自分がシナリオを書いた乙女ゲームに転生したので、台詞を実装し忘れた邪竜に話しかけてみます
北の山に、竜がいる。
ハルデ村の子どもは、歩けるようになる前にそれを教わる。
山の上の黒い岩棚に、家より大きな竜が眠っている。
ときどき目を覚まして吠えるけれど、何を言っているのかは誰にも分からない。
百年前からずっと、そうだ。
だから山に近づいてはいけない。
竜は言葉を持たない。
言葉を持たないものとは、分かり合えない。
私は、宿屋の厨房で芋の皮をむきながら、窓の向こうの山を見ている。
山頂にはもう雪がかかっている。
今年の冬は、早い。
「リタ、手が止まってるよ」
「ごめん、母さん」
私は、リタ。
十六歳。
ハルデ村の宿屋『白樺亭』の一人娘だ。
それから、前世では、ゲーム会社でシナリオを書いていた。
六歳の冬に高い熱を出して、三日三晩うなされたあと、全部思い出した。
締め切り前の徹夜、冷めたコーヒー、画面の文字。
そして、自分が最後に書いていた作品の名前。
乙女ゲーム『白銀の誓約』。
今、私が生きているのは、その世界だ。
最初は信じられなかった。
けれど、村の名前も、山の形も、王国の地図も、私が資料集に書いた通りだった。
王都には攻略対象の王子がいて、騎士団には若い騎士団長がいて、南の神殿では聖女が目覚めるのを待っている。
そして北の山には、竜がいる。
あの竜のことを、私は誰よりもよく知っている。
隠し攻略対象、邪竜ヴェルグ。
本編をすべて終えた人だけが入れる、隠しルートの相手役だった。
台詞は全部で八万字。
一行残らず、私が書いた。
そして、発売の二か月前に、ルートごと削られた。
「予算とスケジュールの都合で、今回は見送りで」
会議室でそう言われた日のことを、今でも覚えている。
竜の立ち絵も、背景も、もう完成していた。
削られたのは、台詞のデータだけだった。
開発の仲間うちでは、冗談半分に「台詞を実装し忘れた竜」と呼ばれていた。
忘れたのではない。
入れる時間を、もらえなかったのだ。
だから製品版の竜は、北の山で吠えるだけの敵になった。
何か言いたそうに口を開いて、でも言葉は一行も出ない。
騎士団長の過去の回想で、村を一つ焼いて、討たれる。
それだけの役だ。
焼かれる村の名前は、ハルデ村。
焼かれる季節は、今年の冬。
◇
騎士団が村に着いたのは、初雪の翌日だった。
二十騎の騎兵と、荷馬車が三台。
宿屋の前の広場が、鎧と馬の息で白く曇った。
先頭の馬から下りた若い男を見て、私は息をのむ。
銀の髪に、灰色の目。
左の頬に、細い古傷。
騎士団長カイル・ヴァレン。
『白銀の誓約』の攻略対象の一人で、私が回想シーンの台詞を書いた人だ。
ゲームの中の彼は、いつも少しだけ悲しそうな顔をしている。
十九歳の冬に、北の村を救えなかったからだ。
「宿を借りたい。二十一名、三泊」
「は、はい。どうぞ中へ」
母さんが慌てて頭を下げる。
カイルは広間に入ると、暖炉の前の卓に地図を広げる。
部下たちが周りを囲む。
私は盆にスープを載せて運びながら、耳をそばだてる。
「竜の巣は山頂の岩棚。三日後の明け方、雪が締まったところで登る」
「団長、本当にやるんですか。百年、誰も討てなかった竜ですよ」
「だから今やる。王都の占星院が、この冬に竜が山を下りると告げた。下りてからでは遅い」
カイルの声は低くて、迷いがなかった。
私は盆を持つ手に力を込める。
違う。
順番が違う。
ゲームの回想では、竜が先に村を襲ったのではない。
騎士団が先に巣を攻めた。
眠っていた竜は、槍で起こされて、怒って山を下りた。
そして、麓のハルデ村を焼いた。
回想の台詞を書いたのは私だ。
間違えるはずがない。
「あの」
