赤い雨降る部屋
ある事件をきっかけに田舎に引き籠った友人を、久しぶりに訪ねた私が巻き込まれる異様な物語。
読み始めて、いかにも純文学的で、いささか退屈に思われるかもしれません。
しかし、最後にきわめて不穏なクライマックスを迎えます。
変態的小説が好きな方にお勧めです。
1.
灰色の空、灰色の大地、灰色の道。
荒涼とした枯れ野の中、私は車を走らせる。
暗い曇天の空の下を、遠方の友人を訪ねて車で行く。
人生で最も愉快な時間。
急ぐ理由はない。到着の時間は曖昧に伝えてある。
何も考えることもない。
無心に目的地に向かう。至福の時間。
2.
荒野の中を抜ける一本道。
やがて、分岐点が現れる。
Y字路を左へ。
落葉した枯木に挟まれる舗装の荒れた道を行く。
緩いカーブを曲がり切ると、一軒の洋風のコテージが視界に現れる。二階建てで、個人の住居としては大き過ぎる規模。車の速度を落とし、タイヤが湿った落葉を踏む音の中を、ゆっくりと建物に近付く。
建物の外観は廃屋に近い。
門がなく、公道と庭の境界は不明瞭だ。建物の前には車が数台停められるスペースがあり、建物正面に3段の小さな階段がある。階段をのぼりきった踊り場の奥に重厚な木製の扉。
庭の中に車を進める。
すると、木製の扉が開いて、ひとりの男が姿を現した。意外に身なりはちゃんとしている。引き蘢りの不健全な生活を思わせない。案外、普通に社会生活を送っているのかと思わせた。
私は車を切り返し、バックで建物の階段の脇に寄せて止めた。
男は階段を降りて来て、私の下車を待っている。
エンジンを止める。ドアを開けて、助手席に置いた鞄を左手で引っ張りだしながら車から降りようとする。鞄がサイドブレーキのレバーに引っ掛かって、焦ると滑らかに出られない。ようやくのことで車外に立つと、勢い良くドアを閉めた。一連の物音が静かな林の中に傍若無人に響いたものだ。
「よく来てくれた」と、手を差し伸べる男の顔を見る。すっかり変わった。ひどく老けて見える。
「井原だよね」少し不安で、尋ねる。
「久しぶり」男は真っ直ぐに私を見た。微笑している。その微笑の奥底に不安や反感というような何か否定的な感情が潜んでいないか一刹那のうちに見て取ろうと試みる。どうやら杞憂のようだ。しかし、ほんの一瞬、彼のつり上がった唇の端に感知できるかできないかというほどのごくわずかな冷笑の影が差すのが認められた。それは、私にかすかな胸騒ぎをもたらした。
握手を終えると井原は踵を返し、横面を見せながら「まあ、上がれ」と促す。
私は彼の後に続いて3段の階段を上る。玄関で靴を脱ぎ、中へ。コテージは外壁の荒れ方に似合わず、内部は良く手入れされていた。
1階全体が隔壁のない広大なワンルームの様相を呈している。室内は白を基調に全体が淡い色で統一されている。床はフローリングだが、壁、天井、梁、窓枠、奥の階段は全部白で塗装され、冷蔵庫、システムキッチン、照明器具なども総て白いものが使われている。広大な室の中央付近には特大の長方形のテーブル。これも白い。テーブルの3辺に置かれた木製の椅子は透明のニス塗りだが、全体の調和を乱してはいない。
井原は身振りで私にテーブルの長い辺に向かって座るように促し、自ら対面に腰掛けた。
ふたり、淡い灰色の光の中で、向き合って座る。
3.
久しく会っていない友人に会う時、人はなんと言うべきか?
いつも悩む。
なにか気の利いた言葉は、あるのか?
これぞ最適、という言葉は、あるのかな?
考えた末に出た言葉。「近ごろ、どう?」
「どうって?」
「何してる?」
「これといって、何もしてない」
「仕事は?」
「してない」
「金はあるのか?」
「もうじき、なくなる」
「じゃあ、どうするんだ?」
「考えてない」
「いいのか?」
「お前に関係ない」
「何か仕事でもする予定は、ないのか?」
「ない」
「なぜ?」
「ないからだ」
「でも、何かしなきゃ」
「なにもする気はない」
「なぜ?」
「する気になれない」
「気力がない?」
「そんなところだ」
「なぜ?」
「その理由は分かるだろ?」
「いや、分からん。どうして?」
「それは、俺がここにいる理由とかぶる」
「まだ、あれを引きずっているのか?」
「そうだよ」
「あれを?」
「そう、あれだ」
「今でもか?」
「そうだ。あれは消えない、永遠に。墓場まで引きずるさ」
「困ったな」
「仕方ない」
彼が引きずる「あれ」というのは、およそ十数年前、クルーズ客船の座礁事故の時、彼が取った行動がもたらした騒動。その騒動が彼を打ちのめし、この田舎に引き蘢らせた。
4.
その騒動とは、こんなものだった。
贅沢な客船に乗ってクルーズを楽しむなどと、金持ちの年寄りの趣味だと思っていたが、彼はやっていた。まだ若いのに、時々でかい客船でクルーズを楽しむというのが、当時の彼の数少ない趣味のひとつだった。
そんなわけで、41歳の彼は、巨大な船に乗って日本近海をゆっくり進んでいた。
ところがその時、事件が起こった。
船がどこかの沿岸を航行中、なんらかの理由で岸に近付きすぎたかして、座礁して船体が損傷する事態に陥った。
黄昏時、肌寒いころだった。船室内の空気を揺るがす衝撃と異音。ほどなくして船体の損傷部分から浸水し、船は急速に傾き初めた。船内に怒号が飛び交う。乗務員が声を張り上げて乗客を誘導する。しかし、傾斜を増していく船内で、乗客らは秩序ある行動が取れないでいた。そんな中で井原は比較的冷静に行動していた。
救命ボートが用意され、その周囲に人が群れていた。乗務員の指示に従って、順次救命ボートに乗り移る。乗務員は子供と女性を優先的にボートに乗せていた。
井原は手摺様のものに掴まって、傾斜を強めていくデッキに立ってその様子を見ていたが、ふと、一人の少女が、救命ボートへの移乗を待つ人の群れから少し離れた場所に茫然とたたずんでいるのが目に留まった。
まだ幼い、5、6歳くらいの女の子。小さな犬かなにかの縫いぐるみのようなものを抱き締めながら無言で立っている。
井原は気になって、声をかけた。
「どうしたの? お母さんか、お父さんは?」
「待ってるの。ママを」少女はか細い声で答える。
彼は周囲を見回したが、彼女の母親らしき人物は見当たらない。
少女の母親はどこにいるのか? ここで待っていれば、やがて迎えに来るのか? 状況は分からないが、船体の傾きは既にひどくなっている。ここで待っていたら、この子は船とともに沈む。最早猶予ならない状況に思えた。
そこで彼は、「行こう」と言って、彼女を抱き上げた。
そのまま救命ボートへ。
移乗する乗客を整理していた船員が、「どうした?」
「この子、母親からはぐれたようだ」
「乗れ」と船員。
まだ幼い子だから、一人にするわけにもいかず、彼は彼女を抱いたまま救命ボートに乗り込んだ。
そうして、彼と少女は助かった。
しかし結局、少女は母親には会えなかった。生き残った乗客の中に彼女の母親はいなかった。
井原の意図は当然、少女を助けることにあった。彼は機転を利かして彼女を助けたつもりでいた。
ところが、世間の見方はそうではなかった。
ある週刊誌が彼を有名にした。いわく、「極悪非道の卑劣漢、救命ボートに自ら優先的に乗るために、母を待つ幼子を利用した。彼は、ひとりで母親を待つ幼い女の子に目を付けた。その子を抱いていれば直ちに救命ボートに移乗できると見込んで、その子を拉致して一緒に救命ボートに乗り込んだ。その結果、その子の母親は、いなくなった我が子を探して船内をさまよった挙げ句、逃げ遅れて死んだ。ひとりの男の極悪非道の行為によって、幼な子は母親を失った。」というわけだ。
テレビのワイドショーが取り上げた。賢いコメンテーターらが一斉に彼の行動を非難した。もっとも、彼を擁護するコメントも無いではなかった。彼が自ら優先的に救命ボートに乗ることを目的として行動したとは断定できないではないか、というものだ。しかし、その種の冷静な見解は反駁を受けた。彼は自ら女の子と一緒に救命ボートに乗らなくても、その子を他の女性に託すこともできたはず、という。この、いささかもっともな意見の前で、擁護論は沈黙した。
インターネットに火がついた。彼の名と顔が晒され、彼の職場は連日、抗議と脅迫の電話の対応に追われた。彼の反論は無力だった。荒れ狂う誹謗の嵐の中で、ひとりの人間の声は容易に掻き消される。
そこで、彼は田舎に引き蘢った。
美しい田舎、というわけにはいかない。殺伐荒涼とした田舎。
しかし、他者との関係を断ち切れる環境を必要とする彼には、居心地のいい場所だった。
5.
私は困惑する。
ここに来るまでの間、運転しながら、この話題には触れるべきではないと考えていたのに、到着早々、なりゆきでこの話題に。
私のせいだ。フォローしなくては。
「要するに、君をこの田舎に追いやったのは轟々たる誹謗中傷、人の評判というものだ。人の評価なんて気にしなさんな。人は他者の中に自分を見る。誰かが君について語る言葉は、君について語るのではなく、実はその人自身について語っているのさ。君の中に何を見るかは、その人自身の質の反映。だから、人が君をどう言うかは君の問題じゃない。その人の問題だ。これが理解できたら、人が自分をなんて言ってるのか気にならなくなる。なかなかそうは、なれないだろうが、これは真実だ。」
私の話を彼は妙な表情で聞いていた。唇の端をこころもち上げて微笑を取り繕ってはいるが、眉間の皺が不快感を表している。
白色に囲まれた静かな部屋の中で、私は続ける。
「考えたことがあるかい? この世には水面下の思考と水面上の思考とがあることを。水面下の思考は否定性に満ちていて、どんなに一生懸命に知力を働かせても否定的な想念しか浮かばない。だから、いつでも、どこでも何が起こっても人を傷付ける言葉しか浮かばない。それでもって、批判精神豊かな自分は偉いもんだと思ってる。ほんとは逆なんだけどね。一度でも水面上の思考を経験した者なら、水面下の思考がいかに愚劣で、不毛で無意味かが良く分かるものなんだ。でも、水面上に頭を出している者は水面下の連中に、おまえら死ね、などとは言わない。なぜって、水面上の思考には否定性がないからさ。」
すると井原は、「お前の話は少し面白いが、意味はさっぱり分からん。でも、その分からんところが面白い。面白いと思うということは、分かっているということだ、などと言うなよ。言おうと思ったね。駄目だよ。それくらい見えてるよ」と言って立ち上がると、キッチンに向かう。白い調理台の上にころがしてあるオレンジ色の柑橘類を包丁で切り始めた。「なんか飲むだろ。昼間からアルコールもなんだし。」
彼は半分に切断した果物を電動の果実絞り器に押し付けた。軽妙なモーターの音が室内に響く。「飲物はこれに限る」と言いつつ、2つのグラスに注いで持ってくる。一方を私の方に差し出して座るなり、「いいかね。この世界は腐っていて、悪臭を放っている。いつの間にか知らん間に、この世は、おバカと精神異常者の集団になり果てた。今や人間にとって最も理解し難いのは人間だ。あいつらに俺を理解することなど所詮無理さ。あの知力も洞察も足りない輩に俺を理解することなど所詮無理だ。しかし、俺は被害者じゃない。断じて被害者じゃない。むしろ挑発者さ。俺にはなんの悪意も無いのだよ。誰かを傷付けたいと願ったこともない。むしろ人々の幸福を祈っている。それなのに俺の周囲でなぜか怒りと敵意が渦巻いて、たちまち狂気の乱痴気騒ぎだ。勝手にしろしろ、好きにしろ。おバカと精神異常者のお祭りだ。俺は呆然と眺めるのみ。そして、首を振って、ごくろうさん、皆様好きに騒いでいてね。地獄の騒ぎに浮かれていてね。俺は冷たく舌打ちをして引き蘢る。他に為す術があるというのか? え? いったい、何ができるっていうんだね?」
「君が打ちのめされたことは分かってる。でも、どんな愚か者の、どんな愚劣な行為でも何か意味があるのかもしれない。なにしろ、神が彼をして、そうさせているのだからね。例えば君が電車に飛び乗ろうと急いでいる時、わけの分からん酔っぱらいのおっさんが君にからんで来たとする。そのせいで、君は電車に乗り遅れる。けど、君が乗りそこねた電車が脱線事故を起こして、乗客がたくさん死んだら、どうだ。その場合、君はその酔っぱらいのおっさんに感謝せざるをえないわけだ。そんなことが知らないうちに、たくさん起こっているのかもしれない。神からすりゃ、君が嫌がることを、わざと君のためにさせているのかも。そう思うと、あらゆる愚行に腹を立てるのは間違いだって分かるだろ? だけど、やっぱり、むかつくんだな。我々はみんな盲目だからね」
「俺をこの田舎に引き蘢らせたことに、意味があるとでも?」
「なかなか、いい所じゃないか」
「言うと思った。実際、住んでみろ。4日でうんざりする。」
「いや、いい所じゃないか。荒涼としているだけだというのだろうが、そこが魅力だ。僕は常々こういう荒野に住んでみたいと思っていたんだ。こんな場所に定住するなんて、うらやましい限りだ。」
「なんにもない所だよ。」
「喧噪から離れて暮らすのは最上の生活だよ。ここには人生の一番終わりの墓場に近い静寂がある。安息の地というのは、まさにこういう場所をいうんじゃないかな。」
「おまえは相変わらず楽天家。変わらんね。おれに言わせりゃ、どこにも安息の地など、ありゃせんよ。この地球上、どこへ行ったって同じだ。どこにでも邪悪で醜悪な人類がいる。ぜんたい、どうして、この地上に人類などという劣悪な生き物がはびこり続けることが許されるのか、分からんね。まったく人類は不思議。自ら作った価値を自ら裏切り続ける。人類は常に真実を求めるのに、人は常に虚偽をなす。人類が無ければ善は無いのに、人は常に悪を為す。人類は常に美を求めるが、人の行いは常に醜悪。ぜんたい神は何を考えているのかね? いいかげんに人類を救済しようとは思わんのかね。神は人を愛していないのかね。そろそろ、この地上に光をもたらして、闇を蹴散らし、人類を苦海から救い出してやろうとは思わんのかね。なあ、どうしてだと思う? 神がいつまでも我々をほっとくのは。この愚劣で醜悪な人類を、いつになったら、まともにしてくれるのかね。え? 地上の惨状を見てごらんよ。これで神が人を愛しているなんて誰が信じられるね? 少しでも、そう思えるなら、そいつは救い難い楽天家だ。そうだろう?」
話題を変えよう。
「それは、そうだが、この家はいいね。いい家だ。」
「ああ、内装は全部やり直した。」
「分かる。外から見りゃ廃屋だが、中は美しい。」
「二階を見てみるか?」
井原は椅子を大きく後ろに押して立ち上がった。私が続いて立つと、井原はさっさと奥の階段を昇り始める。
階段の軋む音が静かな家の中に響く。彼が先に立ち、私が後に続く。
彼の息遣いが、妙に耳に付く。
二階は片側に明かり採りの窓が並ぶ廊下が続き、途中に一つと、突き当たりにもう一つドアがある。淡い光が廊下に満ちている。
「ここは寝室だ」彼は手前のドアを開けて、中を見せる。対面の壁に窓があるが、カーテンのせいで室内は少し暗い。広い部屋は、やはり壁も天井も白く塗られているが、四方の壁に腰板があり、そこは中間色の青灰色に塗装されている。それが一階部分とは違う印象を与えていた。部屋の隅には金属パイプのシングルベッドが置かれているが、それ以外に室内には何もない。
「まるで病室だな。」
「俺には、これで充分だ。」
彼は廊下を奥へ進み、突き当たりのドアを開けて、部屋の中を見せる。
「この部屋が好きだ」と、彼は言う。
そこも、やはり寝室と同じ白を基調にした意匠で、部屋の真ん中に古典的なデザインの木製の小さな椅子が一脚。それ以外には何も無い。
左右の壁にそれぞれ大きな窓。窓枠は白く塗られていて色彩の調和が図られている。カーテンの無い磨り硝子の窓を通る光で部屋全体が柔らかい乳白色に満たされている。ドアの敷居に立ち、室内を見ているだけで、底知れない静けさの中に吸い込まれていく感覚にとらわれた。
再び、彼の息遣いが耳に付く。
私は美しい絵画を鑑賞するように、その部屋を見ていたが、ふと我に返り、廊下を引き返した。
「しばらく逗留するんだろ」背後から、階段を降りながら彼が言う。
「そのつもりだ。」
1階に戻ると、井原は2杯目の果実を絞る。私たちはテーブルを挟んで再び対座した。
井原はグラスに満たしたオレンジ色の液体をぐっと一口喉に流し込んで、「ところで、ちかごろ思うんだが」と、切り出す。「なんでも愛の対象になり得るだろ。人間、動物はもちろん、物、場所、仕事、抽象的な観念までもが愛の対象になり得る。ましてや、具体的な事実については。」
「そうだろうけど、それが?」
「その具体的な事実の中には、例えば、死、も含まれる。」
「死? 詩ではなく?」
「詩じゃない。死だよ。死ぬこと。」
「死を愛するとか?」
「そうだよ。」
真っ白な部屋の中、しばし、沈黙。
「ここでの生活が、死に愛着を持たせた?」
「それもある。でも、ある具体的なできごとが俺を死に惹き付けた。」
「何かあった?」
「うん。あった。」
「なんだね?」
「それは、おいおい話す」井原は、飲んでいたグラスを見つめながら、それをゆっくりと回す。グラスの中で、どろっとした果汁が揺れる。だしぬけに、「ところで、クレー射撃というのを知っているか?」と言う。「クレー射撃」という時、なぜか彼の声は、わずかにうわずった。
「クレー射撃?」
「うん。」
「知らんでもないが、それが何か?」
「見に行かないか?」
「クレー射撃を?」
「そうだよ。さっきからその話をしている。」
「いいんだが」いささか、戸惑う。「なぜ?」
「見る価値があるからさ。」
「ふうん」いったい何を言い出すやら、と思いつつ、「クレー射撃の試合でもあるのか?」
「いや、試合なんかじゃない。ただの練習だが。見る価値はあるよ。」
「ふうん」クレー射撃の練習にどうして見る価値があるのか?「射撃場が近くにあるのか?」
「近いといえば、近いな。山の中を探索していたら、偶然、見つけた。概して射撃場というものは人里離れた山奥にあるものだそうだが、何もない山中に、突然、小さな平地があるのを見つけて、なんだろう、と思った。ゴルフ場にしては、いくらなんでも狭すぎる。でも駐車場がある。建物もあるが、ゴルフ場のクラブハウスとは少々違って小規模なもので、デザインも四角くって味気ない貧相なものだ。最初ここは工事現場なのかな、と思った。携帯電話の中継点でも建つのかな、とね。でも整地してある中に明らかに人が立って何かするための屋根付きのスペースがある。しかも、施設全体が相当に古い感じだ。こりゃ工事現場じゃないな、とは分かるんだが、それじゃなんなのか、てんで分からない。その時はそこに誰もいなかったもんだから、そのまま通り過ぎたがね。どうにも気になったんで、数日後、また見に行った。すると、その時、近くまで行くと、いきなり破裂音が聞こえた。ボン、というような、布団を叩くような音なんだが、およそ布団叩きというような音量じゃない。さらに近づくにつれて、バーンという音になり、それが周囲の山に木霊する。今まで聞いた音で、一番近いのが花火だな。花火を、例えば川べりの桟敷席のようなすぐ近くで見たことあるかね。火の粉や灰なんかが降って来るようなすぐ近くで見ると、音がすさまじいだろ。あれに似ている。なんとも言えん音だな。その音に惹かれて、俺は図々しく車をその施設の駐車場に乗り入れて、停めた。」
「ちょっと待った。車で行ったのか?」
「当たり前だ。歩いて行ける場所じゃない。山道だぞ。」
「車、持ってるのか。」ここに着いた時、自動車なんか見なかったのだが。
「うん。ジムニーがある。山に住む者には使い勝手のいい車でね。あの時はまだ暑さが残る日だったが、エアコンの具合が悪かったんで窓を開けて走っていた。それで、その音が聞こえたって訳でね。当たり前の顔して駐車場に乗り入れて車を停めて、施設の中に入って行った。そうしたら、大きな銃を持ってうろついている人がいる。中のひとりがコンクリートで固められた所に立っていて、銃を撃っていた。ああ、これがクレー射撃というやつか、と知った次第だ。」
「そりゃ、いいが、見る価値ってのは?」
「は?」
「いや、見て楽しいものなのか?」
「見たこと、ないだろ?」
「確かに見たことはない。この世にクレー射撃という競技がある、ということは知ってはいるが、実際に見たことはない。」
「だから、見てみたいと思わんかね?」
「ふん」少し、考える。「まあね、そりゃ珍しいものだから、見て損はないかもしれないが。」
「そう思うだろ?」
「だけど」と言いかけたが、口をつぐんだ。なんにしても、井原の興味を引くものがあるというのは結構なことというべきだ。「いや、いいかも。じゃ、いつか見てみよう。」
「いや、いつかって、ことじゃなくってね。」と言うや、井原はふと視線を上げて、私の頭越しに私の背後の方を見る。「そろそろ来るころなんでね。」
私は振り向いて見上げる。背後の壁にアナログの円形の壁時計が掛かっていて、午後2時15分ころを指している。
「だいたい、いつも3時ころから始まるんでね。練習がね。」
「あ、そ。」来るなり、クレー射撃の練習の見学か。「じゃ、今から出掛けるのか?」
「そうだよ。なにか問題があるのか?」
「いや、別に問題はないのだが。」
「では、行こう。」
井原は立ち上がり、彼と私のグラスを持って流し台へ行き、既に空となっていたふたつのグラスをざっと洗って水切りに置くと、システムキッチンの小さな引き出しを開けて中から車の鍵らしきものを取り出した。さっさと出て行こうとするので慌てて追い掛ける。井原は靴べらも使わずに無造作に靴をはいて、扉を開けて階段を降りて行く。
「玄関に鍵は掛けなくて、いいのか?」
「鍵? こんなど田舎に鍵をかける習慣があると思うか?」と言いつつ家の裏に廻る。「車は裏に停めてある。」
「エアコンの効かない車に乗れと?」
「もう秋も深いぜ。この季節に、エアコンは要らんだろ。」
「そうだとしても」と、私はジムニーの乗り心地を想像して、「僕の車で行かないか?」私の車は、小さなハッチバックだが、軽ではない、普通の車だ。
しかし、井原は、「俺の運転では、いやかね?」などと言う。いちいちひねくれた受け止め方をするものだ。言葉に気を付けなくては。
「いや、そういう意味ではなく、僕の車の方が楽だと思う。」
井原は少し怪訝な顔をしたが、私の車の方が乗り心地がいいという意見には異論はないはずで、「じゃ、そうしよう。」
6.
