初段 桁外れなる技
瓦斯灯がシューと息を吐くように鳴る中、スーツに身を包み山高帽を被った人々が夕刻の汽車へと急ぐ。その慌ただしい影が建物の壁面にちらつく。飛び交う外国語の賑やかな会話は、流行遅れの品を並べるぼろ着の商人たちの口論と入り混じり、異様なハーモニーを奏でていた。遠く線路の上で蒸気機関車の汽笛が轟く。それは覚醒した龍の咆哮の如く、寺院の鐘すら一瞬にして掻き消した。明治三十一年――ありふれた夕焼けが、騒擾と対照に満ちた時代を切り取っていた。
十竹之助という若い乙女は障子を静かに開け、広間へと足を踏み入れる。縁側で寛ぐ男の姿が見えた。傷だらけの手が、皿の上に置かれた赤く熟した林檎へと伸びる。ふっくらと輝く果実を一目見て、彼は一口齧った。暮れゆく空に、その牙が燦いた。
「ちょっといい?」
と竹之助は男の隣に座ると、彼は嗄れた――より疲弊した声を漏らした。彼女は内心ほくそ笑む。
「咎人逮捕に、ね、もっと胸熱な演出をしてみちゃ如何でしょう? 侍時代のように剣戟とか交えて。こないだ博物館で、ね、なんか立派のを見ちゃって……!」
竹之助の饒舌を聴いた花中嶋チョウジは荒れた掌で彼女の手を覆い、親指で手の甲を撫でた。顔には幽かな微笑、瞳には竹之助の熱意と完璧に対照をなす満足の色。
隊の集合準備を整えた花中嶋チョウジは竹之助との会話を思い返す。確かに、咎人の逮捕に華を添えれば良かろう。が、凡庸な剣戟など退屈この上ない。何か新奇なものを――
「そうだ――この一ヶ月で会得した技を使おう!」
と彼は呟く。
部屋の中を歩き回り、時折窓の外を見やり、時折鏡に映る自身の姿を確かめる。鏡には赤毛と顎鬚を生やした大柄な男が映っている。棚からは翠の宝石を模して塗られた木製の小箱――何処で手に入れたか思い出せない――を取り出し、中を確認する。その箱が空だと確かめると、彼は棚へ戻した。
そして、赤い着物の袖を取ると、そっと噛んだ途端――
「花中嶋ッ!」
その時だった。不快な声は甲高く耳を劈いた。
チョウジはその声の主を見下ろす。回治郎兵衛――常に己を世界の中心と錯覚する矮小な役人。またしても馬鹿馬鹿しいのを言い出すに違いない。
「んだい、またあの女を思い続きやがって!? 貴様のその『お竹』、貴様ごときに興味があるもんか、この――」
「――口を慎むんだ。」
チョウジは命じ、小箱を小人の足元へ投げつけた。
「遊女のように十くんをこう呼ぶんじゃないぞよ。より箱を調べな。」
「は? 小箱だと?」
と、回は小箱を拾い、開ける。
「中には何もねぇじゃねぇかよ、表六玉が!」
「――これも。」
とチョウジは云い、回は彼を見上げるより早く、藁の詰まった的がその顔面に叩きつけられた的が滑り落ち、飛び散った藁が男の額に「肉」の字を形成する。
「……おのれ巫山戯んじゃねぇ! 花中嶋は、喰らえ――」
と鍔に――花束が接着された刀を鞘から抜き放った回は叫んだ。
チョウジは笑みを堪えきれない。壁に掛かった脇差しを指差し、
「己が刀の在り処忘れ?」
回は脇差しを見つけ、自分の額を平手で叩いた。チョウジは続けて、
「そもそも、こりゃ新たなる技の修練だ。」
「野郎……この回治郎兵衛に対して実験ごっこをしやがって!? 殺してやる、貴様なんか殺してやるッ!!!」
と回が罵る中、チョウジは聞き流すと、
「そう、この技が名は――何だったっけ。行けぬ、忘れたな……」
――回の顔は怒りで青ざめた。
その時だった。幸いにも若く美しい秘書の鵜崎が部屋へ入ってきた。小人を避けるようにして、下げ髪を整えながらチョウジへ歩み寄る。梅染めの着物が、彼女の動作に合わせてひらりと揺れる。
「花中嶋さん、回さんと新しいお技についてお話しになられていたのですか。あたし、そうお耳いたしまして、まあ、そうなのですかと……」
幽かな笑みを浮かべ、チョウジは肯いた。
「正解――鵜崎くん。相手を混乱させる特殊技術さ。舐めれば、痛い目を見るぞよ。」
「あら、まあまあ! お聞きしましたわ、お聞きしました――室町時代に現れましたセクシーコマンドーと申しますお武芸でしょうか? どこかで拝見した覚えがございますけれど……どちらでしたか忘れてしまいましたわ……」
回は鵜崎を狂人のように見つめる。が、彼自身が幻覚を見た狂人に見えなくもない。
「んだと!? てめぇも戯言をほざいてやがって!? それにな、男同士の会話に口を挟むんじゃ――」
「あ、そうだ、ありがとな。」
とチョウジは小人の言葉を遮り、鵜崎に肯いて、
「セクシーコマンドー、目の当たりに。これを仲間と試してみようと思って。」
「お楽しみになられますの?」
「別に。」
と花中嶋は肩を竦めた。
奇天烈な詠唱を口にする花中嶋に近づいた青い着物姿の仲間の歌川お九龍が、思わず木刀の柄に手を掛け、
「歌川が参ったぞ! なんか用かい、花中島殿?」
応えて、チョウジは嗤い、首を振った。相変わらずの滑稽者お九龍がいれば、全てがより面白くなりそうだ。
「チョウジでいい。で、俺と手合わせしないか。」
「望む所だ。昔みたいに、戦おうぜ?」
「アンガルド――」
とチョウジは静かに云い、木刀を抜いた。お九龍も負けじと木刀を構える。その瞳は熱意と勝利への渇望に燃えていた。
こうして二人は立ち尽くす。五秒、十秒――桜の花弁が何処からとも無く舞い散る。三十秒、一分――
「兄貴、もう始まるか……? 手が……おれの手が、疲れて……」
「我慢、我慢。耐えなよ。」
お九龍はぼやいでも、じっと立たずにはいられない。近くに立つ回はチョウジを敵意の眼差しで見据え、鵜崎は何処からか煎餅を掴んでムシャムシャと食べている。
二分が経ち、チョウジは言葉も無くお九龍へ駆け出した。相手が木刀を構えるより早く、赤い着物姿の男が空中へ舞う。あたかも鳥が飛び立つように。足から先へ――!
