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契約結婚は破綻しました。

作者: 櫻井みこと
掲載日:2026/03/31

「契約通り、望むだけの金額は支払う。だから、こちらには干渉するな」

 冷たい瞳でそう言ったのは、今日から夫になった男性だ。

 アドレイト公爵家の当主、ギースロード。

 金色の髪に青い瞳。

 背が高く、すらりとした身体に、整った顔立ち。

 貴族の令嬢たちからの人気も高く、望めばどんな女性だって妻にできたはずだ。

 けれどそんな彼が妻に選んだのは、ローリ伯爵家の娘メリアである。

(初めに手紙が来たときは、本当に驚いたわね……)

 メリアは目の前の夫を見上げながら、そのときのことを思い出す。

 アドレイト公爵から手紙が来たとき、母が真っ青な顔をして部屋に駆け込んできた。メリアは母の剣幕に驚いて、刺繍針を思いきり、指に刺してしまったほどだ。

「どうしたの? 借金の取り立て?」

「ち、違うわ。あなたに手紙が……」

 手紙ひとつでどうしてそんなに慌てているのかと、訝しげに思いながらそれを受け取る。

 それがアドレイト公爵からだと知って、母の慌てようを理解した。

 アドレイト公爵が花嫁を探していることは、ここ最近社交界から離れているメリアでも知っていた。母は、夜会の招待状かもしれないと興奮していたのだ。

 たしかに裕福な男性との結婚は、この現状から逃げ出すのに有効な手段かもしれない。だから母の気持ちもわかるが、招待状などもらっても、着ていくドレスがないのだ。

 ローリ伯爵家は祖父の代ですっかり没落し、少しでも値の張るものはすべて売り払ってしまっているのだから。

 しかも、そんなローリ伯爵家の事情は、社交界に知れ渡っている。

 親切な「友人」が気の毒だと言って、いたるところで言い触らしてくれたからだ。おかげで年頃になっても、メリアに求婚する者はひとりもいなかった。

 メリア本人も、結婚なんて諦めている。せめて妹のリーアだけはと、せっせと内職に励む日々だ。

(せっかくだけど、夜会に参加するくらいなら、刺繍をひとつ仕上げたほうがましだわ)

 そんなことを思いながら開いた手紙には、思いがけない言葉が記されていた。

 あなたと結婚しようと思っている。

 そう書かれた文字を、メリアは呆然と見つめた。

(……どういうこと?)

 もちろん、彼とは面識がない。

 もしメリアが絶世の美女ならば、あり得るかもしれない。

 でも実際は平凡な容姿の貧乏貴族だ。彼ほどの人間が望む理由は、ひとつもない。

 きっと何か、胡散臭い理由がある。

 そう思っていたメリアだったが、結局はその申し出を受けることにした。彼と結婚すれば、伯爵家に援助をすると約束してくれたからだ。

 公爵家の援助があれば、兄でも妻を娶ることができるかもしれない。妹だって、まともな結婚ができるかもしれないのだ。

 手紙で返事をすると、すぐに結婚式の日取りを伝えてきた。

 こうして一度も顔を合わせることがないまま、メリアは結婚式を迎えた。

 結婚式の当日に対面したアドレイド公爵は、噂通りの美形だった。

 すらりとした長身に、白い礼服がよく映える。

 その隣に並ぶことを考えると、少し憂鬱になってしまうくらいだ。

 自分のドレス姿を見て、溜息をつく。

 身長は女性にしては高いが痩せ型で、まったく女らしい体型ではない。

 漆黒の髪はこの国では珍しいものだが、手入れを怠っていたせいで、パサついている。肌は白いが、ずっと内職をしていたせいで、手は荒れ放題。

とても花嫁には見えない。

「そんな顔をしても無駄だ」

 メリアの嘆きを勘違いしたらしいアドレイド公爵は、冷たい声でそう言った。

(え? どんな顔?)

 そんなに情けない顔をしていたのだろうか。

 頬に手を当てて、首を傾げる。

「私がお前を愛することはない」

「は? あ、はい」

 思いがけない言葉に、思わず返答してしまっていた。

 そんなことは期待していないし、望んだこともない。

 ただ年頃の娘として、あまりにもみすぼらしい花嫁姿を嘆いていただけだ。

「約束通り、実家に支援はしよう。だが、それ以外のことは期待するな」

 それを彼は、愛されることを期待したのに、叶えられないと知って絶望したように見えたのだろうか。

 女性ならばすべて、自分に恋をすると確信しているような言動だ。

(あれだけ美形なら仕方がないかもしれないけれど。ちょっと、自意識過剰ではないかしら……)

 メリアが結婚したのは、完全にお金目当てである。

 兄と妹のために、彼との結婚を承諾したにすぎない。

(そう伝えても、きっと信じないんでしょうね)

