「勘違いしないでください」と言いながら、公爵令嬢は今日も隣に座る
王都の北端に位置するハイランド騎士団の演習場は、日が沈み始めると、それまでの喧騒が嘘のような静寂に包まれる。
土埃の舞う訓練場、木剣がぶつかり合う乾いた音、そして男たちの野太い怒号。それらが去った後のこの場所は、カイル・ヴァン・ブレイズにとって数少ない安らぎの時間だった。
カイルは、使い古された木製の机の上に積み上がった報告書に、羽ペンを走らせていた。
「……ふぅ。これで今週分は、ようやく片付くか」
背筋を伸ばすと、節々がミシミシと悲鳴を上げる。副団長という役職は、現場での指揮以上に、こうした地味な事務作業が山積している。
かつて冷徹な黒狼と戦場で恐れられた男の姿を知る者が見れば、今のカイルの姿は、まるで巣箱でコツコツと木の実を整理する熊のように見えるかもしれない。
しかし、その静寂は、ある異分子の接近によって唐突に破られた。
カイルの鼻腔を、鉄と汗の匂いが染み付いた演習場にはあまりに不釣り合いな、甘く高貴な花の香りがくすぐる。
わざとらしいほどにコツコツと、石畳を叩くヒールの音。
「あら。まだこんなところで油を売っていたのですか? ……仕事が遅い男性は、出世が望めませんわよ?」
鈴を転がすような、凛とした響き。けれど、その奥に隠しきれない棘を忍ばせた声。
カイルが顔を上げると、そこには夕日に照らされ、プラチナブロンドの髪を神々しいまでに輝かせた美少女が立っていた。
ラングレー公爵家が誇る至宝、ミハイリア・ド・ラングレー。
彼女は、精緻な刺繍が施された扇で口元を隠し、カイルを試すような、あるいは観察するような強い眼差しで見下ろしていた。
「これは、ミハイリア様。こんな時間に、わざわざ騎士団まで足を運ばれるとは」
「勘違いしないでくださいませ。 私は、お父様に頼まれた極秘の書類を届けに寄っただけですわ。ついでに、我が家の護衛計画を担うあなたが、過労で使い物にならなくなっていないか……公爵令嬢として、監督しに来ただけです」
「それはご丁寧に。ですが、書類なら一時間ほど前に騎士団長が受け取って、すでに帰宅されましたよ。ミハイリア様が持参されるというので、首を長くして待っておられましたが」
カイルが少し意地悪な笑みを浮かべて指摘すると、ミハイリアの端正な眉がピクリと跳ねた。
彼女の大きな瞳が一瞬だけ泳ぎ、頬がわずかに朱に染まる。
「そ、そうですの? 団長様も、随分とおっちょこちょいですわね。私がまだ、書類の細部について『直接確認したい事項』があると言っておきましたのに。……まあ、いいですわ。ちょうど、歩き疲れて足が棒のようですし」
「確認事項、ですか……」
カイルが首を傾げるのを無視して、ミハイリアは迷いのない足取りで東屋の中へと踏み込んできた。
彼女は当然のように、カイルが座っているベンチ──それも、彼の体温が伝わるほどに至近距離の場所──に、ふわりと腰を下ろした。
高級なドレスの絹が擦れ、カイルの隣に柔らかな重みが加わる。
「あの、ミハイリア様。隣のベンチの方が新しくて座り心地も良いと思いますが」
「ここが一番、風通しが良いのですわ。文句を言うなんて、副団長の癖に生意気ですわよ。……それとも、公爵家の令嬢が隣に座るのが、不服だとでも?」
ミハイリアはぷいっと横を向く。だが、その耳たぶが夕日よりも赤くなっているのを、カイルは見逃さなかった。
カイルは内心で(今日も、いつものお散歩か)と溜息をつき、羽ペンを置いた。
ミハイリアとカイルの奇妙な関係は、半年前に遡る。王都の裏通りで暴漢に襲われかけていた彼女を、たまたま非番だったカイルが助け出した。
