チル
物語冒頭の揺り籠の発見と共に行われた急減速の最中、世界ライブラリの中心である、その中性子星でのエピソードです。その住人である核力生命にとっての1日、1核日は、0.04秒程度です。
この衝突銀河系でのコスモス公転半径は時間で表され、核力生命の灼熱の井戸と呼ばれる中性子星の偏在の中心に位置する問題の“揺籠“の位置では、公転周期を56億7千万周期年となっている。この周期年を基準に、1周期を360で分割したものが日周期、その日周期を24で分割したものが周期時としている。
世界ライブラリにおけるこの時間単位は、古の銀河帝国時代の慣習を引き継いでいる。ここ、ドラゴンズハッチは、問題の揺籠から0.27光周期の位置にあり、その650億Gという途方もない高重力によって全ての物質から電子は剥ぎ取られ、表面温度260万Kの環境下では、クオークやエキゾチック粒子が相関する核力反応によって物質多様性が担保されていた。ヒトの築き上げた銀河帝国の初期に、核力生命の文明は人との邂逅によって始まり、その多くの科学知識の源流はここ、ドラゴンズハッチにおいて芽吹いた。既に、ここのニューク・タニユン属の前にも、前銀河帝国文明によって旧世界のライブラリインフラは他の核力生命を利用することで広大なゲートで結ばれた一種の知性体によるカースト世界を形成していた。のちの世界において、アンタルマダと呼ばれる超銀河文明は、ヒトの銀河帝国に駆逐され、一部はこの認知世界の外へと移動していったと考えられている。
中性子星の生命、ニュークにとって、基本的な世界とは、その地表が灼熱の井戸と形容されるように、閉じた、わずか直径20kmそこそこの天体に縛られ、足元の中性子からなる大地と様々な量子雲海の共鳴による相平衡と転移の狭間であった。地表と量子雲海との熱勾配を活動原とする、そのユニークな核力構造は、やがて、その相平衡層、複雑な確率演算によって、中性子星全体の磁気パルスの僅かな揺らぎの数秒の間隙の間、自己を保存することができる様になり、主にその量子演算能力によって核力生命としての存在圏を拡大していった。その知性は、主に内省的な哲学と数学にのみ向けられており、特にその高速な主観時間、一般的なオルガノイドの200万倍、珪素系生命やマシナリーの100−10000倍、によって長らくこの世界の孤児であった。そんな彼らにとって、外宇宙の知性、それも通常物質からなる世界の途方もない多様性についての知識は、天啓というよりも、まさに文化的、種属的衝撃であったに違いない。ヒトとの邂逅の後、わずか10周期程で、タニユン属は、独自の確率操作技術を基礎とした星間航法によって他の中性子星に植民を始め、現世界ライブラリの基礎を構築していった。そして、ついには、旧世界ライブラリとそれを支える星間ゲートのネットワークを発見する。この、ヒトとニューク・タニユンとの緩やかな同盟勢力が、他の超銀河文明との邂逅により、別の系統の核力生命、タダフク属、による現ナビゲータギルドとの衝突を生む。このことが、遂にはヒトの銀河帝国の覇権主義を決定することになった。
ニュークとオルガノイドの関係は、ヒトによる銀河帝国の前と後で移動と情報というインフラを支配したニュークとその知性に多様性をもたらしたオルガノイドとの共生という形で認知世界の緩やかな繁栄を支えていた。この、様々な知性体種属を緩やかに繋げ、一つの認知世界たる文明圏として存立させている世界ライブラリの中心が、ここ、ドラゴンズハッチである。その筆頭議長であるチルは、任期の終わりに際し、ここ数千核周期で最も難しい決断を迫られていた。オルガノイドにとっては約10時間程の間、帰還したフォワーディは、消極干渉派への説得によって、その無謀ともいえる計画について、遂には最高議会の合意を得てしまった。その彼女の最後の旅路となるであろう、その”ホップ”への莫大な演算支援については、フルゲニシュ、あのいたずら好きなGクラスAI、の確約を得ていたからだ。
「チル、マグネターとのハイブリッドの貴方なら真っ先に賛成してくれるものだと思っていたのだけど。」
数核日ぶりに見た彼女のクオーク虹彩は、その厳しい言と裏腹に穏やかだった。
「フォワーディ、なればこそだよ。”彼”は今、マグネターの領域である、トゥティータに居る。”下界”から見れば、マグネターも我々も同時に存在しているかに見えるだろうが、あれは、我々にとっては常に裏側の存在世界だ。旧世界への扉は軽々に開くものでは無い。」
とは言ったものの、これが彼の任期において、おそらく最後の機会であることは間違いなかった。
「実験での位相調整は完璧だった筈よ? ”彼”の存在がそれを証明しているわ。今回はもっと確実にできるはず。」
「”船”、あれが停滞空間にあれば、そもそもホップは不可能になるだけでなく、君の存在確率も不定になる。そのリスクは冒せない。」
