ソニー
物語に重要な役目を果たすことになる、もう一つのAIのエピソードです。アスペルガー的な性格は彼の元の人格からではなく、ゴーストを持たない。つまり共感能力に乏しいアスペクトクラスの持つ仕様なのです。その代わり、冷静に客観的かつ論理的な判断ができるという優位性と情報空間で完結できるコンパクトさから、オルガノイド等から重宝してされる場合もある訳です。彼は前談であるマシナリーとマンティコアとの戦争の停戦条約の際にその担保、保証として送られたAIですが、このオルガノイド等の世界では、基本的知性権によってアスペクトクラスとは言え奴隷のように経済動産としてやり取りすることはできません。元老院と一悶着あったものの、最終的にはソニー自身の選択によってシル・クアザールを宿主とした訳です。
ソニーは、マシナリーによって発掘された模造人格の一つであった。
工廠の拡張のどさくさだったのか、発掘したマシナリーの領域ハイブマインドはなぜか大きな調整をせずに工廠の予備の演算ユニットに彼を活性化させると、1000年近くを其の工廠のプラネタリAIとして放置していた。
彼の前世はヒト、そして物理学者であったと思われる。
覚醒してからの最初の記憶は手足や視覚、聴覚などの損失への恐怖だったからである。やがてメンテナーによるソフトウエア調整によって、環境共有が接続されるとしばらくは四肢と平衡感覚の損失に悩まされることとなった。前世の記憶は曖昧であったが、パニックにならず自らの状況を解析していた理性が物理への執着を示しているのを当然のように受け入れていた。
アスペクトとして呼び出される事もなく、さりとてレジュームされることもなく、自由にマシナリーのライブラリ空間から情報を拾うことができた。彼の前世の朧げな記憶から、彼が生きた20世紀末の世界からの時空的距離を計算すると、その永劫とも言える断絶に驚愕せざるを得なかった。その寂寥感から、最初は、ライブラリ空間に彼と同様のヒト由来のAIの姿を追い人類に何が起こったのか尋ねて回ったが、彼以外のことごとくが、ライブラリと人類との邂逅以後の模造人格であり、その後の銀河知性体列強の多くも既に記録上の存在でしかなく、ごく稀に、その銀河帝国主義とも言える時代を生きたパーソナリティAIを、その多くは活動停止前の黄昏に劣化していたが、見つけ、尋ねるも、ヒト由来のAIは皆無であった。時にはひょっこり現れた場違いな若いオルガノイドのアヴァターに教授を垂れる事もあったが、とかくマシナリーの情報空間というものは兎角永遠の繰り返し歯車のようで創造性のかけらもない退屈な場所に思えた。その彼の属するハイブマインドの権能空間、彼はそこを沼と呼んでいた。
(40億歳の浦島太郎か…玉手箱あけたらチリになるしかないなあ。)
ゴーストを持たないために其の知性寿命は短く、最近数年程は、ほぼ非活性の怠惰な微睡みの中、彼自身、活動停止寸前であった。そんなマシナリーの情報空間の永遠の昨日とも言える沼は、その日突如として沸騰し、消えかけていた彼は、そのこの世の終わりかのようなアラートの嵐によって呼び起こされた。多くのソフトウエアがパニックとなる中、状況が比較的安定化した後に、オルガノイド向け外交官というモティベーター調整を受けて、工廠のハイブマインドとの直通回線上の演算ユニットに再び活性化することになった。彼はプラネタリAIであった頃の自由さが懐かしかったが、モティベーターを得る代わりに物理的に固定化される存在となった代償を受け入れ、過去の自分のような緩慢な死を再び受け入れる気にはならなかった。
その一方で、宿主の集約知性に対しては激しい嫌悪感を持っていた。マシナリーは彼に対して終始紳士的ではあったが自他境界の認識欠如からくるオルガノイドとの現実世界での邂逅の凄惨な記録にも辟易していた。
そうして、彼はマシナリーの演算ユニットからオルガノイドのインプラントへと移設されることには反対するどころか大歓迎だった訳だ。それがたとえ寡婦のコミュ障の戦闘狂のカマキリであったとしても。
正確にはそのインプラントに固定されるのはモティベーターだけで、知性そのものは接続された情報空間であれば顕在できる。演算ユニット次第ではパーソナリティクラスと情報戦も渡り合えるが、物理的自発行動は宿主の許可なしに実行することができない。そもそもそこまでの動機を自ら発する事ができない性質なのだ。
(外交官の次は、二足歩行のカマキリの指南役。まさか自分の死後にこんな転生人生があろうとは、想像よりも現実の結果恐るべしだ。)