その際、彼女は震える声で感謝を述べる代わりに、「……遅いですわ、助けに来るのが」と強がってみせた。
それ以来、彼女は護衛の抜き打ちチェックや父の伝言といった口実を編み出しては、週に何度も騎士団の、それもカイルの元へやってくるのだ。
「それで、カイル。今日の訓練はどうでしたの? 私の騎士団が、腑抜けていないか心配ですわ」
「俺の騎士団、ではなくハイランド騎士団ですがね……。まあ、新人の剣筋が少し甘かったので、少しばかり厳しく『教育』してやりましたよ」
「まあ、野蛮ですこと。相変わらず力任せなんですのね。……それで、その……あなたの手、怪我はしていませんわね?」
ミハイリアは、カイルの逞しい、傷跡の残る手をチラリと見た。
「新人に不覚を取るほど、俺も衰えてはいませんよ」
「当然ですわ! 万が一、あなたのその……まあ、平民の割には整っていると言えなくもない顔や体に傷でもついたら、私を警護する際に見栄えが悪くなりますもの。傷物の騎士を連れ歩くなど、ラングレー家の名折れですわ!」
「『整っていると言えなくもない』、ですか。手厳しい。それならいっそ、もっと美形の騎士を専属に変えられては?」
カイルがわざと肩をすくめると、ミハイリアは烈火のごとく怒り……いや、焦ったように声を上げた。
「そんなこと、一言も言っていませんわ! あなたは……そう、無愛想で、鉄と土の匂いがして、デリカシーの欠片もない。けれど、その……頑丈なところだけは、認めてあげているんですから!」
「それは光栄です」
カイルが低く笑うと、ミハイリアは「ふん!」と鼻を鳴らして、さらに距離を詰めてきた。
その肩がカイルの腕に触れる。彼女は気づいていないのか、それとも確信犯なのか──。
騎士団の訓練場に漂う荒々しい空気の中で、そこだけが甘い魔法にかけられたような、不思議な時間が流れていた。
◇ ◇ ◇
「……あの、ミハイリア様。もう一度申し上げますが、他にもベンチは空いています。そちらの椅子の方が、背もたれにクッションも付いていて、令嬢の肌には優しいかと」
カイルが困り果てたように言うと、ミハイリアは扇をパサリと閉じ、彼を射抜くような視線を向けた。
「しつこいですわね。私はここが一番、風通しが良いと言っているのです。それに、この古びた木の質感……これが、騎士道の無骨さを表していて、鑑賞に堪えると思いましてよ。文句を言うなんて、副団長の癖に生意気ですわ」
ミハイリアはぷいっと横を向く。だが、その距離感はどう見ても鑑賞のためのものではない。
カイルが少しでも動けば、彼女の柔らかな肩とぶつかってしまうほどの至近距離だ。
彼女のプラチナブロンドの毛先が、カイルの制服の肩に触れ、くすぐったいような感覚を呼び起こす。
カイルは内心で(今日も、またか)と溜息をつく。
ミハイリアの態度は、常にこの調子だった。言葉では突き放しながら、行動では磁石のように引き寄せられてくる。
「そう言えば、ミハイリア様。先日の夜会で、隣国の王子からダンスを申し込まれたと聞き及んでいますよ」
カイルが何気なく、話題を逸らすために振った言葉だった。しかし、それを聞いた瞬間、ミハイリアの体温が急激に上がったのが、隣に座るカイルにも伝わってきた。彼女の白いうなじが、見る間に林檎のように赤く染まっていく。
「……っ! そ、そんなこと、どこで聞きつけましたの!? 本当に、騎士団の耳というものは、下世話な噂話ばかり拾い上げるんですのね!」
ミハイリアは立ち上がりかけ、思い直したように深く座り直した。今度は、さっきよりもさらに五ミリほど距離が近い。