山道を車で行く。あまり快適とは言えない。
舗装が荒れている。起伏も激しい。
細い林道を、エンジンをぶいぶい言わせながら行く。こんな山の中に、人の集まる施設なんかあるんだろうかと訝しく思える森林地帯を奥へ奥へと行くと、数十分後にようやく平らに整地された中に建物やら金網のフェンスやらがあるのが見えて来た。井原の指示に従い、駐車場に乗り入れる。
車を降りると銃声が聞こえた。なるほど花火がすぐ近くで破裂しているような音だ。そんな音がおよそ十秒間隔で聞こえて来る。
「あ、うるさっ」思わず口にすると、
「んな言い草があるかい。良い音だろ」と、井原。「この音に魅了されたんだよ」と、つぶやく。
射撃場は開放的な造りになっている。施設全体の周囲は生け垣で囲まれているが、駐車場と射撃をしている人々がいる場所との間は金網のフェンスがあるだけで、自由に往来できる。駐車場の脇に2階建ての白い建物があるが、井原はその建物には寄らずに、当たり前の顔をしてさっさと射撃が行なわれている場所の方へ行ってしまう。断りなく立ち入ってもいいのかな? と思いつつ、仕方なく、いささか萎縮した態度で付いて行った。
井原の行く先にはプレハブの小屋があり、その向こう側に日除けの屋根が横に広がっている。その下で数人の散弾銃を持った男女が立っている。ある者は銃を構え、ある者は銃を持って横を向いている。その人々の背後を、銃を折った状態で肩に担ぎ、とことこ歩いている人もいる。すさまじい銃声が響いた。立て続けに2発撃つ人もいる。
井原が小屋の脇を通り過ぎる時、小屋の窓が開いて、人の良さそうな中年の小太りの男が中から顔を出して声を掛けた。
「今日も、見学ですか?」
「うん。今日は、知人を連れて来た。」井原は私の方を振り返りながら言う。
すると、小屋の中の男は、「お連れさんですか。」
「ええ、まあ」と曖昧に答えたが、男は愛想良く私に微笑みかけるて、「では、ごゆっくり」と言うや、窓を閉めた。
井原は、銃を担いで移動する人の邪魔にならないように、コンクリートで固められた床の部分の後ろの端の所を歩いて行く。
小屋から少し離れた所に小さなテーブルが4個。その周囲に折り畳み式の椅子が数脚ずつ置かれていた。
テーブルを囲んで談笑している人たちがいる。井原は一番奥の空いているテーブルに向かって座った。私も所在なく、そのテーブルを囲む椅子の一つに着座する。
すさまじい銃声には辟易するが、射撃をしている人々の動きは一定の秩序に従っているようで、ついその様子を見てしまう。
コンクリートの床には白い線で描かれた小さな四角が5個並んでいて、一人一人がその中で銃を撃つ。射手の斜め前の腰くらいの高さにスピーカーのようなものが佇立している。でも、そこから特に音は出ない。射手の足元の斜め右前の地べたには黄色い樹脂製の籠が置いてあって、銃を撃ち終えた人が銃から空薬莢を取り出してその籠の中に放り込んでいる。射手は銃を構えると、「はいっ」とか、「ああ」とか「はあっ」などと、それぞれ思い思いの声を発する。すると前方の少し地面の盛り上がった所から、オレンジ色の小さな円盤が飛び出す。射手が銃を撃ち、円盤が割れることもあるが、割れずにそのまま飛んで行くことも意外に多い。1発目をはずすと2発撃てるようだ。2発はずすと失敗ということらしい。撃ち終えると、銃を折って、空薬莢を取り出して籠に放り込み、右を向いて右隣の人が撃つのを見ている。右隣の人が撃ち終えると、白い四角から出て右隣の人の左斜め背後に立って待つ。右隣の人が、さらにその右隣の人が撃ち終えて四角から出ると、代わりにその四角に入る。そして、左隣の人が撃ち終えると、おもむろに銃に実包を装填し、銃を閉じて構える。その構えの時、銃床をぐっと肩に押し付けて、「ああ」とか、「はあっ」などの声を出し、飛び出した円盤を撃つ、というわけだ。一番右側の人は撃ち終えると銃を折ったまま肩に担いで、皆の背後を歩いて一番左側に戻る。そんなことを順繰りにやっている。
射手を見ていると、みな一様に丈の長いベストを着ている。ベストのデザインは誰が着ているのも似たり寄ったりだ。射手が銃に実包を装填する際には、そのベストのポケットから実包を取り出している。
また、誰もが色の薄い大きなサングラスをしていて、頭にツバの小さな帽子をかぶり、大きなヘッドフォンのようなものを付けている。銃声がすさまじいから、あれをしないと難聴になるのだろうか。
談笑していた男女のグループが、バッグやら、銃の入ったケースやらを引っさげて、楽しそうに語り合いながら立ち去った。銃を撃っていた人々も、ひとりまたひとりと撃つのをやめて、テーブルを囲んで座って会話を始める。
「あの、おっさん」と、まだ射撃を続けている高齢の男性の様子を見ていた井原が、「悪い癖があるな。実包を装填した状態で銃を構える前に、必ず銃口を大きく上に向ける。あんなことやってたら、暴発した場合、日除けに穴をあけることになる。誰か教えてやればいいのに」などと言い出す。
見ると、その男性は撃ち終え、右に移動してこれから撃とうとする時に、井原の言ったとおり、実包を装填して銃を構える直前、思い切り銃身を上に向けた。「ふうん。あれは、いかんのか」などと思いながら、井原がいつの間にそういう知識を得たのかと訝しく思う。
しかし、それにしても、来て最初の数分間は未知のものに対する興味から、それなりに楽しんで射撃の様子を見ていたが、ただ見ているだけというのは、いかにもつまらない。こんなことで時間を費やして、なにが面白いのだろう?
なにか井原に話し掛けようと思い、「年配の人が多いね」と言う。これは実際、感じたことだ。男女が混じっているが、男性には高齢の人が多い。女性も高齢とまではいえないが、あまり若い人はいない。井原は、答えずに無言のまま射撃を見ている。
みな、ひとしきり撃ったのか、徐々に静かになっていく。
いささか退屈になってきた。
井原の様子を見てみたが、やはり退屈そうだ。少し苛立っているようにも見える。楽しんでいるようには見えない。なら、どうして、あんなに熱心に見に来たがったのか?
「今、何時だ?」と、井原。
私は腕時計を見る。「3時7分、8分かな。」
すると、井原は、「そうか」と答えたが、どことなく、落ち着きがない風情でいる。
銃声がまばらになり、談笑の声がしきりになったころ、駐車場の方から車のタイヤの摩擦音が聞こえて来た。エンジン音が止み、車のドアの開閉の音に続いて華やかな話し声が聞こえて来た。次第に話し声が近付いて来る。こころなしか井原の身体にかすかに生気が蘇るように感じられる。
やがてプレハブ小屋の脇を通って、若い女性が二人、快活な足取りで射撃場に入って来た。
さっきの小太りの男が窓を開けて小屋の中から、「やあ、来たね」と声を掛けると、「うーっす」と、少年のような太い声で答えたのは、ガンケースを持った女の方だ。まだ若い。20代前半ではないかと見受けられる。ポニーテイルの髪を揺らして、生地のぶ厚い地味な色のオーバーサイズのトレーナーを着ているが、目を引くのは黒のフェイクレザーのショートパンツだ。つや消しのパンツの上につやのある太いベルトを合わせて精悍な感じだが、タイトなパンツは腰にぴったりと貼り付き、その丈は20センチほどしかなく、やや肉付きの良いふとももが根元から剝き出しになっている。ストッキングを履いていないので、白い生足が光って見える。足先には、黒い小さなソックスと、スニーカーを履いている。
もう一人の方は同じような年齢だが、服装にはこれといって顕著な特徴はない。わざと色落ちさせ破れ目を付けた浅い藍色のデニムのロングパンツにピンクの長袖シャツ、その上に乳白色のベストを着て、厚手のブルゾンをジッパーは胸まで開けて羽織っている。髪は短くもなく長くもなく緩いウェーブがかかっている。
二人は私たちのいる所から最も遠いテーブルに向かう。ピンクのシャツの女は手にした大きなボストンバッグをテーブルに置くと、チャックを開けて中から紺色の折り畳んだ衣服のようなものを取り出した。そして、「ほい」と、ショートパンツの女に手渡す。受け取った方は、手早くそれを広げる。皆が着ているのと同じようなベストで、それを彼女は手慣れた動作で身に付けた。ピンクのシャツの女は続いてバッグの中から帽子、サングラス、大きなヘッドフォンのような耳当てを出すと、最後に厳かな動作で、プラスチックのケースと小さなナイロン製のポーチを取り出した。
ショートパンツの女は、帽子を頭に被せて器用に帽子の後ろからポニーテイルの髪を出す。そして、ガンケースを開いて銃を組み立て始めた。まず、布で包まれた大きな塊を取り出す。布を脱がすと木目の美しい銃床が現れた。続いて黒い筒状の銃身を取り出す。その時、彼女が銃身の匂いを嗅いだように見えた。彼女の頬に微笑が浮かんだように見える。彼女は銃身と銃床とを接続すると、もう一つ木目のグリップを装着した。彼女の一連の動作は手慣れたものだが、銃に触れる時の彼女の指の動きはどことなく艶かしい。まるで愛猫家が猫を撫でるように、木目の銃床と黒い銃身に優しく指を這わせる。その指遣いは卑猥ともいうべきものだ。
彼女は組み立てた銃を折った状態で肩に担ぎ、サングラスを掛ける。そして、テーブルの上のプラスチックケースから実包を取り出し、ベストのポケットとポーチに詰める。さっきまでピンクのシャツの女と明るく会話をしていたのに、彼女の表情は徐々に真剣味を帯びて来て、言葉少なになっていく。彼女は無言で耳当てを頭に乗せると、ポーチを持って射台に向かった。射台の背後にポーチを置く台があり、彼女はそこにポーチを置いて、左端の四角の中に立った。
着ているベストの丈が長いので、ショートパンツはすっかり隠れる。だから、ベストの下から剝き出しの足が生えているように見えるのが少し妙だ。
彼女は実包を装填した。銃を構える。銃床をぐっと肩に引き付けると、「ほうっ」と太い声で叫んだ。クレーが放出される。直後に銃声が響き、クレーが空中で飛び散った。
「ナイスショット」と、ピンクのシャツの女。談笑していた人々の中からも拍手が起こる。彼女が射撃を始めると、みな射撃をやめて見る側にまわり始めた。
彼女は何事も無かったような顔で、空薬莢を取り出し、少し気取った動作で籠に放り込むと、右の射台に移動。
再び実包を装填。銃を構え、「ほうっ」と一声。クレーが飛び出す。銃声。命中。ぱちぱち、と拍手。
さらに右の射台へ。銃を構え、「ほうっ」。クレーが飛び、銃声が2回。しかし、クレーは割れずに飛んで行った。
彼女はまったく無表情のまま、右へ移動。今度は命中。
私たちは彼女の射撃を静かに見守った。
途中から拍手もなくなり、みな無言で眺める。
注目すべきは彼女の表情だ。命中したときも、外したときも、全く表情に変化がない。普通、命中すれば嬉しそうに、外せば残念そうにするものと思う。ところが、彼女の顔つきは結果に全然左右されない。ただ淡々と、真剣さだけが伝わって来る。初めに彼女を見た時の印象は全面的に消滅した。ふともも剝き出しのショートパンツ姿からは想像できないキャラクターを秘めている。銃を構え、銃口の先を見据えるときの彼女の姿は求道者のものにほかならない。ただ者ではないオーラを発散している。
私は暫くその姿に惹き付けられた。
井原も同様、彼女の姿を見つめている。というか、一挙手一投足を食い入るように凝視している。
彼女は一番右の射台で撃ち終えると、左端の射台に戻って再度射撃を始めた。
その後、同じことの繰り返しになる。
彼女の撃ち姿に魅了された私ではあるが、徐々に退屈を感じ始めた。いつまで見てるんだろう、と思いながら井原の様子をうかがう。彼は依然、真剣な眼差しで彼女を見ていて、声を掛けにくい雰囲気を漂わせている。
結局、彼女は5回、左端から右端への移動を繰り返した後に休憩に入った。
クレー射撃というものは通常どのくらい命中するものなのか、私は知らないので、彼女の今日の成績が良かったのか悪かったのか判断できないが、かなり外していたようにも見えた。
彼女は銃を折ってスタンドに掛けると、「ふうっ」と言いながら椅子に腰掛けた。耳当てを外し、ピンクのシャツの女が気を利かして買っておいた缶ジュースを取り上げて、プシュッとプルタブを引いて飲み始めた。
そんな彼女の様子を、井原は見つめ続ける。
私は、彼女と井原を交互に見ているうち、井原の視線があまりに露骨なことが気になりだした。
彼女も時々井原の方に視線を向けるが、敢えて無視する態度ですぐにそっぽを向く。
この状況を見ただけで、井原がこれまでここで何をして来たか、なぜここに通い詰めているのか、これまでの経緯の全体がだいたい読み取れるというものだ。
「ねえ、君」と、私は井原に声を掛ける。
「ん?」
「まだ、ここに居るのかね?」
「と、いうと?」
「そろそろ、帰ろうじゃないか。」
「帰る? なんで? 気分でも悪いか?」
「いや、そういうことではなく。」
「何か用事でも? ここが気に入らんか?」
「用事もないし、ここが気に入らないってわけでもないがね。いつまでこうしていても、退屈だしね。」
「退屈とおっしゃるのか。ほう。退屈ねえ。それは思いがけない言葉だ。」
「ここで、なにかするとでも? ただ、見ているだけだよね。」
「そうだが、それが、なにか?」
「だから、もう、いいだろ。そろそろ腰を上げようぜ。」
「そう急ぐな。いいだろ、もう少し。」
私は、井原と話しながらも、彼女たちの会話に耳を傾けていた。ショートパンツの女は、「今日は、いまいちだぜ」とか言っている。ピンクのシャツの女は、「気にしない。まだまだ上がり調子だよ」とか言っている。
「なあ、お願いだよ」私は井原に頼む。「僕の退屈を察してくれよ。これ以上ここにいると難聴になりそうだし。もう行こうよ。」
こう言いつつ私が立ち上がると、井原は不承不承ついて来た。
必然、私たちは彼女たちのすぐ近くを通り過ぎる。私は、井原が傍を通り過ぎる時のショートパンツの女の表情が気になった。彼女は一生懸命に無視しているように思われた。視線を合わさないように努力している緊張感が伝わって来る。井原が彼女に最接近した際に、彼女の全身から嫌悪の情が発せられているように感じられた。
ピンクのシャツの女の方は、井原の動きをじっと白い目で追う。こちらも彼を嫌っていることは、一見して明らかだった。
7.