声が出ていた。
騎士たちが一斉にこちらを見る。
カイルの灰色の目が、私を捉えた。
「竜は、今は眠っているだけです。こちらから起こさなければ、下りてきません」
「……宿の娘か。なぜそう言える」
「百年、下りてこなかったからです」
「百年、下りてこなかったものが、今年も下りてこないとは限らない」
カイルは静かにそう言って、地図に目を戻す。
部下の一人が、苦笑いしながら手を振る。
「嬢ちゃん、心配しなくていい。竜は俺たちが片づける。村には指一本触れさせないさ」
その台詞も知っている。
回想の中で、焼ける村を見下ろしながら、この騎士は同じことを言って泣いていた。
私は盆を置いて、厨房に戻る。
母さんが心配そうに私を見る。
私は笑って、芋の皮むきに戻った。
三日後の明け方。
それより先に、竜に会わなければならない。
◇
騎士団が泊まった最初の夜、宿屋はお祭りのような騒ぎになった。
村じゅうの女たちが手伝いに来て、厨房では鍋が五つ同時に湯気を上げている。
隣の家のハンナおばあさんは、騎士たちに竜の昔話を聞かせていた。
百年前、竜がまだ吠えなかったころの話だ。
「わしの祖母が、子どものころの話じゃがな。昔は山の竜が、冬至の晩に村まで下りてきて、子どもらと話をしたそうな」
「竜が、話を?」
「そうとも。蜂蜜酒を一瓶持っていくと、雪崩の来る日を教えてくれたそうじゃ。ところがある年から、何を言うても吠えるばかりになった。それからは誰も山に近づかん」
騎士たちは、酒の肴の作り話だと思って笑っている。
私は笑えない。
その昔話も、私が書いた。
隠しルートの第一章で、ヒロインが村の古老から聞く話だ。
削られたはずの台詞が、この世界では、おばあさんの口からちゃんと語り継がれている。
厨房の隅で、八歳のトマが私の袖を引いた。
宿の手伝いに来ている、鍛冶屋の末っ子だ。
「リタ姉ちゃん。騎士さまたち、竜をやっつけるの?」
「……どうして?」
「おれ、竜の声、きらいじゃないんだ。夜に吠えるの、なんか、歌みたいだから」
トマは、少し恥ずかしそうに笑う。
私はトマの頭を撫でる。
ゲームの回想で、焼けた村の瓦礫の中から、小さな鉄の笛が見つかる場面がある。
鍛冶屋の子どもが、竜の声を真似して吹いていた笛だ。
名前も付いていない、背景の小道具だった。
それが、この子だ。
「トマ。竜の声、今夜も聞こえたら、笛で返事してあげて」
「え、なんで知ってるの、笛のこと」
「なんとなく」
夜更けに片づけを終えて、私は厨房の窓辺に座った。
父さんが、湯気の立つ杯を二つ持ってきて、一つを私の前に置いた。
何も言わずに、隣に座る。
父さんは口数が少ない。
その代わり、よく人を見ている。
「リタ。お前、今夜、山に行くつもりだろう」
私は杯を取り落としそうになった。
「……どうして」
「十年、毎晩あの窓から山を見ていた娘が、今夜だけ見ていない。支度のことで頭がいっぱいなんだろう」
父さんは杯をすすった。
「止めても行くなら、止めない。ただ、俺の杖を持っていけ。雪の山道なら、あれがいちばん丈夫だ」
「父さん」
「母さんには、朝になってから俺が言う。泣かれるのは慣れてる」
私は、うなずくことしかできなかった。
父さんは、前世の記憶のことを知らない。
それでも、十年分の私を、ちゃんと見ていてくれた。
◇
その夜、私は宿を抜け出した。
外套を二枚重ねて、父さんの古い杖を持ち、厨房から蜂蜜酒の小瓶を一本もらった。
蜂蜜酒は、竜の好物だ。
これも私が書いた設定で、ゲームには一度も出てこなかった。
雪明かりの山道を登る。
高いところは平気だ。
前世ではロケハンと称して、よく一人で山に登った。
怖いのは、高さではない。