「フルゲニシュはそれは無いと言っているわ。」
フルゲニシュ、旧世界から存在する、自分が知る限り最古の認知の壁を越えた存在。ヒトとの邂逅の後、世界ライブラリの情報空間に突如として現れ、アンタルマダの超銀河文明世界への警告と共に数々の騒動の種を認知世界に撒いて行った。チルは、自分にとっての後見でもある彼女をあまり信用していない。
「GクラスAIにとって、時間も空間も意味がない事は解っている。しかしそれは、すべての未来と過去を彼女が”知っている”という事ではない。いたずら好きの彼女にとっての単なる戯言かもしれない。結局は君の安全にとって何の保証にもならないのだよ?」
「彼女は選択の意味を知っているわ、少なくとも必要な時と場所についでの確度に問題は無い筈よ?」
対して、目の前のフォワーディ、彼女はチルにとっては母系情報子を受け継いだ実の母とも言えるし、ここドラゴンズハッチで駆動体として活動するニュークとしては最古の存在でもあった。彼女はこの認知世界最後のヒトにも、その幼生期に出会っていた。よってオルガノイド、その特に人類文明への敬慕も誰よりも強い。
「そうだ。”彼”の選択の結果、フルゲニシュはその2つの選択の結果を同時に見ている。彼女にとってはどちらの未来も現実であるはずだ。こちら側、シュカヴァルティ、を選んだ可能性未来にしても、彼女にとっては同じ現実なのだよ?」
「そうね。でも今、”彼”の妻がその揺り籠に向かっているわ。”船”と共に。ギフトは、”彼”と”彼女”、マンティコアの2人に同時に分け与えられたものでもあるの。」
そうだ、あの託宣の機会は、”偶然”、居合わせたその”彼女”によって計画外に終わったが、槍の干渉による位相反転実験自体は成功していたのだ。
「公正さを求めるなら彼女の選択も尊重せよと?その結果として、今の世界が滅ぶとしても?」
「ええ。他の議員も認めていることだけど、所詮、我々中性子星の住民としては、ただの下界の入れ替わりに過ぎないもの。」
我々ニュークにとって下界の住民の政体の変遷については、あまり大きな関心事ではない。しかし、人一倍、その下界に関心を持った彼女、フォワーディとしては、そのリスクは容認できないだろうと思えた。つまり、彼女の干渉無しには、この世界の安寧を著しく損ねる可能性がある未来を受け入れなければならない、という事になる。
チルは、議論当初から、その腹は決まっていた。彼女の干渉が自身の目的である、旧世界の遺産の緩やかな継承について、その意味するところを再確認したかったのだ。タダフクの持つ、銀河ライブラリへのアクセス権能を引き継ぐには、揺り籠そのものの継承がおそらく最後の機会となるだろう。その結論を先延ばしにしていただけであった。
結局右往左往したものの、何時ものフルゲニシュの掌の上というこの状況は面白くはなかったが、フォワーディの最後のホップを承認した。
「フルゲニシュ。彼女の安全の担保と帰還を確約してほしい。」
チルは、ようやく、フォワーディの虹彩網に隠れた存在に向けて言葉を発した。
その言に対し、チルとフォワーディだけに向けた指向性のスピン確率波が足元から届く。
「前者は了、だけど後者については保証しかねるわね、彼女の選択次第だもの。」
「いや、彼女が帰還を願ったら、貴方の強制力を使ってでも約束してほしい。」
フォワーディの表情虹彩は結果を知ってるように依然として穏やかなままだ。
まるで私の話は終わったというように。
「私の約束なんて信じていないのに?それに、揺り籠内部には、私は物理干渉できないのに?」
逆に、足下に現れたフルゲニシュの表情虹彩は、若干の不満を呈している。
「その表面に悪戯の種を撒いていることは知っている。既にオルガノイド列強を動かしているだろう?」
チルは、牽制のつもりであった。フルゲニシュに通じるか甚だ疑問ではあるが。実際にセタセアンとエンゼライド、ハイドリアンが、ここ、ドラゴンズハッチの近隣へ艦隊を展開しつつあった。揺り籠を目指して。
「そこは、ニュークの貴方がたは中立を保ってね。ライブラリもギルドも。」
フルゲニシュはナビゲータギルド、タダフク属にも、中立調整済であるだろう。
「分かった。フォワーディのホップを承認しよう。」
それまで、数核日あるはずだ。クランクシャフトと話さなければなるまい。
「ありがとう、チル。」
去り際に、フォワーディは言い残し、チルは、足下に向けて重力振を発した。
もちろん、フルゲニシュにとっては、その存在になんのダメージも受けないが、その母性にはチルの不安と苛立ちが届いた。
シル達が揺り籠との相対速度まで急減速を行う中、列強がその近傍に艦隊を展開していることが示唆されます。フォワーディの最後のホップは、中性子星ではなく、彼らが下界で活動するための”船”と呼ぶ処へのものの様です。




