絶後の妹愛に満ち満ちているが、それはあくまでも二次元だけだ。
斯く言う俺も、二次元妹なら大好きだが、リアルの妹は普通の兄弟として好きなだけの一般人だ。
なので、妹のパンツやブラジャー如きで動じる俺ではない。
そもそもパンツは身につけてこそのアイテムだ。
装備品は装備しないと効果が無いぞ。って、いつもRPG序盤の武具屋のおっさんが説明してくれるだろ? それと同じだ。
今俺の手の中にあるのは、パンツであってただの布だ。これを装備した段階でパンツとしての価値が出てくるというもんだ。
だから……な? 妹よ。許せ。
旅行中の妹に心中で謝罪し、物色を開始する。
アイリスにはどれが似合うだろうか?
いやいや、別に覗くとかチラリズムに期待している訳じゃないんだけれど、どうせ履くのを俺が選ぶのなら、似合うを選びたいじゃないか。
横シマ? 無難に無地? むしろ幼くプリント? それともスケスケのアダルト――っておい! なんでこんなの持ってるんだ! 我が妹だと思って油断してたぞ。
……これにしちゃう?
いやいやいやいやいやいや。それはマズイな。うん。冷静になろう。
こんなのを着替えとして置いといたら、どう考えても変態か今夜を期待してる下心丸出しの童貞だぞ。
クソッ! 自分で言ってちょっと傷ついたぜ……。
冗談はさておき、早いとこ決めないと彼女が風呂から上がってしまうな。
あーもー、悩むなぁ。もういいや、適当に掴んだのにするか。
俺は目を瞑り、右手をパンツの海にダイブさせる。
無造作に掴んだ布をしっかと握り締め、期待を胸に両目を開眼させる。
ちょっと大人びた感じのルージュの生地に、可愛げのあるリボンが中央上部にある中々なパンツだが、明らかに一般的な学生が身につけるパンツと違い、サイドの部分が蝶結びでくっついている状態の物だ。
ヒモ。
……おい。待て。
妹よ。お前は、中学生1年生なのにこんなのまで持ってるのか。
まぁ、さっきのスケパンもなんなんだと思ったが、え? リアルJCって持ってるのが普通なの?
最近の中学生は怖いな……。これだからリアルは……。
あぁ、でもこれは良いな。アイリスがこれを身につけると、清楚なシスターが勝負してみました感じできっと似合う。世界一。
いや、でもこれを持っていったらアイリスはなんて言うだろうか。
「こ、これが異世界の下着なのですね……っ」
あ、こう言うだろうね。うん。
待てよ。
異世界から来てこっちの常識や一般敵な概念を知らないとすれば、例え何を持って行っても身につけてくれるということじゃないのか?
白でも黒でも透けでもヒモでも本当の意味でのヒモでも穴あきでも金髪には見えないパンツでもいけるんじゃないか!?
……うん。ごめんなさい。豆腐メンタルの俺にはそんな度胸はない。
もちろんスケスケとか、エアパンツとか身に付けさせたいが、仮に持っていったとして彼女が着よう。そしたらどうだ? 中身が気になって俺はモジモジ。彼女も中身が気になってモジモジ。
そんなことになったらもうお互い気が気じゃないな。まともに会話すら出来なくなるぞ。
……脳内で何をやってるんだ俺は。
妹のパンツでまさかここまで妄想が広がるとは……。
履いていないパンツはただの布だと思っていたが、やはりパンツは履かなくてもパンツか。恐ろしい。
時間無いのに無駄な事を考えてちゃったな。真面目に選ぼう。
うーん。やっぱ普通のでいいよね。元々シスターっぽい格好してるしね彼女。
ガサゴソガサゴソ。
うん。これにしよう。
無地にレースがついた無難な物だ。これでいいだろう。
さて、次にブラジャーだが……。
前に親友が言っていたな。『女ってのはな、寝るときはブラしないんだぜ』
……真実か?