 きっと彼なりの事情があって、メリアに求婚したのだろう。

 結婚が煩わしいとか、秘密の恋人がいるとか、叶わない恋を貫いているのだとか、理由はいろいろとありそうだ。

 でもそんな事情ですら、メリアには興味はないのだ。


 結婚式も、思っていた以上に針の筵だった。

 女性達にはどうしてあんな女が公爵の妻に、と囁かれ、男性には、好奇の視線を向けられる。

 社交界にはほとんど出ていなかったから、マナーも不慣れで、それも笑われているようだ。

 契約結婚なのだから、いっそ結婚式も不要だったのではと思うくらい、メリアは疲弊していた。

 苦痛だった結婚式もようやく終わり、公爵家に戻る。

 メリアに宛がわれた部屋はあきらかに客間で、公爵夫人の部屋ではなかった。それでも伯爵家の自分の部屋に比べると充分に広く、綺麗な部屋だ。

「公爵様は今夜、ここを訪れることはありません」

 着替えを手伝ってくれた侍女が、冷たい声でそう告げた。

 さすがに公爵家に勤めているだけあって、メリアよりも彼女のほうが身綺麗にしている。彼女もまた、主と同じように、貧乏貴族の娘だと見下しているのかもしれない。

「そう。わかったわ」

 夜の訪れがないことは、むしろメリアにとってはありがたいことだ。

「疲れたので、もう休みます」

 そう告げると、さっさと寝台に横になった。

「夕食は、こちらで?」

「いらないわ」

 夕食を抜くことなどしょっちゅうだったから、空腹も気にならない。ただ、疲れだけはどうしようもなくて、もう朝まで眠ってしまいたかった。

 さすがに侍女は戸惑ったようだが、それでも言葉通りに部屋を出て行った。

 目を閉じると、公爵の冷たい視線を思い出す。

 完全に見下した瞳で彼は、お前を愛することはないと言い放った。

(わたしだって絶対に、あなたを愛することはないわ)

 いつまで夫婦でいられるかわからないが、それだけはたしかだった。

 結婚式が終わったあとも、メリアはほとんど宛がわれた客間から出ずに、家族に手紙を書き、刺繍などをして過ごしていた。

 公爵は約束通り、きちんと家族には支援をしてくれたそうだ。ひさしぶりに妹のためにドレスを仕立てたと書いてあって、ほっとする。

 せめてかわいい妹には、きちんとした結婚をしてほしい。

 その公爵とは、ほとんど顔を合わせていない。

 最初のうちは食事をともにしていたが、彼はずっと不機嫌そうな顔をしている。

そんな人と食事をしても楽しくなかった。

 あんな顔をしているくらいだ。向こうだってそう思っているに違いない。

 そのうち理由をつけて、メリアの分は部屋に運んでもらうようになった。

 それに、公爵家で出される食事はとてもおいしいが、量が多すぎて食べきれない。

 メニューも、もっと質素でいい。あまり豪華な食事が出ると、胸焼けをしてしまうくらいだ。

(貧乏生活に慣れきってしまったのね)

 パンとスープ、そして果物だけでいいと侍女に頼むことにした。

 そう言われた侍女は訝しそうな顔をしていたが、理由を尋ねることなく、その通りにしてくれた。

 ドレスも、華美なものは必要ない。

 あの公爵が自分を連れて夜会に出ることはないだろうから、動きやすくて質素なドレスがあればいい。

 侍女は、食事を運んでくれるときだけ来てもらうことにして、着替えも髪を整えるのもひとりでやった。手慣れているし、そのほうが気楽だ。

 ほとんど誰にも会わずに、部屋に引きこもって過ごす。公爵の気が済むまで、こんな生活が続くのだと思っていた。


 それが少し変わったのは、メリア付きの侍女が交代してからだ。

 身支度に手間が掛からないので、若い侍女からメリアの母親のような年齢の侍女に代わったらしい。

 彼女は貴族ではなく平民だったが、その侍女が、とても世話好きだった。

「奥様、食事はきちんと毎回、食べなくてはいけません。こんなに痩せてしまって」

 そう言って日に三度、食事を運んでくる。

 でもメリアはあまり量を食べられず、無理に食べると体調を崩してしまう。それを知ってからは、食べやすくて栄養のあるものを用意してくれるようになった。そこまでしてもらっては、食べないわけにはいかない。

 そんな食事をしているうちに、メリアの外見が少しずつ変わってきた。乾燥していた肌は、しっとりと。髪も艶やかになってきた。

 やつれて、年齢よりも年上に見えていた容貌も、頬がふっくらとして女性らしくなってきた。

 毎日、少しずつの変化だったから自分では気が付かなかった。

 だから侍女に促されて、ひさしぶりに鏡を見たときは、本当に驚いた。

「え? 誰?」

 あまり外に出なかったので、日焼けをしていた肌は白くなっていた。

 漆黒の髪は、侍女が毎日手入れをしてくれていたので、艶やかで美しく。

 そしてふっくらとした薔薇色の頬。女性らしい柔らかな曲線を描く身体つき。

 侍女に促されてドレスも着替えてみると、まるで別人のようだ。

(びっくりした……。こんなに変わるのね)