井原の家に戻った時、既に黄昏時になっていた。
夕方の青紫の色に包まれながら、白いテーブルに向かい合って座るや、私はどうしても言い出さずにはいられなくなり、切り出した。
「ねえ、君。」
「んん?」
「君は、あれだろ。クレー射撃の音に惹かれたのではなくって、あの女の子に惹かれたんだよね。」
井原は、さも不本意といわんばかりに眉間に皺を寄せながら「いいや、音に惹かれたんだよ。それは嘘じゃないさ。」
「いやね。違うんだ。僕はね、悪意があって言うんじゃなくってね。善意で言っているんだ。それは分かって欲しい。君を怒らせようってんじゃないんだ。そうじゃなくってね。これは忠告なんだ。親切心からの。」
「なにが言いたいんだ?」
「あのね、傍で見ていて痛いんだ。今日の君の態度は。君の彼女を見る目は、あまりにもあからさまで、見ていられない。ありゃ、あそこで評判になっていると思うよ。君は見学と称して、いつもあそこに見に行くんだろ。そして、自らは射撃はやらんわけだ。ただ、見ている。で、何を見ているかというと、彼女だ。君は、彼女が来るまでは退屈そうにしていて、彼女が来ると急に生き生きとしてきたな。そして、じっと、というか、じとっと見ていた、彼女を。はっきり言って、あまりいい図じゃないね。彼女、君に見られるのを嫌がってたよ。気味が悪いに違いない。いつも、ああして声も掛けずに見ているのかい。向こうにしてみりゃ、どこの誰かわからない妙なおっさんが、いつもやって来ては、じとっと見ている。薄気味悪いったらないと思うよ。やめなよ。いや、やめて欲しい。いやいや、やめなきゃならん。こんなこと続けていたらロクなことにならんよ。」
「なにを言い出すかと思ったら」井原は呆れた風に言う「しかし、俺が音に惹かれたってのは、本当だと理解してほしいね。確かに彼女が目当てだが。それは認めるよ。しかし、彼女が引き金を引いた時に、彼女の銃から発せられる銃声に惹かれたんだ。だから、音に惹かれたってのは嘘じゃない。」
「妙な理屈だね。銃声なんて誰が撃ったって、同じようなもんだろ。」
「それが違うんだ。彼女の銃声は、彼女の銃声だ。そこに価値がある。」
「あ、そう。ところで訊くけど、彼女はいつも、あのスタイルかい?」
「あのスタイルと言うと?」
「いつも、あんな短いパンツを履いているのかい。」
「ああ、そうだが。それが、なにか。」
「なある」私は、薄ら笑いが浮かぶのを抑えられなかった「つまり君は、音に惹かれたんじゃなくって、彼女のふとももに惹かれたんだ。」
「違うよ。ふとももは彼女の一部にすぎない。彼女はシューターなんだよ。彼女は銃を撃つ。ふとももはシューターとしての彼女を構成する一部分にすぎない。銃を構えて、撃って、初めて彼女は成立するんだ。ふとももに惹かれたなんて言い草は、あまりに馬鹿げている。」
「まあ、好きに言ってていいよ。とにかく、もう、やめてくれ。もう、あそこには行かないでくれ。」
「そんな訳にはいかない。やめないよ。これからも、見に行く。」
「やめなよ。彼女が可哀想だ。」
「なんで、可哀想なんだよ。」
「気味悪がってるよ。気が散ると思うよ。練習の邪魔になってるよ。」
「なるわけない。ほかにも見学者は大勢いるだろ。」
「ほかの人たちは自ら射撃をする人たちでしょ。射撃仲間に見られても、どうってことないだろな。でも君は違う。君は、ただの変態おじさんだ。変なおじさんだ。彼女にしてみれば邪悪な存在だ。」
「ひどい言い方しやがる。」
その後、井原と私との間で約20分にわたって同じような会話が繰り返された。
結局、井原は折れなかった。
「あさっても彼女は来る。俺も行く。」これが井原の宣言だった。
「んなら、僕も付いて行くよ。」
「なんだかんだ言って、お前も見たいんだろ。」
「いや、なにか起こるといけないから。」
「なんちゅう言い草だ。」
私は匙を投げて、挨拶もせずに外に出た。
車で、再び荒涼とした枯れ野を走り抜け、街まで降りて行って宿泊予定のホテルへ。
ローカル線の駅近くのホテルは案外綺麗だ。建物は小さいが、安っぽくはなく、ロビーも落ち着いている。
チェックインして、部屋へ。思ったほど狭くない。バスルームもビジネスホテルにありがちな狭苦しいものとは違ってゆとりがある。これで宿泊費は大都市のビジネスホテルよりずっと安い。
少し部屋で休んでから、外出。町を散策する。
しかし、今どきの地方都市はどこも同じような町並みなのには辟易する。広大な駐車場の中にぽつんと小さな倉庫を改装した服飾店。その隣に大きなコンテナみたいなデザインのスーパー。派手な看板を掲げるラーメン屋。1階が全部駐車場で2階で食事するこじゃれた感じのファミレス。携帯電話ショップ。中古バイク屋。ガソリンスタンド。
どれもキラキラと照明で照らされていて、光の饗宴だ。確かに、ひと昔前の田舎のように、いかにもさびれた、わびしくて貧乏臭くて小ぎたなこい建物が並んでいるよりは、よほどいい。しかし、明るくて現代的で清潔感があるのはいいが、つるのぺっとした無機的風景は、少し味気ない。なんか、近未来ものの映画を撮影する書き割りの中にいるような気分だ。
どこかに、この地独特の風情を漂わせているような食べ物屋さんがないかな、と探してみた。
1時間以上歩いて、ないという結論に達した。食事がしたかったら、あの、ありきたりな、どこにでもあるファミレスに行くしかない。やむを得ず、階段をとことこ昇り、ありがちなインテリアデザインの店舗に入ってひとりで広大なテーブルに座り、ビニール張りの安っぽいメニューを見てどうやら食えそうなものを見つけたので店員呼び出しのボタンを押し、マニュアル通りの接客をする店員に注文すると、大して待たされもせずマニュアル通りに作られた規格品のような料理が出て来たので、それを食べてレジを済ますと再び階段を降りた。
腹は満たされた。しかし、なんとなく心は満たされない。書き割りみたいな風景の中をしばし散歩してホテルに帰り、狭いシングルベッドにもぐり込んで味気なく寝た。
8.
案の定、耳を聾する銃声と、銃身を撫でる艶かしい女の指遣いと、ぬめっと白く光るふとももの夢を見て、目が覚めた。
さて、友人を訪ねる以外にこれといった用件のない私にとって、この町での滞在は至極退屈なものに思えてきた。幸い車で来ているから、郊外を走り回って、私好みの荒涼とした風景など探して写真でも撮ろうか。
という思いつきを実行してみたが、井原の家に行く途中で見たほど魅力的な荒野は他に見つからなかった。所々、少しは写真になるかと思われる場所に車を止めて撮影する。しかし、車で走り回るうち、町には、のっぺりとした似而非都会の書き割りだけでなく、わびしく薄汚れた店舗の並ぶ古い地域があることを発見した。そうした地域はいかにもさびれて、いわゆる旧市街と成り果てて、光り輝く書き割りに徐々に取って代わられているようだ。
昼過ぎに街道沿いのラーメン屋で平々凡々の塩ラーメンを食べる。悄然とした気分で葦の繁る薄茶色の河川敷に車を止めて、ドアを開けたまま車内から茫然と風景を眺めていると、携帯が振動した。
「何してる?」井原が言う。
「これと言って、なにも。」
「他に用がないなら、来ないか。急がなくていい。4時ころに、『赤い橋』という店に来てくれ。お前の歓迎会をする」などと、案外明るい調子で言う。昨日の口論のことなど忘れているのか。
「その店は、どこに?」
「駅前の道を、ちょっと行って、川を渡って、左に曲がって、さらに行って、右に曲がってちょっと行った所だ。」
「その説明で、到達できる人物がいると思うのか?」
「待て。店の者に代わって説明させる」という井原の言葉に続き、「初めまして」と、年配の女性の声で「赤い橋の、浅見と申します」と言う。夜の女性にありがちな、酒焼けしたかすれ声だ。「駅は、分かりますか」と、女性が言う。駅のすぐ近くのホテルに泊まっていると答えると、そこからの道順を丁寧に教えてくれた。
駅前の目抜き通りを真っ直ぐに。橋を渡ってから2つ目の信号を左へ。小さな銀行の支店の手前に細い脇道があるので、そこを右へ行くと、バー、小料理屋、スナックの類ばかりが入っている5階建ての雑居ビルがある。その4階に「赤い橋」がある。歩くとそこそこの距離だが、タクシーに乗るほどではないとのこと。
私が了解した旨述べると、すぐに井原に電話が戻され、「んじゃ、4時に」と言って電話が切れた。
それにしても歓迎会とは恐れ入った。なぜ、そんな大仰なことを考え付くのか。確かに十数年ぶりの再会ではあるが、歓迎会を催すほどの事態ではあるまい。おそらく言葉の綾だろう。単に「久しぶりに、飲もうぜ」の言い換えにすぎない。
無目的に町中のあちこちを車で走りまわり、ホテルの駐車場に車を停めると、ほどよい時間になる。4時まで20分ほどあるが、ぼちぼち歩いて行くことにしよう。
キラキラの書き割りの中を通り過ぎる。信号2つというのは、思いのほか距離がある。車なら一瞬だろうが、歩くと結構疲れる距離だ。ようやく左に折れて、教えられた細い脇道に入る。ここまで来ると、似而非都会の書き割りの裏側を見ている感じを受ける。
あまり新しいビルじゃない。エレベーターも狭くて汚い。もともとエレベーターのない建物に、後から増設した感がある。ゆっくりと上昇する狭い箱に乗って4階へ。ドアが開くと、通路の左右、頭上のあたりに小さな看板がいくつか突き出ている。一番奥の左側に「赤い橋」とある。
窓のない厚い木のドアを開ける。
「いらっしゃいませ」と、さっきの女のしゃがれ声がする。
よくある平凡なスナック。ニス塗りの木目のカウンターに、中途半端な背もたれ付きのビニール張りの椅子が8脚。
申し訳程度のテーブル席があるが、使われていない模様。
カウンターの背後の棚の中には種々のボトルが並ぶ。普通、スナックの棚には同じ銘柄のボトルがずらりと並ぶものだが、ひとつひとつ個性的なボトルが並べられている。酒類も多岐に渡り、ウイスキー、ブランデーに限らず、焼酎はもちろん、ウォッカ、テキーラ、ラム酒、リキュール、日本酒やワインまで置いてある。とはいえ、各々のボトルには客の名前らしき文字が記されていて、それぞれキープされているものであることが分かる。カクテルを作る素材という訳でもなさそうだ。
「先に飲んでたよ。」井原は、カウンターの奥から2番目の席に斜めにこっちを向きながら座り、右手に持った大きな氷の入ったロックグラスを持ち上げて会釈する。
井原の前のカウンターの上には、ところ狭しと大皿が置かれ、色とりどりのオードブルが並んでいる。おそらく通常の営業形態ではなく、井原が特別に作らせて並ばせたのだろう。いかにも洋酒好きが好みそうなチーズ、揚げ物、肉のコンフィ、スモークサーモン、魚介類の酢漬け、カルパッチョなどが豊富に陳列されている。
浅見と名乗ったママは、愛想笑いを浮かべながらカウンターの向こう側に立って私を見ている。
私は、初めての店に入る時はいつもそうだが、ゆっくりとした動作で周囲の様子を伺いながら歩を進めた。井原の席から2つ空けて真ん中あたりの椅子に腰掛けると、
「この店は6時オープンなんだが、今日は特別に早く開けてもらってね」と、井原が言う。
「いいんですか、そんなわがまま。」
すると、ママが「いんですよ。この人は私の恩人なんです」と言う。
水商売の人々にとっては、どうせこの世は恩人だらけだから、この種の言葉は話半分に聞いていい。私はママの発言はさして気に留めず、「歓迎会などと大袈裟な。そんなことしてくれなくて、いいのに。」
「うん。歓迎会というほどのもんじゃない。ゆっくり飲もうじゃないか。」
「お飲物は、なんにしましょう?」と尋ねるママに、まずはビールを、と注文する。
ママは小さめの薄手のグラスを私の目の前に置くと、ビールの銘柄も訊かずにカウンター下の冷蔵庫からスーパードライの中瓶を取り出して栓を抜こうとする。
「サッポロない?」と訊くと、
「あ、ありますよ」と、スーパードライを引っ込めて黒ラベルを出して栓を抜く。あるなら先に訊けよ、と思いつつ、グラスを持って金色の液体が満たされるのを待つ。グラスを心持ち傾けて、泡だらけにならないように受ける。うまく2センチ弱の泡の層ができる。
井原が黙ってロックグラスを突き出すので、グラス同士をかち合わせてからぐいっと飲んだ。ビールの最初の一杯は、千金に値する。世にはキンキンに冷えた生ビールを有り難がる風潮があるが、ほどよく冷えた瓶ビールの苦味こそビールを飲む醍醐味にほかならない。
口腔内にじわっと広がるホップの苦味を味わっていると、井原が私を指差し、
「こいつはねえ、こいつは、なんだと思う?」と喋り出す。「こいつは、ある種の親友という部類に属する生き物なんだがね。でも、いやな奴でね。」
ママは黙って聞いている。
「ほんと、いやな奴なんだ。」井原は繰り返す。
「喧嘩したんですよ。」私は、やはり井原が昨日の口論を根に持っているものと思い、先手を打ってママに説明することにした。「この男が、ある若い女の子に惚れ込んで、その子を見に射撃場に通い詰めているんで、やめるように言ったんですよ。でも、あくまでも、やめないと言うんで。」
井原は憮然としている。なにやら別段その話題を持ち出す意思はなかったんだ、と言わんばかりの表情をしている。
するとママが、「見に行くくらい、いいじゃありませんか」と言う。その口ぶりが事情を知った上で井原を援護する様子なので、意外に思われた。
「いや、あれは、良くない。良くないですよ。見に行くくらい、とおっしゃるが、そんな生易しいもんじゃない。たぶん、噂になっているだろうし。見られている方が明らかに嫌がっている。なにしろ、あからさまなんだから困りますよ。傍で見ていて恥ずかしいほどなんだから。あなたも現場に居合わせて、この男が彼女を見ている様子を実際に目の当たりにすれば、ああ、こりゃあ、やめさせなきゃならんな、と思いますよ。」
「へえ」と、ママ。「私は、お話は聞いてはいますが、その彼女のことも知りませんし、この方が射撃場へ行かれるのに付いて行ったこともありませんし。なにか、こう、見ている様子が良くないんですか?」
「良くないなんてもんじゃないんです。」私はビールをぐいっと空ける。
「こいつの思い過ごしなんだ」と、井原。「俺はただ、見ているだけなんだ。見るぐらい、誰だってやってることだし。何がいかんのか、分からんのだ。」
「ただ見ているだけだからこそ、良くないんだよ。射撃をするわけでなく、ただ女の子を見るために、わざわざ射撃場に出掛けて行って。しかも、特定の女の子をじっとり、ねっとり見てるってのは、不審者以外の何者でもない。」
「でも、射撃場には、おおぜい人がいらっしゃるんじゃないんですか。」ママが訊く。おそらく、人の群れに紛れて見ているなら、そう不審がられることもないだろう、と想像していると思われる。
「いや、そんなに大勢はいないんですよ。私は1回行っただけで、普段はどうか知りませんがね。しかし、射撃をやっている人なんて、世の中にそんな多くはないでしょうから、そんなに人がいる訳じゃありません。とりわけ自分で射撃をせずに見学する人なんて、私たち以外には一人もいませんでしたよ。目立つったらありゃしない。第一、射撃場自体が広いもんじゃない。すぐ近くで見ることになるんです。彼女も明らかに見られているのを意識していて、嫌がっているんです。」
「その女性と、お話しされたんですか」と、ママ。
「いいえ、でも、様子で分かります。彼女には連れの女の子がいるんですが、その女の子に思い切り白い目で見られましたね。とにかく、居合わせれば分かりますよ。この男が彼女を見つめる、あの異様な雰囲気は。」
「異様だなんて」と、ママが笑う。
すると井原が「そんなに言うなら、一度、直接訊いてみたらいい。お前は新参者だから、話し掛けやすいだろう。次ぎに行った時に、あの子らに声かけて、訊いてみたらどうだ?」
「訊くって?」
「だから、俺に見られているのが嫌なのか。俺をどう思っているのか、訊いてみたらいい。」
「それを訊くこと自体が、どうかと思うよ。訊くまでもないことだし。」
「いや、訊いてくれ。是非、訊いてくれ。ついでに、名前とか、素性とか、知りたいね。住んでいる所とか、勤め先とか。」
「いや、だからさ。そんなこと、訊けるか。そういうことを尋ねること自体が嫌われるもとだ。」
「うまくやってくれよ。」
どうも、話の方向性がおかしい。この話題は切り上げるべきだ。
「ところで、こっちに着いて早々、この男から薄気味悪い話を聞かされましてね。」
あまり明るい話題ではないが、とりあえずクレー射撃の女の子の話題から離れたかった。
「薄気味悪いって、なんです?」ママが訊く。
「いえね、なんか、こっちであった、なんかの出来事が、この男を死に惹き付けた、なんて言うもんだから。」
「ああ、その話か」と、井原が乗り出す。「あの話をするかな。」
すると、ママが、「やめなさいよ」と、たしなめる。
「いや、話す約束をしたんだ。おいおい話すってね。それが今であっても、いいわけだ。」
「もっと陽気な話題にしませんか?」と、ママ。
「陽気な話さ。実におかしなことだからな」井原は続ける。「なあ、こんなことがあったんだ」井原は、そう言うと、ママにシャンパングラスを私の前に置くように指示して、「カルバドス」とママに言う。ママが棚からボトルを取り出すと、井原はそれを受取り、コルクの栓を抜いてシャンパングラスに注ぐ。グラスの中で琥珀色の液体が波打つのを見つめる私に、井原は「数ヶ月前のことだ」と話し始めた。「俺は、この町にただ一つの花屋に行ったんだ。」