「あんな男、興味ありませんわ。第一、ステップが下手くそで、私にリードを任せようとするなんて。あんな鈍臭くて香水臭い男にエスコートされるくらいなら……まだ、無愛想でデリカシーがなくて、いつも鉄の匂いをさせている騎士の方が、よっぽど背中を預けるに値しますわ」
「それは……はは、光栄だな。俺のことですか?」
カイルが少しだけ意地悪く、彼女の顔を覗き込むようにして問いかけた。すると、ミハイリアは雷に打たれたように肩を震わせ、今度こそ勢いよく立ち上がった。
「勘違いしないでください! 今のは一般論ですわ、一般論! 騎士団という組織の性質上、王子よりも騎士の方が実戦慣れしているだろうという、客観的な分析を述べたまでです!」
彼女は激しく動揺していた。あまりの勢いに、足元の長いドレスの裾が、古びた東屋のベンチの脚に引っかかったことにも気づかない。
「では、私はこれで失礼し──あ」
去り際に背を向けた瞬間、ミハイリアの体がガクンと傾いた。
「危ない!」
カイルは椅子から飛び起きるのと同時に、無意識に腕を伸ばしていた。戦場で鍛え上げた反射神経は、彼女の体が地面に叩きつけられる前に、その華奢な腰を完璧な強さで抱き寄せていた。
「……っ」
東屋に、再び濃密な静寂が訪れる。カイルの逞しい腕の中に、折れてしまいそうなほど細いミハイリアの体が収まっている。
彼女の細い肩が、カイルの胸板に押し付けられている。密着した体から、ドクドクと激しく打つ彼女の心臓の鼓動が、カイルの手のひらに直接伝わってきた。
夕暮れの光が、彼女の潤んだ瞳を黄金色に染め上げる。
「……ミハイリア様。どこか、捻りましたか?」
至近距離で見つめられ、カイルの低い声が耳元で響く。ミハイリアは、まるで魔法にかけられたように瞬きを忘れ、彼の顔を見上げていた。
「……は、離して。離してくださいませ、この無礼者」
数秒、あるいは永遠にも感じられた沈黙の後、彼女は蚊の鳴くような、ひどく震える声でそう言った。
カイルはハッとして、慌てて彼女を支えながら手を離す。
「失礼しました。あまりに急だったので……怪我はありませんか?」
「……ありませんわ。……全く、あなたという人は。無自覚に、そういうことを……」
ミハイリアは乱れたドレスを整えるフリをして、うつむいた。その指先は小さく震えている。
彼女はそのまま立ち去るかと思いきや、何を思ったか、またベンチに腰を下ろした。
今度は、先ほどよりもさらに深く、カイルの肩に自分の肩を、ほんの少し、けれど確かな重みを持って預けてきた。
突き放すような言葉とは裏腹に、その肩から伝わる熱はひどく甘やかで、カイルの胸を静かにざわつかせるのだった。
◇ ◇ ◇
「……ミハイリア様? どうなされたのですか?」
カイルが困惑混じりに問いかけると、ミハイリアは顔を背けたまま、自分の肩をカイルの逞しい二の腕に、そっと押し当てた。
先ほど抱き寄せられた余韻が残っているのか、彼女の体はまだ微かに震えている。だが、そこから伝わってくる熱は、夕暮れの冷え込み始めた空気の中で驚くほど熱かった。
「……何か問題でも? 転んでドレスが汚れなかったか、確認しているだけですわ。あなたが乱暴に引き寄せるから、生地が傷んでいないか心配になったのです」
「それは失礼しました。ですが、そのまま座っていては確認しづらいのでは?」
「うるさいですわね。黙って座っていなさいな。これは公爵令嬢としての『点検』なのですから」
ミハイリアの声は強気だが、その語尾はどこか甘えるように揺れている。カイルは苦笑し、再び膝の上に置いていた書類に視線を落とした。