 今までは、栄養状態が悪すぎたようだ。言われてみれば、兄と妹のために自分の食事は極力減らしていた。

「少しは外に出たほうがよろしいですよ。庭を散歩しませんか?」

「行ってもいいのかしら?」

 そう尋ねると、侍女はもちろんだと頷いた。

 彼女に連れられて、見事に整えられた庭園を歩く。

 ちょうど薔薇の季節のようで、美しい花が咲き乱れていた。

「……綺麗」

 思わずそう呟く。

 でもまさかここで、数か月会っていなかった夫の公爵に会ってしまうとは思わなかった。

(ああ、また不機嫌な顔をされるのね)

 整った顔立ちをしていて、見るだけでしあわせになれると噂されている公爵だったが、メリアにとっては気鬱の原因でしかない。

 どんな美形でも、顔を合わせるたびに不機嫌な顔をされてしまえば、好きになるのは特殊な性癖を持っている者だけだ。

 顔を合わせないうちに、立ち去ろう。

 そう思って踵を返したが、背後から声を掛けられた。

「ここで何をしている?」

 面倒なことになった。

 そのまま無視をして立ち去ろうかと思ったが、親身になってくれた侍女が、彼に咎められるようなことがあってはいけない。

 振り返ったメリアを眺めた公爵は、なぜか驚いたように目を見開いた。

「君は……」

「申し訳ありません。少し、庭を眺めていただけです。すぐに戻りますから」

 こっちも、なるべく関わりたくない。

 それだけ告げて、さっさと部屋に戻ろうとした。

「待て」

「……っ」

 いきなり腕を掴まれて、びくりと身体を震わせる。

 いくら書類上は夫とはいえ、メリアにしてみれば、馴染みの刺繍業者の男性よりも縁遠い人間だ。そんな男性に不躾に触れられて、嫌悪を感じて振り払った。

「離してください」

「あ……。すまない」

 てっきり激高するかと思った公爵は、なぜか狼狽えたようにそんな言葉を口にした。

(すまない? 私の聞き間違いかしら?)