待て待て、あいつの言うことはもはや信じられないと悟ったばかりじゃないか。
あの野郎。俺の知識をいつの間にか都市伝説と真実とすり替えやがって、次会ったら確実にワンパンしてやる。
それより、これのお揃いを見つけなければ……。
別の場所のチェストの引き出しを開けると、パンツと同じようにブラジャーの海になっていた。
この中からお揃いを探すのか……。宝探し気分でいたが、これは結構苦痛だ。
ていうか、時間がヤバイんじゃない? パンツ一つにかなり時間を掛けたのがマズかったな。
彼女が風呂に入ってどれくらい入浴しているか分からないが、最低でも30分くらいと考えていいだろう。
彼女が風呂に入って俺はすぐに妹の部屋に侵入している。経過している時間は――。
辺りを見回して、部屋の角にある机の上に可愛らしいヒヨコ型の時計があるの見つけると、俺は時間を確認する。
25分。
パンツを持った手を力の限り握りしめて叫んだ。
「どこだっ!! お前のパートナーはどれだぁぁぁぁぁ!!」
ブラの海をひたすらに眺めている場合ではない。
この後に服まで選ばなきゃいけないんだ。
しかし、二つ目の装備品でもう既に残り5分。
俺は大いに焦った。これ以上ないってくらいに。
ほんの少しの余裕さえあれば理解していたはずだ。
ブラは丸まっている訳では無く、わざわざ手で持たなくとも指で折り返しながら見れば中身を散乱させることもなかった。
だが、残り時間が時間だけに俺の余裕は吹っ飛んでおり、確認した順から放り投げてを繰り返した。
つまり、だ。
「どうすんだよこれ……」
気づいたが後の祭り。
妹の床に散乱するパンツ。ブラジャー。服。
もはや床は見えず、一面が女の子の装備で埋め尽くされている。
傍から見たら強盗でも入ったんじゃないかってくらいの散らかり様だ。
チェストも開きっぱなしで中身もぐっちゃぐちゃ。
男の俺に洋服や下着のたたみ方なんて知るはずもなく、これはどうしたもんかと途方に暮れかけていた、が。
「マズイ、もう50分経ってる! 早くしないとっ」
もうどうすることも出来無いまま妹の部屋を飛び出した。
上下の下着とラフなパジャマと明日用の洋服を見繕って両腕に抱えて階段を降りる。
躓いて転びそうになるも、脱衣所の前に立つ。
ここでいきなり開けて全裸イベントなんてフラグ立てるのもいいが、リアルでそんなことにしたら今後顔を合わせづらいので止めよう。初恋の人なんだ。些細な事でも嫌われたくはない。
深呼吸をして呼吸を整えてから、ドアをノックする。
「アーケンシュッツさん? そこにいる?」
…………返事が無い。
ということは、まだ風呂から出てきてないのか。
だが、ここで中に入ってタイミングよく出てきた彼女と鉢合わせて全裸イベントというルートも存在する。
かと言ってこんな脱衣所の入口に服を置いておいても彼女は知らない訳だし、彼女が風呂場から出てくる気配がするまで待つというのもなんだか変態っぽくて気が引ける。
ここは、アレだな。ちょっとだけドアを開けてそこから大声で着替えの存在を教えるしかない。
これなら全裸イベントが発生するフラグは全部折りきったな。安心だ。
俺は少しだけドアを押し開けて、覗かないように気をつけながら声を出す。
「アーケンシュッツさ――」
「はい?」
はい?
ドアの隙間から俺が名前を呼んだ直後、その隙間から彼女がひょっこり顔を出す。
風呂から上がったばかりなのか、頭からほんのり湯気が出ていて、しっとりした髪がむき出しの肩に張り付いていて物凄くエロい。
少し紅色した頬と、クリクリした目が不思議そうに覗かせている。
「――――――――――ッッッッ!!」
声にもならない声を上げて、俺はヘタリ込み後ろに高速で後ずさる。
ゴッ!
もちろんその先にある壁に思いっきり後頭部を打ち付ける。すんごい痛い。
「だっ、大丈夫ですか!?」
心配そうに声を掛けてくれた彼女は、その一枚隔てたドアを開け――。
こっ、このパターンは、全裸フラグ!?
ば、馬鹿な! こんなルートが存在するなんてどんなギャルゲにも存在しなかったぞ!
色んな事象が重なりすぎてテンパる俺だが、そのドアだけは開けてはダメだ!