井原は、浅見ママのお店「スナック・赤い橋」の再開を祝うために花束を買いに行ったという。ママはいったんスナックの経営をあきらめたが、井原の励ましによって店を再開したとのこと。井原は、その話はまた別の機会にする、と言って話を続けた。その生花店は、駅前の商店街のはずれあたり、町を通り抜ける街道沿いにある小さな店舗で、50過ぎの女性とその息子が店を切り盛りしていた。その息子、20代後半ころなのだが、井原の言では、まれに見る美形だそうな。ママもその男を見たことがあるが、一見して人目を引かずにはおかない男前で、こんな田舎で花屋をやらせているのは惜しい、とのこと。井原がその生花店で花束作りを依頼すると、件の息子は予算を尋ねたうえで、「どんな感じがお好みですか?」と、店内と店外とをまめに往復しながら、種々の生花を見せて伺いを立てる。井原が、飾る場所がら、派手なのが良い、などと言うと、彼は店の外に展示してある花を取りに行った。その時、街道を1台の大型バスがやって来て、信号待ちで生花店の丁度前で停車した。そのバスには、大勢の若い外国人の女性が乗っていた。彼女らは見たところ中南米系の女性たちで、大方、どこかの工場にでも勤務する労働者たちと思われた。ところが、そこに、ひと騒ぎが持ち上がった。突然、女性たちが騒ぎ出したのだ。井原は、初め何ごとが起こったのか理解できなかった。女性たちの言語は、いずれ、スペイン語かポルトガル語かというところであったろう。何を言っているのか理解できなかったが、見ていると、彼女らが生花店の息子を見て騒いでいるのが分かった。なんのことはない、男の顔を見て、あまりに男前なので興奮しているのだ。「いや、しかし、南米の女というものは」、井原は言ったものだ。「我々日本人の常識から完全にずれているというか、感情表現があけっぴろげというか、それにしても、興奮し過ぎだろうお前たち、と言いたくなるほどの大騒ぎさ。」騒がれている当の本人は、一瞬、何ごとかとバスの方を見たが、自分が彼女たちに見られていて騒ぎの対象とされていることに気が付くと、苦笑し、無視して花を選別する作業に戻った。この時、井原の意識に、妙な悪戯めいた考えがひらめいた。
「それが、いけなかったんだ。今から思えば、バカなことを言ったもんだ」と、井原。井原は男に、「花でも、投げてやれ」と言ったのだ。「これなんか、どうだ」と、男が持っている花の束の中から赤いバラを一本つまみ出し、「これを、彼女らに向かって投げてやれよ」と言う。「花は商品ですよ。」男が言う。井原は、「これは俺が買うから、投げなよ。ほら、ほら」とそそのかす。男は、苦笑いをしつつ、井原からバラを受け取ると、やっとばかりにバスの窓に向かって放り投げた。
「その時だよ」と語る井原の顔面に苦渋が浮かぶ。「当然、バラなんぞ、空気抵抗のせいで、投げても良く飛ばない。バスの窓には届かない。バラは、バスの窓の近くまで行ったが、すぐ落ちた。」ここで、井原はひとつ、大きく溜め息をついた。「ところが、そのバラを、取ろうとした女がいた。彼の投げたバラを受け取りたかったんだな。窓から身を乗り出し、手を伸ばした。届かない。それは、いい。しかし、その瞬間、信号が変わったのか、バスが動き出した。目一杯窓から身を乗り出していた女は、振り落とされた。バスの車外にね。窓から落ちたんだ。落ちただけなら、良かった。落下した瞬間、もんどりうって背後に倒れた。そして、どうなったと思う?」
ママが、さっきの井原の溜息よりも、より長い溜息をつきながら、片手で髪の毛を軽く梳るような動作をする。「聞きたくない」という顔付きだ。井原は構わず続ける。「倒れた彼女の頭を、走り出したバスの後ろのタイヤが轢きつぶしたんだ。」私は、その光景を想像してみる。いや、想像できるものではない。
「彼女の頭は、スイカみたいにつぶされたよ。幸い、バスに乗った女たちには見えなかったから、悲鳴は上がらなかったがね。私らは目の当たりにしたんだ。」
沈黙が訪れる。空調の音が、妙にうるさく感じられる。
「それで」と、私。「それで、どうなった?」
「どうもこうもない。その後、警察の事情聴取など、いろいろあったが、それだけのことだ。」
「だったら、それが、どうしたんだ? そのことと、君が死に惹き付けられたことと、どういう関係が?」
「あんなことがあるまでは、俺はこうして引き蘢ってはいても、それなりに生きてはいられたわけだ。少なくとも、ここでこうして生きていても構うまい、という思いでいられたんだがな。でも、ああいうことがあるとなると、考えを改めにゃならん。」
「なんで? なんで、そうなるんだ? 偶発的な事故にすぎんじゃないか。」
「いや、この世に偶然はない。断じてない。どんなできごとにも意味があるんだ。君だって、そう言ってたじゃないか。前のときもそうだった。良かれと思ってしたことが裏目に出る。でも前のときは、俺があの女の子の母親を殺したものか、はっきりしなかった。私があの子を連れて行ったから、あの子の母親が我が子を捜して船内をさまよったとは断定できない。私があの子を連れてボートに乗ったことと、あの母親の死との因果関係は曖昧だ。だから他人がなんと言おうとも、客観的にみて私が責められるべき理由はない。でも、今度は違う。はっきりしている。俺の余計な言葉が、ひとりの人間の死を招いたことはあまりにも明らかだ。この因果関係は明白だ。俺が、あんなことを彼にさせなければ彼女は死なずに済んだ。この関係は明らかなんだよ。これまでは俺は自らを無害な人間と考えることができた。でも、あの件以来、認識が変わったんだよ。変わらざるを得ない。俺は明確な加害者だ。死神みたいなもんだな。今度は思い知らされたよ。俺は明らかに人の死を招く存在だ。今度ばかりは言い訳できない。要するに、俺は神から見捨てられてるって訳だ。」
「いや、君のせいってわけでもないから。」
「どうして? 俺が彼に花なんか投げさせなきゃ、あの女は落ちなかった。」
「単にその女が愚かだとしか、思えないのだが?」
「女が愚かかどうかは、どうでもいい。俺の言葉が彼女の死を招いた。これが事実だ。動かし難い事実だ。」
「それが理由? そんな理由で、死について考えるようになった?」
「ありていに言えば、そうだ。」
「そんなことで、もう人生を終わらせたいというのか?」
「いや、いや、いや、そうじゃない」と、井原は大袈裟に片手を振って否定する。「俺には、人生を終わらせる、という観念はないよ。というのは、俺はまだ、人生を始めてすらいないんだ。俺の人生はまだ始まってもいないんだよ。俺はまだ、人生の名に値する何かを生きた経験がない。まだ始まってもいないものを、終わらせることはできない道理だ。そんなわけで、俺は死ねない。では、どうする? 俺は、ただ、この世から消えることができれば良いと思っている。」
「消える?」
「うん、消えるんだ。」
「死なずに消える。そんなことが、できるのか?」
「いや、無理だ。」
「無理なら、どうする?」
「結局、死ぬしかないんだろ。」
「じゃ、自殺するのか?」
「いや、ところが、自殺はしたくないんだ。自殺という行為には、どこか屈辱的な感じが伴う。死んでしまえば、その後のことなど気にしなくてもいいという意見もあるだろうが、でも、どうも良くないね。あの自殺という行為に伴う、どうにも拭い難い屈辱的なイメージは。あれは、なんとかならんものかね。」
「んじゃ、どうするんだ?」
「考えてるんだ。どうしたら、いいのか。」
完全な袋小路だ。出口がない。
「本当言うと」と、彼は言う。「既に考えたんだ。」
「何を考えた?」
「今は言えない。」彼は大きく息を吸い込むと、「今は言えない。」と、繰り返した。
9.
井原と私は、再び耳を聾する銃声の中にいた。
結局、井原が例の女の子を見に来るのを止めることができなかった私は、翌々日も再び私の車を運転して井原の家に行き、一緒に射撃場に来たわけだ。
件の女の子2人連れは、既に来ている。私は、苦虫噛み潰した顔をしながら、女の子たちと井原の様子を交互に見ていた。
射撃をする女の子は相変わらずのショートパンツ姿で、美しい生足が光っている。今日はレザーではなく、デニム地のパンツで、股上も股下も極端に短くて尻にぴったりフィットするタイプのものを、幅の広い白いベルトで止めている。相棒の女の子は、ダメージ加工のロングのデニムパンツと、地味なブルゾンを着ている。
ショートパンツの女の子の射撃は、相変わらず求道者の態だ。隣に井原が居ることを、もし忘れることができたなら、私も魅了されて、じっと見惚れることだろう。彼女が引き金を引くときの、周囲の大気を震わせる銃声は、全身の神経に快い一撃となる。「音に惹かれた」という井原の言葉は、まんざら嘘でもないと思えてくる。
夢見心地で見ていると、やがて彼女は射撃を終えて背後の椅子に座って休む。相棒の女の子が用意した缶コーヒーを飲みながら、「甘いの、ないのか?」と訊いた。「え? 甘いのがいい?」相棒が不思議そうに尋ねると、「なんか、疲れた。たまには、甘いもんが欲しくなる。」すると、相棒は「買って来る」と、席を立ち、2階建ての白い建物の方へ歩いて行った。
私はそれを見て、無言で立ち上がると、さりげなく後を追った。井原は、興味ありげに私の行動を見ながら、あえて何も言わずにいる。
彼女は建物の中ほどにある小さな裏口から入って行った。私も続いて建物の中へ。入るとすぐ建物を貫く廊下があり、表玄関と事務室が見え、他に会議室がある。事務室内では少人数で仕事をしているが、会議室は無人のようだ。私は左右を見渡したが、彼女の姿がない。廊下の中程に階段があるので、上ってみる。2階は会議室ばかりだが、そのうちの1室から、自動販売機が作動する音が聞こえてきた。ドアは開いている。そっと敷居に立って、中を覗く。
いた。室の中に、彼女がひとり。
彼女は、自販機の前にしゃがみこんで、取り出し口に落ちて来た飲物の缶を取ろうとしていた。自販機は3台並んでいたが、私はあまり不自然にならないように、ゆるゆると彼女に近付いて行く。すると彼女は、缶を取り出して立ち上がるや、私の顔を見て、ぱっと明るく笑顔を見せながら陽気に言った。
「ああ、あんた、あのおっさんのお連れさんでしょ?」
「あのおっさん」が何を意味するか、あまりにも明らかだ。そこで、私は即座に、「ええ、そうです。いつもご迷惑をおかけしております」と、意識してなるべく明るい口調になるように答えた。
そんな私のあけっぴろげな態度が功を奏したのか、私の言わんとすることを完全に理解したのか、彼女は朗らかに笑い声を上げた。そして、「ねえ、あのおっさん、なんとか、なりません?」と言う。
「あっはは」と、力無く笑ってみせて、私は言葉を続けた。「本当に、困ったもんです。実は、この前、あの男と一緒にここに来た後で、あいつに言ってやったんです。迷惑だから、やめろって。もう、ここへは来るなって言ってやったんですがね。あいつは、どうしても、と言って、また来てしまった。いや、止めようとは努力したんですよ。でも、私の力不足で、ごめんなさい。」
すると、彼女は、笑顔を維持しつつも唇をヘの字に曲げて、「あの人、なんなの? 変態なの?」
「いえ、変態というほどではないんですがね。要するに、彼女に惚れ込んでいるんです。あなたの相方に、すっかり心酔していて。」
すると、彼女は、ふうっと溜息をついて、「困った人。」
「ええ、ほんとに困った人です。」
彼女は、何やら考える風で、何度も軽く頷きながら、片足のつま先を床に立てて踵をゆらゆら揺らしている。
そこで、私は右手を差し出し、「樋口と言います。」
すると、彼女は、微笑んで、咄嗟に右手に持っていた缶ジュースを左手に持ち替えると、「樫岡です」と、握手に応じてくれた。その掌は、ジュースの缶の表面に付いていた水滴で濡れていた。
彼女は歩き出す。
私は付いて行きながら、「彼女の名前も訊いていいですか?」
「彼女は、広瀬っていうの。」
「あの子は、いつも、あんな風なの?」
「ん? あんな風って?」
「つまり、あの格好、服装だけど。」
「ああ、あれね。あれは本当はマナー違反なんだけど。彼女も、ちゃんとした大会に出るときなんかは、膝まで隠れるスパッツを履くんだ。けど、普段の練習の時は、いつも、あれ」と言い、ちょっと憧れている風の言い方で、「彼女、脚が綺麗だからね。誇示したいのかも。」
私は彼女と一緒に階段を降りながら、「スパッツか。」そして、思わず、「そんな姿も見てみたいなあ。」
すると、彼女は、階段の踊り場で、くるっと私の方を向き、「おまえもかい」と、おどけて言う。
「あ、いや。いやらしい意味でなくってね。」
「分かってます。男はみんな、変態なんだから。」
私たちは建物の外に出た。二人、肩を並べて歩くのも妙なので、少し離れて歩く。射撃場に戻る前に、彼女は振り向き、小声で私に、「本当に、なんとかしてよ。」
私は、さしたる考えもないのに、「ええ、なんとか考えましょう」と答えておいた。彼女は先に立って射撃場に入って行くので、私は歩度を緩めて少し遅れて入る。
「おっす。ありがと」と、ショートパンツは、相棒から缶ジュースを受け取って、ぷしゅっとプルタブを引く。私はそしらぬ顔で脇を通り過ぎ、井原のいるテーブルに戻った。
「何をしてた?」と、井原が問う。
「あとで話す。」
「さて、と」と言いながら、ショートパンツは立ち上がる。愛銃を折った状態で肩に担いで行き、一番左の射台に立つ。そして、ベストのポケットから実包を取り出し、銃に装填する。2個の実包を装填すると銃を閉じ、銃床を肩に強く引き付け、「ほうっ」と発声。クレーが放出され、彼女は引き金を引く。銃声が轟いた後、パシッという音と伴にクレーの破片が飛び散った。
彼女は銃を折ると、空薬莢を取り出し、放り投げる。銃の機関部から立ち昇る白煙を、ふうっと吹いた。次の射台へ。
そうやって順々に右の射台に移りながら射撃を続ける。そこそこの命中率で、順調に進んでいた。
やがて、一番右の射台に移る。そこで彼女は井原に最も接近する。
なんとなく、いやな予感がした。
その時、井原は、顔一杯に、これ見よがしの淫猥な笑みを浮かべて、わざとらしくよく通る声で、「ほう、今日はデニムかい」という言葉を投げ掛けた。
すると、彼女の表情が一瞬で凍り付いた。彼女の中で、何かがぶち切れたようだった。
彼女はまだ実包を装填する前で、銃を折った状態で持っていたが、実包を装填せずにそのまま銃を閉じた。そして、腰のあたりに銃を構えて銃身を前に向けたまま、ゆっくりと右側、即ち井原のいる方に身体を向けた。必然、銃口が井原を向く。
「ちょっと、ゆうきっ。あんた、何してるのっ」射撃場全体に、樫岡の悲鳴に近い叫び声が響き渡った。
居合わせた全員が注目する。射撃場全体に緊張が走る。
ショートパンツは、我に返ったように、「ん? 別に、なんでもねえよ」と言って、すぐに前に向き直った。再び、銃を折って、ベストのポケットから実包を取り出そうとする。
そこへ、「ちょい待ち、ちょい待ち」と大きな声で言いながら、小太りの男が走って来た。一昨日、私たちに挨拶してくれた中年の男だ。「ゆうきさん、ゆうきさん」と、男はあせって呼びながら走る。
「なんです?」呼ばれた彼女は、実包の装填をやめて、男の方を見る。
男は、彼女に向き合って立ち止まり、息を整えてから、「今日の射撃は中止。もう休んだ方がいいよ。」
「なんでです?」と、彼女。
「こんな騒ぎをひき起すようじゃ、練習を続けさせるわけにはいかない。銃口を人に向けるなんて、一番やっちゃいけないことじゃないか。これが大会なら、即、失格だよ。」
「まだ、装填してませんよ。」ショートパンツは、不貞腐れたように言う。
「そりゃ、当然だ。装填済みの銃だったら、今後一切、どこの射撃場も出入り禁止となるところだ。たとえ空の銃でも、とにかく銃口を人に向けるのは最低のマナー違反なんだから、絶対にダメだよ。こんなこと、今さら言わなくたって、分かってるだろ?」
「ええ、それはね」と言って、彼女は、「今日は、ほんとに、どうもすみませんでした」と、素直に頭を下げた。
「気をつけてね。」男は優しく言うと、踵を返してプレハブ小屋の方へ歩いて行く。ふと、振り返り、「でもね、そのショートパンツだけは、やめないでね。そのおかげで、お客さん、増えてるんだから」と、にっこり笑う。
立ち去る男の背中に向けて、彼女は、無言で中指を突き立てた。
一連の騒ぎの間、当事者の井原は終始無言で、かすかな笑みを浮かべていたが、その目は緊張のためか異常に見開かれていた。
帰りの車の中で、井原は憮然としていた。助手席で揺られながら、何も言おうとしない。
「あのな」仕方なく、私から切り出す。「どう思ってんだ?」
「どう思うって、なにが?」
「あんな騒ぎ、ひき起して。」
「騒ぎを起こしたのは、彼女だ。」
「君が原因じゃないか。わざと怒らせたろ。」
「今日はデニムかいって、言っただけだ。」
「いやらしい。」私は舌打ちをして、「もう、行かないよな。行けないよな。こんなことになって。」
「それは、そうと、彼女は『ゆうき』っていう名前なんだな。」
「下の名前はそうらしいね。名字は広瀬だ。」
「知ってるのか?」
「相棒の女の子が教えてくれた。ちなみに、相棒の方は樫岡という。」
「すばらしい」と、井原は言う。もう一度、「すばらしい。」
「何が、すばらしいんだ?」
「名前を聴き出したのか。『広瀬ゆうき』。いい名前だ。」
「名前に、いいも悪いもあるかい。」
井原は、再び無言を決め込んだ。何を考えているのか分からないが、とにかく今後、射撃場に行かないようにしてくれたら、それでいい。
10.