 まさか彼が謝罪するとは思わなかった。

 驚愕を隠そうともしないメリアに、公爵は困ったように首を傾げる。言葉を探すように、視線を彷徨わせる。

 やがて、微笑みを浮かべながらこう言った。

「見違えたよ。最初は君だとわからなかったくらいだ」

「……」

 たしかに自分でも別人かと思ったくらいだから、公爵が驚いたのも無理はないと思う。

 それ自体を不快に思うことはない。

 嫌だったのは、彼の声が急に優しくなったことだ。

 結婚式当時のメリアは、みすぼらしかった。

 痩せすぎた身体に、痛んだ髪。日焼けもしていて、花嫁にはとても見えなかっただろう。

 今とはまったく違う。

 侍女が手を掛けてくれたお陰で、たしかに美しくなったのかもしれない。

 でも心は同じなのだ。

 お前を愛することはないと蔑んだ男から、優しくされて嬉しいはずがなかった。

「彼女のお陰です。私などを気にかけて、色々としてくれました」

 その侍女もまた、公爵家が雇った人間だ。

「ありがとうございました」

 だから、感謝の言葉を口にして、会釈をしてその場を立ち去ろうとした。

「待ってくれ」

 だが公爵は、そんなメリアを呼び止めた。

「この奥に、珍しい薔薇がある。それを君に見せたい」

 そう言うと、先に歩き出した。

「……」

 メリアがついてくると信じて疑わない態度に、思わず溜息が出る。

 このまま放って置きたいくらいだが、一応彼には、実家の支援をしてもらっている恩がある。結婚と引き換えの条件とはいえ、少しくらい我慢をするべきかもしれない。

 そう思って、仕方なくついていくことにした。

 向かった先にあった薔薇は、たしかに見事なものだった。

「黒薔薇?」

 よく見れば、真紅の薔薇だ。

 だがあまりにも深い紅が、まるで漆黒のように見える。

 彼が言うように、たしかに珍しく美しい薔薇だ。

「……綺麗」

 思わず口にすると、公爵は甘い顔で微笑んだ。

「今の君に、ぴったりの薔薇だと思う」

 艶やかなメリアの黒髪が、黒薔薇のようだと讃えてくれたのだろう。

 公爵に憧れている令嬢たちなら、たちまち頬を染めて俯いたに違いない。

 だがメリアの心には、少しも響かなかった。

「貴重な薔薇を見せていただき、ありがとうございました」

 そう言うと、まだ何か言いだけな公爵をその場に残して、さっさと部屋に戻った。

 少し憂いを帯びた顔でこちらを見つめる姿は、彼に好印象を抱いていないメリアでさえ、思わず見惚れそうになる。

 でも、絶対に彼に心を許してはいけない。

 そう強く思う。

 たとえ今は優しい声で甘い言葉を囁いていたとしても、結婚式のときに見たのが、彼の本性だ。メリアがもとに戻れば、また態度を変えるに違いない。

 それなのにこの日から、メリアの快適だった生活はまったく変わってしまった。

 最初に、部屋を移動しろと言われた。

 移動先は、公爵の隣。つまり公爵夫人の部屋だ。

 もし最初からこの部屋に案内されていたら、おとなしく住んでいたかもしれない。

 でも最初は、勘違いするなと言わんばかりに客間に住まわせておいて、今さら移動しろと言われても従うつもりはない。

 それを侍女に告げると、彼女は困ったような顔をしながらも、メリアの意志を公爵に伝えてくれた。

 それでも、無理に命令をするようなら、従うしかないと思っていた。侍女に迷惑を掛けるわけにはいかない。

 でもなぜか彼は、メリアの意志を尊重してくれた。

 移動する気になったら、いつでもそうしてほしい。

 それが侍女を通して伝えられた言葉だった。

 公爵夫人として必要なものだからと、ドレスや宝石をたくさん贈られたが、ほとんど部屋から出ないメリアがそれを着用することはなかった。

 今さら、公爵夫人扱いをされても困る。

(でも、最新の流行を知るには役立ったわ。刺繍のデザインを今風にしたら、もっと高く売れるようになったもの)

 公爵とまともな関係を築くことを、メリアは結婚式の日に諦めていた。それでも最初は、実家に援助をしてもらっていることもあり、公爵夫人としての仕事をしっかりとこなすつもりだった。

 そのための勉強もした。

 だが彼の返答は、余計なことをするな、のひとことだけ。

 メリアに求められていたのは、本当に形だけの妻だったのだ。

 だから公爵と結婚してからも、メリアは刺繍の仕事を続けることにした。注文は手紙で受け取り、納品は侍女に頼んでいる。

 時間はたくさんあるし、彼があの態度では、公爵側の一方的な都合で急に追い出される可能性もあると思っていた。

 今のうちに、少しでもお金を稼いでおいたほうがいい。

 その考えは変わっていない。

 プレゼントに、形式的なお礼を言うだけの日々が続いたあと。

 公爵は侍女を通して、何か望みはないかと聞いてきた。

 少し考えたあと、メリアは妹のリーアに会いたいと言ってみた。さすがに無理だと思っていたのに、数日後には本当に妹がメリアを訪ねてきた。

「お姉様!」

 公爵家の豪邸にやや緊張気味だったリーアは、メリアとふたりきりになるとそう言って抱きついてきた。

「リーア。元気だった?」

「はい。お姉様のお陰で、ちゃんと暮らせるようになりました。お姉様も元気そうで。本当によかった……」

 リーアは最後まで、この身売りのような結婚に反対してくれていた。

 両親が乗り気だったこと。そしてメリア本人が結婚を望んだこともあり、結局公爵の申し出を受けることになったが、何度も手紙を送ってくれていた。

 そんな妹は、美しく変貌したメリアの姿を眩しそうに見つめている。

「みんなは元気?」

「うん、元気よ。お姉様のお陰で何とか暮らせるようになったわ」

 両親は相変わらずだが、兄が家を立て直そうと必死に頑張っているようだ。公爵からの支援金も、いつか必ず返すと言っているらしい。

 少し頼りないと思っていた兄の変わり様に驚く。

「お姉様は、大丈夫? ここって、客間よね?」

 不安そうなリーアに、メリアは今までのことを詳しく話した。

 結婚式の当日に、夫となった公爵に言われた言葉。

 客間に住まわせられて、公爵夫人としての仕事も拒絶されたこと。

 でも、侍女がいろいろと手を尽くしてくれたお陰で健康になれた。

 この姿で会ってから、公爵の態度が変化したことも。

「……そうなの。公爵様は、お姉様にそんなことを」

 メリアの話を聞いた妹のリーアは、そう呟くと黙り込んだ。

「初めから契約結婚だもの。愛情なんて、期待するはずがないじゃない。それなのに向こうは、私が彼の愛を得たいと思っている前提で、話をするのよ」

 姉妹の気安さで、つい愚痴っぽくなる。

「今は? 優しくなった公爵様に、愛されたいと思っている?」

「全然。だって、最初からあんな言葉を投げかけられたのよ?」

 契約結婚とはいえ、けっして少なくない額を支援してもらうのだ。きちんと義務は果たすつもりだった。夫婦にはなれなくても、人生のパートナーとして協力していければと思っていた。

 でも彼が望んでいたのは、本当に形だけの妻だったのだ。

「それなのに、急に優しくされても困るというか。気持ち悪いわ」

 あまりにも正直な感想を述べたメリアに、リーアは笑みを浮かべる。

「お姉様らしいわ。ねえ、お姉様は公爵様が結婚を急いだ理由を知っている?」

「いいえ。興味がなかったから、全然知らないわ」

 本当にどうでもよかったから、調べようとも思わなかった。

「そう。でも、お姉様は知っておいたほうがいいかもしれない」

 リーアは声を潜めて、その真相を語ってくれた。

「公爵様は、半年前にご結婚なさった王太子妃殿下のことが、ずっとお好きだったらしいの」

 どうやら叶わぬ恋のパターンだったようだ。

「王太子妃殿下……。レイスター侯爵家の御令嬢、ミリファン様ね」

 その美しさは、ひっそりと暮らすメリアたちの耳にも入ってきたほどだ。どうやら彼女と公爵は幼馴染だったらしい。

 しかもミリファンが王太子妃となったあとも、慣れない環境で戸惑う彼女を支えたいと、頻繁に会っていたようだ。

 でもふたりきりではないとはいえ、さすがに続けば不義を問われてしまう可能性もある。

 その噂を消すために、公爵は結婚を急いだ。彼に必要だったのは、自分に干渉しない、形だけの妻だ。

(それって今も、王太子妃殿下のことが好きだって言うことよね?)