「うわぁぁぁぁぁっ! あ、開けちゃダメだぁぁぁ!!」
衝動的に体が動き、今にも開かれそうな禁断の扉に飛びかかる。
だが、勢いづいてドアに突進してしまうと俺自らドアを開けてしまう事になる。
考える時間は無かったが、俺の視界にドアノブが映り込み、瞬時に視線をドアノブに集中させ、両手でもって掴みにかかった。
「えっ?」
半ドアの隙間から見えている肩越しの彼女の表情が少し驚きに変わるが、お構いなしで俺はドアノブに飛びかかる。
ズルッ!
「うぉっふぉぉいっ!?」
ドアノブに手が掛かる手前で、俺は何かに足を取られてしまう。
倒れゆく感覚に絶望しながら、尻目に足元を見ると、俺が持ってきた服が勢いよく後ろへと蹴り飛ばされていた。
俗に言う、バナナの皮ですってんころりん現象だ。
倒れる体は自制出来ず、前のめりのままドアに突進して行く。
頭ではどうにもならないと悟った。
完全にフラグが立ってしまった。
しかも、ハーレム漫画の主人公がドジる度にエロイベントに発展する奇跡の転倒フラグ。
だが、このフラグはそもそもドジられるヒロインは全て主人公大好きな訳で、彼女はというと、こっちの世界に来たばっかな訳で、俺は見ず知らずの親切な他人な訳で、そんな男に全裸な自分を見られるというのは、つまり。
あぁ、俺の初恋終わっ――。
バンッ! ガタタッ!!
慣性のままドアに激突し、勢いよくドアが弾けると、「きゃっ」と、小さい悲鳴が聞こえた。
俺は倒れるその一瞬の間に激しく後悔した。後悔というか、もうなんだ。懺悔したい。贖罪として死にたい。
開け放たれた先にいる彼女の体にはちゃんとバスタオルが巻かれていたのだ。
肩が露出していたので、てっきり裸だからだと思っていたら、ちゃんと胸から膝まできっちり隠れていた。
そりゃ、そうか。
じゃなきゃ、いくら俺が後頭部打ったからってドアを開けようとする訳無いよね。
ごめんね――ッ!。
涙を流しながら彼女にぶつかり、そのまま倒れこむ。
ふにょん。
時間が凍った。
床に仰向けで倒れる程の威力は無かったらしく、俺は彼女に抱きつく形で、彼女は床に尻餅をつく形で事なきを得た……が。
彼女に抱きついた俺は、効果音が出るレベルの柔らかさに驚愕して時が止まったかのように硬直する。
左手が何かに埋もれている。
右手も何かに埋もれている。
ふにふにとした。というより、ふにょんふにょんとしていて、手に余る程の大きさといつまでも触っていたくなる柔い触感が次第に俺を現実へと引き戻していく。
彼女はというと、まさにキョトン顔で、俺と終始見つめ合っている。
本当に何が起きたか理解していない様子らしい。斯く言う俺も、理解していなかった。理解したくなかった。
――俺は今、人生で初の生おっぱいを揉んでいる。
体は歓喜に震えているものの、脳内では警鐘が音量レベル最大で鳴り響いている。
俺は次第に顔が青くなり、彼女は次第に赤くなっていった。
だが、何かおかしい。
歓喜に震える俺の体に異変を感じる。
「きゃ――――」
「きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「……へ?」
「きゃああああぁぁぁっ、いやああああああぁぁぁぁ!!」
「あ、あの……?」
「ひゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、うわあああああぁぁぁぁぁぁ!!」
何が起きた。
彼女が悲鳴を上げる既で、何故か加害者の俺が悲鳴を上げて後ろに飛び退き、脱衣所から脱兎の如く離脱する。
何が起きた。
廊下に無造作に散らばっている服を、悲鳴を上げながらそっと脱衣所の中へ入れると、駆け足全開で二階の俺の部屋に駆け込む。
何が起きた。
勢いよく扉を閉めると、俺はベッドへダイブして布団に包まった。
俺は……俺は……っ。
彼女いない歴=生まれて現在。家族以外の女子に話しかたこと脳内記憶では皆無。日々ギャルゲ、エロゲ三昧の毎日。
俺は……俺はぁぁっっ!!
信じたくない。手が震える。冷や汗が吹き出る。呼吸が荒い。
布団に包まった俺は、吹き出る嫌悪感に数十分間耐える事になった。
自分の身に起きているこの異常状態をこの時点で理解なんて出来るはずも無い。
それもそうだ、まさか……まさか、女の子大好き(主に二次元)な俺が……。
女性恐怖症だったなんて――。