だが、隣にいる少女の存在感が大きすぎて、文字が一つも頭に入ってこない。
彼女のプラチナブロンドの髪から漂う、摘みたての薔薇のような香りが鼻腔を満たす。
騎士団の無骨な東屋には、あまりに場違いで、けれどあまりに愛おしい香り──。
「カイル」
ふいに、彼女が名前を呼んだ。いつもの高飛車な調子ではなく、どこか心細そうな、小さな声だった。
「はい、ミハイリア様」
「……来月の、建国記念祭のことですけれど」
「祭典ですね。王都中が賑わう、一年で最大の行事だ」
カイルが応じると、ミハイリアは膝の上で指先を弄びながら、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「予定は……どうなっていますの? 筆頭公爵家の令嬢として、一応、警備体制の不備がないか知っておきたいのですわ」
「ああ、それならご安心を。俺は当日の警備総指揮を任されています。騎士団の全戦力を導入して、万全の態勢を敷くつもりです。……残念ながら、俺自身が丸一日非番というわけにはいきませんが」
その言葉を聞いた瞬間、ミハイリアの肩が目に見えて落胆したように下がった。彼女は「そうですの」と短く呟き、視線を地面に落とす。
「……なら、仕方がありませんわね。私は、お父様が勝手に選んだ、どこぞの退屈な貴族の誘いでも受けることにしますわ。せいぜい、民衆に混じって私のドレスを汚そうとする不逞な輩を、必死に追いかけていなさいな」
その言葉の裏にある寂しさを、カイルが読み取れないはずがなかった。
彼女は、彼に誘ってほしかったのだ。あるいは、一緒に過ごせる時間を探していたのだ。
カイルは胸の奥がチクリと痛むのを感じた。職務は絶対だ。だが、彼女のこの健気な誘いを、このまま無視することはできなかった。
「……申し訳ありません。ですが」
カイルは言葉を継いだ。
「夜、城の広場で打ち上げ花火が上がる頃には、主要な交代が完了します。……その時間になれば、一時間ほどは持ち場を離れられるかもしれません」
ピクリ、とミハイリアの肩が跳ねた。彼女はゆっくりと顔を上げ、期待を隠しきれない目でカイルを見た。
「本当ですの!? ……あ、いえ、別に、あなたが来ようと来まいと、私の夜の美しさは変わりませんけれど。夜空に咲く火花を背景にした私を見られないのは、あなたの人生にとって大きな損失だと思っただけですわ」
「ええ、その通りです。ミハイリア様の最も美しい瞬間を見逃すなど、騎士失格ですね」
カイルが少し真面目な顔で言うと、ミハイリアは顔を真っ赤にして扇で口元を隠した。
「な、……っ、急に何を。本当に、デリカシーがないというか、節操がないというか……。……もし、万が一、億が一、あなたが奇跡的に暇だと言うのなら、花火の見えるテラスに立ち寄るくらいは許してあげてもよろしくてよ? あくまで、護衛の報告を受ける『ついで』としてですわ」
「それは楽しみだ。ミハイリア様に許しをいただけるなら、死ぬ気で仕事を片付けて、一秒でも早くそのテラスへ向かいますよ」
「……死なれては困りますわ。……本当に、バカな人」
ミハイリアはそう言って、カイルの手の甲に、自分の白く小さな手をそっと重ねた。
ごつごつとした騎士の手と、柔らかで繊細な令嬢の手。彼女は逃げ出さないように、けれど壊れ物を扱うような優しさで、その指を絡めてくる。
「いいですか。これは、あなたが寂しそうな顔をしていたから、慈悲深い私が哀れみの心で触れているだけです。勘違いしないでくださいね?」