 ミリファンも軽率だと、メリアは思う。

 王族の、しかも王太子の妻になったのなら、身内以外の男性は遠ざけるべきだ。いくら幼馴染とはいえ、ひとりの男性と頻繁に会っていれば、彼女が子を宿したとき、その正当性を疑う者が出てくる可能性がある。

 それが事実ではなくとも、噂が出るだけで我が子の将来に影を落とすかもしれないのに。

「公爵様が王太子妃殿下とこれからも会いたいと思うのなら、お姉様の存在が重要になる。王太子妃殿下とはただの幼馴染であり、自分には愛する妻がいるという形を保つためにね」

 まぁ単純に、綺麗になったお姉様のことが、王太子妃殿下よりも好きになったかもしれないけれど、とリーアは笑った。

「さすがにそれはないわ」

「わからないわよ。お姉様、本当に綺麗になったもの」

「からかわないでよ」

 でもそう考えると、彼が急に優しくなったのにも、何か裏がありそうな気がしてくる。

「今日、リーアに会えてよかったわ。でも、そんな話をどこで聞いてきたの?」

「お姉様のお陰で、私も社交界に出入りすることができるようになったから。黙って笑っていれば、いろんな人がいろんな噂を話してくれるわ」

 そう言うリーアは、別れる前よりも大人びたようだ。

それからは家族の近況や刺繍の話など、他愛もないことを話してから、妹は帰って行った。

(……さて。これからどうしようかしら)

 ひとりになったメリアは、考えを巡らせる。

 急に優しくなった公爵は気持ち悪いとしか思っていなかったが、何か裏があるのだとしたら、それに巻き込まれないように細心の注意を払わなくてはならない。


 その日の夕方のこと。

「奥様、本日はどうなさいますか?」

「そうね……」

 侍女に夕食をどうするか聞かれ、いつものようにこの部屋で食べようと思っていたメリアは、ふと考えを変えた。

 一応、妹に合わせてもらった礼を言わなくてはならない。

「今日は、向こうに行きます」

 それにあの話を聞いたあとでは、公爵がどんな様子なのか気になる。

 彼の本心を探り、状況を見極めなくてはならない。

「畏まりました」

 侍女はにこりと笑ってそれを承諾し、厨房に伝えるために部屋を出て行った。

「さて。どうなるかしら……」

 侍女が戻る前にさっさと着替えをして、黒髪を邪魔にならないようにまとめた。

鏡を覗き込むと、まだ自分でも見慣れない姿が映る。

 綺麗になったと言われて、嬉しくないわけではない。

 でも、散々ないがしろにされたあとに急に態度を変えられても、気持ち悪いとしか思えない。もし公爵がメリアを利用するつもりがなかったとしても、彼を受け入れることはないと思う。

(それだけは、たしかね)

 準備ができたと言われ、侍女に連れられてダイニングに向かった。

 公爵はもう先に来ていたようだ。

落ち着かない様子だったが、メリアの姿を見ると、嬉しそうに表情を和らげる。

 もしこれが演技なら、相当な策士だ。

「遅くなってしまって、申し訳ございません」

「いや、気にしないでくれ。いくらでも待つよ」

「……」

 本当に、あの結婚式のときと同じ人なのだろうか。思いきり不審そうな顔をしてしまい、慌てて俯いた。

「今日は妹と会わせてくださって、ありがとうございました」

「君の願いなら、叶えるのは当然だ。またいつでも呼ぶといい」

「……ありがとう、ございます」

 思わず笑顔が引き攣ってしまったが、妹とまた会えるのは素直に嬉しかった。こうして彼の許可も得たのだから、また会いに来てもらおうと思う。

「実は君に、ひとつ頼みたいことがあってね」

 食事を終えたあと、公爵は慎重にそう切り出した。

 彼は、ずっと何か言いたそうだった。それが気になっていたメリアは、話の先を促すように、首を傾げる。

「ミリファン王太子妃殿下が、最近少し体調が優れないようでね。気分が塞いでいるらしい。気分転換をしたいらしくて、新しい話し相手を探しているようだ」

 とうとう彼の口から、ミリファンの名が出た。

メリアは緊張から、両手を強く握りしめた。

 公爵の頼みとは、その王太子妃殿下の話し相手になってほしいということだった。

(これは、どうするべきかしら?)