不愉快な騒動の翌日、ホテルで朝寝をしていると、室内の電話が鳴った。
どうしてホテルの部屋の電話なんぞが鳴るんだろう、と思いつつ、ベッドの中を這って行き、サイドテーブルの上の電話の受話器を取った。
「おはようございます。お休みのところ、すみません。浅見です。」しゃがれた女性の声がする。一瞬、誰のことか分からずに黙っていると、「あの、『赤い橋』の浅見です。」
「あ、ああ、分かります。分かります。なんでしょう?」
「すみません。少し、お願いがありまして。」
「はあ、なんです?」
「井原さんのことなんですが。電話じゃ、ちょっと。」
「どうすれば、いいです?」
「お会いして、お話ししたいんです。」
「ええ、いいですが。実は、まだ寝てまして。」
「何時ごろ、お伺いすればよろしいでしょう?」
「待ってください。今、何時です?」と言いながら、サイドテーブルに置いておいた腕時計を探す。「今は、」と彼女が言い出すころ、時計を見つける。午前10時40分を少しまわったころ。これからシャワーを浴びて身支度するのに要する時間を考えて、「12時で、いいですか?」と問う。これなら余裕だ。
「ええ、では、12時に伺います。」
「場所は?」
「そちらのホテルのロビーで。」
「分かりました。」
「では、よろしく。」
受話器を置いて、再びベッドの中央へ。少しまどろむ余裕はあるだろう。
うとうとして、再び目を覚まし、時計を見ると、11時半を過ぎている。
飛び起きて、大急ぎで服を脱いでシャワーを浴び、頭髪を乾かして服を着て整髪を終えたときは、ほぼ12時になっていた。
あせってエレベーターに乗り、1階へ。
ロビーは、普通のオフィスの応接室を少し広くした程度で、フロントカウンターの前に、木製の長テーブルが2個、それを取り囲んで緑色の革張りのロビーチェアが並んでいる。道路に面した窓から曇天の灰色の光が差し込み、部屋の隅に置かれた観葉植物の葉を鈍く照らしている。
ちょうどエレベーターと向かい合う席に、彼女は座っていた。暗い色調の赤いワンピースを着て、柔らかいクッションの椅子に腰掛けている。膝の上に、黒い革のハンドバッグを置き、両手を行儀よく添えている。私の姿を認めると、ゆっくり立ち上がり、お辞儀をした。私が対面の椅子まで行くと、再度、「お休みのところ、すみません」と、丁寧に挨拶する。
ロビー内に、他に客はいない。音楽もない静かな室内で、彼女の落ち着いた、枯れた声が明瞭に聞こえた。
私は挨拶も早々、彼女に腰を下ろすように促しながら、自らも椅子に深く腰掛けて、「いえ、いいんです。早速ですが、頼みというのは?」
「井原が、女の子たちに詫びをしたいと言うのです。」
「詫び?」
「ええ、これまで迷惑を掛けてきたことを、井原は後悔しておりまして。詫びをしたいと。」
「なるほど。それはいいと思いますが、それで、私に頼みというのは?」
「道を付けていただきたいんです。」この言葉に、私が不思議そうな顔をするのを見て、彼女は続ける。「なんでも、相棒の女性の方と、あなたは、お話しをなさったとかで。名前を聴き出せるのなら、もう一度お話ししていただいて、会見の席を設けて、詫びを入れる機会を作っていただけないかと、井原が申しているんです。」
「はあ」と言いつつ、私は考える。「井原が、彼女らに会って詫びをする、というわけですか。」
「ええ、それを望んでおられます。」
「ふうん。」私はさらに考える。そして、「いや、それはよした方がいいでしょう。会わない方がいい。彼女らは、井原が会いたいと言っていると聞けば、きっと嫌がりますよ。断られるのがオチですし、仮に会えたところで、いい結果になりゃしません。会って詫びをする、というのには私は反対です。井原には、考え直してもらった方がいい。」
「そう思われますか?」
「ええ、彼女らにしてみれば、井原が射撃場に来なくなれば、それが一番いいわけであって、わざわざ詫びたいから会いたい、などと言われるのは苦痛でしょう。それを口実に会おうとしている、と思われるだけで、逆効果です。というか、そもそも井原の真意を疑いますね。正直言って、井原の言うことを額面どおりに受けとめることはできません。所詮、会う口実を作ろうとしているんじゃないかと思えて仕方ありませんよ。」
すると、彼女も苦笑しつつ、「あなたも、そう思われますか。」
「ええ、普通、そう思うでしょう。あなたも、私の懸念はご理解いただけると思いますが?」
「そうですね。やはり、そういうご意見ですか。」彼女は、少しばかり目を伏せて考える態であったが、「では、こうしては、いただけないでしょうか。井原自身は行かずに、代わりに私がその子たちに会って詫びを入れる、というのは。」
「あなたが、代わりに?」
「ええ。」
「そりゃ、井原自身が会いに行くよりはマシでしょうが。しかし、あなたが謝罪することに意味があるのでしょうか。そもそも、あなたの立場は、なんでしょう。井原の身内でもないのに、そのあなたが井原に代わって詫びを入れるというのは、違和感がありますね。それに、そうまでして詫びを入れる意味が分かりません。彼女らにしてみれば、井原が射撃場に見に来なくなれば、それでいいのですよ。なにも謝罪して欲しいなんて、思ってないでしょう。このまま静かにしていれば、それで万事解決なんです。」
「おっしゃることは、分かります。けど、井原が、どうしてもけじめを付けたいと言うものですから。」
「けじめ、ねえ。」私は困惑を隠せない。「それで、どうなさりたいというのです?」
「私と一緒に、もう一度射撃場へ行って、女の子たちに会わせていただけませんか。私からお話ししたいと思うのです。」
「いいですが、私は、彼女らがいつ射撃場に現れるか、知りません。」
「井原の話では、あの子たちが来るのは、毎週、月、水、金と曜日が決まっているそうで、明日も来るはずだ、というのです。」
「明日は、水曜日ですか。」
「ええ。それで、明日、私がこちらへお迎えに参りますので、ご同行いただけると有り難いのです。」
「射撃場へは、どうやって行きます? 車でないと、行けませんが。」
「私が車でここへ参ります。同乗していただいて、道案内をお願いできないでしょうか。」
「あなたの車で?」彼女が運転できる、というのが意外だった。「ええ、いいでしょう。では、明日の何時に?」
「3時ころに射撃場に着くといいそうですので、こちらへは1時半ころにお迎えに参ればいいでしょうか。」
「そうですね。では、明日の1時半に。」
彼女は、丁寧に礼を述べて立ち去った。ロビーを立ち去る際の彼女の歩き姿は、妙に優雅だった。
その日、午後を鬱々と過ごした。
積極的に外出したいという気にもなれないが、さりとて、ホテルに引き蘢っている気にもなれない。仕方なく、無目的に外に出て、駅周辺を歩き回る。
曇天の灰色の空の下に、味気ない町並みが続く。楽しい散歩にはならない。
しかし、井原を訪ねようという気にもならない。
何もしたくない時、というのは、あるものだ。小1時間ほど町を散策して、結局、ホテルに戻り、部屋備付けの肘掛け椅子に座って、持参した小説を読んでみた。あまり読み進まない。
明日は、どうなるのだろう?
あの女の子たちは、浅見ママの謝罪を素直に受け容れてくれるだろうか。
どうにも気が乗らないが、致し方ない。
夕方まで部屋でたらたらと過ごし、例のファミレスで適当な軽い食事をして、部屋に戻ると深夜までテレビを見て、寝た。
11.
翌日、相変わらず朝寝をして、ホテルのロビー脇にある小さなラウンジで朝食兼昼食を済まして、浅見ママを待ち構えた。
1時25分。ホテルの玄関前に、暗いガンメタル色のシトロエンC6がゆっくりと乗り入れて来て、止まる。運転席から、浅見ママが降り立った。
私は、すぐに外に出て、「こんにちは。」
「おはようございます」と、浅見ママが明るく言う。「どうぞ、乗ってください。」
私が助手席に乗り込むと、浅見ママも続いて運転席に座る。ドアを閉める重厚な音が響いた。
「しかし、いい車ですね。」私は本革張りのシートに身を沈めながら、驚きを隠せずに言う。駅前で小さなスナックを経営しているママが、この希少な高級車に乗って現れるとは予想していなかった。なんとも拭い難い違和感がある。
「この車、実は、井原さんに買っていただいたんです」と、車を走らせながらママが言う。
これもまた意外だった。
「井原が? 彼に、そんなお金があるんですか。」
「もちろん中古ですが、珍しい車で数が少ないそうで、値は張りました。でも、井原さんは現金一括で支払ってくださって。」
「彼は、仕事をやめて、かなり経つのですがね。まだ、そんなお金があるんですかね。」
「ええ。会社をお売りになったとかで。」
「彼は、もともとIT関連の企業に勤めていたんですが、独立して会社を創業したんです。けっこう商才があって、大きな利益を上げていたんですがね。ところが、ある出来事があって、そのせいで彼は仕事をやる気なくして、会社を売ってしまったんです。そうして、こっちに引き蘢ったというわけで。会社がいくらで売れたのかは知りませんが、仮に高額に売れたにせよ、税金もしっかり払わにゃならんので、そんなに手元に残らんと思うのですが。この車を一括でぽんと買ってしまったんですか。それは驚きですね。」
「ええ。実は、私の借金も全部清算してくださったんです。私が、どうにもならなくて困っていた時に、あの人に出会いまして。」
「はあ、そうですか。」浅見ママが、井原を恩人だという訳が分かった。「しかし、そんなに金遣いが荒いと、じきに貯金は底をつくでしょうな。そういえば、本人が、もうじき金が無くなる、と言っていましたが。」
「いえ、それは嘘でしょう。まだまだお持ちですよ。」
「そうですか?」
「ええ、詳しいことは存じませんけどね。お金に困る方じゃありません。」
本当のところは、どうなんだろう。いや、どうでもいいことだ。
3時10分ほど前に射撃場に着いた。浅見ママは、後部座席から包装紙に包んだ四角い箱の入った紙袋を取り出して手に持った。私は、浅見ママを案内して射撃場の中に入る。まだ彼女たちは来ていなかった。
私がプレハブ小屋付近の椅子に座ると、浅見ママは、「あなたは、ここで待っていらしてください。私は、ここの管理者の方に挨拶をして参ります」と言って2階建ての建物の方へと行く。
私は所在なく、見知らぬ人々の射撃の様子を眺めながら座っていた。
うとうとしかけたころ、若い女性の明るい話し声が聞こえて来た。例のふたりが射撃場に入って来たので、私は立って迎える。
私の姿を見て、ふたりは凍り付いた。ふたりとも静止して、しばらくこわばった表情で私を見ていたが、樫岡が、人差し指を立てながら声にならない声で、「ひとり? ひとり?」と訊く。
「ええ、ご安心ください。彼は来ていません。」
ふたり、身体の硬直が解けて、ほっとした様子で椅子に座る。
樫岡は、ボストンバッグをテーブルにそっと置きながら、「今日は、あなたひとりで見学?」
「いえ、実は、彼の代理の者が来ていまして。今、その人は、事務所の方に行っていますが。」
すると、樫岡、「だれ? 何しに来たの?」
「スナックのママさんなんです。なんでも井原に、あ、あの男は井原というんですが、彼に代わって、あなた方にお詫びを申し上げたい、というんです。」
「お詫び?」と、樫岡。
「ええ。これまで、さんざん迷惑をかけたんで、そのお詫びを言いたいんだそうですよ。最初は、本人があなた方に会って詫びをしたい、と言うんですがね。私が反対して。そしたら、スナックのママさんが、では、私が代わりに、というわけで。」
「ふううん」と、樫岡は不思議そうに、「変な話。詫びなんて、いらないのに。それに、なんでスナックのママさんが代理になんの?」
「なんでも、そのママさんにとって、井原は恩人なんだそうで。それでその役を引き受けるってことだと思いますね。」
「変な話」と、樫岡は再び言う。
「ま、いいだろ」と、広瀬ゆうきが言う。「あいつが来なけりゃ、それでいい。」
広瀬ゆうきは相変わらず、デニムのショートパンツを着用している。今日のは前と少しデザインが違って、裾が引きちぎられたようにほつれたタイプだが、極度に丈が短く、脚が根元まであらわになっていることに変わりはない。上半身こそ大きめのトレーナーの下になにやら着込んで着ぶくれしているが、下半身がそんな風で寒くないのかと心配になる。私は、樫岡と話している間にも、広瀬ゆうきの脚、とりわけ白く柔らかそうな付け根あたりに、ついつい視線が行ってしまう。
「おい、おっさん」と、広瀬ゆうき。「何、見てんだ。」
「あ、どうも。すみません。」思わずあやまる。
「ったく、どいつもこいつも」と言って広瀬ゆうきは立ち上がる。樫岡も立ち上がり、ボストンバッグから折り畳まれたシューティングベストを取り出して、「ほい」と、広瀬ゆうきに手渡す。広瀬ゆうきは、それを手早い動作で広げて着ると、ガンケースを開けて銃を組み立て始めた。例によって、愛のこもった手つきで、ひとつ、ひとつ組み上げて行く。その丁寧な所作を見ていると、感極まって、思わず「私も銃になりたい」と言ってしまいそうになる。樫岡は、キャップ、グラス、イヤーマフを取り出す。広瀬ゆうきは、それらを順々に身に付けると、樫岡がそっとテーブルに置いたポーチを持って、銃を折った状態で肩に担いで射台に向かう。
また、いつもの人を魅了する射撃が始まった。
そこに、浅見ママが戻って来た。
私は、樫岡に、「ママです」と、紹介する。
浅見ママは、樫岡に向かって深々と頭を下げ、「浅見と申します。」
「あ、ども」と、樫岡はどぎまぎした様子で応える。
「掛けて、よろしいかしら?」浅見ママが落ち着き払って言うと、
「え、ああ。どうぞ、どうぞ」と、樫岡はあせって隣の椅子を勧めた。
浅見ママと私とで樫岡をはさむようにして私たちはテーブルを囲んで座った。浅見ママは、紙袋とハンドバッグを重ねて膝の上に乗せる。
「この度は、井原が大変なご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ありませんでした」と、浅見ママは椅子に掛けたまま再び頭を下げる。
「い、いえ。あの、そんな、ご丁寧に。私らは、あの、あの人がここに来なければ、それでいいので。彼女をいやらしい目で見たりしなければ、いいわけで。つまり、そんな、謝っていただかなくても。」樫岡は緊張を隠せない。
「あの方が」と、浅見ママは射台に立つ広瀬ゆうきを見て言う。「銃を撃つ方ですか?」
「ええ、そうです。」樫岡が答える。
「凛々しい方ですね。とても魅力的でいらっしゃる。あの、頭に乗っけている大きなヘッドフォンみたいなのは、なんですの?」
「あれは、あれがないと、銃声が大きいんで、難聴になるんです。」
「まあ、それにしても大きな。小さな耳栓ではダメなんですか?」
「あ、あれは、電子式で、銃声は防ぐけど、人の声は聞こえるようになってるんです。」
「あら。そうなんですか。それなら、ヘタなことは言えませんね。聞こえていらっしゃるんだ。」
「あは、あはは。」樫岡は、引きつった笑い声を立てる。
私は二人の会話を傍で聴きながら、樫岡が浅見ママの貫禄に完全に飲み込まれているのを感じた。
「真剣に撃ってらっしゃいますね」と、広瀬ゆうきの射撃の様子を見ながら浅見ママが言う。「なにか、目指しておられるのですか?」
「彼女は、優勝経験はないんですが、一応、いろいろ大会なんかに出てるんです。」
「あなたは、射撃はなさらないんですか?」
「ええ、私は」と、樫岡は、少しはにかむ。「もっぱら彼女のサポートで、いつも付いてまわってるんです。」
「まあ、熱心に応援してらっしゃるんですね。お友達なんですの? ご親戚かなにか?」
「いえ、親戚じゃなくって」と言いつつ、樫岡は、目で広瀬ゆうきの動きを追っている。「まあ、いうならば親友というか、パートナーみたいなもんです。」
射台で、広瀬ゆうきが、くるっと振り向いて、こっちを見た。「何、言ってんだ?」と言いたげな顔をしたが、すぐに前に向き直った。
「あなた方、お若いけど、学生さん?」と、浅見ママ。
「いえ、学生じゃありません。そんなに若く見えます?」
「おふたりとも、働いていらっしゃるんですか?」
「私は、働いてます。でも、彼女は、今、無職で、もっぱら射撃でがんばってます。」
「まあ、そうすると、もしかして、あなたが、あの方を経済面でも支援してらっしゃるんですか?」
「えへ」と、樫岡は照れた顔をして、「支援っていうのか。今は私が彼女を食わしてあげてるようなもので。彼女に、余計な苦労はさせずに、射撃に専念してほしいから。」
「へえ、偉いのね」と、浅見ママは感心した声を出す。「でも、こういうスポーツは、お金が掛かるんでしょう? 大変じゃないですか?」
「いえ、そんなんでもないですけど。銃は、彼女、自分で買いましたし。後はここで練習する射撃場使用料とクレー代と。あと実包って言って、弾を買うお金とかくらいですね。むしろ掛かるのは、衣・食・住です。」
「彼女の生活費、あなたが出しているの?」
「ええ、まあ、そうなんです。」
「まあ、大変ね。じゃあ、あなた、ずいぶんと稼がないと。お仕事は、何をしておられるの?」
「夜の仕事です。クラブで働いてます。」
「まあ、同業ね。私は駅の近くでスナックをやってます。お店は、どちらなんですの?」
「お店は、駅の裏っかわの、第2片山ビルの、『黒百合』っていう店です。」
「お名刺はお持ち?」
「ええ」と、樫岡は、ボストンバッグの中から小さなピンク色のポーチを取り出すと、ごそごそ探って、名刺を1枚取り出した。派手なカラーリングが施された名刺だ。
浅見ママは、それを受け取ると、仔細に検討するかのごとくじっと見つめてから、「まやさんと、おっしゃいますの?」
「ええ、摩矢といいます。本名です。よろしく。」
「もし、よろしければ、私の店でアルバイトしていただけないかしら?」と言いながら、浅見ママはハンドバッグから自らの名刺を取り出し、樫岡摩矢に手渡す。「あなたは素敵な方だから、是非、来ていただきたいものです。」
「あは、そんな」と、樫岡摩矢ははにかむ。
「こちらへは、車でいらっしゃってるんですか」と、浅見ママが訊く。
「ええ、私が運転して。」
「あなたが送迎していらっしゃるのね。どんな車に乗ってますの?」
「スバルです。小型のSUVで。」
そこへ、広瀬ゆうきが戻って来た。浅見ママが立ち上がって、深々とお辞儀をする。
「どうも」と、広瀬ゆうきは困惑気味に軽く会釈する。
「浅見と申します。井原になり代わりまして、お詫びを申し上げに参りました。」
「そんな、詫びなんて、いいです。あいつが来なけりゃ、それでいいんで」
「本当に不快な思いをさせて、申し訳ありませんでした。つまらないものですが、これを」と、紙袋を広瀬ゆうきに手渡そうとする。
「あ、いや、そんなこと、していただかなくとも。でも、まあ、いただいておきます。」
広瀬ゆうきが受け取ると、浅見ママは、「あまり長居すると、かえってご迷惑でしょうから、このへんで失礼致します。誠に申し訳ありませんでした」と、あらためて頭を下げた。
私と浅見ママは射撃場を後にした。駐車場に出た時、浅見ママが
「彼女の車がどれだか、わかります?」と訊く。
駐車場内を見回したところ、1台のスバルのSUVが目に留った。カーキ色の薄汚れた車が射撃場の入口近くに停めてある。駐車場内をくまなく見てみたが、他に同型の車はない。
「あれでしょう」と、その車を指差すと、浅見ママはスバルの真後ろまで行き、スマートフォンを取り出して写真を撮った。
どうして車の写真なんぞ撮るのか、と思ったが、訊きはしなかった。
私は再びシトロエンに乗せられて、ホテルに戻った。
12.
