ヘイヴンズクリーク
湖での襲撃の後、ヘイヴンズクリーク、シル、ニュートを乗せたホバーは学院に戻ります。シルとニュートはライブラリのリンクが復活した後、どこぞへの情報空間へ潜ってしまったようです。ヘイヴンズクリークは、ギフトの慣例外の事態が過去にあったか確認するために、姓族議場である情報空間に赴きます。
「やはり、塩湖の上のヴィレッジに向かっているようですね。」
学院長、ヘイヴンズクリークは後の二人を見ず独り言のように言った。
対シティの外交権能は学院長に与えられていたが、軍についてはクアザール首長が担っている。
その他、セクトやヴィレッジについては儀礼的な役目以外はそのほとんどが裁定者資格のあるAI達のゲームフィールドである。既に交渉は始まっていて、それらの動きはすべて学長がモニターしていた。
学長、ニュートとシルを乗せたホバーは、学院のファサードの上を旋回に入っていた。
軍の関与の可能性をニュートは示唆していた。襲撃素体の着装はシティ衛士のものであったが、その中の1体の姿勢解析からニュートは襲撃者の当たりをつけていたようだ。セクト長は、学長と同姓族のヘレニアの遠隔操作素体の可能性を懸念していたが、学院長自身は彼女の性格とニュートへの執着の理由を知っていたのでライブラリアンとしてのキャリアを危険に晒す事はないだろうと結論付けていた。
環境視界からニュートとシルの様子を観察していたが、2人とも漆黒の複眼を微動だに動かさない。ヘイヴンズクリークは、ホバーの着陸を待って、その情報空間への没頭の様子に干渉すべきかとも思ったが、結局は2人のエージェントに1時間後の出頭伝言を残し、学院管理AIのミネルヴァに2人についての後事を任せ、ホバーから降機した。
執務室に引き上げながら、守秘回線でヘレニアをコールするも、応答はない。バックグラウンドでノワールからの映像を見直していたが、湖の襲撃者はカヴィア・マリスへの攻撃意図まではなかったのではないだろうか。とすると、ライブラリ、少なくともヘレニアの意図とは別に、軍が独自に介入に動いた事になる。
学院のネットワークはライブラリから独立している。それは現状5つのクランに限定された、マンティコア属特有のインフラの上に構築されていた。それは、所属するすべてのマンティコアの副脳のマルチレーン接続によって担保されていた。その入り口の物理層はマンティコアの生体磁気通信でありゴーストを介した位相空間で繋がっている。主演算の物理主体は、湖のマンティフィロス達の副脳の一部が動的に割り当てられている。この、いわば生体脳による演算支援を伴った情報空間はマンティコアの獲得形質ならではであり、他の多くのアースリングは一つの脳幹しか持たないため、ほぼ完全にライブラリインプラントを介した情報空間に依存せざるを得ないだろう。
ヘイヴンズクリークは執務室の立椅子に収まると、その学院ネットワークに接続した。意識上、僅かな実存世界との主観時間調整の僅かな乖離を感ずるも、背後にいくつかのドアが現れ、立椅子から離れるとそのうちの一つのドアを開け、その中に入った。数日ぶりとは言え、その空間はいつもであれば、落ち着いた転写人格達の穏やかな会話の場であったが、今日は、ある種の恐慌めいた喧噪にあふれていた。ここは彼の姓族のみアクセスできる、いわばレクトル姓族の殿堂であった。ここへはそれ以外からはアクセスできず、唯一の例外として1名のみゲスト帯同が認められている。基本的に現役のレクトル姓族のすべての転写人格と過去の首長のアスペクトAIが転写人格をここに残している。最も10億周期を超えるような転写人格はそのままでは知性死してしまうので、状態によってハイバーネーションに入っている。一方で、ヘイヴンズクリークのようなインカーネーションは、実在のゴーストとクローンによる転生生体を得てその知性死から冬眠の必要はないが、数億周期程度の頻度でメンテナーによる記憶調整は必要であった。
ヘイヴンズクリークの入室によって、その情報空間の主観時間が生体由来の彼の主観に調整される。彼は6時間ほど前にここへ来ていたが、主観時間の調整によればそれはおよそ10000時間ほど経過していた。
(ある程度の混乱は予想していたが、これは…。)