 メリアは思案する。

 わざわざミリファンに会わせようとしているのは、なぜか。

 ただ純粋に彼女を助けたいだけなのか。それとも、ふたりで何かを企んでいるのだろうか。

「私のような者に、王太子妃殿下のお相手が務まるでしょうか?」

 あまり沈黙が続くと怪しまれてしまう。

 メリアはとりあえず、困ったようにそう告げてみた。

 もっとも、それは事実だ。

 何せ、ろくにレディ教育も受けていない貧乏伯爵の娘なのだから。

「それは心配いらない。ミリファンは、私の幼馴染だ。多少のことは見逃してくれる」

「……そうでしたか」

 妹から聞いて知っていたが、初めて聞いたようなふりをして、メリアは驚いてみせる。

 王城に行くのは不安だが、ここは王太子妃に会ってみるべきかもしれない。会えば、どんな女性なのかわかるだろう。

 いくら公爵が大丈夫だと言っても、彼女は王太子妃だ。マナーも知らずに会えるような相手ではない。

 彼の言葉を真に受けて、醜態をさらすわけにはいかないと、メリアはマナーをしっかりと学び直すことにした。

(本当なら、結婚前にきちんと覚えなければならなかったのよね)

 結婚を決めてから式までほとんど時間がなくて、そのときには完全に覚えることができなかった。

 結婚してからは公爵の態度に腹が立ち、どうせ飾りの妻だからと、引きこもって刺繍ばかりしていた。

 それに関しては、自分が悪かったと思う。

 いくら形だけとはいえ、公爵夫人となったのだから、知識や常識はきちんと身に付けるべきだったと反省している。結果、それが自分を守ることにも繋がるかもしれない。

 ひとりで王城に行くのは少し不安だったが、どうやら当日は公爵も一緒に行くようだ。たしかに妻を連れているのではあれば、王太子妃に会っても咎める者はいないだろう。

(ああ、そういうことね)

 一緒に行くから心配はいらないと言った公爵に、彼の本当の目的を知る。自分の妻を王太子妃の話し相手に推挙すれば、彼女と会う正当な理由になるだろう。

 自分のような女に王太子妃の話し相手は務まらないと、断るべきだったと思うが、もう遅い。

 彼の思惑に乗ってしまったようで癪だが、今さら断ることはできない。

 一度、王太子妃のミリファンに会ってみるのも良いかもしれないと、自分を納得させるしかなかった。

 こうしてメリアは夫とともに王城に向かい、王太子妃のミリファンと対面した。

 噂通り、同性のメリアでも思わず見惚れてしまうくらい、美しい人だった。金色の豊かな巻き毛に、陶器のような白い肌。身に付けているものも、すべて一流品だろう。そのドレスに施された刺繍に、目が釘付けになった。

(さすがにすごいわ。ここまでは無理だけど、もう少しシンプルなデザインにしたら、流行りそうね)

 そんな分析をしているメリアの前で、ミリファンは立ち上がり、傍に立っていた公爵に飛びついた。

「ギースロード! 会いたかったわ。もう少し早く来てほしかったのに」

「すまない。支度に少し手間取ってね。体調はどうだ? 顔色は悪くはないね」

 いくら幼馴染でも、すでに王太子妃となった女性に対する態度ではなかった。周囲にいた王太子妃付の侍女たちも、気まずそうな顔をして視線を反らしている。

 中には、目の前で夫が他の女性を抱きしめているメリアを、同情するように見ている者もいた。

でもメリア本人は、その聞きなれない名前が公爵のものだとようやく思い出していた。

(ああ、そういえば彼、ギースロードという名前だったわ)

 名前さえ思い出せなかった男が、他の女性の名前を甘い声で呼ぼうが、その腕の中に大切そうに抱きしめようが、まったく気にしていなかった。

「あら、彼女は?」

 ようやく満足したのか、身体を離したふたりの視線がメリアに向けられた。

 今日、公爵が妻を連れて来ることは、彼女だって知っているはずだ。

 それなのにわざわざそう聞いたのは、メリアのことなど眼中にないとでも言いたげな様子だった。

美しい外見とは裏腹に、あまり性格の良い女性ではなさそうだ。

「私の妻の、メリアだ」

 公爵は親しげな口調で、メリアをミリファンに紹介した。

「……そう」

 妻という言葉に、ミリファンは悲しそうに目を伏せる。

「ギースロード、本当に結婚していたのね」

 ふたりは、かなり親しい様子だった。

 メリアにはよくわからないが、異性の幼馴染というのは、こんなにも親しげなものなのだろうか。

 それを目の前で見せられたメリアだったが、元々彼と夫婦だという意識はないから、何とも思わない。

 ただ、自分の名前を公爵が覚えていたことに驚いていた。

 こちらは公爵の名前も忘れていたくらいなのに、まさか彼が覚えているとは思わなかった。

「ああ。何度も報告していただろう? いつまでも独り身ではいられないからね」

 そう答えた公爵を切なげに見つめていたミリファンだったが、メリアに向けられた視線は、冷たいものだった。

 嫉妬。憎悪。

 そんな念のこもった瞳で見つめられて、メリアは思わず視線を反らした。

(何だか面倒なことになっているわね……)

