物語No.6『逃げればいい』
いつからだろう。他人と話せなくなったのは。
いつからだろう。孤独に慣れてしまったのは。
いつからだろう。異世界に逃げたいと思ったのは。
きっとあの日だ。
今も思い出せないでいるあの夏休み。
僕は一人になった。
小学六年生の夏休み。
昔のことで、何があったのか覚えていない。
それでも、あの日から始まった気がするのはなぜだろう。
あの日から、僕は自分から話しかけることはなくなった。他人の輪に入ることができなくなった。
夏休みが来るまではしっかりと話せていたはずだった。休み時間には集まって、一緒に笑い合える関係だったはずだ。
今の自分の人格がどのように形成されていったのか。
印象に残っている記憶を抽出し、その考察をすれば答えが浮かび上がるのかもしれない。
だからといって、自分を変えることはできない。部品は強力な接着剤でつけられ、代替はできない。
過去に戻れば、変われるだろうか。
過去の一つ一つを変えていけば……きっと……。
──もういいや。
全部耐えればいい。
きっと時間が解決してくれる。
だからもう、向き合うのはやめよう。
これ以上自分を傷つけるのはやめよう。
目を逸らして、耳を塞いで、口も開かず、そうやって、全てをやり過ごそう。
全部、それでいい。
僕の人生はそれでいい。
それでいいと思えるほど、何もない人生だから。
そして僕は諦めた。
ヒルコから、愛六から、異世界から。
♤
再び夜がやって来る。
二十三時五十九分。
校舎に女子生徒の影と青い光球があった。
愛六と精霊ミナカだ。
二人がいるのはスクールエリアの中央にある共同区画。
スクールエリアは大きく六つに分けられ、中央にある五角形の共同区画を中心に、中等部区画や高等部区画へと行き来できる。共同区画には大食堂や部活棟があり、スクールエリアで最も広い敷地を持つ。
共同区画に建てられた巨大な時計塔。
全体を見回せるほど大きな塔の屋上に愛六は立っていた。
周囲を見回し、ミナカに顔を向ける。
「ねえ、穂琉三見かけた?」
「いえ。見ていませんね」
「もしかして昨日のこと引きずってるのかな」
「だとしたら哀れと言う他ありませんね。この程度で戦いから逃げていれば、この先絶対生き残れません」
ミナカはこの場にいない穂琉三に厳しい意見を唱える。
愛六は「そうだね」と頷き、視線を泳がすことをやめた。
学園は二十四時を過ぎる。
異世界と接続する六時間が始まる。
学園のどこかに扉が現れ、モンスターが異世界から溢れ出す。
「一人でだって戦える。むしろいなくなったおかげで、異世界に行く権利は完全に私のものになった」
愛六は穂琉三に対する心配はしない。
むしろこの状況に満足するような言葉を吐く。
軽く準備運動をし、時計塔からモンスターが多く発生した場所を眺める。
「相変わらず広すぎるせいで現場に駆けつけるだけでも一苦労だよね」
学園は広い。
だがその分、夜になれば不利になる。
「今回は初等部区画か」
愛六は階段に向かって振り返る。
途端に思わず足を止め、背後に立っていた人物に接触するスレスレで横に逸れる。
「神妹、いるなら言って」
「何故ですか?」
神妹は理由が分からなかったのか、首をかしげて問いかける。
愛六はため息を漏らす。
「もういい。それより何? 何か用でもあるの」
「日向穂琉三さんはどうされました。来ていないようですよ」
「私に勝てないと嘆いて引きこもってるんだよ。あいつはそういう奴なんだ」
愛六はかゆそうに右目を閉じ、右手足の指先に力を入れる。
「そうですか。もし脱落してしまったのなら残念です。また新たに接続者が見つかってくれればいいんですが」
神妹は特別穂琉三を気にかける様子はなかった。
愛六は苦い表情で神妹を見た。
「あんたは戦わないの」
「私は戦いませんよ。私には他にやるべきことがあるので」
「弱いだけじゃないの」
愛六は挑発するが、神妹は終始穏やかな表情のまま。
「私はモンスターによって破壊された校舎の修復、また接続者以外の侵入の感知、記憶の改竄を行っています。そのために力は温存しなくてはいけません」
「そうかい」
神妹の仕事も必要事項だ。
破壊された校舎がそのままでは、一般生徒に学園の秘密を知られる恐れがある。
愛六と神妹が話をしている間にも、モンスターは増えていく。
「今日は一人ですが、頑張ってくださいね」
「余裕だし」
愛六は少しだけ腹を立てる。
表情には出さず、舌打ちを喉の奥に押し込む。
「行くよミナカ」
神妹の横を通過し、階段を駆け下りる。そのままモンスターが最初に現れた初等部区画へ走る。
愛六が完全にこの場から離れたのを確認すると、神妹は天井を見上げる。
「隠れてないで出てきてはどうですか」
数秒応答はない。
だが神妹は天井の方へ視線を向けたまま、動かない。
「バレてたか」
観念したのか、赤い光球が天井裏から現れる。
神妹はやはり、とにやける。
「日向穂琉三さんは来ませんでした。これで良かったのですか」
「良いはずないよ。でも、あいつがあのまま臆病になっちまうのも良くない」
赤い光球──ヒルコは穂琉三に思うところがあった。
「私は、あいつに強くなってほしいと思った」
「瀧戸愛六にポイントを返してもらうことを条件として提示したんですよね。結果は期待外れでしたか?」
「まだ途中だ。私はあいつの可能性を信じるよ」
「しかしこのままでは彼は逃げてしまいますよ。嫌なことから逃げて、これからも逃げ続ける。向き合うことは彼にできるでしょうか」
ヒルコは神妹の意見に共感できないわけではない。
穂琉三という人物と一ヶ月側にいたからこそ分かる。
穂琉三は極端に向き合うことを拒む。昨日の戦いでは弁当を学校に忘れてまで、向き合うことから逃げようとした。
いつも逃げることだけを考えてる。どう逃げようか、それを考えている。
ヒルコは知っている。
穂琉三の心の中心には、逃げの精神があることを。
神妹の意見に反論することはできない。
「それでも私は信じるよ。あいつは勝手に、誰とも向き合えないっていう壁を作ってる。それを擁護すればこれから一生向き合えなくなるから」
「そうかもしれません。しかし、たとえ今じゃなくとも、長い時間を掛ければ超えられるのではないですか」
「今であってほしいんだ。学生生活が終わる前に」
少し、感情的に声が揺れる。
神妹はじっとヒルコを凝視した。
「あなたの気持ちは知っています。ただ、日向穂琉三にそれほどの勇気はありませんよ」
「そんなの分からないだろ」
「分かりますよ。人はこれまでの自分から簡単には変われない。特に日向穂琉三の場合、それは如実に現れている。これまでの自分に慣れてるから、耐えれば全てが解決すると思い込んでいる。だから逃げる」
ヒルコは反論せず、神妹の話に耳を傾けていた。
「それに彼のままでいることが良いかもしれない。例えば異世界に行き、現実とは異なる常識に直面し、それが彼の性格と合った場合、あなたのそれは邪魔になる」
神妹は機械的な抑揚で、淡々と告げる。
「あなたは誰のために生きている」
ヒルコは何も言わなかった。
神妹はヒルコが何も言わないのを見ると、振り返って去ってしまった。
ヒルコは無言でその場に滞在し続けた。
言葉は発さない。
光を発するだけ。