翌日、午前中をホテルの室内で無為に過ごしているうちに、ひとつ、また井原を訪ねてみようという気になった。
軽いランチを済まして車に乗る。
町を出て、荒涼とした荒れ野を走る。
枯木の立ち並ぶ林の中へ。見慣れたコテージの前に、1台の軽トラックが停まっている。はて? と思いつつ、車をコテージ脇に止める。
入口の階段を昇ろうとすると、扉が開いて、ひとりの若い男が出て来た。その男を見て、誰か有名なタレントか、俳優か歌手でも訪ねて来ていたのだろうか、などと思ってしまった。凛々しさと甘さを両立した完璧な男前で、見る者を圧倒する顔だ。もっとも、服装は質素なものだ。
井原が出て来て、男の背後から、「では、よろしく。頼みますよ」と声を掛ける。若い男は振り向き、「では、明日の朝お届けに参ります。ありがとうございます」と、外見に似合わず、気さくに答えた。階段を降りると、軽トラに乗り込んで走り去った。
「やあ。」井原は、軽トラを目で見送っている私に言う。「上がんなよ。」
「あの人は?」と、問う。
「件の花屋の息子だ。」
「ああ、あの。」なるほど、あれなら、外国の女の子たちが騒いでもおかしくない。
相変わらずの白を基調とした部屋で、大きなテーブルを挟んで井原と対座する。
「礼を言わんとな」と、井原。
「なんの礼だ?」
「赤い橋のママに聞いたよ。」
「ああ、詫びを言いに行ったことか?」
「それもある」と言うや、井原は立ち上がり、台所へ行くと、食器戸棚の引き出しの中から、何やら色刷りのパンフレットのようなものを取り出して持って来て、「これを見なよ」と、テーブルの上に広げてみせる。
見ると、射撃場のPRパンフレットだが、折り畳んだパンフレットの中に緑色の薄紙が挟んである。「ウィークエンド大会結果速報」とタイトルが書かれている。
「その、『トラップ』の部を見てみな」と、井原。
その紙には表が記載されていて、順位、会員番号、名前、数字などが並んでいる。「彼女は4位だ」と、井原が言う。
4位の欄を見ると、「広瀬悠希」とある。
「それが、彼女の名前だ」井原は満足そうに言う。
「だから、どうしたよ。」私は、いささか不愉快だ。「これを、どうやって手に入れた?」
「ママが持って来てくれた。」
「あのママは、こんなものを手に入れるために行ったのか?」
「いや、詫びを入れるのが主目的だよ。これは副産物だ。」
「なんのために? どうして、こんなものを入手した?」
「参考のためだ。名前を知るのは気分が良い。」
「僕は気分が良くないな。」
「どうして? お前に関係ないだろ?」
「確かに関係はないがね。気分は良くない。」私は、少しあらたまって、語気を強めた。「そもそも、詫びを入れること自体、不必要だった。どうしても、というんで、僕はママを連れて行った。その結果が、これかい? どうにも釈然としないね。いいかい、君にとって最上の行動は、もう二度とあの射撃場に姿を現さないこと、彼女の前に現れないこと、要するに、関わり合わないことだ。そのために彼女の名前を知る必要はない。だいたい、彼女が『広瀬ゆうき』だってことは、既に分かっていることじゃないかね。漢字まで確認する意味が、どこにある? なんで、こんなものを手に入れて喜んでいる?」
「漢字でどう書くかを知って、初めて名前を知ったといえる。これで気持ちが落ち着いたよ。」
「僕の気持ちは落ち着かないね。何を考えてる? 名前を知って、どうするつもりだ?」
「別にどうするつもりもない。ただ、名前を知って安心しただけだ。」
「そうかい。言っておくが、お前の言葉を額面通りに受けとめることはできないね。ママと射撃場に行った時、立ち去り際、ママは彼女が乗って来た車を写真に撮った。樫岡という子のスバルだけどね。それもお前が頼んだことか?」
「写真?」井原はしらばっくれる。「いや、頼んだ覚えはないね。ママは、何でもよく写真に撮る癖があってね。特に他意はないだろう。」
「ああ、そうかい。それが本当なら、いいんだがね。でも、本当に、心から忠告するよ。何かたくらんでいるなら、やめな。これ以上、彼女に関わるな。いいね。このまま放っておいてやれ。そうすりゃ、それで総てが丸く収まるんだから。」
「分かっているよ。何もせん。心配するな。なあ、疑っているようだけど、そもそも、俺にはね、今さら何ごとかをしようという気力はないんだ。全くない。だから安心してくれ。俺は、もう、いいかげん、この生活に終止符を打とうと思ってるだけなんだ。」
「終止符?」
「うん。もう終わりにしたい。」
「転居するのか?」
「いや、転居なんぞせんよ。」
「どうするんだ?」
「この世の人では、なくなりたいんだ。」
「始まった。また、それかい。でも自殺はせんと言ったじゃないか。」
「うん、自殺はしたくない。それは、そうだ。その気持ちに変わりはない。」
「じゃ、どうするんだ。例えば、何もせずに餓死するのを待つのか?」
「それも、いいかも。でも、それも一種の自殺だろうな。怪我や病気で何もできなくなったのなら、いいのだが。敢えて意識的に座して餓死を待つのは、自殺と変わらんだろう。それも厭だな。」
「んじゃ、どうすんだよ。」
「うん、八方ふさがりだ。実際、困ったもんだよな。」
「具体的な考えは、ないのか?」
「特にない。ただ単に総てを終わりにしたい、というだけだ。」
「話しにならんな。」
「うん。話しにならん。どうにもならん。困ったもんだ」と言いつつ、井原はさして憂鬱な様子でもない。話しの内容に似合わず、その表情は淡々として朗らかだ。「生きる気力ってものが、ないんだな」と、井原。
「そう言われてもね。僕は困るね。返す言葉がない。」
「そうだろう。所詮、神から見捨てられた身だからね。俺のような者は、生きてるだけ世間の迷惑だな。」
「何かすればいい。何でもいいだろう。興味の持てることをやれば?」
「うん、」井原は、あからさまにしらけた顔で言う。「なんか、やろうかな。でも、先立つものがないな。」
「金なら、まだあるんだろ?」
「いや、もうそんなに残ってない。」
「ママが、お前のこと、金には困ってない、と言っていたが。」
「そんなこと言ってたか。あまり期待されても困るな。大金というほどの金は残ってないんだ。」
「ママに車買ってやったろ。高い車だ。借金も払ってやったとか。」
「うん。そんな、こんなで、いろいろ使っちまった。」
「どうして、そこまでしてやるんだ? あのママと、何かあったのか?」
「いや、なんもないよ。でも、ここで普通に付き合える唯一の人間なんでね。ここへ来て、2ヶ月ほどの時に町で会ってね。町をぶらぶらしていたら、偶然に出会ったわけだ。話を聞いたら、死にたがってたんで、助けたんだ。それだけのこと。死にたい同士ってわけだな。不思議な出会いだったね。」
そう言うと、訊いてもいないのに、井原は浅見ママとの出会いを語り始めた。
その時、雨が降っていた。
激しく雨が降っていた。
そこは旧市街のはずれ。道路とも広場とも区別の付かない曖昧模糊たる空間があって、その周囲を古びた飲食店が取り巻いている。多くは既に閉店していて、わずかに生き残った喫茶店や居酒屋が不気味な廃屋の間で細々と営まれていた。人通りなんか、ない。舗装は荒れて、乗り捨てられた廃車、赤錆た鉄くずなんぞがころがっている。
そんな中で、女がひとり、瓦礫の上に座っていた。
濡れながら。
その女、もう、どうでも良くなっている様子だった。
手に持つ煙草は濡れて火が消えていた。髪はふくらみを失い、頭皮にべったりと貼り付いて、頬の下に垂れた髪の先から水の筋が流れ落ちていた。肩に掛けた赤茶色の上着は雨を吸って重たそうに見える。ブラウスの襟元のボタンが一個はずれていて、喉から胸にかけての肌がぐっしょり濡れている。上着と揃いのスカートも重くなっているだろう。女の体は既に冷えきっているはずだ。
それなのに、女は茫然と、足を組んで座り続ける。
だけど、ふと、雨が途切れた。
女は、「?」と思い、見上げた。すると、井原が傘を持って女の頭上にかざしている。自らは濡れながら。
女はちょっと驚いて、「あんた、濡れてるよ」と言う。
井原は、「あんたが濡れてた」と言う。
「やめなよ」と女が言うと、
「あんたが濡れない所に行きゃいい。」
数秒間、女は呆れて井原の顔を見つめる。そして、ゆっくりと腰を上げた。
井原は依然、傘で女をかばう。女は困り顔をしながら、そのまま歩いて、二人はすぐ目の前の店に入った。
そこは喫茶店。暗くて静かな店。
そこで二人は身体を乾かした。
ふたりは、話し合った。暗い電球の下で、ぽつり、ぽつり、と。
女は自らを浅見真樹と名乗った。
それが二人の出会いだった。
「彼女ね」と、井原は言う。「借金でどうにもならない状況だった。店を続けるには、借金を払わにゃならん。だけど金がない。借金を踏み倒すこともできるが、そのためには店を閉じにゃならん。そうすると、食えなくなる。どうにもならんわけだな。」
「それで、借金を返済してやった?」
「うん。遺言も書いてやった。」と、立ち上がり、台所の戸棚の引き出しから封書を取り出して持って来る。「遺言」と題されている。
「財産の全部を」と、井原。「ママに遺贈する、というものだ。」
「どのくらい残ってるんだ?」
「それが、あまり多くないんだ。だから期待されると困るね。これを当てにしてるんなら、それは間違いだと言ってやりたい。」
「なら、早く言ってやるんだね。ずいぶん期待してると思うよ。」
「そうしよう。」
井原との会話は、陰気になる。いたたまれなくなり、私は早々に辞去した。
ホテルに帰り、私は、ひとり思う。
この世には、神に見捨てられた人と、そうでない人がいるのではなく、見捨てられたと思っている人と、そうでない人がいるにすぎない。神は誰も見捨てたりなんかしないのだろう。それなのに人というものは、自ら神に見捨てられたと思い込んで勝手に絶望する。この理を、どうして彼に伝えよう。この理を、どうして彼に伝えられるかな。
13.
その日、私はホテル内の小さなラウンジで、軽い夕食を食べながら考えた。
当初の予定では、そろそろ帰るころなのだが。
井原を絶望の淵から救うことができれば、そうしたい。しかし、それは容易なことではなく、時間もかかろうというものだ。しかし、とりあえず、彼が妙なことをしないかが気になる。なんだかんだ言いながら、井原は何か企んでいるように思えてならない。私に関係ないと言ってしまえば、それまでだが、あの女の子らに余計な行為をして、それがさらに彼の絶望を深める結果になるようなら、なるべくそれは阻止したい。
しかし、彼が何を考えているか、それが分からないのだから困ったものだ。
いや、情報源は、ある。
浅見ママは、明らかに何かしら井原に協力しているように見える。
ママに突撃して、井原の考えを聞き出すことはできないだろうか。やってみる価値は、あるんじゃないか。
私は夕食を食べ終えると、早々に会計を済まして、その足で外に出た。夜風に吹かれながら、「赤い橋」までの道のりを歩く。
薄汚いビルの入り口をくぐり、狭いエレベーターに揺られながら上昇する。廊下を歩いて木のドアを開けると、「いらっしゃいませ」と、ママの枯れた声が迎えた。
カウンターの、前に座ったのと同じ席に座る。何にしましょう、と訊かれ、まだ素面なので、とビールを頼んだ。ママは私の好みを覚えていて、今度は初めからサッポロの瓶を取り出す。
小さめのグラスに注がれたビールをぐいっと飲んで、「今日、ここに参ったのは、実は」と、切り出す。「井原のことで。」
「井原さんが、どうかされました?」
「どうかしたわけではなく、これから何かをやらかすんじゃないかと思いましてね。」
「はあ?」と、ママは不思議そうな顔をするが、それが私には白々しい態度に見えた。
「この前、射撃場に謝りに行った時に、ママは事務所へ行かれましたよね。その際、彼女の名前が分かる資料を手に入れましたよね。確か、射撃場のPR用のパンフレットか何かだったと思います。そこに彼女の戦績が載っていて、名前が書いてあった。井原はそれを、喜んで私に見せました。なんで、あんなものを手に入れようとなさったんです?」
「ああ、あれですか」と、ママはにこやかに言う。「あれは、本当は住所を知りたかったんです。でも、住所まではさすがに教えてくれませんでしたので、せめて名前の分かるものを、といただいて参りました。」
「彼女の住所ですか?」私はいささか驚く。「そんなことを知って、どうするつもりだったんです?」
「あの、あなた、百万本の薔薇って、ご存知ですか?」
「何の話です? 百万本の薔薇っていうのは、歌のことですか?」
「そうです。ご存知ですよね。あの、加藤登紀子さんが歌った。」
「ええ、知ってますよ。実は、私もちょいちょいカラオケで歌いますが。」
「ああ、そうですか。それなら、歌詞の内容はご存知で。」
「ええ、もちろん。知ってます。」
「井原さんは、あれをやろうとなさったんです。」
「は? 何をですか?」
「ですから、百万本の薔薇です。あの通りになさろうとしたんです。」
「彼女の住所を知って? それで、彼女の部屋の窓から見える所に、薔薇を大量に飾ろうとでもしたんですか?」
「その通りです。」
しばらく、言葉が出なかった。「アホですか、彼は。」
「ああ見えて、ロマンチストなんでしょう。」
「いえ、そういうのは、ロマンチストとは言いません。ただのアホです。」
「もちろん、歌詞の通りに百万本というわけにはいきませんけど。ありったけの薔薇を買って、彼女の部屋の窓から見える所に飾ろうと。実現したら、結構すごいことだと思いません?」
「気味悪がられるだけですよ、そんなことしたら。警察に通報されるのがオチです。一種のストーカー行為だ。」
「でも、住所が分からないんで、結局、諦めました。」
「良かった。できなくて」と言って、ビールを飲み干す。ママが、すかさずグラスにビールを注ぐ。水面に層を成していく泡を見ているうち、今日、井原を訪ねた際のことを思い出す。生花店の若者が家から出て来た時、たしか何かを明日届ける、と言っていた。「でも、妙ですね。諦めたのなら、もう花屋さんに用事はないわけだ。なのに、今日、例の花屋の息子に、何か注文してましたよ。息子の方は、明日届けるとか、なんとか。」
「きっと、大量の薔薇の注文をキャンセルした代わりに、何か他のを頼んだんじゃないでしょうか。井原さんは、あれでなかなか義理堅いところがある人だから、大量の薔薇をキャンセルして、そのまま何も買わないって訳にはいかなかったんでしょう。」
「じゃあ、何を頼んだんでしょうね。まさか、射撃場に花でも送ろうなんて考えてないでしょうね。」
「よしんば、そうだとしても、花たば程度でしょう。そう心配なさることもないんじゃないですか。」
「それでも、良くないな。気味悪がられることに変わりはない。とにかく、何もするな、関わり合うなって言ってるのに。どんなことでも、とにかく何かするってのが、良くない。」
「ご心配ですか?」
「そりゃ、心配ですよ。私は、明日あたり、そろそろ帰ろうと思っていたんです。もともと井原に会うためにこちらに来たんですがね。そう長逗留する予定でもなかったんです。しかし、まあ、私にとっちゃ、所詮ひとごとですから、私が去った後で何が起ころうが関係ないっちゃ関係ないんですが。」
「明日、お帰りのご予定なんですか?」
「ええ、そのつもりでした。」
「明日のいつごろ、お立ちになるんです?」
「決めていません。でも、ホテルのチェックアウトを済ましたら、そのまま帰るつもりです。」
「そうですか、でも」と、ママはいささか浮かない顔になる。「もう少し、滞在していただけませんかね。」
「どうしてです?」
「井原さんのことが、ご心配なら、できればあと1日か2日、滞在を延ばしていただけないでしょうか。せめて明日の夕方まではいらして、明後日に立たれては、いかがでしょう。」
「いいですが、私がいて、何か役にたつでしょうかね。」
「明日、お花がどこかに届いて、それで一悶着あったら、申し訳ありませんが、事態の収拾を付けるのに、あなたのお力が借りられるといいかと思いましてね。」
「あ、そうですか。なるほどね。明日、何かあるのなら、その結果を見届けてからの方がいいかもしれないですね。いいでしょう。1日くらい滞在を延ばしても。」
そう言ってビールを飲むと、ママは安心した表情を見せる。やはりママも内心では心配しているわけだ。
「ところで、そう言えば」と、ママが明るい口調で言いだす。「例のお連れさんの女の子ですが。」
「お連れさんの女の子と言いますと、あの、いつも一緒にいる、ブルゾンを着た子ですか?」
「ええ、摩矢さんとかいう。あの人、ここからそう遠くないお店で働いておられるんですよ。」
「なんか、夜の店で働いているって話、しておられましたね。」
「なんて言いましたかしら。ちょっと」と言って、ママは店の奥の狭い厨房に引っ込んだ。そして、名刺を手に戻ってくると、「『黒百合』っていうお店ですね。駅の裏の、第2片山ビルといえば、ここから楽に歩いて行けますね。」
「はあ、それが何か。」
「行ってあげていただけませんか。今夜にでも。」
「これからですか?」私は思わず素っ頓狂な声を出す。
「ええ、何か支障でも? 他に行かれるご予定でも?」
「いえ、別に予定はありませんがね。とはいえ、別段、あの子の店に行ってあげようという気もあるわけじゃないんで。」
「行ってやってくださいよ。明後日にもお帰りになるんなら、ここへいらしたついでに、ちょっと足を伸ばして差し上げると、あの子も喜ばれるんじゃないでしょうか。」