 ここまであからさまに、悪意を向けてくる人と会ったのは、初めてだ。

「おめでとう、と言うべきなのでしょうね。でも、あなたの隣に立つには、少し地味ではないかしら」

「……」

 たしかにメリアは、ミリファンや公爵のような派手な容姿ではない。

 でもいくら彼女が王太子妃とはいえ、さすがに失礼な言葉だ。

「そんなことはない。メリアはとても美しいよ。我が家に咲く黒薔薇のようだ」

 だが公爵はその言葉に同意せずに、穏やかな笑顔でそう言った。

 庇ってくれたらしいが、有り難いとは思わない。

 もしメリアが前の容姿のままだったら、きっと王太子妃の言葉に大いに同意したに違いない。その様子が簡単に想像できて、ミリファンの言葉よりも腹立たしく思う。

「黒薔薇? あなたの家に咲いている、あの希少な薔薇のこと?」

 公爵の言葉はミリファンにとって予想外だったらしく、彼女はヒステリックにそう言うと、首を大きく横に振った。

「私たちの思い出のあの薔薇を、他の女性に例えるなんて。ひどいわ、ギース」

 もしミリファンと公爵が夫婦で、あの薔薇が二人の思い出の薔薇ならば、たしかに酷いと言えるかもしれない。

 でもミリファンは王太子妃であり、公爵は一応、メリアの夫なのだ。

 メリアは呆れ果てて、目の前の美しい王太子妃を見つめる。

 公爵の本心はまだわからないが、ミリファンのほうは公爵に対する愛情を隠そうとしていない。

 それがどれだけ危険なことなのか、本当にわからないのだろうか。

 下手をすればミリファンの実家や公爵家でさえ、取り潰されてしまう恐れがあるというのに。

(……巻き込まれないように、気を付けないと)

 メリアはほとんど会話には加わらず、二人の様子を注意深く探ることにした。

 公爵もまた、同じようにミリファンを思っているのだろうか。

 メリアの存在など忘れたかのように、二人は楽しそうに語り合っている。

 ひとり取り残されていたメリアは、ひっそりと溜息をついた。

 ときどきミリファンが、こちらを見て勝ち誇ったような顔をしているのが鬱陶しい。

 メリアは公爵の妻ではあるが、親密そうな二人の姿を見てもショックを受けることはないというのに。

 そして公爵の態度がまた、とても厄介だった。

 ミリファンを甘やかして大切に扱っているのに、たまに彼女の言葉が過ぎると、メリアを庇うような態度も見せる。

 するとミリファンは嫉妬に駆られるのか、公爵に隠れて鋭い視線をメリアに向けるのだ。

 もう彼女たちが恋仲であろうとなかろうと、どうでもいい。

 しばらくそんな茶番に付き合わされたメリアは、そんな心境になっていた。

 勝手に禁断の恋に溺れて、破滅すればいい。

 公爵家は没落するかもしれないが、メリアは白い結婚だったので離縁して実家に帰ることができるかもしれない。兄が何とか頑張っているようだから、また家族全員で協力すれば何とかなるだろう。

 だからもう、こんなことに自分を巻き込まないでほしい。

 そう切実に願い続けた時間だった。

 そんなことがあったせいで、滞在していたのは一時間ほどだったが、帰りの馬車の中で、メリアはすっかり疲れ果ててしまっていた。

 それなのに公爵は、明日もまたミリファンのもとに行こうと言う。

 きっと明日だけではなく、毎日のように通うつもりなのが、その言葉から感じ取れる。

「私のようなものが、王太子妃殿下のお相手が務まるとは思えません」

 メリアはすぐにそう言って辞退したが、公爵は優しく笑って、首を振る。

「いや、そんなことはない。君のマナーは完璧だった。この短時間で、よくぞここまで覚えたものだ」

「……」

 思わず唇を噛みしめた。

 身を守るための努力が、かえって自分自身を追い詰めてしまったようだ。

「ですが、王太子妃殿下は、私のことがお気に召さない様子でした」

 どう断るか思案した挙句、率直にそう告げる。

 もちろん、それは事実である。

 王城に滞在している間、ミリファンに何度、睨みつけられたことか。

「心配しなくともいい。ミリファンは人見知りだから、そう見えたかもしれない。だが、君のことをとても気に入っているはずだ」

 あれが気に入っているように見えたのなら、彼の目は節穴だ。

 反論しようとしたが、いつのまにか向かい側に座っていた公爵が、メリアの手を握っていた。

 驚いて身を離そうとしたが、彼はますます力を込める。

「私たちはきっと、うまくやっていけるよ」

 優しい笑顔で、そう囁かれた。

(協力者になれっていうこと?)

 毎回二人の逢瀬に立ち会って、公爵とミリファンの逢瀬を見守れということなのか。

(冗談じゃないわ。そんなことに巻き込まれてたまるものですか)

 メリアは何とか彼から離れると、真正面から公爵を見つめる。

「私たちは契約結婚です。私に望んでいるのは、形だけの妻のはず。公式の場で妻としてふるまうことなどできません」

「ああ、そのことならもう気にしなくてもいい」

 妻としてふるまうことを要求するのは、契約違反だ。

 メリアはそう訴えたつもりだった。

 でも彼には通用していないどころか、自分に都合の良い解釈をしたようだ。

 美しい笑みを浮かべて、メリアを見つめる。

「君は頭も良いし、驚くほど美しくなった。私は、今ならあなたを正式に妻にしてもよいと思っている」

 彼にこう言われたい女性は、溢れるほどいるだろう。

 でもメリアは少しもときめかない。

 むしろ失望していた。

 やはり彼は、結婚式の日から何も変わっていない。

 メリアは顔を上げると、きっぱりと言い放った。

「申し訳ございませんが、お断りさせていただきます」

 公爵は目を見開いたまま、呆然としたような顔でメリアを見つめていた。

断られる可能性など、微塵も考えていなかったのだろう。

「断る? 何故だ」

「望んでおりませんので」

 そう言うと、メリアは控えめに笑ってみせる。

「私の望みは、家族の平穏な生活だけです。それを叶えてくださると思ったからこそ、会ったこともない方との結婚を承諾しました。それ以上のことは、まったく望んでいません」