「ええ、分かっていますよ。ミハイリア様は、慈悲深く、そして……世界で一番お優しい方だ」
カイルが大きな手で彼女の小さな手を包み込むように握り返すと、ミハイリアは喉の奥で「ひゃっ」と小さな声を漏らした。
彼女は今度こそ限界だったのか、顔を真っ赤にして、弾かれたように立ち上がった。
「な、内容に不備があると困りますから、明日も同じ時間に書類を持ってきますわ! 遅れず待っていなさいな!」
足早に去っていく彼女の背中を見送りながら、カイルは自分の右手に残る柔らかな感触を確かめるように、ゆっくりと拳を握った。
『勘違いしないでください』
その言葉が、もはや「もっと側にいて」という甘い囁きにしか聞こえなくなっている自分に、彼はただ苦笑するしかなかった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。ハイランド騎士団の第一訓練場には、乾燥した土埃と、鍛錬に励む男たちの熱気が渦巻いていた。
「腰が浮いているぞ! それでは実戦なら一撃で首を飛ばされる!」
カイルの鋭い怒声が響き渡る。手にした木剣で新人の姿勢を厳しく正すその姿は、昨日の夕暮れ、東屋で令嬢のわがままに目を細めていた男と同一人物とは思えないほど、峻烈な副団長そのものだった。
だが、そんなカイルの背後に、訓練の合間の休憩に入った部下たちの、隠しきれないニヤニヤとした視線が突き刺さる。
「……副団長。そろそろ定刻じゃないっすか?」
カイルが汗を拭いながら振り返ると、そこには茶化すような笑みを浮かべた若手の騎士、レオンがいた。
「何のことだ?」
「とぼけないでくださいよ。ほら、あっち。もう、東屋のあたりに薔薇の香りが漂ってきてる気がしますぜ」
レオンが指差した先、演習場の入り口には、一台の豪華な馬車が止まっていた。ラングレー公爵家の紋章が刻まれたその馬車からは、侍女を一人伴ったミハイリアが、まばゆいばかりのドレス姿で優雅に降りてくるところだった。
「副団長、今日も重要書類の確認があるんですか? 大変っすねぇ、毎日毎日、公爵令嬢自ら届けてくださるなんて」
「全くだ。俺たちのところには、団長からの小言の書かれた紙切れしか届かないっていうのにさ」
他の騎士たちも口々に囃し立てる。彼らにとって、高嶺の花であるミハイリアが、無骨な騎士団に足繁く通う理由は、もはや周知の事実となっていた。
「お前ら、訓練に戻れ。公爵令嬢に対して失礼だろう。……ミハイリア様は、あくまで我が騎士団の活動を熱心に支援してくださっているだけだ」
「はいはい、支援ねぇ。支援にしては、副団長の指定席への執着が凄まじいようですけど?」
カイルは部下たちの冷やかしを無視して、足早に東屋へと向かった。だが、背中越しに「副団長、顔が緩んでますよー!」というレオンの叫び声が聞こえ、思わず足元がもつれそうになる。
東屋に辿り着くと、そこにはすでにミハイリアが座っていた。昨日の今日だというのに、彼女はまるで何事もなかったかのような澄ました顔で、一束の書類を机に置いている。
「遅いですわよ、カイル。私をこんな砂埃の舞う場所で待たせるなんて、万死に値しますわ」
「……申し訳ありません。ちょうど新人のしごきが終わったところでして」
カイルが席に着こうとすると、ミハイリアは素早く自分の隣のスペースを空け、ドレスの裾を整えた。その動作は、まるで「ここに座りなさい」という無言の強制である。
「それで、その……。さっき、あそこで騒いでいた部下の方々は何を言っていましたの? 私の方を見て、下品に笑っていたようですが」