「いや、でもねえ」と、思いがけない展開に戸惑うが、他方、彼女の店に行ってはいけない理由もない。もしかして、明日にでも、井原が依頼した花が何かの物議を醸すこともあり得る。今日、あの連れの女性に会って、あらかじめ何かあったら連絡するように言っておくのも良いかもしれない。それに、これ以上、ここでママの顔を見ながら飲み続けるのも気詰まりだ。ここから立ち去る良い口実にもなる。「それなら、行ってやりましょうか。場所は、どこです。」
すると、ママは、わざわざメモ用紙を1枚切り離して持って来て、ボールペンで、がさがさ線を引き、「これで、分かりますか?」
見てみたが、もとより地理不案内だから、それを見ながら目的地に着けるかどうか分からない。ままよ、行けばなんとかなるだろう。
私は、「ありがとう」と、メモを受け取り、二つ折りにして上着のポケットにねじ込むと、会計をお願いした。
道路に出ると、ひんやりした大気が鼻腔を快く刺激する。
さて、メモを取り出し、ママが書いた手書きの地図を見ながら歩く。
道に迷うのではないかという心配は、杞憂だった。ホテルの近くまで戻り、JRの駅の脇の高架下をくぐる。高架下は少し暗くて不気味だが、しばらく歩くと再び街の明かりが増してくる。地図を頼りに歩いて行くと、ほどなくして派手なビルが見えてきた。田舎にありがちな、無駄に凝ったデザインのレジャービルだ。入り口で名前を確かめると「第2方片山ビル」とある。壁に縦に並んだ電光看板を見ると、4階に「黒百合」があった。
建物の少し奥まった所にあるエレベーターに乗り、4階へ。吹きっさらしの廊下を行くと、「黒百合」の看板を掲げた鉄製の扉が見えた。
初めての店で、外から中が見えないドアを開ける時には、すこしばかりの勇気がいる。
把手をつかみ、えいやっと、思い切り開けてみた。
中から、この種の店に共通の喧騒が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ」と、どこからともなく女の声がする。すると、黒服の男の子が飛んできて、「いらっしゃいませ。お一人ですか。」
「うん。摩矢って子、いる? 樫岡摩矢さん」
「どうぞ、こちらへ」と、黒服は私を奥のボックス席に案内した。ふかふかのソファに座らされて待つと、じきにやって来たのは知らない女の子だ。
「樫岡摩矢さんって子に会いに来たんだけど」と言うと、女の子は、「ちょっと待ってください」と言って、「お飲み物は?」
私は、ハウスボトルのウイスキーをストレートで出すように頼んで、店の中を見回す。そこそこ広い店に、そこそこ客が入っている。スーツ姿の客は少ない。作業衣の客。これ見よがしの遊び着の客。皆、数人で、2、3人の女の子を相手に、無邪気にはしゃいで酔っ払っている。少し離れた席に樫岡摩矢がいた。射撃場で見るのとは、だいぶ印象が違う。当然ながら化粧が濃い。着ている服も、ゴージャスなドレス風だ。明るい色の短めのスカートの裾から、小さな花模様を散りばめたストッキングを履いた脚が伸びている。しかし、彼女の声、喋り方は、紛れもなく樫岡摩矢のものだ。
黒服が、樫岡摩矢に近づき、そっと肩越しに耳打ちした。すると、すぐに彼女は私の方を見た。そして、テーブルの客たちに挨拶すると、こっちへやって来た。「いらっしゃあい。来てくれたんですね」と陽気に笑って、対面に座る。
「実はママに、例の赤い橋のママに言われてね。ここの場所もママに教えてもらった。」
「あ、そうなんだ」。
既にさっきの女の子が、ウイスキーをショットグラスに注いで、チェイサーも用意してくれていたので、ぐいっと飲む。
「私たちも、いただいて、いいですか」と言って、樫岡摩矢は店の奥に「お願いしまあす」と声を掛ける。
他の女の子がいると、話しづらい。私は所在なく、女たちの飲み物がセットされるのを待ち、乾杯してから、ふうっと溜息をついた。話題に困り、「いい店だね」などと言っていると、初めに付いた子が黒服に呼ばれて、「では、失礼します」と立ち去ってくれた。
早速、「あのねえ、摩矢さん」と話しかける。「例の井原のことなんだけど」
「ああ、あのおっさん、もう来ないんでしょう?」
「うん、そう思うよ。でも、ちょっと妙なことがあって」
「妙なこと?」樫岡摩矢の視線が私に注がれる。
「うん、あの男、花屋さんに何か注文したようなんだ。もしかして、射撃場あたりに、なんかの花が届けられるかもしれない。」
「はあ?」
「あるいは、そうではないかもしれない。何が起こるか分からない。けど、何かが起こるかもしれないんで、気を付けていてくれないか。」
「あ、うっとうしい」と言いながら、彼女は快活さを失わない。「まあ、あのおっさん本人が来なけりゃ、何が来ようが平気ですけどね。」
「そりゃ、そうかもしれないね。でも、なんか一悶着あるといけないから。なんかあったら、すぐ教えてくれないか。」
「いいですけど、どうやって知らせるんです?」
「私の電話番号を教えておこう」と言って、携帯を取り出して、番号を表示させて見せる。彼女は、それを見て、自分のiPhoneに打ち込んだ。そして、「『おっさんの連れ』で登録しておきました」と、訊きもせんのに得意げに言う。
しばらく他愛ない会話を交わしているうちに、寒いところを歩いて来たせいか、尿意を催した。「トイレに行きたい」と言うと、樫岡摩矢が黒服を呼んでくれた。トイレに案内される。田舎の店にしては、なかなか清潔で見栄の良いトイレだな、などと思いつつ用を足して、手を洗っていると、携帯のバイブが振動した。登録していない番号からの電話。「はて?」と思いながら出ると、しわがれた浅見ママの声がする。
「もしもし樋口さんでいらっしゃいますか?」
「ええ、そうですけど、なにか」
「今、どちらに?」
「例の店ですよ。教えていただいた、黒百合です。」
「ああ、良かった。そちらに、樫岡摩矢さんは、いらっしゃいます?」
「ええ、いますよ。今、話してます。」
「それは、良かった。会えたんですね。では、ごゆっくり。」
「はあ、どうも。」
電話が切れる。わざわざ私が樫岡摩矢に会えたかどうか確かめたのか。丁寧なことだが、いつ浅見ママに私の電話番号を教えたかな?
ま、いいか、と席に戻る。
席に着くや、「今、赤い橋のママから電話があった」と、報告。
「ふうん、なんて言ってました?」と、樫岡摩矢。
「僕があなたに会えたかどうか確かめる電話だ。」
「私、あのママに、アルバイトしないかって誘われてるの。」
「あ、そ。で、どうするの?」
「条件次第だけど。お金はあるだけ助かるし。」
「この前の射撃場での話だと、君があの広瀬さんを養っているんだね。」
「養うだなんて。今は射撃に専念してほしいから、生活費を負担してあげてるだけ。」
「偉いね。で、彼女は、大きな大会なんか目指してるの?」
「うん。目標は高いよ。彼女、真剣だから、そのうち頭角を現わすと思うよ。」
「なるほど」と、言いつつ、彼女の言い様に案外な教養を感じる。射撃場で会うときは、ただの若い女子としか見ていなかったが、こうしてよく見ると、意外に美形で、聡明な感じもする。
私は、ショットグラスのウィスキーを一気に飲み干した。樫岡摩矢は、すぐにくいくいっとボトルのコルク栓を抜いて、グラスを満たす。ボトルネックを通る泡の心地良い音が、リズミカルに響いた。
「しかし、健気だね。彼女の生活を支えるなんて」と言って、少しのためらいの後、「君と彼女は、どういう関係?」と訊いてみる。
「友だち」という答えが即座に返ってきた。そして、樫岡摩矢は、ボトルの栓の頭をぽんっと叩いて締めると、にこっと笑って、「なにか?」
「いや、なんでもない」この話題には深入りしないほうが良かろう。再び他愛ない話に移る。
思いの外、酔ったのか、どうでもいい与太話をしているうちに、知らん間にだいぶ時間が経ったようだ。周囲の喧騒が徐々に低調となっていき、他の客が少なくなっているのに気付く。
「そろそろ、帰る」と宣言すると、樫岡摩矢は、店の奥に向かって「チェックお願いしまあす」と叫ぶ。
ハウスボトルで飲んだせいか、長居をした割には大した出費にならずに済んだ。
支払いを済まして腰を上げ、「では、なにかあったら、連絡して」と言うと、「うん。でも、なにもないと思うよ」と、楽観的な応えが返ってくる。
再び、夜風に吹かれる身になる。アルコールのせいで、足元が覚束ない。心なしか視野も狭く感じる。
ようやく、例の不気味なガード下が見えてきたころ、街灯のほのかな光の中に、暗い色のシトロエンC6が幽霊のように現れた。ゆっくりした速度で、そのまま私とすれ違って行く。
浅見ママは、もう、お帰りなのかな? と思いつつ、私は左右に揺れながらホテルまでの帰路を歩いた。
14.
翌朝。
起きようとしたところ、思いのほか酔いが残っていて、ベッドから離れたくなかった。再び眠り、その後、目を覚ましたり眠ったりを繰り返して過ごす。何度目かの覚醒の時、腕に付けたままの時計を見た。11時半を過ぎている。
部屋中に曇天の灰色の光が満ちている。外から車が通り過ぎる音がかすかに聞こえて来る。さすがに昼時までには、起きにゃならんな、と思いつつ、物憂い静寂の中、深い眠りに落ちた。
濃い霧の掛かった意識の中に、ブヨン、ブヨンという巨大な甲虫の羽音のような不快な音が響く。
夢を見ていたようだが、その音に、夢のイメージは吹き飛んだ。
はっきりと目が覚めて、ホテルのベッドの中にいることを改めて自覚する。
不快な音の源は、ベッド脇のサイドテーブルの上に置いた携帯電話だ。硬いテーブルの上で、小さな黒い物体が振動している。
急いで携帯を手に取り、通話ボタンを押す。
「おい、あんた」と、怒気を含んだ低い女の声がする。
「あ?」誰だ? 聞き覚えのある声だが。
「おい、あんただろ。あのおっさんの、あの井原とかいうおっさんの連れの。樋口とかいう人だろ。」
この声は、広瀬悠希の声だと気付く。「え、ああ。そうです、そうです。それで、なにか。」
「なにかじゃねえ。いったい、どうなってんでい。これはどういうこった。」
「え? は? どうなってるって、何がです?」
「ふざけんじゃねえ。どうなってるのか、訊いてんだ。」
「いや、訊かれても。何を訊かれてるのか、いや、良く分かりませんが。」
「ったく。俺は説明を求めてんだよ。できねえのか。」
「あの、そんなこと言われましても。なんのことか。」私は混乱気味の頭を整理しようとしたが、思い浮かぶことはない。携帯を左手に持ち替えて、「何かあったんですか?」
「何かあったじゃねえや。ったく。」彼女の声がトーンが少し下がった。「何がどうなってんのか、あんたにも分からねえのか。」
「あの、実は今、寝ていたところで。何かあったんですか?」
「何があったのか、俺が訊きてえんだよ。すぐ来い。俺に会いに来い。来れるだろ?」
「それは構いませんが。今、どこにおられます?」
「住所を言えば、分かるか?」
「いえ、すみません。地理不案内で。」
「駅へ来い。駅なら分かるだろう。」
「JRの?」
「そうだよ。他に駅なんざ、ねえ。」
「すぐ行きます。あ、いや。寝てましたんで、すぐって訳には。ちょっと待っていただけますか?」
「てめえ、男だろ。出かけるのに時間を掛けるな、タコ。」
「急ぎます。」
ぶちっと電話が切れた。
ベッドから飛び起きる。大急ぎで出掛ける準備をしなければ。シャワーは省略しようか。しかし、鏡を見たら、ごわごわの髪の毛が爆発している。これを整髪するのはかえって手間がかかる。さっさと下着を脱いでシャワールームに飛び込み、温度調節もそこそこに頭から湯をかぶり、たっぷりのシャンプーで髪を掻きむしって少しの石鹸で適当に身体を洗い、濡れたままの身体でシャワールームを飛び出してドライヤーで髪を乾かし、バスタオルで大雑把に身体を拭いて、まだ濡れている肌の上に服を着込む。
ルームキーと財布だけ持って、外に出た。
小走りで、駅へ。
小さな駅だから、迷うことはない。息を切らして改札口付近まで行くと、切符販売機の前で広瀬悠希がこっちを見ながら立って待っていた。幅の広いベルトを通した黒のフェイクレザーのマイクロミニのショートパンツ、白いスニーカー、ダブつき気味のすさんだ色のトレーナーという出で立ちで、肩の上から袖を通さずに丈の短いトレンチコートを羽織り、腕組みをして、少し脚を開いて真正面を向いている。ガンケースを縦に、その端を右足の甲の上に乗せ、自らの膝に立て掛けて、さらに足元のつま先近くにはボストンバッグを置いている。すっぴんに近い薄化粧だから目立たないが、これで厚化粧をしていたなら映画撮影中の女優かと思わせる。
「すみません。お待たせしました。」
彼女は、血走った目で私を睨みつけている。
「なにか、あったんですか?」あせって訊くと、
「摩矢は、どこにいる?」
「へ?」
「摩矢が行方不明だ。」
「どういうことです?」
「やっぱり、あんたは、知らんのか。」
「全く、事情が分かりません。」
すると、彼女は、これ聞こえよがしに、ちっと舌打ちして、「摩矢が拉致されたみてえだ。あの井原って野郎にな。」
「井原が? あいつが何をしでかしたんです?」
「こっちが訊きてえ」と、彼女は腕組みを解くと、右手にiPhoneを持っていた。それを前に突き出し、「これを見な。」
吹き出しの中に、メッセージ。
“今まで、井原さんと一緒にいました。殺されそうです。助けてください。銃を持って、来てください。”
もうひとつ、追加のメッセージ。
“ここがどこだか分かりません。でも、樋口さんが井原さんの家を知ってます。樋口さんに頼んで、井原さんの家まで来てください。井原さんが待ってます。”
「これが、どういうことか、分かるか? え?」と、彼女。
「いや、分かりません。」私は弱々しく答える。2つのメッセージを繰り返し読んでみたが、意味不明だ。
「一応、発信元は摩矢だけどな。」彼女は言う。「この文面は、摩矢じゃねえ。井原って野郎が摩矢のiPhoneを使って送ってきたんだ。きっと。」
「井原が、摩矢さんを、拉致した?」
「そうとしか、考えられねえ。俺はな、今日、いつものとおり、摩矢のマンションに行ったのさ。練習の日は、俺が摩矢のマンションへ行って、そこから摩矢の車で射撃場へ行く。今日、いつもの時間に行ったのに、居やしねえ。どっか出掛けているのかな、と思っているところへ、このメールだ。」
「それで、私に電話を?」
「そうだ。」
「でも、私の電話番号を、どうして知りました?」
「次のメールを見てみな。」
気づかなかったが、その次のメールで、 “樋口さんの番号“として、私の電話番号が示してある。
「どうしましょう。」私がうろたえて言うと、
「決まってるだろ。井原の家に連れてけ。すぐにだ。」
「でも、ここまで歩いて来ちゃった。車はホテルに止めてあるが」
「気の利かねえ野郎だな。ホテルなんぞ、すぐ近くだろう。とっとと行って、すぐに車ころがして来い。ここで待っててやる。」
「はい、すぐ取ってきます。」
再び息を切らしてホテルまで走る。車の鍵は部屋の中。あせって部屋に戻る。こういう時のエレベーターの動きはまだるっこい。部屋に飛び込み、鞄から車の鍵を取り出し、再度じれったいエレベーターを経て、走って駐車場へ。ぜいぜい言いながらエンジンを始動させ、タイヤを鳴らして発進。駅の前で停車すると、広瀬悠希は、「待たせやがって」と言いながら助手席に乗り込んだ。
荒涼とした風景を楽しむ余裕はない。舗装の荒れた道路を小石を弾き飛ばしながら走る。
「しかし、井原のやつ、いったい何をしでかしてくれたのか。花を送るどころじゃないじゃないか」と、つぶやくが、広瀬悠希はまっすぐ前を向いたまま終始無言でいる。左腕の肘を車窓のサッシに付けているが、左手は無意識に自らの唇をまさぐっている。友達の身を案じていることが痛いほど伝わる。
数十分後、井原のコテージの前に着く。すると、車を止めると同時に、私の携帯が振動した。胸ポケットから携帯を取り出して見ると、井原から。
「井原、お前か?」
「ああ、着いたね。音で分かった。」
「いったい、何をしでかしてくれたんだね。え?」
「落ち着け。冷静に僕の言う通りにしてくれ。」
「今、どこにいる?」
「家の中だ。広瀬悠希も一緒か?」
「当たり前だ。連れてきた。」
「なら、ふたりで家の中に入ってくれ。玄関に鍵は掛かっていない。」
私は、不安げに見ている彼女に「降りよう」と促し、ふたり、車外に出た。彼女は、ガンケースとボストンバッグを両手に提げている。車のドアを閉めて携帯を耳に当てると、井原は「二階へ上がってくれ」と言う。
私は、彼女に、「中にいるらしい」と言い、先に立って3段の階段を上がり、木製の扉を開ける。両手の塞がった彼女のために、扉を開けておいてやる。彼女は家の中に入ると、注意深く四方八方を見回しながら、奥へと入っていった。
「二階にいるようだ」私は携帯を耳に当てながら、階段の方へ進む。彼女も付いてくる。
階段を昇っていると、「二階に上がったら、奥の部屋に来て欲しい。いいか、奥の方の部屋だ。間違えるな。廊下の突き当たりの部屋だ」と井原が言う。
二階の廊下は、明かり採りの窓からの薄曇りの午後の柔らかな光で満たされている。
ふたり、警戒しながら奥へと行く。歩みを進めるたび床の軋む音が耳につく。
寝室のドアの前をゆっくりと通り過ぎて、突き当たりのドアの前に立った。広瀬悠希は、私のすぐ背後にいる。
「入って、いいか?」携帯に向かって言うと、
「入ってくれ。ふたりとも」と、井原が言う。
ドアノブをつかみ、そっと開けてみる。
異様な光景が、視界に入る。
部屋の様子は、前に見たときと、だいぶ違っている。白を基調とした地味で簡素な造りだったのに、壁から天井まで、床と、両側の開け放たれた窓以外は赤で埋め尽くされている。