彼は、円卓を前に立椅子に収まっている、彼のドッペルゲンガーのような一人のマンティコアの後ろからそっと近づきその肩に手を置いた。それは数日前にここに残した彼の転写人格であり、一瞬のうちに融合を果たし、この情報空間での転写人格の記憶を得た。そして、このハレーションの原因である、円卓の奥にある一つの部屋に向かった。
「ヘレニア、私だ。」
声を発すると同時にその扉が開くとそこはジャングルの中の開けた草原であった。良くない景色だった。本来であれば応接室であったはず。
「ノアを開放しなさい。カヴィア・マリスは他の姓族を選んだ。」
草原を取り囲むジャングルの木々の間から気配は感じるが、返答はない。ノアは優秀だ。転写人格とはいえ、情報空間でヘレニアに後れを取ることはあり得ない。何時時点での転写人格を支配下に置いたのか。
「ノア、君は何時からここにいる?」
あくまでも、ここでのノアは転写人格で彼の人格のコピーに過ぎないが、枝をつけられているだろうとはいえ、ここで問答無用に滅するには抵抗があった。できればノアの元人格の下に無事返したい。
「それと、ヘレニア、君のゲスト、本当のゲストを紹介してくれないか?挨拶がしたい。」
ヘレニアは前回の秘跡の際に転写人格を分岐していた。およそ160日前までのヘレニアの記憶は保持している筈で、少なくともその際には、今日の襲撃については計画されていたということだ。そして、今日のこの日、このゲストをここに招くということも。
(ギフトを得たのは誰なの?)
ヘレニアがP2Pでコンタクトしてきた。どうやらゲストとは完全に利害が一致しているわけではないようだ。
「ということは、君のゲストからは聞いていないんだね?聞けばいい。彼女は既に何があったのか知っているのだから。」
ヘイヴンズクリークはあえて指向発声ではなく(姓族の議事空間ではあるが)言った。マンティコアは平時は合議制である。属内の問題はすべて全姓族の一致で解決するのが原則であった。現在、この情報空間での時間はヘイヴンズクリークの生体主観時間に調整されているが、本来であれば、転写人格とAIの主観時間ボトルネックで確定する。およそそれは、実周期時間の1000倍以上である。オルガノイド生体知性のそれでは情報空間での遅延は逃れられまい。おそらく、核力生命による直接干渉、問題はそれがどの勢力によるものかであったが、カヴィア・マリスの出現の情報を得られるとなるとその存在は限られている。
「ゼルコ・ピサデュラ、いや今はラクナインカエロでしたね。健在でしたか?」
その声は、無指向性で回りのジャングルの木々の鳴動によって発せられたかに聞こえた。ヘイヴンズクリークは、本人も忘れかけていたそのAIとしての幼名で呼ばれたことに動揺したが、それを表には出さずに答えた。
「エキドナ。およそ8億周期ぶりでしょうか。私自身、大過なく過ごさせていただいております。」
いや、この数十周期程は、特に、小アントニア・クアザールの事件以来、姓族間のハレーションによって学院運営にも色々と問題が起きていた。が、そんなことはおくびにも出さず答える。
「できれば、我が育成母へのお姿へ拝謁の名誉をいただきたいのですが。」
このような環境形態で対峙されたのでは攻撃も防御もままならない。そもそも表情が読めないのでは、交渉するにしても優位が取れない。普通であれば、ブリーダ、しかもマスターブリーダの彼女を相手に情報戦など成立しない彼我差があったが、ここの空間の管理者はヘイヴンズクリーク自身であり、おそらくそれを警戒しての彼女なりの対応なのだろう。
すべての環境音が止まると同時に空気に緊張が走る。環境を構成するすべての、ジャングルの木々やヘイヴンズクリークの周りの草原も、すべて銀色の光沢を放ったかと思うと、砂のように崩れ始めた。
種属の情報子を基にしたパーソナリティクラスのAIは、ブリーダによって、その個性、適正に調整された情報空間で育成され、その教育成果によって認知世界でのキャリアが決まります。稀に、知性死の生体とゴーストに適合するパーソナリティAIは、そのコアから生体に転生される事があります。その逆のパターン、生体由来の知性がAIコアに転生する事も可能ですが、コアの持つモティベータを調整しても、生体由来のロゴスが不適合となる確率は高く、あまり実施されません。これは主に成長時の主観時間の下位互換性の問題から生じると考えられています。