「いえ、大したことではありません。『今日もミハイリア様がお美しくて、訓練に身が入らない』と、そんな馬鹿なことを言っていただけですよ」
カイルが咄嗟に嘘をつくと、ミハイリアは扇をバサリと広げ、顔の半分を隠した。だが、隠しきれない耳の先が、たちまち鮮やかな桃色に染まっていく。
「……っ! 本当に、騎士団というのは不躾な男たちの集まりですわね! 私が美しいのは生まれつきで、当たり前のことです。それをいちいち口に出して騒ぐなんて……。勘違いしないでくださいませ。 私は、彼らに見せつけるために着飾っているわけではありませんからね?」
「ええ、分かっています。俺一人のために、ですよね?」
「な……っ!? な、なぜそう、厚かましい解釈ができるのですか! あなたのためではなく……そう、公爵家の威信のためですわ! 威信のため!」
ミハイリアは憤慨してみせるが、その瞳はちっとも怒っていない。それどころか、カイルが隣に座ったことで満足したのか、少しだけ体の力を抜き、彼の方へと僅かに傾いてくる。
カイルは、周囲の部下たちが物陰からこちらを覗き見ていることに気づいていた。
(……全く、見せ物じゃないんだがな)
そう思いつつも、隣から伝わってくる彼女の熱と、強がりの中に透けて見える純粋な好意が、カイルの心を温かく満たしていく。
「ミハイリア様。そんなに顔を赤くしていては、本当に部下たちが『副団長が令嬢を口説いている』と勘違いしてしまいますよ」
「勘違いなら、勝手にさせておけばよろしいではありませんか! ……どうせ、……嘘ではありませんもの」
最後の一節は、風の音にかき消されるほど小さかった。
「何か言いましたか?」
「何でもありませんわ! ほら、早く書類を確認しなさいな。不備があったら、お父様に言いつけますわよ!」
彼女は再びツンとした態度に戻るが、その指先は、カイルの制服の袖口を、所在なげにツンツンとつついているのだった。
カイルは部下たちの視線を背中に感じながら、彼女とのこの騒がしくも甘い日常を、もう少しだけ楽しむことにした。
◇ ◇ ◇
建国記念祭の当日。王都は夜明け前から、祭りの熱狂に包まれていた。通りには色とりどりの旗がはためき、屋台からは香ばしい肉の焼ける匂いや甘い菓子の香りが漂う。
だが、警備の総指揮を執るカイルにとって、この賑わいは戦場にも等しい緊張感の同義語だった。
「北門付近で酔客の諍い! 第三小隊、直ちに向かえ!」
「迷子の保護、収容所へ誘導! 空いた穴は予備兵で埋めろ!」
カイルは愛馬を駆り、王都中を縦横無尽に駆け回っていた。
太陽が天頂を過ぎ、西の空が茜色に染まり始めても、報告は途絶えない。迷子の案内から、スリの現行犯逮捕、さらには貴族同士の些細な面子争いの仲裁まで。
(……くそ、もうこんな時間か)
懐中時計を確認する余裕すら惜しい。空はすでに深い紺色に沈み、街の至る所で魔導提灯が灯り始めている。
ミハイリアとの約束の時間は、刻一刻と迫っていた。
「副団長! 南広場の混雑、ピークを越えました! 交代要員が到着しています!」
レオンの叫び声に、カイルは弾かれたように顔を上げた。
「よし、あとは任せる。不測の事態があれば、すぐに信棒弾を上げろ。俺は……最終巡回に行ってくる!」
「はいはい、『テラス方面の厳重警戒』ですね! 行ってらっしゃい!」
部下たちの冷やかしを背中で聞き流しながら、カイルは全力で走り出した。重い鎧をつけたままの全力疾走は、日々の訓練を積んだ彼であっても肺が焼けるような苦しさを伴う。
だが、一分一秒でも早く彼女の元へ行かなければならないという焦燥感が、足を前に突き動かした。
──ドォォォォン!!