自分の書いた台詞が、この世界で本当に通じるのかどうかだ。
岩棚に着いたのは、夜明けの少し前だった。
風が止んでいる。
雪の上に、黒い山のような影が横たわっている。
影が、ゆっくりと動く。
金色の目が、二つ開く。
大きい。
画面で見るのとは、まるで違う。
鱗の一枚が、私の背丈ほどもある。
竜は首をもたげ、私を見下ろして、口を開く。
低い音が、岩棚を震わせる。
吠え声だ。
村人が百年聞いてきた、意味の分からない吠え声。
けれど私には、その音の区切り方に覚えがあった。
四拍、休み、三拍、休み。
私が書いた古竜語の文法だ。
台詞データが入っていないから、音しか出ない。
でも、中身は、ちゃんとある。
私は深く息を吸って、ゲームの隠しルートの最初の台詞を口にした。
竜が最初に言うはずだった言葉への、ヒロインの返事だ。
「白い冬に、名を呼ぶ者はいない。けれど私は、あなたの名を知っている。ヴェルグ」
吠え声が、止まる。
雪の上に、静寂が落ちる。
金色の目が、わずかに見開かれた。
長い沈黙のあとで、竜の口から、今度ははっきりとした言葉がこぼれた。
「……その言葉を、どこで知った」
声は、私が想像していたより、ずっと若かった。
それから、ずっと掠れていた。
百年、誰とも話していない喉の音だった。
◇
「知っているのは、名前だけではありません」
私は蜂蜜酒の小瓶を雪の上に置いた。
竜の目が、小瓶に吸い寄せられる。
鼻先がひくりと動いた。
「あなたは、昔、この山の竜の守り人でした。人の言葉と竜の言葉を両方話せた、最後の一頭です。百年前、王都の魔術師に呪いをかけられて、言葉を奪われました。あなたが何を言っても、人には吠え声にしか聞こえない」
「……なぜ、それを」
「それから、蜂蜜酒が好きです。冬至の夜にだけ、一口だけ飲むと決めています。守り人だったころ、村の子どもが毎年一瓶、届けてくれたから」
竜は、しばらく何も言わなかった。
それから、大きな爪の先で、器用に小瓶の栓を抜いた。
ひと舐めして、目を細める。
「……冬至には、まだ早い」
「今年は特別です。三日後の明け方、騎士団がここへ来ます」
竜の目が、すっと細くなる。
岩棚の空気が変わる。
雪が、竜の吐く息でわずかに溶けた。
「また、槍か」
「はい。でも、戦わないでほしいんです。あなたが怒って山を下りたら、麓の村が焼けます」
「村を焼いたことなど、一度もない」
「知っています。まだ、一度も」
竜は、低く唸る。
今度の唸り声には、意味がなかった。
ただの、ため息のような音だった。
「娘。お前は、なぜそこまで知っている。私の名も、呪いも、蜂蜜酒も。この百年、誰一人知らなかった」
私は、答えに迷った。
前世の話をして、信じてもらえるとは思えない。
けれど、この竜に嘘をつきたくはなかった。
私が書いた彼は、嘘が嫌いだった。
「……あなたの言葉を、書いた者だからです」
「書いた?」
「遠い場所で、あなたの物語を書きました。あなたが何を言い、何を思い、誰と話すはずだったか。全部、紙に書きました。でも、それは誰にも読まれないまま、しまわれてしまった」
竜は黙って、私を見下ろしている。
怒るかと思った。
笑うかと思った。
けれど、竜は静かに首を傾けただけだった。
「では、お前は知っているのか。私がこの百年、何を思っていたか」
「……はい」
「言ってみろ」
私は、隠しルートの第二章の独白を思い出した。
雪の岩棚で、竜が一人で語る場面だ。
「話しかけても、誰にも届かない。届かないなら、いっそ本当に獣になってしまえばいい。そう思った夜が、百年のうちに何度もあった。でも、そのたびに、麓の村の灯りを見てやめた。あの灯りの中に、昔、蜂蜜酒を運んでくれた子どもの孫がいるかもしれないから」