「私が望んでいたとしても?」

 驚いた様子の公爵に、メリアはきっぱりと告げた。

「はい。私は、望んでおりませんので」

 これからも、契約上の義務はきっちりと果たすつもりだ。

 公爵が許可してくれたら、妻としての仕事もこなす。

 彼は今まで通り、好きに生きればいい。それに関してメリアが、何かを思うことはない。

 自分を拒絶する女性がいるなど、考えたこともなかったのだろう。

 怒って、契約を打ち切ると言い出すか。

 それともメリアを、やはり愚かな女だと見下すか。

 そのどちらかだと思っていたのに、公爵は呆けたように、ただメリアを見つめているだけだった。


 翌日も約束通り、彼とともに王太子妃であるミリファンのもとに向かった。

 ミリファンはしきりに彼に話しかけ、侍女の目を盗んでは、その腕や肩に触れたりしていたのに、公爵はどこか上の空だった。

 その視線は頻繁にメリアに向けられ、それに気が付いたミリファンに睨まれてしまう。

(……困ったことになったわね)

 ミリファンには睨まれ、公爵に熱心に見つめられるという状況で、メリアは溜息をついた。

 あの公爵は今まで、一度も女性に断られたことがなかったのだろう。だからこそ、あんなにも傲慢な態度でいたのかもしれない。

 そんな公爵から本当の妻にしたいと言われて、メリアはそれをきっぱりと断った。

 望んでいないと、はっきりと告げたのだ。

 それがかえって、彼の気を惹いてしまったようなのだ。

 まさか、こんなことになるとは思わなかった。

 居たたまれない時間がようやく終わり、ふたり揃って王城から帰る。

 だが公爵は明日もまた、王太子妃のところに行こうとは言わなかった。

 それどころかこの日以来、頻繁に王太子妃から呼び出されているというのに、それに応じなくなってしまったのだ。

 言い方は悪いが、あれだけ女性にもてはやされている公爵のことだ。

 すでに手に入れている王太子妃よりも、自分にまったく興味のないメリアのほうが気になってしまったのだろう。

 彼の気を惹きたいわけではないメリアからしたら、迷惑でしかない。

 王太子妃から恨まれるのも、できれば遠慮したいところだ。

(まぁ、王城に行こうって言われない限りは、王太子妃殿下とは会うこともないけれど)


 表向きは、平穏な日々が続いた。

 公爵は靡かないメリアに執心してしまったらしく、頻繁に誘いをかけてくるが、すべて拒絶している。

 断るたびに、彼の瞳に熱が宿っていくのが少し怖いような気もする。

 だが嫌われたくはないらしく、彼が何かを無理強いすることはなかった。

 せっせと刺繍の仕事をして過ごしているうちに、王太子妃が離縁され、家に戻されたという話が聞こえてきた。

 妹のリーアが、手紙で詳しく教えてくれた。

 表向きは病のためだというが、公爵の訪問がない寂しさから他の男性を部屋に連れ込んでしまい、それが大きな問題になったようだ。

 リーアが言うには、彼女は公爵に嫉妬してほしかったらしい。

(さすがに幼馴染でもない男性を部屋に引き入れたら、完全にアウトよね……)

 たとえ公爵であっても、妻であるメリアの同席が必要だったのだから。

 だが当の公爵は、あれほど大切だった幼馴染のミリファンが離縁されたあと、両親によって修道院に入れられたと聞いても、もはや何とも思っていないようだ。

 そんな薄情な男を、やはりメリアは好きになれそうにない。


 兄が必死に頑張ったお陰で、実家は何とか持ち直した。

 妹も、同じ伯爵家の長男と交際しているらしく、こちらも順調のようだ。

 もうすぐ、公爵の援助が必要ではなくなるだろう。

 メリアの部屋の机には、たくさんの手紙がしまわれている。

 元王太子妃殿下から送られてきた、公爵が彼女に贈った恋文である。

 彼女は、自分はこんなにも彼に愛されているのだと思い知らせるために、メリアに送ってきたようだ。

 たしかに手紙の中では、公爵は熱心に愛を囁いていた。

 それだけではなく、ミリファンが王太子妃となったあとも、関係があったとわかるような描写もあった。

 これが表沙汰になれば、いかに公爵であってもただではすまないだろう。

 大切な切り札を渡してくれたミリファンには、彼女がここまで愛していた公爵を返してあげたほうがいい。

 メリアはその時期を、静かに待っている。



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