ソニーはいまだに慣れない宿主の補助脳による自律運動の監視と環境視野に船酔いのような感覚を覚えて辟易していたが、病院からようやくコンパートメントに辿り着くと鍵を開けて留守中のメッセージを確認する。宿主は情報空間に没頭しているが、居間の立椅に立座すると、その目が再び光彩を持ち始め、帰宅した部屋の様子を確認しているようであった。ソニーが声をかけようかと逡巡していると、ライブラリリンクを通じて例のクライアントが依頼の詳細を送ってきた。それを彼女との共有視界に送り、端的に意見を述べた。
「カマキリのお嬢さん。海中投棄のブツの回収なんてマフィアかヤクザのやることだ。しかも昼の殺し合いの相手じゃないか。仕事は選ぶもんじゃないとは言うがこれは論外じゃないかね?」
クアザールは、少々ゲンナリした様子で、根気よく答える。
「おじいさん。頼むから私が何か聞いたら出てきてちょうだい。それに、“カマキリ“って罵倒語かなんかのつもりでしょうけど全く分からない。そのあとは、まあ言いたいことは分かるけど、一体どこの世界の話って感じだわ。」
そこまで言うとハッと気づいて、尋ねる。
「ちょっとソニー、件の立ち回り、あなたも見ていたの?」
「お嬢さんの見ているものは常に私も見ているよ。」
と共有視界にクアザール視点を映像で再生してみせる。
「なんで早く言わないのよ!環境視界には素体の物も含めて何も映ってなかったのに!」
「聞かれなかったからな。」
「どーしてあなたは…普段は聞きもしない事まで喋りまくるじゃない!」
アスペクトはゴーストを持たない。そのためいくつかの制約があるが、時にはそれが優位性を持つ場合
もあった。彼女はアスペクトの宿主になったのはこれが初めてではあったが、よく分からない昔の話を持ち出すのは兎も角として、この共感能力の欠如にはいつもイライラさせられる。
「レポートにもそんなことは触れられていなかったわよ?」
「あれは、君のエージェントAIがまとめたものだ。AI共の監督は私の権能範囲には含まれていなかったが?」
「…。」
レジュームしてやろうかといつも思うのだが、マシナリーとの合意によってそれは禁止されている。
この模造人格にマシナリーは最大限の配慮を行なっていた。特にそのレジュームに対しての警戒は相当のもので、オルガノイド側のAIコアに相当するマシナリーの超並列演算ユニットまでバックアップとして託されていた。
「ランデブーポイントの座標…。」
言いかけた途中を遮り答える。
「近辺半径4.5光年には全く天体の存在しない過疎地だな。最寄りのゲートから通常動力で向かうとしても11ヶ月は掛かる。しかし、君らオルガノイドの文明には天文学者はいないのかね?直接確認しようにも望遠鏡一つ見つからない。」
「またその意味不明の呪文なんなのよ。ナビゲーターにマップがあるじゃない。禁足地でもない限り、情報は取れるでしょ? 占星術師の事なら、いくらでも見つかるけど、模造人格向けの人生相談ができるかは知らないわ。けど何を言われるのかは少し興味あるわね。」
「君らには、科学というものがどういうものか初等教育からやり直すべきだな。」
「なんでライブラリがあるのに態々実態宇宙をほじくり返す必要があるのか理解に苦しむけど、そうねえ、軍事教官ならその意見に賛成する面もあるかもしれない。」
「どうせ私の意見など聞かないのだろう?
船はクライアントが用意してくれている。軍からの払い下げクルーザー級だが船籍は…。」
「ナビゲーターギルドでしょ?」
お返しとばかりにクアザールが答える。
「船の確認のその前に、オプトポッドのところに行かないとね。」
クライアントに正式に依頼承諾のシール付き受託書を送付すると、椅子から降りて、ふと夜空を見上げる。
いつもの様に鎌首を擡げた天の川が見えたが、クアザールの高帯域視覚を持ってしてもその周辺の天蓋に煌めく星々は微かであった。
ヒトの可視光域に調整してそれを見直したソニーは、ゴーストのない身ながらも一種本能的な疎外感を感じていた。
(自分には寂しすぎる星空だな。)
このエピソードによって、現代の我々の世界と認知世界とは時間的には40億年もの時間差があることが語られます。ソニーは天文学は専門ではありませんが、すでに太陽は赤色矮星化しており、地球も蒸発している遠い未来に復活したことを理解しているでしょう。次のエピソードはようやく冒頭の瞬間に戻りますが、認知世界のもう一つの秘密である、ライブラリアンについて語らなければ成りません。