竜は、目を閉じる。
長いあいだ、そのままでいた。
やがて目を開けると、金色の目の縁が、少しだけ濡れていた。
「半分、当たっている」
「半分?」
「灯りを見てやめたのは本当だ。だが、あの子どもの孫ではない。私が見ていたのは、宿屋の灯りだ」
私は、瞬きをした。
そんな台詞は書いていない。
「山の麓に、白樺の看板の宿がある。冬になると、夜通し厨房の灯りが消えない。十年ほど前から、その灯りの中で、窓からこちらを見上げている娘がいた。毎晩だ」
私は、息が止まりそうになった。
六歳の冬に記憶を取り戻してから、私は毎晩、厨房の窓から山を見ていた。
竜が下りてこないか、確かめるために。
「お前が書いていない百年も、あるのだな」
「……はい」
「そうか。それは、少し愉快だ」
竜は、喉の奥で笑った。
百年ぶりの笑い声は、雪崩の前触れのように低くて、けれど、どこか子どもっぽかった。
それから竜は、雪の上に顎を載せて、私と目の高さを合わせた。
「では、書いた者に聞こう。私は本来、何を話すはずだった」
「たくさんです。最初は、村の子どもに雪崩の見分け方を教える話。それから、昔の守り人仲間の話。星の名前の話。人の王と竜が交わした約束の話」
「星の名前は、私の得意な話だ」
「知っています。あなたは北の空の星を、全部で三百二十一個、名前で呼べます」
「三百二十二だ」
竜は、きっぱりと言った。
私は目を瞬かせる。
「この百年で、一つ増えた。四十年ほど前に、北の空に新しい星が灯った。誰も名を付けないので、私が付けた」
「……なんて名前ですか」
「教えない。書いた者でも、知らないことはあっていい」
私は思わず笑ってしまった。
私が書いた竜は、もう少し素直な性格だったはずだ。
百年分、ひねくれたのかもしれない。
「一つ、分からないことがある」
「何でしょう」
「私の物語は、なぜしまわれた。出来が悪かったのか」
竜の声が、小さくなる。
私は首を振る。
「出来は、悪くなかったと思います。読んだ人たちは、みんな褒めてくれました。でも、時間とお金が足りなかった」
「時間と、金」
「物語を世に出すには、たくさんの人の手がかかるんです。絵を描く人、音を作る人、全部をつなぐ人。あなたの物語を最後まで仕上げるには、二か月と、お金が少し足りなかった。だから、いちばん後ろにあったあなたの章から、削られました」
竜は、しばらく考えていた。
それから、ふん、と鼻から白い息を吐いた。
「人の世は、百年たっても変わらんな。王都の魔術師も、私の呪いを解く金が惜しいと言った」
「そうなんですか」
「そうだ。呪いをかけた者が死ねば、解く術を知る者はいなくなる。解く方法を書いた書物は、予算とやらが足りずに写本されなかったそうだ」
私は、額に手を当てた。
そんな設定も、書いた覚えはない。
でも、あまりにもこの世界らしくて、少しだけ泣きそうになった。
◇
夜が明けた。
日が山の端から上りきったころ、岩棚の下から、金属の擦れる音が聞こえてきた。
雪を踏む、重い足音。
鎧の音。
私は振り返る。
雪の斜面を、騎士たちが登ってくる。
先頭に、銀の髪の男がいた。
「三日後のはずじゃ……」
「宿の娘が夜のうちに山へ入った、と母親が泣いていた」
カイルが、岩棚の縁に立つ。
剣は抜いている。
その後ろで、二十人の騎士が槍を構える。
「下がれ、娘。竜から離れろ」
「待ってください。この竜は、話ができます」
「竜は吠えるだけだ。百年、誰も言葉を聞いた者はいない」
背後で、竜が低く吠えた。
騎士たちが身をこわばらせる。
私には、その吠え声の意味が分かった。
――撃つなら撃て。だが、娘は下がらせろ。