よく見たら、薔薇だ。薔薇の花が壁と天井に隙間なく張り付いているのだ。
だから部屋全体が、赤い空間になり果てている。
さらに異様なのは、井原自身の様子だ。部屋の中央、少し奥まったあたりに、こちらを向いて椅子に掛けているのだが、その様は普通じゃない。
彼は、上半身裸で、胸に数個の小さな白いシールを貼り付けている。それぞれのシールに、灰色のビニールで被覆したリード線が繋がれていて、リード線は、椅子の脇に置かれた金属製のラックの中段に設置された小さな装置に接続されている。その装置の上には、13インチほどの小さなディスプレイがあり、さらにラックの上には、大きなディスプレイが、我々に見せるように置かれてある。
部屋にあるのは、それだけだ。要するに、井原の様子は、椅子に座り、その胸に貼り付けられたリード線が脇に置かれた妙な装置に繋がれ、さらにその装置が設置されているラックに大小2つのディスプレイが置かれてこっちを向いている、という状況だ。
私は、その異様な光景にうろたえながら、そろそろと部屋の中に入った。広瀬悠希も私に続いて入って来ると、私の右隣に立ち、部屋の上下左右を一通り見回してから、井原を嫌悪に満ちた目で見て、さらにディスプレイの方に視線を移した。
下の小さいディスプレイには、心電図の波形が映っている。察するに、井原の心電図波形がリアルタイムで表示されているのであろう。
しかし、私に衝撃を与えたのは、大きなディスプレイに映された光景だった。初めの一瞬、何が映っているのか理解できなかった。そこに見えている光景の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
その映像は、暗い部屋の中で全裸の女性がベッドの上に仰向けに寝かされているのを天井あたりから俯瞰でとらえたものだ。女性は、四肢を広げた状態で、両手両足を紐で縛られ、それぞれの紐がベッドの四隅のパイプに括り付けられていて、身動きができないでいる。ベッド脇にはみかん箱大の黒い箱が置かれていて、その箱の上にはデスクトップのパソコンが置かれている。そのパソコンのディスプレイには、この部屋に置かれた小さなディスプレイと同様、心電図の波形が映っているようだ。
私は、裸で縛られている女性の顔を、目をこらして見た。
樫岡摩矢に違いない。既に抵抗を諦めたのか、ベッドの上で目を閉じ、ぐったりとしている。
「摩矢」と、広瀬悠希がつぶやく。その視線は、ディスプレイに映された女の姿に固定され、目をそらせないでいる。
「状況を説明しよう」と、井原の声がする。
「うっせーよ」と、広瀬悠希が遮る。「てめえの話なんぞ、聞く気はねえ。聴きたいことは、ひとつ。摩矢はどこにいる。」
井原は、一瞬眉間に皺を寄せ、怒りの表情を見せたが、すぐに平静を取り戻し、落ち着いた声で、「まずは私の説明を聞くことだ。これから、君の友達を助ける方法について教示する。いいかね。」
「いや、てめえのくだらねえ話を聞く気はねえって言ってんだ。摩矢の居場所をすぐ言え。言わねえと」とまで彼女が言うと、井原は遮り、
「言わないと、どうする? 何ができる? 今、彼女の命は私の手中にある、ということが理解できないのかな? 私の決断ひとつであの子の人生は終わる。よく見なよ。彼女の両手首に何があるかな?」
私はディスプレイに映る樫岡摩矢の両の手首を注意深く見てみた。
よく見ると、彼女の両手首には幅の広い革ベルトが巻かれている。それぞれの革ベルトからは赤い太いリード線が出ていて、その異様に太いリード線は、ベッド脇の黒い箱に繋がっている。井原自身が、細いリード線で椅子の脇の装置に繋がっているのと対照的だ。
広瀬悠希は、その不気味な光景を息を飲んで見つめる。
「見れば、察しがつくだろう?」井原は続ける。「私の操作ひとつで、彼女の体を電流が貫く。あのリード線は大電流に耐えられるものでね。左腕から右腕に、大電流が流れたら、どうなるかな?」と、少し間を置いて、「だから、ここでは私の言うことに素直に従った方がいい。」
「脅迫するのか?」と、広瀬悠希は怒りを抑えた声で言う。
「そうだ。これは脅迫だ。分かりが良いね」と、井原は静かに応える。
数秒間の沈黙。
井原の声が静寂を破る。「私の言葉に従う気になったのかね。」
彼女は、ひとつ、荒い鼻息を吐いて、「俺にどうしろと? 何をすればいい?」
「まず、説明を聞いてくれ。話はそれからだ」井原は続ける。「ご覧の通り、私の胸に電極が貼り付けられている。これは、私の心電図波形を測定するためであることは、分かると思う。さっきからディスプレイに波形が出てるね。単に心拍数を測るだけなら、こんな大掛かりなことをしなくても、指先にセンサーを挟むだけでいい訳だが、それでは小さすぎて、君にアピールする力が弱いと思い、敢えて大袈裟な仕掛けをしてみた。この方法だと、私が生きているか、死んだのか、システムがより正確に判断できるとも思ったからね。このように、私の生死を装置が判断できるようにするのは、私が死ぬことによって、君の友達が確実に助かるようにするためなんだ。さっきも言ったとおり、彼女の両腕には電極が繋がっていて、電流が流れるようになっている。私がこの」と、井原は、脇のラックの小さな装置を指す。「システムを起動させると、彼女の体に電流が流れ出す。初めは低い電圧から始まる。電圧は、自動的に時間をかけて徐々に上がっていく。ただ単純に上がっていくのではなく、上がったり下がったりを繰り返しながら、しかし、徐々に平均電圧が上昇する、という仕組みだ。それにより、彼女は、初めは平気だが、徐々に苦痛を感じるようになる。苦痛の波に襲われるわけだな。そうして、徐々に電圧は上がっていき、次第に生命に危険な域に達する。そのまま放置すれば、やがて彼女は死に至る。ここまでは、分かったかな?」
「それでっ?」広瀬悠希の語気に焦りと怒りが満ちている。「俺の目の前で、摩矢をなぶり殺しにするつもりか。」
「落ち着け。彼女は死なずに済む。ただし、そのためには、君は私の言うとおりにしなければならない。彼女を救えるか、死なせるかは、君次第だ。」
広瀬悠希が、前に出ようとすると、井原は「止まれ」と叫んだ。有無を言わせぬ命令口調で、井原のものとも思えない威厳に満ちた声だ。さしもの彼女も、たじろいで、立ち止まる。
「そこらへんが、いいだろう」と、井原は言う。「その位置に立ったまま、まず荷物を降ろせ。」
言われて、私は彼女が依然として両手にガンケースとボストンバッグを提げているのに今さらのように気付いた。彼女は、ゆっくりとした動作で、2つの荷物を床に下ろす。
「銃をセットしろ。実包を装填するんだ。実包は1個で十分だが、念のために2個装填してもいい。」井原が言う。
「俺に何をやらせたいんだ?」低い声で、広瀬悠希は訝しげに問う。
「分からんかね? 察しが悪いね。さっき、私が死ぬことによって彼女は助かる、と言ったじゃないか。繰り返しになるが、私がシステムを作動させると、彼女の体に電流が流れ、その電圧は徐々に上がっていく。ところが、その装置は、私から心電図の波形が検出されなくなると機能を止めて、電流が流れなくなる。つまり、私が死ぬと、それをシステムが感じ取って、彼女に流れる電流を止める、というわけだ。そういう仕組みになっている。だから、君が彼女を救いたいと思うなら、私を殺せばいい。しかし、私を殺す方法は私に指定させてくれ。君の銃で私を撃つんだ。そうすれば、彼女は助かる。君は生きた摩矢と再会できる、というわけだ。」
「おっさん」彼女は茫然としつつ言う。「あんた、狂ってる。」
「私が狂っていようが、狂っていまいが、この際、どうでもいいことだと思うがね。君の立場は明瞭だ。私を殺して友達を救うか、それを拒んで友達を見殺しにするか。いずれかを選択するしかない。それが君が置かれている状況だ。」
「俺に、人殺しになれってのか?」
「私のような、キモいおっさんを殺すのは、本望だろう。」
「人を撃ちたくはねえ。」
「そうか。なら、友達が死ぬだけだ。それでいいのか? もう、分かっただろう。これ以上、くどくど言うまい。さあ、始めるぞ。まず、銃の準備だ。」
言われて、広瀬悠希は、瞬間のためらいの後、床にしゃがんで、ガンケースを開けた。布に包まれた銃の各部を取り出す。かすかに手が震えているが、落ち着いて、ゆっくりした動作で銃を組み立てていく。銃身と銃床とを接続し、グリップを装着すると、ボストンバッグのチャックを開けて、中から小さなプラスチックのケースを取り出す。ケースを開けると、散弾の実包を2つ取り出し、折り曲げた銃身の背後にゆっくりと挿入する。
私は、黙々と作業する彼女の姿を見つめた。床にしゃがむ彼女を見ながら、そのふとももに目がいってしまい、自らの場違いな感情に狼狽える。
彼女は、右手に銃を持って立ち上がり、「でも、どうして、こんなことを?」と、問う。
「君に銃で撃たれたいんだ。ただ、それだけだ。」
「おい」と、それまで状況に気圧されて何も言えずにいた私の喉から、ようやく声が出た。「井原、おまえ、やめないか。」
すると、井原、「バカなまねはやめろ、と言いたいのか。陳腐なセリフだ。やめたまえ。平々凡々な言葉は、この場に似つかわしくない。」
「それこそ、陳腐なセリフだ。おまえは狂ってる。いや、狂ってなくてもいい。なんだろうと、これは無茶だ。おとなしく自殺した方がマシだ。この子に、こんなに一生懸命生きている真面目な子に、殺人を犯させようだなんて、外道にもほどがある。全く軽蔑もんだ。まさか本気じゃないよな。冗談だよな。あの仕掛けは」と、大きい方のディスプレイを指す。「ウソだよな。見せ掛けだよな。後で、これはジョークでしたってオチだよな。そうだよな。」
「アホか、おまえは」と、井原はしらけた顔で言う。「これだけの大仕掛けを、ただの冗談でできるか。本気にしないなら、いい。摩矢が死ぬだけだ。そうなってから後悔しても遅い。おれの責任じゃないな。」そして、広瀬悠希を見て、「準備はいいな。じゃあ、始めるぞ。」
その言葉に反応するように、彼女は銃を構えた。
「いや、ちょっと待て」と、井原が言う。「いや、君の、その、いつもの格好もいいけどね。その凛々しくもセクシーな姿もいいのだが。しかし、これが最後の見納めだからな。僕は、さっきから、君の短パン姿をすっかり堪能したから、最後に無理なお願いを聞いてくれるかな。」
「なんだ、何を言ってるんだ?」彼女の声がわずかに震える。
「服を脱ぎなさい」と、井原は言ってのける。「君の友達も、ああして裸になっている。君も付き合ったら、どうだ。全部脱いで、一糸纏わぬ姿になりなさい。そうして、裸で銃を構えて、私を撃つんだ。」言いながら、井原は、充血した目を広瀬悠希に向ける。
「ちっくしょう。」彼女の下まぶたは、うっすらと濡れて光っている。
「言っておくが」と、井原。「このシステムは、自動的に徐々に電圧を上げていく仕組みになっているが、私の操作ひとつで、一挙に高電圧に上げることも可能だ。私の言葉に従わないなら、そうする。その方が、君も私を撃つ決心が付き易いだろうから、私にとってなんの不利益もない。摩矢が死んで、私も死ぬ。そういうのでも、いい。どうする? 樫岡摩矢が助かるチャンスがあった方がいいか? それとも、なくてもいいか?」
「ちっくしょう」と、彼女は叫ぶ。「脱ぐよ。脱ぎゃいいんだろ。」
私は、部屋の外に出ようとした。すると、「どこへ行くっ」と、広瀬悠希の厳しい声がする。
「いえ、見ていられなくて」と、力無く言うと、
「あんたは、ここに居て、ここで起こること総てを見届けてくれ。そして、何かの時は、証人になってくれ。」
「でも」
「裸を見られるくらい、どうってこたねえ。どうせ井原に見られるんだ。一人も二人も一緒」と言う。
私は、黙ってその場に留まった。
広瀬悠希は、いったんしゃがんで銃をガンケースの上にそっと置くと、立ち上がり、トレンチコートを右手でつかんで放り投げた。
そして、両手でトレーナーの裾をつかんで、一気に引き上げる。下から真っ白な薄手のセーターが現れた。これまで、だぶだぶのトレーナーのせいで分からなかったが、ふっくらとした見事な胸の隆起に目を奪われる。見惚れているうち、彼女は、トレーナーと同じ要領でセーターを脱ぐ。その下はカーキ色のタンクトップ。彼女が両手で裾をつかんで引き上げると、筋肉質の白い肌があらわになる。タンクトップを放り投げると、上半身は黒いブラジャーだけとなる。彼女はいささかもためらわず、肩ひもを下ろし、両手を背中に回してブラジャーのホックをはずした。
私は、その様子を見ながら再び場違いな高揚感に襲われた。この感情の動きは如何ともしがたい。
彼女はブラジャーを放り投げると、しゃがみ込んでスニーカーの紐をほどきにかかった。弾力のある乳房の揺れに、否応なく目が魅きつけられる。
彼女は床に座り込むと、スニーカーを脱ぎ、灰色のソックスを脱いでくしゃくしゃにまるめて投げた。立ち上がり、腰のベルトを外す。マイクロミニのフェイクレザーのショートパンツの前チャックを音を立てて下ろすと、黒い小さなフェイクレザーを腰から下ろし、左足を抜き、右足首に引っ掛けて、蹴るように放る。
最後に股上の浅い黒のボーイレングスのショーツだけが残った。彼女は躊躇することなく、両手でショーツの脇をつかむと、さっと引き下ろし、左、右と足を抜き、丸めて投げ捨てた。
すべてが露わにされた美しい裸身に、私は恍惚とした気持ちになる。
井原は上気した顔で彼女を見つめていたが、ふと我に帰り、「じゃあ、始めよう」と、脇にある装置に手を触れた。
「んんっ」という苦しげな呻き声が、ディスプレイから聞こえた。見ると、樫岡摩矢が目を見開き、不自由な四肢をわずかに動かしてもがいている。
広瀬悠希は、銃を取り上げると、いつも射撃の時にするように構えた。射撃の時なら、シューティングベストの肩当で受ける銃床が、直接彼女の肌に押し付けられて、痛々しく見える。
彼女は潤んだ目で前を見据えながら、銃口を井原に向けた。
「んんんっ」と、再び抑えた声がディスプレイから聞こえる。樫岡摩矢が、辛そうに眉間にしわを寄せて、首を左右に振っている。
「さあ、電圧が上がっていくぞ。早く撃たないと、友達は悶え苦しみながら死ぬぞ。」井原が挑発する。
広瀬悠希の銃を持つ指が、苛立たしげに動く。徐々に息遣いが激しくなっていく。下まぶたに涙がたまり、雫が頬を伝って落ちる。
「うあっ、ああっ」と、樫岡摩矢の声がする。その声は、次第に苦痛の度合いを増していき、断続的な叫び声になっていく。赤い部屋の中に、聞くに堪えない悲鳴が、エコーがかかるように奇妙に二重に響いた。
「この野郎」広瀬悠希が怒声を発する。しかし、容易に引き金を引く決断がつかないとみえる。銃身が震えている。
「どうした? なぜ、撃たない? あの声が聞こえないのか? もうじき、電圧は生命に危険を及ぼすレベルまで上がるぞ。どうするんだ。」
樫岡摩矢の声は、絶叫というべきものになった。意味不明の叫び声を上げていたが、やがて「ゆうきっ、ゆうきっ、ゆうきっ」と言ってから、「助けてっ」と喉が潰れたかのような声を絞り出した。
「死ねやああ、この変態」広瀬悠希が吼えた。
耳を弄する銃声が一発、響いた。
静寂があたりを包む。
もう樫岡摩矢の声は聞こえない。彼女が映っていたディスプレイが、真っ暗になった。
広瀬悠希は、銃口を天井に向けて、銃床を床につき、その銃を身の支えとするように寄りかかりながら、ゆっくりと座り込んだ。
井原は、相変わらず椅子に座っているが、頭をぐったりと垂れている。小さなディスプレイに映されていた心電図の波形は、今、まっすぐに水平の線を映し出している。
なにもかもが、あまりに静かで、私はどう行動していいか分からず、しばし呆然としていた。
すると、部屋のドアが開く音がする。見ると、浅見ママが静かに部屋の中に入ってきた。ママが振り向くと、その背後から、樫岡摩矢が続いて入って来る。まだ裸のままだ。
広瀬悠希は、へたり込んだまま振り向き、摩矢の姿を潤んだ目で見つめる。
「どこに居た?」広瀬悠希が言う。
「この家の、隣の部屋」摩矢は、疲労困憊したような表情で答える。
「そんな近くに居たのか」広瀬悠希は、茫然自失の態で言う。
浅見ママは、ちらと井原の様子を一瞥すると、無言で部屋を出て行った。
それには構わず、摩矢はふらつく足取りで広瀬悠希に近付き、目の前に座る。
「大丈夫か?」広瀬悠希が摩矢に声を掛けると、摩矢は泣き始めた。その摩矢の肩を広瀬悠希が優しく抱き抱える。
すすり泣きの声を邪魔するように、すぐ窓の下から車が走り去る音が聞こえて来た。浅見ママのシトロエンだろう。家の裏に駐めてあったとみえる。
突然、広瀬悠希が、「ええい、このっ」と言うや、銃をひっつかんで、それを開いている窓の外へと放り投げた。窓の外から、ばっしゃという、銃が地べたに落ちる音がする。
「あ」摩矢が驚いて言う。「大事な銃を。どうして?」
「人を撃った銃なんて、二度と触りたくねえ。」
「でも」と言い、摩矢はふらふらと立ち上がり、窓辺に行く。
広瀬悠希も立ち上がり、ふたりで並んで窓際に立った。ふたり、無言で灰色の空を眺めていたが、やがて広瀬悠希は摩矢の腰に手をまわし、しっかと抱き寄せた。
私は、しばらく裸の二人の背中を見つめていた。しかし、これ以上その場に留まっても、私にできることはない。車の中で待つことにして、部屋から出ようとした。
その時、一陣の風が吹き込んだ。ふと、振り返ると、天井と壁に貼り付けられた薔薇の花びらが、いっせいに剥がれて降ってきた。
奇跡のように降り注ぐ赤い雨の中で、井原の亡骸は無言でうなだれていた。
(完)