物語No.8『不吉な足音』
五時間目。
数学の時間。
僕はいつものように机の下でハンドグリップを握る。
それはモンスターと戦える筋力を鍛えるために行っていること。
……いや、もういいか。
僕はハンドグリップをしまう。
少しだけ、空っぽの手が寂しく思えた。
授業は進んでいく。
今日の授業内容の復習として練習問題が出される。
「この課題は二人一組で取り組め」
その先生はそれだけの指示に留め、以降は教壇で教科書を読み進める。
他の先生なら隣の人と、そことそこで組め、など言ってくれる。
だがそこが明確化されていないため、皆まばらに動き始める。遠くの席の仲の良い友達のもとまで行く生徒も見受けられる。
僕は自分から話しかけられるほど仲の良い友達はいない。
いつものように一人で問題を解いていた。
が、二問目で躓き、早々に手が止まっていた。
そんな最中、先生が告げる。
「一問目は瀧戸、二問目は日向が解いてみろ」
黒板には問題が書かれる。
まさかこんな時に指名されるなんて……。
僕は険しい表情で問題と向かい合う。だがどれだけ凝視しても問題は答えを教えてはくれない。
ことごとくついていない。
嫌なことばかりだと叫んで、ノートを破り捨てたい衝動に襲われる。
焦燥に駆られる中、
「そこの問題はね──」
囁くように、答えが告げられる。
声の方を見ると、三浦さんが立っていた。
遠い席のはずなのに、僕の席までわざわざ駆けつけてきてくれた。
「…………っ!」
僕は驚き、しばらく三浦さんを見ていた。
彼女は顔を赤くし、目を逸らす。
そこで僕はじっと見ていたことに気付き、さっと顔を背ける。
「わ……、分かりやすかったよ。おかげで助かった」
顔を背けながら、三浦さんにお礼を言う。
「役に立てたなら良かった」
三浦さんは足早に席に戻っていく。
彼女の去っていく背中を追っていると、愛六と目が合う。すぐに逸らされた。
別に……惚れてなんか……。
もうこのままでいいのかもしれない。
戦わないで、こんな生活を送るのもの悪くない。
♤
再び夜がやって来る。
学園にいるのは愛六、青い光球ミナカ、そして神妹境娘の三者。
神妹は学校のどこかを徘徊し、愛六とミナカは共同区画にいた。
「また穂琉三は来ないんだね」
愛六は寮の方を見ながら、吐き捨てるように言う。
共同区画に建てられた巨大な塔。
そこからモンスターの出現に対して視線を巡らせる。
愛六は露骨に機嫌を悪くし、イラついていた。
「出てこないな」
愛六は腕時計に視線を落とす。
時計の針はどちらも十二のところを差したまま、グラグラと揺れている。
既に現実世界と異世界の接続が行われている。
「建物の相当内部にあるか、もしくは接続が行われていないか」
「後者はほぼあり得ません」
ミナカは愛六の一案を否定する。
残ったもう一つの案を頭に浮かべ、愛六は顔をしかめる。
「もし前者なら建物内にモンスターが密集している。死骸の山で道が塞がれたら詰みだよね」
「はい。気をつけなければいけません」
その事態に際し、愛六はもう一つ懸念していることがあった。
愛六の操作できる水玉には上限がある。操作できる水玉は一つであり、その上五十センチ程度の大きさしか操作できない。更に愛六はモンスターを溺死で倒すため、一体倒すのに時間がかかる。
もし大群で襲われれば勝ち目はない。
だが違和感を拭いきれずにいた。
壁や天井をあっさりと破壊するモンスターの一体や二体、毎回出てくる。
毎回戦わずに無視している。
今回は登場していない。
または──、
愛六がいる時計塔が揺れた。
振動は徐々に大きくなり、時計塔にひびを入れるまでに膨れ上がる。
「まさか……」
時計塔は崩壊する。
百メートルほどある時計塔。
落下する愛六を迎え撃つのは、直撃する瓦礫を粉々になるほど強靭な皮膚の持ち主。
サイのような容姿をしたモンスター。
「ミナカッ! 水玉をッ!」
愛六の側に水玉が一つ出現する。
それを真下にいるモンスターに向けて放つ。
どれだけ硬い装甲を持とうと、水の中では無力。
サイのようなモンスターは水に溺れる。
だが愛六にもまた危機は迫っていた。
百メートルからの落下。
足場は瓦礫とモンスターの海。
「愛六様、月一限定、魔力制限の解除を行使します」
ミナカは愛六の了承も待たず、魔法を行使した。
半径一メートルの水玉が愛六を包み込むように出現し、その中で愛六はぷかぷかと浮いていた。
水玉に揺れながら、百メートルの高さからゆっくりと着地する。
水玉は崩れ、周囲に水が溢れる。
「よくやったミナカ」
ミナカの独断専行がなければ大怪我は免れなかった。
安堵もつかの間。
瓦礫の中から次々とモンスターがわき出る。
四方をモンスターに囲まれる。
「最も危惧した状況だ」
愛六の攻撃の特性上、この事態は圧倒的劣勢と言っても過言ではない。
「ミナカ、水玉を」