けれど騎士たちには、ただの威嚇にしか聞こえない。
呪いはまだ、解けていない。
竜の言葉が届くのは、私にだけだ。
「団長さん。あなたのお父様は、二十年前、この山に登りましたね」
カイルの剣先が、わずかに揺れる。
「なぜ、それを」
「一人で登って、竜に槍を向けて、生きて帰ってきた。騎士団でただ一人。でも、お父様は、そのときのことを誰にも話さなかった。あなたにも」
回想シーンの資料に、私が書いた設定だ。
カイルの父は、竜に挑んで生還した唯一の騎士。
本編では、その理由は明かされない。
明かされるはずだったのは、削られた隠しルートの中だった。
「ヴェルグ。あの槍は、まだ持っていますか」
竜は黙って、岩棚の奥に首を向けた。
雪をかぶった岩の隙間に、折れた槍の穂先が一本、大切そうに立てかけてあった。
柄には、色あせた青い布が巻いてある。
カイルの顔から、表情が消える。
「……ヴァレン家の、槍布だ」
「お父様は、竜を討ちに来て、竜に命を救われたんです。雪崩に巻き込まれたところを、この竜が掘り出した。お父様は、竜が何か言っているのに気づいた。でも、言葉は聞き取れなかった。だから、誰にも話せなかった。話しても、信じてもらえないから」
私は、竜を振り返った。
「ヴェルグ。そのとき、お父様に何と言ったんですか」
竜は、長いあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと、吠えた。
私はその音を、一語ずつ、人の言葉に直した。
「帰れ。お前を待つ子がいるのだろう。槍は置いていけ。二度と、ここへ来るな」
カイルが、剣を下ろす。
灰色の目が、折れた槍を見つめたまま動かない。
後ろの騎士たちが、顔を見合わせた。
「団長……」
「父は、死ぬまでこの山の話をしなかった」
カイルの声が、かすかに震えた。
「ただ一度だけ、酔ったときに言った。北の竜は、泣いているように吠える、と」
◇
騎士たちは槍を下ろす。
けれど、カイルは剣を鞘に収めなかった。
まだ迷っている。
当然だ。
彼には、竜の言葉が聞こえない。
聞こえるのは、宿屋の娘が「竜がそう言った」と言う声だけだ。
「娘。お前の言うことが本当なら、呪いを解く方法はないのか」
私は、竜を見る。
方法は、知っている。
隠しルートの最終章で、ヒロインが竜の最後の問いに答える。
正しく答えたとき、呪いは解けて、竜の言葉はすべての人に届くようになる。
問いも、答えも、私が書いた。
「ヴェルグ」
「……分かっている。問えばいいのだろう」
竜は首を下ろし、金色の目を、私の目の高さまで近づけた。
鼻先から、蜂蜜酒の甘い匂いがした。
「百年、誰も答えなかった問いがある。――お前は、なぜ私に話しかけた」
最終章の台詞、そのままだった。
答えも、覚えている。
ヒロインの答えは、こうだ。
『あなたの声が、聞きたかったから』。
私が徹夜で書いて、ディレクターに「ここ泣けますね」と言われた一行だった。
その一行を、口にしかけて、止まった。
違う。
それは、ヒロインの答えだ。
あの子なら、きっとそう言う。
でも、ここに立っているのは、ヒロインではない。
宿屋の娘で、この竜の台詞を書いて、それを誰にも読ませてあげられなかった女だ。
「……あなたの言葉を、書いたのが私だからです」
竜の目が、揺れる。
「書いたのに、誰にも届けられなかった。あなたは何か言いたそうに口を開けたまま、一行もしゃべらせてもらえずに、倒されるだけの役にされた。それが、ずっと悔しかった。だから、話しかけに来ました。書いた者の責任です」
雪の上に、沈黙が落ちた。
騎士たちは、息をひそめている。
カイルも、剣を持ったまま動かなかった。