その時、腹の底に響くような重低音と共に、夜空に最初の一発──開会を告げる大輪の金色の花火が咲き乱れた。
「……っ、間に合え!」
カイルは公爵家の指定テラスへと続く大階段を、二段飛ばしで駆け上がった。息は絶え絶えで、制服の襟元は乱れ、額からは汗が滴っている。
テラスの重厚な扉を押し開けると、そこには夜風にその柔らかなプラチナブロンドの髪をなびかせ、一人静かに夜空を見上げる少女の背中があった。
「……遅い。遅すぎますわ、カイル」
ミハイリアは振り返らなかった。だが、その声は凍りつくような冷たさと、今にも砕け散りそうな脆さが混ざり合った、複雑な響きを帯びていた。
「申し訳、ありません……ミハイリア様。……遅くなりました」
カイルは彼女の数歩後ろで立ち止まり、激しい鼓動を整えようと深く息を吐いた。
彼女はゆっくりと、時間をかけてこちらを振り向いた。その瞳は、夜空で弾ける火花の光を反射して、まるで涙を湛えているかのように潤んで見える。
「もう、花火は半分以上終わってしまいましたわよ。……私、どれほどここで待っていたと思っているのですか? 他の殿方からの、贅を尽くした夜会の誘いを全て断って……この寒空の下、一人で、退屈な時間を……」
ミハイリアの言葉が途切れる。彼女の手は、手すりを白くなるほど強く握りしめていた。
「本当に、申し訳ない。……どんな償いでもします。俺を……嫌いになっても構わない」
「大嫌いですわ! 今さら何を!」
ミハイリアは叫ぶように言い、一歩、カイルの方へ踏み出した。
「……だから、責任を取って。……私の隣に、今すぐ座りなさい。これは公爵令嬢としての、命令です」
カイルは促されるまま、彼女の隣に腰を下ろした。いつもの東屋と同じ距離。
けれど、今日はその距離がもどかしいほどに、お互いの感情が昂ぶっていた。
「カイル。……私、あなたのことが、本当に……その、憎たらしいほど大嫌いですわ」
「……はい」
「身分の差も考えず、私を一人にして。……汗臭い制服で現れて。……本当に、最悪な騎士ですわ」
「おっしゃる通りです。俺は、貴女に相応しくない」
「……だから。……だから、一生かけて責任を取りなさい。私の隣にいても良いのは、この世界で、私にこれほど恥をかかせた貴方だけなのですから」
ミハイリアは、震える手でカイルの逞しい腕をぎゅっと抱きしめた。
カイルが驚いて彼女の顔を見ると、彼女は頑なに視線を夜空に向けたまま、けれどその頬には一筋の光るものが伝っていた。
「ミハイリア様。それは、つまり……」
「勘違いしないでくださいませ!」
彼女は声を荒らげた。けれど、その腕に込められた力は、決して彼を離さないという強い意志に満ちていた。
「これは、私の警護を完璧にするための、終身契約のようなものです。あなたが側にいないと、退屈な男たちが寄ってきて不快なのですわ。……決して、あなたと一緒に花火が見たかったとか、……あなたの顔が見たくて仕方がなかったとか、……好きだとか愛しているとか、そういう……軟弱な理由では、ありませんわよ……っ」
最後の方は、打ち上がる花火の音にかき消されそうなほど小さな囁きだった。
カイルは、彼女の強がりの中に秘められた、痛いほどの純愛を丸ごと受け止めるように、ゆっくりと彼女の肩を抱き寄せた。
「ええ、分かっています。……これは警護任務。それも、一生終わることのない、過酷な任務ですね?」
「そうですわ。……辞職など、万に一つも認めませんから」
「なら、謹んでお受けします。……我が命に代えても、貴女の隣を守り抜きましょう」
ミハイリアは一瞬、弾かれたように目を見開いたが、すぐに安堵したように吐息を漏らし、カイルの胸にその小さな頭を預けた。
「……当然ですわ。……大好き、なんて。……口が裂けても、絶対に言いませんからね」
「はい。俺も、『愛している』なんて言葉は、今はまだ取っておきます。……貴女が、本当の勘違いをしてくれるその日まで」
「……っ、バカ! 本当に、大嫌いですわ……っ!」
夜空を埋め尽くすフィナーレの花火。眩い光の下で、二人の影は溶け合うように重なっていた。
「勘違いしないで」と言いながら、彼女が繋いだ手のぬくもりは、どんな言葉よりも深く、カイルの心に刻まれていた。
おしまい
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