瞬時にミナカは水玉を創造し、愛六の側に浮かせる。
たとえ水という武器があろうと、この状況は最悪だ。
「愛六様、このままでは……」
「分かってる。でもどうしようもないだろ」
焦りと苛立ちが交錯する。
ここに来て命の終着点が見える。
怒りをぶちまける愛六。
憤慨している自分に気付いた。
ふと、愛六は冷静になり、深呼吸する。
愛六は自分が危機的状況に陥り、感情が乱れている時、思考が上手く働かなくなると理解している。
自分の思考プログラムを把握している。
故にリラックス状態に陥った彼女の脳は逆転の一手に気付く。
「奴らは時計塔の真下から出現した。つまり扉はこの近くにあるはず」
「しかしどこにも扉は見えません」
確かに一見扉はない。
愛六は自分が立っている場所を俯瞰して見る。
周囲の建物の高さから考えるに、愛六が立つ瓦礫の山は三メートルは積もっている。
「瓦礫の中に扉はある。それを閉じれば戦いは終わり」
だが瓦礫の下に行く必要がある。
「どうするのですか」
ミナカは問う。
愛六はモンスターの群れの奥に立つ、金棒を持った鬼に視線を向ける。
三メートル程の巨躯。全身に血を浴びたような真っ赤な肉体。隆起する筋肉は今にも雄叫びを上げそうなほどだ。
瞳は静かに愛六を捉える。
強いモンスターであると瞬時に察することができる。
「暴れさせる。あとは運だ」
愛六は覚悟を決めた。
水玉を鬼に向けて放つ。
鬼は屈伸し、水玉が触れる直前、怒涛の勢いで走り出した。
わずか数秒で百メートル以上の距離を埋めた。
「……っ!?」
金棒が愛六に向けて振り下ろされる。
「愛六様……ッ!?」
瓦礫の地面が砕け散り、宙に舞う。
直撃すれば命を砕かれる強烈な一撃を、愛六は後ろに飛んで回避した。
完全に避けきることはできない。金棒は愛六の左腕をわずかにかする。
足下には直径十メートル以上のクレーターができていた。
あと三発も放たれれば積もった瓦礫が全て吹き飛ぶだろう。
周囲のモンスターは鬼の気迫を恐れ、動こうとしない。
「あとは私がかわしきれるかどうかだな」
愛六と鬼の直接対決。
両者は向かい合い、互いに相手を警戒する。
先に仕掛けたのは鬼。
金棒を振り上げ、再度強烈な一撃を放つ。暴風が横殴りに押し寄せたような一撃に、瓦礫の山はごっそり弾け飛ぶ。
鬼の懐を通り、鬼の背後へ回り込んだものの、風圧に足を奪われる。瓦礫の上を石ころのように転がる。
立ち上がるが、鬼気迫る勢いで鬼は迫っていた。
今度は横に飛んで金棒から逃れる。
再度金棒が振り下ろされ、爆発にも似た風が周囲に吹き荒れる。
周囲のモンスターも必死に風圧に耐えている。
三撃かわしたところで、愛六は微笑する。
鬼の攻撃によって瓦礫は消し飛び、扉の上半分が見える。
天井が崩れた際に瓦礫が上手く当たったのか、扉は閉まっていた。
「あとは鍵を閉めるだけ! ミナカ!」
「しかし私が鍵になればその間新たに水玉は出せません」
ミナカは先行きを懸念する。
扉の位置は愛六と鬼の間にある。鬼の敏捷力を踏まえれば、愛六が扉にたどり着く前に鬼に阻止される。
「大丈夫。問題ない」
心配するミナカに、愛六は強がりな笑みを向けて答える。
「……分かりました。無事を祈ります」
渋々ミナカは鍵に変化し、愛六の手の中に落ちる。
愛六は扉目掛けて走り出す。当然鬼も愛六に向かって走る。
鬼は扉を飛び越え、愛六に突き進む。バッターのような素振りで金棒を振るう。その下のわずかな隙間をスライディングで抜ける。
フルスイングされた金棒が額に掠りはしたものの、大事には至らない。
「これで──」
鍵穴に鍵を突き刺す。
が、すぐ背後まで迫っていた鬼が金棒を横殴りに振るった。
鍵は扉に刺さったまま、愛六はファールボールのように身体を浮かせた。
直撃を受け、愛六の全身から血が溢れる。立ち上がることさえできないほどの激痛が愛六を襲う。
そこへ容赦なく鬼は向かっていた。
死という金棒を振り下ろすために。
「…………」
鬼は愛六の側で立ち止まり、金棒を大きく振り上げた。
絶体絶命。
第三者の助けもない。
だが愛六は勝ち誇った笑みを浮かべる。
視線は鬼の背後──扉だ。
最初、鬼に向けて放った水玉は、彗星のような軌道で扉に迫っていた。
「一か八か! 私の命懸けの一撃!」
水玉は鍵穴に刺さった鍵に命中する。
水玉がぶつかった鍵はわずかに傾いた。
そして徐々に角度は曲がっていき、ガチャ、と音を立てる。
「……ふっ。天は私の味方だな」
鍵穴を中心に扉は渦を巻いて消失する。
鬼は愛六に向けて金棒を振り下ろす──が、金棒が触れる寸前、鬼は光の柱に貫かれた。
学園中のモンスターが同様に光の柱に貫かれ、次々と消滅していく。
すぐにミナカが駆けつける。
「大丈夫ですか。まだ息はありますか」
「当然だ……。私は異世界に行くまでは……まだ…………死ねない」
愛六は目を閉じる。
夢を胸に抱いたまま。