やがて、竜が、ふっと息を吐いた。
「……それは、私が用意していた答えではないな」
「すみません」
「だが、悪くない」
竜の鱗の隙間から、白い光がこぼれた。
光は鱗の一枚一枚を伝って、首から背へ、背から尾へと広がっていく。
岩棚の雪が、光を受けてきらきらと舞い上がった。
何かが、音もなくほどけていく気配がした。
竜が、口を開いた。
「――聞こえるか、ヴァレンの子」
騎士たちが、一斉に後ずさった。
カイルの手から、剣が落ちた。
雪に刺さった剣の横で、彼は呆然と竜を見上げていた。
「……聞こえる」
「お前の父は、よく泣く男だった。雪に埋もれながら、娘の名を呼んで泣いていた。お前には、姉がいるのだろう」
「……いる。父が死んだ年に、嫁いだ」
「そうか。あの男に、伝えそびれたことがある。槍布を返しておいてくれ」
竜は、折れた槍を爪の先で押し出した。
カイルは、それを両手で受け取った。
青い布の上に、ぽたりと雫が落ちた。
雪解けの水だったのか、それ以外のものだったのかは、私には分からない。
◇
昼前に、私は騎士たちと一緒に山を下りた。
村の入り口で、母さんが待っていた。
雪の中に、朝からずっと立っていたらしい。
母さんは私を見るなり駆け寄ってきて、頬を一つ、ぱちんと叩いた。
それから、痛いくらいに抱きしめた。
「ばか。ばか娘。竜の山に一人で行くなんて」
「ごめんなさい、母さん」
「父さんがね、朝になってから、しれっと言うのよ。『リタは山だ』って。あの人、あとで絶対に許さないから」
母さんの肩越しに、父さんが気まずそうに目をそらしているのが見えた。
私は、母さんの背中に腕を回した。
雪の匂いと、厨房の匂いがした。
この匂いのする場所が、焼けずに済んだのだ。
広場には、村じゅうの人が集まっていた。
カイルが馬を下りて、村長の前に立つ。
騎士たちは誰も口を開かない。
山の上で起きたことを、どう言えばいいのか分からないのだろう。
「村長。竜の討伐は中止する」
「ち、中止、ですか。では竜は」
「竜は、話ができる。今朝、我々は竜と話した。竜に村を襲う意思はない」
広場が、ざわついた。
村長は、困ったように眉を下げた。
「騎士団長さま、お言葉ですが……竜はもう百年、吠えるばかりで」
「分かっている。信じろとは言わない。俺も、自分の耳で聞くまでは信じなかった」
カイルは、手に持った折れた槍を見下ろした。
「ただ、この槍は、二十年前に俺の父が山に置いてきたものだ。竜が、二十年、預かっていた。返してくれと言って、返してくれた」
誰も、何も言わなかった。
やがて、人垣の後ろから、ハンナおばあさんがよろよろと進み出る。
おばあさんは、槍に巻かれた青い布にそっと触れた。
「……わしは、信じるよ」
「ハンナばあさん」
「祖母の話じゃ。竜は、嘘をつかん。人から預かったものは、必ず返す。昔から、そういう竜なんじゃ」
おばあさんはそう言って、山を見上げた。
山頂の岩棚は、昼の光の中で白く輝いている。
それでも村人の半分は、まだ半信半疑の顔をしていた。
無理もない。
百年分の恐れは、一晩では溶けない。
私は、それでいいと思った。
竜の言葉は、これからいくらでも村に届く。
信じるかどうかは、そのとき、それぞれが決めればいい。
◇
その冬、ハルデ村は焼けなかった。
騎士団は予定どおり三泊して村を発ち、王都へ報告に戻っていった。
報告書の中身は知らない。
ただ、出立の前、カイルは宿の厨房に顔を出して、私に頭を下げた。
「礼を言う。父が話さなかったことを、ようやく聞けた」
「私は、通訳しただけです」
「それだけではないだろう。お前は、竜の問いに答えた。百年、誰も答えられなかった問いに」
カイルは、少しだけ首を傾げた。