「おい、どないしてやったんかよ? 普通は背中から先とか、肩から先とか……」
「長きに亘る修行の賜だ、友よ。幾年にも亘る修業の賜さ。……なんつって、一ヶ月に過ぎなかったぞよ。」
背中を合わせたお九龍とチョウジは、慌てて振り返る。しかし再び木刀を抜く代わりに、花中嶋は着物を掴み、鋭い動きで引き裂いて――逞しい身体を露わにした。
鵜崎は着物の袖で口を覆い、煎餅を喉に詰まらせそうになる。回は鼻を鳴らし、
「やっぱ破れた靴下のほうが役に立つのに――あの花中嶋の野郎より。」
その時だった。チョウジは着物を旗のように翻し、唄い始めた――とは云え、決して上手いとは言えない唄声で。
「黒鰻、早鰻、川を泳いで。仲間を呼んで、不思議を視ようと……」
棒立ちのお九龍は相手の素早い手の動きに翻る赤い着物を見つめる。首を振り、刀を鞘に収めながら、
「何を考えてんだい? お前のあの襤褸を追いかけねぇし、おれは雄牛なのか?」
お九龍の言葉も聴かず、チョウジは走り出した。彼を倒す代わりに、ふらりと舞い過ぎた桜の花弁を捉え、そして……
「矢張り、普通の花の味じゃ。」
……そう、あの花弁を口にした。そして、お九龍が何か言おうとする間もなく、その背中を軽くパンと叩く。とはいえ、
「グハッ――おい、お前、おれを金槌で殴りやがったぞ?」
「悪いな。」
「それに、おれと花弁を分け合う方がな……」
そして、木刀を器用に抜き、その先端を仲間の額に当てたチョウジは……
「アレルギーになろうから。と、俺はアレルギーでも無いし。」
鵜崎は、チョウジが仲間を倒した事をようやく理解し、最後の煎餅を食べ終える。そして紙片を取り出し、筆を執り、素早く記す。
『歌川が呆然としている隙に、花中嶋は木刀で彼の頭部を当てた。
一対零で、花中嶋の勝利。ブラーボ、花中嶋。
――鵜崎』
鵜崎の紙を一瞥した回は、ようやく気づく。と、自身の頭髪が解け、後頭部へと垂れ下がっている。
相手の木刀の先端が載っているのに気づいたお九龍は、
「なんだ……そんなに目立たずにおれを『打って』。どうやって……?」
と尋ねたが、チョウジは着物を着直し、木刀を締めながら、
「よく訊いたな! とは云え、攻撃は必要じゃないけどな。寧ろ技の目的は、相手を攻撃するので無く混乱させる事――俺は着物を翻したように。あれが、セクシーコマンドーだったぞよ。」
お九龍と回はチョウジを見つめる――目を見開きすぎて、小人の眼球が飛び出しそうになるほど。一方、鵜崎は二人に拍手喝采し、
「まあ! お二人とも、とっても素敵です! あたしも……あんな風に、できたら……!」
その時、黒い着物にお転婆な髪型をした乙女がチョウジに近づいてきた。竹之助は扇を広げ、魅惑的に彼を見ながら、
「これが、あんたなりの侍魂の取り戻し方なのか……」
と問う。チョウジは一片の後悔も恥じらいも無く肯いて、
「あいよ!」
と応えて、竹之助は男の赤い着物の袖をギュッと掴み、
「ありゃ想ったより凄かった! 彼方から見ていて、あんたは歌川を随分仰天させて、もう……良くそう想いついてね!」
誇らし気になったチョウジは、感謝を込めて竹之助の髪を撫でた。その顔は満足した猫のように愛らしい微笑に包まれる。
すると、鵜崎が二人に近づき、
「それで……花中嶋さん、ようやくお九龍さんとお体も温まってまいりました処では? これですら、ほんのウォーミングアップくらいのものなのでしょうか?」
「否、なりゃしないよ。こんなのお散歩程度だって。咎人と遭えたら、こんな時が体を解す奴だ。」
チョウジは嗤い、そう言った。
竹之助はその言葉に同意し、歯を見せる笑みを浮かべて肯いた。