「リタ、と母親は呼んでいたな。お前は、何者だ」
「宿屋の娘です」
「……そういうことにしておく」
彼は小さく笑って、馬に乗った。
ゲームの中のカイルは、本編の最後まで、あんな風には笑わなかった。
回想の冬を、失わずに済んだからだろうか。
私の書いていない笑顔だった。
村の人たちが竜の声を初めて聞いたのは、それから十日後の吹雪の晩だった。
昼過ぎから降り出した雪は、夕方には横殴りになった。
南の街道から、行商人の荷馬車が一台、まだ村に着いていない。
いつもこの季節に塩と針を運んでくる、年寄りの行商人だ。
村の男たちが松明を持って広場に集まったけれど、吹雪で三歩先も見えない。
探しに出れば、今度は探す側が遭難する。
父さんが唇を噛んで、街道の方を睨んでいた。
そのときだった。
山の方から、声が降ってきた。
「街道の二本杉の先、右の窪地だ。馬が脚を取られている。まだ生きている」
広場が、しんと静まった。
男たちが、松明を持ったまま山を見上げた。
吠え声ではない。
はっきりとした、人の言葉だった。
「窪地の手前で、雪が緩んでいる。左の岩沿いに回れ。私が見ている」
最初に動いたのは、父さんだった。
それから、鍛冶屋のおじさんが続いた。
トマが、首から下げた鉄の笛を思い切り吹いた。
細い笛の音が吹雪を裂いて、山へ上っていく。
山の上から、低い声が一つだけ返ってきた。
「聞こえている、小さいの」
一刻後、男たちは行商人と馬を連れて戻ってきた。
行商人は凍えて震えながら、何度も山の方へ頭を下げていた。
ハンナおばあさんは、広場の真ん中で膝をついて泣いていた。
「祖母の話は、本当じゃった。竜が、雪崩の来る日を教えてくれる。本当じゃった……」
次の日から、村の子どもたちは山の麓まで行って、竜に昔話をねだるようになった。
大人たちは、蜂蜜酒の瓶を麓の岩の上に置いていくようになった。
冬至まで一口も飲まない竜のために、瓶は日に日に増えていった。
竜の守り人が、百年ぶりに帰ってきたのだ。
今、私は毎晩、厨房の窓から山を見ている。
前と違うのは、山の上からも、ときどき声が降ってくることだ。
低くて、少し掠れた声。
「おやすみ」とか、「明日は晴れる」とか、たいしたことは言わない。
それでも、村じゅうの窓が、その声に耳を澄ませている。
冬至の夜、私は蜂蜜酒を一瓶抱えて、岩棚に登った。
竜は一口だけ飲んで、満足そうに目を細めた。
このごろ竜は、私を「娘」ではなく名前で呼ぶ。
「リタ。一つ聞きたい」
「何ですか」
「お前が書いた物語は、ほかにもあるのか。削られて、しまわれたものが」
私は、雪の向こうの南の空を見た。
春になれば、南の神殿で聖女が目覚める。
本編が始まる。
そして、削られたのは竜のルートだけではない。
没になった王子の兄。
使われなかった聖女のもう一つの結末。
台詞を入れてもらえなかった登場人物は、この世界のどこかで、まだ口を開けたまま黙っている。
「……あります。たくさん」
「そうか」
竜は、ゆっくりと翼を広げた。
雪が舞い、星が揺れた。
「では、春になったら、話しかけに行こう。私の背に乗れば、どこへでも早い」
「私、高いところは平気ですけど、空はちょっと」
「書いた者の責任だろう」
竜は、百年ぶりの意地の悪い顔で笑った。
その顔も、私は書いていない。
↓番外編「宿屋の灯り」(竜ヴェルグ視点。百年黙っていた竜が、窓の娘を見ていた十年)
https://note.com/wise_turtle184/n/n99b04c1dad8d?app_launch=false
↓連載版なろうリンク
https://ncode.syosetu.com/n4577mv/




